近江の轍

藤瀬 慶久

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初代 仁右衛門の章

第18話 会津若松

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 1590年(天正18年) 夏  陸奥国会津郡会津黒川城



「蒲生左近衛少将氏郷に会津四郡南仙道五郡合わせて四十二万石を与える。
 合わせて、木村伊勢守吉清に大崎・葛西の旧領三十万石を与える」

「ハハッ!ありがとうございまする」
「………ハッ!有難き幸せ。より一層関白殿下への忠勤に励みまする」

 小田原城を征した後、奥州仕置により氏郷は奥州の伊達政宗の抑えとして会津黒川の地に加増・転封となった

「ほほほ。忠三郎殿よ。奥州の地はそこもとに任せる故、よろしく頼むぞ」
「はっ!殿下の威を奥州の隅々まで行き渡らせまする」


 秀吉は氏郷と木村吉清の手を取った
「木村伊勢守は忠三郎殿を親とも頼み、忠三郎殿は伊勢守を子とも思って、力を合わせて奥羽の地を治めてもらいたい。
 伊勢守は京への出仕を免ずる故、これよりは会津に出仕し、忠三郎殿の下知を余の下知と思って従うのだ。よいな」
「「ハハッ!」」



 -その夜-



 氏郷は宿舎の柱に拳を付け、額を乗せて涙を流していた

 気付いた町野左近将監が、氏郷に近付いて声を掛ける
「殿、おめでとうございまする。四十二万石という大領の主となられたは偏に殿のお働きによる……」
「違うぞ、左近将監」
「は?」
「俺は嬉しくて泣いているのではない。これは悔し涙だ」
「殿…」
「いかに大領とはいえ、これで俺は中央の変事に即座に動くことが出来なくなってしまった。今や行く先は奥羽の一大名にしか過ぎん。
 これならば伊勢松坂で十二万石のほうがよほど今後の運が開ける。
 俺には天下を掴むことは出来なくなったのだ…」

 拳の中には銀の十字架ロザリオが握られていた



 この奥州仕置による氏郷の転封には様々な説があるが、奥州の抑えとして細川忠興か蒲生氏郷かどちらがよいかという話になった時に、諸将が忠興を推すのに対し、秀吉のみが氏郷を推したとする説がある

 氏郷はその器量を旧主信長が認めたほどの若獅子であり、自分の立場を十分に脅かし得る者として秀吉は認識していた


 伊達政宗と蒲生氏郷

 奥州の地で両雄を食い合わせ、中央の自分の立場を盤石にするための秀吉の策略であったように思う
 昨今蒲生氏郷の名が今一つパッとしないのは、講談などで度々主人公を務める、伊達政宗の敵役としての役どころを秀吉が与えた為だと思われる



 1590年(天正18年) 夏  蝦夷地松前大舘



「この度、関白様が奥州にて仕置を行われているとの事。そのため秋田の御屋形様が関白様へ臣従を誓われるそうにございます。
 新三郎様。御屋形様に従い、関白様にこの蝦夷地の支配をお認め頂ければ、晴れて新三郎様が名実共に蝦夷の守護にございますぞ!」

 建部七郎右衛門が蠣崎かきざき新三郎慶広よしひろに対面している
 蝦夷地に渡った七郎右衛門は、商いをしながら伝手を頼り、三年足らずで安東氏の蝦夷支配代官である蠣崎慶広の政務相談役の地位に収まっていた


 この当時の蝦夷地の状況について簡単に説明すると

 鎌倉幕府の蝦夷守護として津軽安東(安藤)氏が蝦夷地を治めていたが、1457年(康正3年)に渡島半島東部のアイヌ民族の酋長コシャマインが周辺アイヌ諸族を糾合し、和人(本土出身者)に対して武装蜂起し、当時道南にて12の氏族・館に分かれていた和人勢力は次々と攻め滅ぼされた
 京にて応仁の乱が起こる十年前のことであった(コシャマインの戦い)

 一方、若狭武田氏の流れを汲む武田信広は、当時蝦夷に流れて蝦夷上の国花沢館の代官であった蠣崎季繁を頼り、蠣崎氏の客将となっていた

 武田信広は残った和人勢力を率いてコシャマインらアイヌ諸族と戦い、七重浜(現北海道北斗市)にてコシャマイン父子を討ち取り、和人勢力を勝利に導いていた


 その後武田信広は蠣崎季繁の養子となって蠣崎信広を名乗った

 この戦いとその後の各種抗争によって、それまで細分化されていた蝦夷地の支配権は、蠣崎氏のみを蝦夷代官とする体制に徐々に集約されていき、蠣崎信広から五代目となる慶広の代になって秀吉の奥州仕置を迎えていた

