近江の轍

藤瀬 慶久

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六代 理助の章

第57話 金本位制

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 1761年(宝暦11年) 夏  江戸勘定奉行所


 時の越後屋総帥である三井高清は勘定奉行の牧野成賢に呼び出され、勘定奉行所へ伺候していた

「三井八郎右衛門にございまする」
「うむ。面をあげよ」

 奉行所の一室、勘定奉行の執務室に呼び出された高清は、一体何事やあらんと戦々恐々としていた

「して、御用の趣はいかなることにございましょう」
「越後屋は今の天下の情勢はいかが見るな?」
「はあ……殖産の機運が高まり、多くの産物が日ノ本各地で開発されておりまする
 様々な物が溢れれば民の暮らしも豊かになりますし、結構に存ずるかと」
「左様。誠に結構な事じゃ。それ故に困っておる」
「それ故に…?一体いかなることでしょう?」
 禅問答のような話に高清は困惑を隠せなかった

「様々な産物が生まれ、様々な商いが世に豊かさをもたらしておる。しかし、だからと言って米作を疎かにしても良いというわけではない
 米は天下の基なれば、その値が乱高下するようでは諸人の暮らしは中々に落ち着かぬことになろう」
「いかにも、左様でございますな」
「そこで、じゃ。お上は米を買い上げて備蓄し、危急の折りには放出して米価を安定させようとお考えなのだ」

 用向きを察した高清は値踏みするような目付きになる
 幕府への貸金であれば大名よりもはるかに信頼度が高いとはいえ、それでも返される保証があるかは疑問だった


「つまり、我らにその御用金を負担せよという事でございますな?」
「察しがいいの」
「ちなみに、いかほど?」
「越後屋は天下第一の富貴なれば、五万両を負担してもらいたい」
「ごっ!」
 思わず叫びそうになって慌てて口元を抑える
 その後、何故ともなく小声になって聞いた

「五万両とは尋常ではございませぬ。我らもさほどに手元に残しておるわけではございませんし…」
「すぐに全額とは言わぬ。だが、来年の内には全額用立ててもらいたい。そのつもりでいてくれ」

 ―――断ることは……できぬだろうな。やはり

 高清は一つ大きく息を吐くと、肚を括って請け負った
「かしこまりました。日ごろの御厚恩に報いるため、この越後屋、お上の御用を務めさせていただきます」
 頭を下げると牧野がほっとしたような顔で笑った
「そうか。わかってくれたか。では、よろしく頼むぞ」
「ハッ!」



 享保の終わりから幕府は米以外の産業を積極的に奨励する政策へと転換したが、肝心の商業に対する課税方法は旧態依然のものだった
 なにしろ『所得』という概念がなく、租税と言えば土地からの生産であり住居地の地子税だった
 つまり、固定資産税のみに課税されていた

 ある研究によると江戸時代中期から後期にかけて、農業生産に対する課税率は平均すると48%に達する
 しかし、非農業生産。つまり農民が作った物を『行商して売る』という行為に対しての課税は平均で4%にも満たなかったというデータがある
 要するに農民としては米を作るよりも商品作物を作って自分で売る方が手取り収入が増えるわけで、収穫物を密かに近郊都市の問屋に売捌く者が後を絶たなかった

 それは外村与左衛門のような地主層だけに限らない
 むしろ、貧農である小作農の方が事情は切実で、それだけに農閑期には必死になって家内で生産した製品を売り歩いた

 笠地蔵のおじいさんは藁で編んだ笠を町まで売りに行って餅を買おうとしていた
 鶴が恩返しに提供したのは米ではなく反物だった
 つまり、農閑期には何がしかの『産物を自家生産して売る』という行為はあらゆる農民層が日常として行っていた


 商業が盛んになればそこで力を持つのは問屋達だ
 そこで幕府は、商業課税として最も単純な方法を取った。即ち、儲かっている商人から必要に応じて御用金を吐き出させるのである
 名目上は貸金であるとはいえ、実質的に返済はされないのであれば税金と変わらない
 しかも困ったことに、ある日突然御用を申し付けられるのだから、商人にとっても納税資金を用意しておくという事が非常に困難になる

