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四代 利助の章
第46話 農村より興る
しおりを挟む1696年(元禄9年) 夏 蝦夷国松前城下 住吉屋
『住吉屋』初代西川傳右衛門昌隆はすでに六十八歳になり、松前の店を息子の二代目傳右衛門昌興に譲ることにした
「では、後は頼んだぞ。くれぐれも言うが…」
「我が家は松前に於いて興る。故に松前にて亡ぶも毫も悔いなし。 でしょう?」
「うむ… 余財があれば何を置いても蝦夷の事業振興に投じるのだぞ」
「かしこまりました」
八幡町の出身である初代昌隆は、隠居後は八幡町に戻り、富商の例に倣って総年寄や町年寄として自治運営に協力しなければならない
しかし、彼は隠居宅以外は八幡町で田畑や土地などを買い求めることを強く戒めた
「ニシンもようやく産物として上方で売り捌けるようになってきた。これからが本番なのだ
与次郎と平太と共に力を合わせて発展させてゆくのだぞ」
「彼らは既に住吉屋になくてはならぬ存在です。ご心配なされずとも、父上の興した事業は必ず発展させてみせまする」
初代傳右衛門昌隆が引き取ったアイヌの兄弟は与次郎と平太という和人名を与えられ、住吉屋の漁場の管理と商品生産を監督する経営幹部に取り立てられていた
労働者であるアイヌを取りまとめる手代として、今や住吉屋に無くてはならない戦力となっている
干したニシンは主に肥料として初代傳右衛門の弟の西川伝兵衛が『和泉屋』を名乗り、肥料問屋として八幡町から各地に売捌いていたが、身だけを干した『身欠きニシン』も食品として徐々に市場に出回り始めていた
身欠きニシンは、江戸や大坂などの新鮮な魚介類が豊富に手に入る地域では貧民の食う物として低く見られたが、京や信濃・甲斐などの山間部では保存の効く貴重なタンパク源として重宝された
もっとも、京においても身欠きニシンが名物となるのは江戸時代後期になってからだ
今でこそ北大路魯山人も愛した『京のおばんざい』の定番として、高級品となっている身欠きニシンや棒鱈だが、この頃はまだ保存食の一つとしてしか見られていなかった
住吉屋ではニシンを全てカネに変える工夫をしていた
即ち、卵は干カズノコ、身は身欠きニシン、そして身を削ぎ取った後の頭や内臓は魚油を搾って売り、油を搾った後のカスはニシン粕として肥料商に売っていた
ニシンの油を搾った跡地に種を撒けば野菜が大きく育ったというから、ニシン粕の肥料としての性能は折り紙付きだった
松前藩も従来は砂金や鷹・塩鮭などにしか課税していなかったが、ニシンの売れ行きに目を付けてこの頃ではニシンも課税対象になっていたし、江差などの和人地の漁師も積極的にニシンを獲るようになってきていた
―――蝦夷の発展をこの目で見届けられぬことが残念だが、後は彼らに託すのも老人の役目か
一抹の寂しさはあったが、少なくともアイヌが安定した生活を営みつつあったことに満足感を覚えながら初代傳右衛門昌隆は船上の人となった
1697年(元禄10年) 春 京 名古屋丹水診療所
正野源七は剃髪し、名を『玄三』と改め、師の丹水の診療所の下働きをしながら丹水の調剤の仕方をつぶさに観察した
丹水の処方する薬は多岐に渡ったが、患者のどういった症状によって調剤を施しているのかはまだまだ謎が多かった
「今日の患者は腹を患っていたようですが、何故葛根湯と鎮咳の甘草を処方されたのですか?」
「ああ、あの患者はただの腹下しではない。おそらく数日のうちに熱風邪を発病するだろう
避けることはできぬが、今から葛根湯を飲んでおけば症状が緩和されるはずだからな」
「なるほど…」
―――何故それが判るのか… 丹水先生の目はどこを見ておられるのだろうか…
丹水の診察は一見思いも寄らないところから症状を導き出す
そしてその診立てはすこぶる正確だった
医術の修行を始めてこの方、あらゆる薬と症状を学んではいたが、それを的確に結びつけることが玄三にはまだできなかった
翌日、師の使いで薬種商に行った帰り、田起こしの済んだ田に百姓が水を張っているのを見て玄三は閃いた
―――そうか!