 だが、実質的に蝦夷地の支配者であるとはいえ、名目としては蠣崎氏は未だ安東氏の蝦夷地代官であり、安東氏の被官の立場だった

 蠣崎慶広は名実共に蝦夷守護として安東氏から独立することを望んでいた


 蠣崎慶広は元々が若狭武田氏の出であることから、若狭武田氏と血縁関係にある近江六角佐々木氏に好意を持っており、六角旧臣の子である建部七郎右衛門元重を重用していた



「関白様か。蝦夷地の攻略をも企図して鰺ヶ沢あじがさわまで進軍してくるという風聞だが…
 戦支度をするべきではないのか?」
「とんでもございません!むしろ鰺ヶ沢まで馳せ参じ、臣下の礼を取るべきでございます。
 関白様がお認めになれば、名実共にこの蝦夷地は新三郎様のご支配に入ることになりまする」
「……よし。御屋形様に同行を願い出よう。七郎右衛門も付いてきてくれるな?」
「ハッ!喜んでお供いたします!」


 蠣崎慶広一行は主家安東実季に従って津軽の前田利家に対面し、その後京を目指した



 1590年(天正18年) 秋  陸奥国会津郡会津黒川城



「この度のご加増。おめでとうございまする」
 三井宗兵衛が蒲生氏郷と対面していた
 口ではめでたいと言っていたが、顔は沈痛な面持ちの宗兵衛だった

「皮肉を言うな。俺の気持ちはお前もわかっているだろう」
「はい。無念にございます」
「そうだな。だが、まだまだ諦めたわけではないぞ。この会津の地を富ませ、産業を豊かにし、中央の無視できない勢力へと変えていってやる
 宗兵衛も力を貸せ」
「…ハッ!」

 宗兵衛はうれしかった
 自分は諦めの気持ちが出てしまっていたが、氏郷はまだ諦めていないのだ
 先に自分が諦めてなるものかと奮い立った


「俺はどこまで行っても日野を忘れぬ。この会津黒川の地を馬見岡綿向神社の『若松の森』にちなみ、『会津若松』と改める
 城と城下の縄張りを改め、会津若松の商工業を発展させるぞ」
「はい!どこまでもお供いたします!」


 氏郷が誘致した日野の塗椀や醸造業は、やがて会津塗として会津若松の産業となり、酒・味噌などの醸造業と共に会津若松の経済基盤を支える産業へと発達していく

 しかし、氏郷自身はその果実を手にすることはついにできなかった



 1590年(天正18年) 冬   京  聚楽第



「蠣崎新三郎慶広にございまする。この度、関白様の御意を得ることをできましたこと、恐悦至極に存じまする」
「うむ。面をあげよ」
「ハッ!」

 蠣崎慶広は上洛し、豊臣秀吉に拝謁していた
 秀吉は上機嫌だった。遠く蝦夷からも自身の威徳にひれ伏して上洛するのだ
 機嫌が悪かろうはずがなかった

「その方らのことは前田筑前守より聞いておる。蝦夷はどのような所かな?」
「ハッ!夏は短く、冬は極寒の地にて雪多く、そのため米作りは難しい土地にございまする」
「なんじゃ。米は取れぬのか」
「はい。されど、サケ・ニシンなどの魚類からクジラ・トド・ラッコなどの海獣類、昆布などの海藻類も豊富なれば、交易にて国を建てることは決して難しくはありませぬ」
「ほう、トドにラッコとな?聞かぬ名じゃな。
 ならば関東や上方より米を持ち帰り、産物をこちらへ流すということを生業としておるのじゃな?」
「左様にございまする。また、上方の産物を用いて蝦夷地奥のアイヌと呼ばれる諸族とも交易を行っておりまする」
「なるほど」

「関白様に一つお願いの儀がございます」
「願いとな?申してみよ」
「ハッ!されば、先ほど申し上げたアイヌと呼ばれる諸民族は後背常ならぬ者たちにて、大人しく服しているのみにてはございませぬ。
 僭越ながら私の手勢を以て北辺の防備を固めれば、たちどころに関白様の威に服させて見せまする。
 どうかその任を私にお与えくださりませ」

「余の代わりに蝦夷を抑えると申すか」
「ハッ!」
「気に入った!しからば蠣崎新三郎。
 そなたを従五位下民部大輔に任じよう。余に成り代わって蝦夷の地を治めるが良い」
「ハハッ!有難き幸せにございまする」


 この二年後の文禄二年正月に朝鮮出兵に兵を率いて参陣し、ラッコの毛皮を秀吉に献上した
 秀吉は北辺の地から九州まではるばる馳せ参じたことを喜び、慶広を志摩守に任じ、併せて蝦夷支配の朱印状を与えて蝦夷の支配者として公認する