 幕府の御用金は主に米価の安定策に使われたが、越後屋では正常に運用している運転資金をも引き上げて御用に応えるといったことが行われた
 その為、この頃から越後屋の業績は頭を打つようになってくる

 彼ら富裕商達が差し出す運上金や冥加金、御用金は、場合によっては賄賂と受け取られる事もあるが、実態は分限に応じた税負担をしているに過ぎなかった



 1765年(明和2年) 春  江戸勘定奉行所



 御側取次役の田沼意次は勘定吟味役の川井久敬の元を訪れていた

「今を時めく田沼様が某のような勘定奉行の端役に一体何のご用向きでしょうか?」
「ははは。謙遜なされるな。普請組頭から勘定吟味役へと抜擢された川井次郎兵衛を端役などとうそぶける者は居りますまい」
 今や飛ぶ鳥を落とす勢いの御用取次役にしては腰の低い御仁だと久敬は意外に思った

「実は、ご相談したいのは銀貨の事にござる」
「銀貨の…?」
「左様。今日ノ本では小判を中心にした金貨と丁銀を中心にした銀貨の二種類があるが、ゆくゆくはこれを金貨一本に纏めたい
 しかし、権現様以来上方の銀貨は中々にお上の権威が通用せぬ。未だにお上の認めた価値ではなく、その重量によって価値を計っておる
 そのため、元文の改鋳においても銀貨は交換に手間取ることになった

 今こそこれを改め、銀貨においてもお上の認めた価値を持って通用させたいと思うのだが、良い知恵はないかと思いましてな」

「ふむ……されば、銀についても銀一両として刻印を優先させるように変えてはいかがでしょう?」
「確かにそれが理想だが、今現在物の値段すらも銀何匁と値が付いておる
 いきなりそこに銀一両と刻印しても諸人がとまどうばかりでしょう」

 確かにその通りだろう
 諸人に受け入れられねば意味がない

「では、まずは五匁の量目の銀貨を作り、それに五匁と刻印を打ちましょう
 その『五匁銀』が市場に流通したことを見計らって、五匁銀十二枚を持って金一両と交換せよと触れを出せば、一両小判一枚が五匁銀十二枚分の価値として認められましょう」
「なるほど… 今の匁を残しつつ、それを重量ではなく枚数で数えるようにさせようというわけですか」
「いかにも。これなれば、ゆくゆくは銀の改鋳によってお上の認めた価値が唯一絶対の価値となりましょう」


 この年の九月に川井久敬の建議によって日本史上初めての『計数貨幣』としての銀貨である『五匁銀』が鋳造された

 これは日本の貨幣史上において画期的な事だった
 これまでの日本の金貨と銀貨は計数貨幣と秤量貨幣が並立し、唯一絶対の価値基準の無い金銀複本位制だった
 それが、金貨銀貨共に計数貨幣に統一することで、価値の基準は金一両であり、銀貨はその十二分の一という価値を持つ補助貨幣として扱われる事になった
 イギリスにおける金貨一ギニー=銀貨二十一シリングと定めたニュートン比価によって、金貨を価値基準と置いた事に酷似している
 そして、金貨を価値基準とし、銀貨を補助貨幣とする制度は事実上金本位制の始まりを告げるものだった
 事実、イギリスではこのニュートン比価の制定を持って事実上の金本位制の始まりとされている

 もっとも、日本の場合はそう簡単には文字通り問屋が卸さなかった

 五匁銀は鋳造当初は五匁の秤量貨幣と等価値とされた
 そして、当初の目論見通り明和四年に実際の目方に関わらず五匁銀十二枚を金一両にて交換する事を強制した
 しかし、これは特に大坂の両替商たちから大きな反発を受けて翌明和五年には五匁銀はほとんど流通しないまま鋳造が中止される

