近江の轍

藤瀬 慶久

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七代 利助の章

第64話 社会の公器

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 1793年(寛政5年) 夏  江戸 山形屋日本橋店



「無駄遣いするなよ」
「酒を飲みすぎるなよ」
「遊ぶなとは言わんが、ほどほどにな」
 山形屋江戸支配人の嘉兵衛が、手代以上の者一人づつに一言添えて銀を渡していく。
 七代目利助による従業員への利益分配制度である『三ツ割銀』の配布を行っていた。
 受け取る奉公人達も、皆一様にホクホク顔で頭を下げて受け取っていく。

 三ツ割銀は、奉公人の流出に歯止めを掛けるために半期毎の利益を三等分し、そのうちの一つ分を奉公人達に支給する制度だった。
 今で言えば決算配当あるいは決算賞与に当たり、営業利益が多ければ多いほど奉公人の懐に入るカネも増える仕組みだった。


「よし、一つ吉原へでも繰り出すか」
「馬鹿言え、これっぽっちで吉原で遊べるわけないだろう」
 そういって思い思いに受け取った分け銀を握りしめて夜の町に繰り出すのも、奉公人達の年二回の楽しみになっている。
 嘉兵衛も好きな歌舞伎を見に行くかと、引札(広告チラシ)を眺めながら演目を吟味し始めた。

 ―――おかげで手元の現金欲しさに商売替えをする者は少なくなった

 引札を見ながら、嘉兵衛は物思いに耽っていた。
 割り銀の制度が整備されるまでは、目の前の金欲しさに辞めていく奉公人が多かった。
 今でも途中でやめていく奉公人は居るが、少なくともくだらない理由で辞めていく者は減ったと思う。
 それだけでも大きな進歩だった。

 山形屋はこの頃、江戸で独占体制を敷いた弓の売上が全体の売り上げをけん引し始めていた。
 蚊帳や畳表も売上比率としては大きかったが、伸びしろが全く違った。
 弓の売上の伸長に伴って奉公人達の懐に入るカネも増え、ますます商売にも精を出すという好循環が始まっていた。



 1797年(寛政9年) 京 越後屋大元方会所



 越後屋では安永の持ち分け以来、二十四年間に渡って各事業で事業の建て直しを図り、ようやく業績は底を打った。
 特に両替店は不良資産を大幅に整理し、改めて三都で優良な融資先を積み重ね、寛政四年頃から徐々に業績は上昇曲線を描き始めていた。

「安永以来別れておった我が越後屋ですが、業績の再建も目途が付きました。改めて、家法『宗竺遺書』に基づき、改めて資産を一致させとうございまする」
 安永の持ち分けを主導した両替店の元締めの嘉兵衛が、当代八郎右衛門の高祐に頭を下げる。

 思えば、大恩ある三井家から経営権を剥奪し、押し込め同然の扱いをしてしまった。
 三井家を保つ為とはいえ、忸怩たる思いがあったが、ようやくに恩を返せる時が来たと感慨もひとしおだった。

「そのことだがな。資産は大元方に再結集するが、経営は引き続き各事業で独自に行う事としたい」
 高祐が一座の全員を見回して宣言する。
 嘉兵衛は驚いて目を見開いた。今一度三井家の元に結集する事だけを念じて、ここまで業績を回復させてきたというのに…

「驚くのも無理はない。だが、世の変化を眺めていてつくづくと感じた事だ。
 思えば、越後屋は巨大な商家になった。今やひとつ三井家を超え、世の為人の為に越後屋は存続し続けなければならぬほどに…
 かかる時にあって、尚も三井家のとして越後屋を扱うべきではないと思う。
 越後屋は、天下の越後屋だ。もはや三井家の越後屋ではなくなった」

「八郎右衛門様…」
 嘉兵衛はなおも驚きの表情を崩さなかったが、その目には納得の色が見える。

「諸外国からは交易を求めて来航する船が年を追うごとに増えておる。それを受けて今や日ノ本は一つにまとまろうとしておる。
 人々が一つにまとまる為には人々を繋ぐが必要だ。
 翻って、我が越後屋は三都に出店を構え、上方と江戸、さらには各地の仕入れ店を通じて日ノ本全てと繋がっている。
 天下に二つとなき、と言っていい。
 以後の越後屋はおおやけの役割を果たしてゆくべきだ。三井家のものとするべきではない」

 嘉兵衛はすでに涙を流していた。

 ―――ご立派になられた

 これほどの器量を持ったのは、家祖高利以来なのではないかと思えるほどに、嘉兵衛は感無量だった。

「仰せの通りに」
 一座の全員が頭を下げる。
 越後屋が『日本の三井』へと変貌した瞬間だった。


『寛政の一致』と言われる大元方への再集結を経て、越後屋は明らかに異質な組織へと変貌した。
 以前は各事業の利益を全て大元方へ集約する仕組みで、言い換えれば各事業はあくまでも三井家の奉公人だった。
 しかし、寛政の一致以後は資産こそ大元方に集約させるものの、各事業部からは一定額の上納金を大元方へ納める制度に変わった。
 つまり、各事業は大元方に属しながらも独自の経営を行う事となり、大元方が両替店から規定額以上の資金を受け取る場合には、両替店から大元方への融資として扱う事とされた。