田の土は冬には干からび、春に水を得るとまた潤いを取り戻す
これは干からびたように見える冬に滋養となる草肥を体の内に取り込んでいるのだ
人の体もこれと同じで、病身にあっても次に治ろうとする体の働きを助けてやれば自然と体は陽の気を取り戻す
また、体が元気なうちに滋養を持たせてやることで病を遠ざけることもできる
即ち、補陽滋陰の理をもって処方すれば自ずと人の体は元気になるのだ
「玄三。何やら一つ悟ったようだな」
「は。何やら目の前が晴れ渡ったような心持にございます」
「はっはっは。その頭ならば悟りに至るのも早かろう」
丹水は玄三の坊主頭を見ながら可笑しそうに笑った
「恐れ入りまする。見てくれだけでも悟りに近付きたいと念じましたが、このように真理を運んでくれようとは思いも寄りませなんだ」
玄三も自分の頭をピシャピシャと叩きながら可笑しそうに返す
この後、玄三は丹水門下の医師として京の富小路に診療所を構えて独立した
評判を聞いて診療を願う患者は引きも切らずで、医師としての正野玄三の名は京洛中に鳴り響き始めていた
1698年(元禄10年) 冬 近江国八幡町 山形屋
「お国替え?」
「ええ、山形屋さんは聞いておられますか?」
西川利助は時の八幡町総年寄中島弥兵衛の訪問を受け、客間で応対していた
「いや、今初めて聞きました。この八幡町が天領(幕府領)ではなくなるのですか?」
「町全体ではなく、新町通りから東は今まで通り天領、魚屋町通りから西が旗本朽木和泉守様のご知行になるとか」
「左様ですか… ということは、我が家以外の主だった商家の皆さんは天領に留まるというわけですな」
「はい。ですので商家の皆さんにはご領地が分かれても今までと同じ誼を通じていただければと思いまして…
何せ江戸出店を持つ皆様のおかげで我らの仕事が回っている現実もございますので、山形屋さんから一つ口を利いていただければと」
「それはもちろん、お代官様がお許しになれば我らとしては同じ八幡町の住民ですから…
いつから国替えになりますか?」
「年明けの元禄十一年正月よりと伺っております」
―――他国領になってしまうのか… 蚊帳仲間の連携は崩れぬと思うが、町衆との間はできるだけ維持していかなければならんな…
慶長から一貫して天領だった八幡町だが、この時からその領主は変遷し始め、それによって八幡商人達の活動にも変化が現れるようになってくる
この元禄十一年には天領と朽木領の相給だったが、十年後の宝永五年には朽木氏の一円支配となる
旗本朽木和泉守則綱は、金ヶ崎の退口の際に信長に味方した朽木元綱の孫に当たる
朽木元綱の三男植綱が徳川家光に召し出され、常陸国土浦藩主となった
その植綱の長男植昌の代に丹後福知山藩に転封され、幕末まで福知山藩主となる
八幡町を拝領した旗本朽木則綱は福知山藩主植昌の弟で、朽木主膳を名乗った
つまり、八幡領主朽木主膳家は福知山朽木家の分家筋ということになる
知行高は六千石で、領主は江戸に在勤して知行地の支配は八幡町に陣屋を置き、代官を派遣してこれに当たらせた
旗本の中では大身であり、かつ参勤交代の義務はないため他家よりは費用負担が少ない
だが、その台所事情は決して悠々たるものではなく、後年には八幡の富裕商達の財布を徐々にアテにするようになってくる
とはいえ、この頃はまだそのような気配は微塵も感じさせなかった
「一度お代官様へその辺りをご相談に伺いたいのですが、出来ましたらご一緒にお出で願えないかと思いまして…」
「ええ、我らの商いにも関わる事ですので、ぜひご一緒させて下さい」
―――国替えでごたつく前に、蚊帳株仲間を届け出て公認を取り付けておくか…
今後は八幡町の商家もバラバラに支配されることもあり得るからな…
1700年(元禄13年) 冬 近江国神崎郡金堂村
山形屋初代仁右衛門の兄弟弟子である外村小助は、郷里の金堂村に戻って『外村与左衛門』を名乗り百姓仕事の傍ら麻布を織る事で副業としていたが、初代与左衛門から四世となる四代目与左衛門照信は病に罹って野良仕事ができない体になってしまった
またこの頃には麻布は周辺の農家の副業として広まり、本家の外村家では逆に麻布織りをすることがなくなってしまっていた
「父上は働けなくなってしまった。幸い我が家は耕地はそれなりにあって食うことは出来るが、商は農に勝るという
ここはひとつ、八幡町の商人の例に倣って行商から始めようと思うのだが、ちと付き合わんか?藤右衛門」
「面白そうだな。よし、一丁付き合うか!」
照信の長男長次郎は、近郷の悪友の藤右衛門を誘って行商を始めた
数えで十九歳だった
まず二人は金堂村周辺を縄張りにする布買問屋の善右衛門を訪ねた
「善右衛門さん。済まないが麻布を馬一頭分分けてもらえませんか?」
「麻布を?かまわんが、商売でも始めるのか?長次郎」
「ええ。父も働けなくなったことですし、農だけでなく商も行おうかと思いまして」
「そうか。まあ、お前さんところは昔は商人だったというし、案外うまくいくかもしれんな」
「俺も俺も!忘れてもらっちゃ困りますよ!」
藤右衛門が横から口を挟む
「藤右衛門はもうちっと細やかな仕事をせんといかんな。お前の織る布は質が今一つだぞ」
「あ、いや~…ははは」
頭を掻きながら笑って誤魔化す
「商人ってのはお前らが思ってる以上に細かく計算してやらねばたちまち破産してしまうもんだからな。
ま、せいぜい気張るこった」
二人は行商から戻ったら決済するという約束で麻布二貫分を卸してもらった
まず二人は姫路へ向かった
「藤右衛門。とりあえずここからは別れて一貫分づつ売り歩くことにしようか」
「おう!どっちが早く捌けるか競争だな!」
大坂で落ち合う約束をして藤右衛門は姫路各地を回り、長次郎は明石方面へ向かった
明石に着いた長次郎はとりあえず港町で漁民相手に商売している呉服屋に商談に向かった
「ごめんください」
「はい。いらっしゃいませ…」
「近江上布を売り歩いております。こちらで御用はございませんでしょうか?」
「近江の麻ねぇ…」
店の番頭は怪訝そうな顔をしながら見本布をしげしげと眺める
無意識に長次郎は顔が熱くなった
品質は悪くないはずだが、他の麻布を知らないので確信はない
商品を見られている間長次郎の胸は激しく鳴りっぱなしだった
「…いくらだい?」
「一反で銀五百匁でいかがでしょう?」
「高いね… この出来ならせいぜい百五十匁ってところだ」
―――それじゃあ仕入れ値より安いじゃないか!