 理由は単純で、両替商は本来的に金貨と銀貨の為替相場が存在することで為替利益を取る商売だ
 要するに安い時に銀を仕入れ、銀が高くなった時に放出することで利益を上げる
 それが交換レートが固定されてしまえば為替差益が発生しない
 まさに商売あがったりとなる
 その為、元文丁銀をことさらに選好し、五匁銀をほとんど取り扱わなかった

 また、五匁銀十二枚で金一両という事は、金一両=銀六十匁という幕府設定の公定比価を遵守させることになるが、当時の実勢レートは金一両=銀六十三匁だった
 その為、五匁銀よりも従来の丁銀の方が金一両で買い求めることが出来る銀貨が多くなったため、五匁銀はほとんど流通することはなく、発行からわずか三年後には回収される

 これを持って五匁銀はただの失策と捉えられることもあるが、その後の南鐐二朱銀へと続く起点は間違いなく五匁銀であり、天保一分銀によって完成を見る事実上の金本位制の始まりとなる貨幣だった



 1767年(明和4年) 夏  蝦夷国松前城下 住吉屋



「なんとか落ち着きましたか」
「ええ、店も再開の目途が付きました」

 松前城下はこの年の春に火災に見舞われ、住吉屋でも店舗が焼けていた
 幸い住吉屋には死人は出ていなかったが、城下では四百戸余りが焼け、数十名の死者が出ていた

「つい二年前にご城内の角櫓を造営したばかりだというのに…
 また志摩守様から御用金の要請があるかもしれんな」
「我々もですが、飛騨屋さんに多額の御用金が課されるでしょう。飛騨屋さんへの借財は松前藩にとって重大な問題となりつつあります
 本当は我らが用立てられれば良いのですが…」

 住吉屋傳右衛門と恵比須屋弥三次が再建成った住吉屋店内で語り合っていた
 住吉屋は四代目、恵比須屋は既に六代目を数えていた

 伝統ある両浜組と言えば聞こえはいいが、この頃では飛騨屋を始めとした大資本の商人に多くの権益を食われ、すでに松前商業の支配者の地位から完全に引きずりおろされていた
 とはいえ、未だ商人個々の力は完全に無くなったわけではなく、恵比須屋・住吉屋を始め材木屋建部家、福島屋田付家なども場所請負を行ってそれなりに存在感を出していた


「先年の宝暦十二年の参勤費用は我ら両浜組にて献上致しましたが、またぞろ御用金をという話になるかもしれません
 ニシンの漁獲も徐々に下がってきている今、厳しい商いをせざるを得ませんな」
 傳右衛門がため息を吐く

「我らなどは両浜組全員で千両ですが、飛騨屋は単独で二千両を超える御用金を務め、材木伐採の運上金も益々多く納めておるとか」
「我らもそれほど貧相な商いをしているつもりはありませんが、何故飛騨屋はそれほどの資金力があるのでしょうか?」
「噂では、金主となる者が江戸に居て、飛騨屋の材木を一手に引き受けているとか」
「ほう… では松前は江戸のとなるわけですな…」
「いかにも。やはり江戸の巨大資本には敵わぬのでしょうかねぇ」

「なんの、我らも八幡町の資本力がありましょう」
「………カネを出してくれと言って応じてくれましょうか?」
「………ま、難しいでしょう。彼らは彼らで江戸でも八幡でもお上から何かとカネをせびられている
 まあ、朽木様からの御用金は我らとて納めておるのですから、他人事ではありませんが」


 ―――松前の場所請負にまで江戸の資本が流れてくれば、我らの商いなど木っ端みじんに吹き飛ばされるのではないか

 傳右衛門は暗い予感を振り払えずにいた


 この三年後の明和七年には再び両浜組に千五百両の御用金が命じられる
 しかし、飛騨屋は同じ頃に再び二千両の御用金に応じ、飛騨屋単独で既に四千五百両の御用金を用立てていた
 さらに毎年の運上金も千両を支払っており、今や松前藩の財政は両浜組ではなく飛騨屋が握っていると言っても過言ではなかった

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