 蠣崎氏は晴れて、名実ともに蝦夷の支配者と認められた


 - その夜 -


「七郎右衛門。そなたの献策通りに全てがうまく運んだ。礼を言うぞ」
「礼などとんでもございません。お役に立てたのならば幸いにございまする」
「うむ。ところで一つ相談があるのだが…」
「何なりと」

「我らは辺境の者。上方の風俗や礼儀作法などに暗い。また、支配者としての家臣の数も少ない。
 上方のことを良く知る者たちを召し抱えたいと思うのだが、誰か良い者はおらぬか?」
「されば、某と同じく六角氏の被官であった者たちに声をかけまする。
 これはと思う者はお取立てくだされば幸いでございます」
「うむ。七郎右衛門に任せる故、蝦夷に下向しても良いと思う者を募ってくれ」
「ははっ」



 こうして、蠣崎氏の蝦夷支配は確立し、あわせて建部七郎右衛門によって蝦夷と近江の人的交流が始まった
 この交流は、近世の蝦夷地開発に当たって近江商人達の開発投資を呼び込むことになる



 1591年(天正19年) 正月  陸奥国会津郡会津若松城



「おかえりなさいませ」
 宗兵衛は若松城にて蒲生氏郷を迎えていた

 昨年の奥州仕置にて会津若松を拝領した直後、木村伊勢守親子の雑な領国統治によって葛西大崎一揆が発生し、氏郷は伊達政宗を先陣にこの鎮圧にあたっていた
 だが、この一揆は政宗が扇動していると報告を受けた氏郷は、政宗に頼ることをせずに独力で進軍し、名生城に籠って一揆勢・伊達勢と戦う構えを見せた

 伊達政宗は誤解であると弁明し、氏郷に対し人質を出した
 人質を受け取った氏郷は年が明けた一月に名生城を出て会津若松城に帰還した


「日野や松坂からの移住は捗っておるか?」
「いえ、まだ手前のように家族を残し、単身でこちらへ来ている者ばかりにて…」
「まあやむを得ぬか。まだまだ俺自身も会津の地を掌握できているとは言えぬからな。
 しかし、ここでも日野町を作って産業を積極的に持ち込むぞ。宗兵衛も日野椀や酒造りを積極的に広めてくれ」
「かしこまりました」

 この年、三井宗兵衛は会津若松城下へ引っ越していた
 引っ越したと言っても松坂の酒屋は角屋七郎次郎との約束があって畳むことはできないので、松坂の店や妻子を番頭の勘治に任せて、自身は数名の手代・丁稚と共に単身会津へ来ていた
 取り急ぎの荷は松坂から船便で持ち込む予定だった


「ともかくも、関白様へ申し出て伊達の二枚舌を暴いてくれる。奴が出した一揆勢を支援するという書状は我が手にあるのだ。申し開きはできまい」
「軍を起こす兵糧を急ぎ手配いたしまする」
「頼む」


 宗兵衛と氏郷はもはや阿吽の呼吸で話ができる間柄だった



 1591年(天正19年) 春  近江国蒲生郡八幡山城下城主居館



「山形屋西川仁右衛門にございます」
「うむ。京極侍従高次である
 山形屋よ。中納言様の時と同様に八幡堀をそなたに任せるゆえ、よくこの八幡町を発展させよ」
「ハハッ!」


 北条征伐の功によって豊臣秀次は尾張・伊勢などで百万石を領するようになり、居城も尾張清洲城へと移っていた
 その後、近江国内の検地による領地替えを経て、八幡山城は高島郡大溝城主 京極高次が知行することになった

 仁右衛門は
 天正十四年に三男 久右衛門
 天正十八年に四男 弥兵衛
 を授かっていた



 1592(天正20年) 春  陸奥国会津郡会津若松城



 結局、葛西大崎一揆を扇動した書状は偽造であるという、伊達政宗の申し開きを秀吉が聞き入れ、政宗を先陣として昨年の八月に葛西大崎一揆を鎮圧した氏郷は、続く九戸政実の乱も制圧し、唐入りのため肥前名護屋城への出陣を控えていた

「では宗兵衛。会津若松の産業振興を任せたぞ」
「ハッ!留守の間に少将様が目を見張るまでにして見せましょう」
「ふふふ。頼もしいことだ   …ううむ」
 氏郷が眉間を押える

「お体が優れぬのですか?」
「何、大したことはない。留守をしっかりと頼むぞ」
「……はい」

 宗兵衛は氏郷の顔色が少し青白いのが気になった


「やはり関白様に願って少し養生をされては…」
「無用だ。俺は何ともない」
「はぁ…」


 氏郷はそう言うと、会津若松城を出発した
 そして、朝鮮出兵の肥前名護屋城での在陣中に体調を崩して寝込むことが多くなった

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