 両替店という金融機関を核として各事業部門が独自に経営を行う『三井財閥』の祖型は、この寛政の一致によって実現されたと言っても過言ではない。

 企業は創業当初は紛れもなく創業者のものであり、創業者の恣意によって動かすことが当然だった。
 だが、巨大化した企業はやがて社会の公器としての役割を担う必要に迫られる。
 三井家の為の越後屋ではなく、日本の為の越後屋とする改革だったと思う。



 1800年(寛政12年) 春  近江国八幡町山形屋



 西川利助は分家・別家の当主を全員八幡町の本店に集めていた。
 利助が上座に座り、集まった分家・別家衆に相対している。利助の傍らには大番頭の利右衛門が座り、利助と分家・別家衆の中間の位置で両者の横に座っている。

「利右衛門。始めてくれ」
「はっ」
 利右衛門が一礼すると分家・別家衆の方を向き直った。
 江戸で別家している者の中には怪訝な顔を崩さない者も居た。本家から召集が掛かって馳せ参じたが、一体何事かと別家代表の利右衛門を見る。

 利右衛門は別家の資格を持ちながら、利助に特に請われて後進の育成のために店に残る『出勤別家』の地位にいた。

「この度、旦那様より『定法目録』を制定するとのお達しがありました。
 皆様に一部づつお配りいたしますので内容を吟味ください」
 そう言うと、集まった者達へ一冊の本が配られた。内容を見て驚きの声を上げる者が続出した。

「旦那様。これは…?」
 分家衆を代表して新八が利助に尋ねた。

「定法目録という、山形屋の先祖代々の事績を基に家法を定めたものだ。知っての通り、我が山形屋は初代仁右衛門様よりすでに私で七代を数える由緒ある商家だ。
 商いの規模も初代様の頃とは比べるべくもないほどに拡大した。
 それに伴い、我が山形屋に商品を卸している者、山形屋に雇われて生活している者などにとっては大切な生活の手段になっている。

 かかる時にあって、今までのように当主の自儘によって経営を行う事は許されぬ。
 今やは山形屋は西川家だけのものではない。そこで働く全ての人や、山形屋から商品を買い求めて下さるお客様の物であるべきだ。
 分家衆・別家衆の皆には、本家の経営を監督する責任を持ってもらう。
 定法目録は、それを明確に宣言するためのものだ」

 周囲がざわめきに満たされる。
 利助の定めた定法目録の中には、当主の家督に関する規定まであった。
 本家の当主が当主に不適格ということであれば、分家衆・別家衆の合議によって強制的に『押し込め隠居』をさせ、新たな当主を迎える事を明文化している。

 再び新八が利助に尋ねた。

「しかし、それではご本家の権威を下げる事に繋がりませんか?」
「もちろん、そうだろう。だが、先ほども言ったように今や山形屋は西川家だけのものではない。
 定法目録には親類・別家それぞれの権利を明確にすると共に、義務も明確化してある。
 山形屋は、山形屋に関わる全ての人達の為に決して破産することは出来ない。山形屋を未来永劫保っていくのは、当主だけではなく親類・別家の責任でもあるということだ」

 利助の言を理解し、新八の顔が引き締まる。
 後ろに控える分家衆・別家衆も同様だった。

「これから、幾多の困難が山形屋を襲う事になるだろう。だが、決して山形屋は潰れてはならぬ。
 山形屋に関わる全ての人の生活を守るために、潰れるわけにはいかぬ。
 その事を皆も深く胆に銘じてくれ」
「ハハッ!」


 三井越後屋とほぼ時を同じくして、西川山形屋も当主による恣意を廃し、分家や別家にも経営権の一部を委譲する制度を定める。
 寛政期に活発化した諸外国の接近は、日本人に『日本国』という帰属意識をもたらし、進展する資本主義は人々に『社会意識』をもたらした。

 それは商家においては『店』への帰属を促し、商家は店主のものではなくそこに属する全員の為のものという意識へと繋がっていく。
 未だ日本の夜明けには時間がある中でも、商人の世界では既に近代的『法人企業』の祖型が次々に形作られていった。


 二年後の享和二年、七代利助は隠居し、長男の宗十郎が八代目利助を襲名する。
 七代利助は仁右衛門と名を改め、初代仁右衛門以来の事績や業績をまとめて編纂した。
 現在目にする西川家の事績は、そのほとんどが七代目が整理・複写した史料によって判明している。


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久々にコラムの轍を更新しています
『寛政の改革の私見』

トンデモ論を展開していますので、ぜひご一読ください
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