「せめて三百匁になりませんか?」
「百五十匁以上なら要らないよ。こちらも売れない在庫を抱えるつもりはないからね」
冷たくあしらわれて長次郎は悄然と店を後にした
―――なんの!店売りが駄目なら里売で売ってやろう
それと、さっきは少し吹っ掛け過ぎたかもしれない
今度は初手から三百匁で売り捌こう
しかし、農村や漁村を丹念に回っても一向に売れなかった
新品の反物を買う余裕のある者には麻より木綿はないのかと言われ、小作農達には古着で十分と言われた
要するに顧客ニーズがつかめていなかった
すっかり気落ちした長次郎は藤右衛門と合流するため大坂に向かった
―――こんな大きな店を構えて絹呉服を商っている商人はどんな工夫を凝らしているんだろうか
目の前の店先を見上げると『げんきん・かけねなし・いわき・ますや・ごふく物』という看板が目に入る
通りの向こうでは越後屋という呉服屋が賑わいを見せていた
しばらく眺めていると通りの向こうから藤右衛門がやって来た
長次郎と同じく、別れた時と同じ量の反物を担いでいた
「売れたか?」
「いいや、さっぱり」
二人は力なく頷き合うと、目の前の枡屋に布を持ち込んだ
「近江上布か… 懐かしいな。
ま、しかしこれなら一反で銀百八十匁といったところかな」
たまたま店先に出ていた店主の岩城久右衛門が対応してくれた
「せめて二百匁でお願いできませんか?」
「今では麻布は捌くのにコツがいるからねぇ。金持ちは絹を買うし、金がなければ古着でいいと割り切る人が多いから…」
「仕入れ値なんです。お願いします」
二人そろって頭を下げる
久右衛門は困った顔をしながら頭を掻いていたが、やがて帳場から銀を持ってきた
「じゃあ、二百匁で全部置いていきなさい。仕入れ値は全部で銀二貫だね?」
「ありがとうございます!」
やれやれという顔をしながら久右衛門は店先まで見送った
若者がああやって慣れない商いに挑戦する様子を見て自分の若い頃を思い出していた
―――思えば、私も昔はああやって悪戦苦闘していたな
妙に微笑ましい心持だった
結局初めての行商は仕入れ代こそトントンだったが、彦根藩からの通行手形代と途中の旅費で『銀六百匁の赤字』となってしまった
長次郎と藤右衛門はそれぞれ三百匁づつを負担し、長次郎は親に内緒で家のカネを工面して損失分を善右衛門に支払った
父が病気で多少家のカネを自由にできる長次郎はまだ助かったが、藤右衛門は翌日大きなタンコブを作っていた
「次は農場経営をしてみよう」
懲りない二人は、次は田八反を人を雇い入れて耕し、地主としての収入を得ようと目論んだが、農地経営はそもそもそれなりの先行投資と最新式の農具や農法・肥料などを必要とする経営業だった
ぽっと出の小僧が易々と利益を出せるものではなく、ここでも『銀百匁の赤字』となった
「やはり、商品は自分たちで作るのがいいのかもしれんな…」
家の納屋に忘れ去られていた麻布の織機を見つけて長次郎は少し考えを変えた
―――自分たちで作り、自分たちで売り捌く
これなら、気に入らなければ持ち帰ればいいのだから足元を見て買い叩かれることもない
長次郎と藤右衛門は原点に戻って麻布を織り、晒上げて農閑期に行商を行った
商は農に勝るとどこまでも信じていた
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