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伏喰童子
「ジキルの秘密」
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どた!どた!どた!
乱暴に踏み鳴らした足音に、呼応するように屋敷中にその音が響き渡る。
キョウはその足音の主がくる前に、足元に落ちている少年の片手を掴み、無理やり立たせた。そして自分の背後に回して、廊下側から一見して見られないように隠した。
本当ならば、正面から見えない執務机の下や、クローゼットの中に隠しておきたかった。だが部屋にあるのは、自分の背丈ほどの本棚と、上としたにも荷物の置かれたベッドくらいだ。彼の所持品と呼べるのが薬品と医療器具ぐらいで、他の物を合わせても大きめのトランクケースに収まる量しかない。
「フク、後ろへ・・・何があっても大人しくしていてくださいね」
「わかった」
フク少年が、ジキルに見つかるとは思わないが、先ほどまで泣きじゃくっていた子供を、怒り狂った男の前に出すわけにはいかない。
キョウは先ほどの戦闘を悟られないように、体についた埃を払い、息を整えた。背後にピッタリとくっつくフクは、キョウのジャケットをきつく握りしめた。
やがて、足音が自分の部屋の前でとまり、瞬間に扉を乱暴に押し開けた。パラパラと扉の枠組みから砂埃が落ちる。
目の前の男は「自分は気分を害されました」と言わんばかりに、部屋の中にいるキョウに詰め寄った。
「キョウ!さっきからうるさいぞ!何している!!」
聞き慣れたこの国の言語を話す目の前の人間に、キョウは半笑いで対応する。
「申し訳ございまセン、ジキル様。旦那様が心配されることは全くナク、部屋にネズミがでて驚いただけなのデス」
ガッ、ガッ、と床を踏み抜かん勢いで、キョウのそばまで近づくと、思いっきり拳を彼の頬に殴りつけた。
殴られたキョウは頬を抑えることなく、普段の困ったような笑顔でジキルをそのまま迎え入れた。だが、今のジキルがこんなことで帰ってくれるとは思っていない。
「黙れ!言い訳をするな!さっきからギャーギャーと喚きやがって!誰のおかげでこの屋敷にお前のような根無草のクズを住まわせてやっていると思っているんだ!」
ジキルは目の前のキョウに、唾を飛ばしながら喚いた。目の下の隈はひどく、ここのところ眠れていないのか、精神不安定で、少しの衝撃で簡単に燃え盛ってしまう。
彼の世話をして三ヶ月経つが、日に日に気性が荒くなっていく。この屋敷を勤め始めた頃は、落ち着いた青年で、若くして薬の研究者として務めるのも納得できるほど、実に明快で、理論立てて会話ができていた。それなのに今は、まるで別の人が着々と塗られていくように、暴言や暴力といった行為を増やしていった。顔も二十年は老け込んだかのように、目元のシワが目立ち、クマは黒くなっていた。
「おい!聞いているのか!キョウ!」
「アア、お赦しください、旦那様・・・次は気をつけマスので」
「次があるわけないだろ!お前の皮を剥いでやるからな!」
三ヶ月前ならば、このようなことを口走る人ではなかった。使用人に注意するときだって、論理的に説明してから注意していた。
それに、キョウに対して、そんな対応するべきではないことを、ジキルは覚えていないようだった。
三ヶ月という関わりしかない、キョウも流石にこの短期間の性格の変貌はおかしいと思う。なぜなら、彼との契約がなくとも、一般的な感性の持ち主のジキルならば、キョウに対してこのような言葉を使えないからだ。
「ん?」
ジキルは何かに気がついた。その視線を追うと、キョウの足元に行き着く。その視線に先にあったのは、フクだ。だが彼がフクを見つけることなんて、あり得ない。彼がいくら、カンが良かったとしても、『ただの人』が座敷童を認知できるはずがない。おそらく、キョウの足元から覗かせていたフクの視線を感じただけだろう。
そのことをフクだってそれをわかっているのだろう、ジキルとばっちりと目があう。だが視線が自分の方を向いていても変に慌てたり、喚いたりせず、じっと緊張した面持ちでジキルの方を向いていた。
ジキルは足元を睨みつけたかと思えば、眉間の皺を一層深めて、牙を剥き出しにした。
「なんだこのガキは!!さっき喚いていたのはこいつか!!」
『!!』
キョウは信じられない顔でフクの方を見た。フクもまた、同じく驚いた顔でジキルを見ている。
「キョウ!てめえ!一体何を連れてきやがった!」
「旦那様、・・・こ、これは、近所の子供なのデス。転んで怪我をしたから、介抱しただけなのデス」
「ふざけているのか!てめえ!」
だんだん、ジキルの言葉が荒くなっていく。だが視線の先はキョウではない。
ジキルの視線の先はフクだ!
彼は怒りのまま、フクに手を伸ばす。
「! フク!」
「!」
フクはキョウの言葉に反射で反応して、ジキルの手を躱して部屋の外へ走った。ジキルとは対照的に、猫が走るような静かな音だ、そして早い。先ほど、キョンシーたちを避けてキョウの元へ辿り着けたのにも納得できる。
だが少し遅かった。いくら早くても、ジキルの反射と腕のリーチがあったからか、部屋に出る直前にフクのパーカーのフードを掴んでしまったのだ!
キョウは咄嗟にジキルの腕を掴み、彼の腕を押さえた。
「おやめください!彼はほんの子供です!!」
「黙れ!黙れ!勝手に家にいれやがって!!こうなったら!」
キョウは半狂乱になっているジキルに、落ち着かせるのは無理だと思った。彼に危害を加えるのは忍びないが、後でどうとでもなる。とにかく、フクの安全を確保し、家から離れないようにしなければならない!
「どけ!キョウ!」
しがみつくキョウを振り払うために、拘束されている腕を左右に振る。その力は普段力仕事をしているキョウですら、簡単に振り解かれそうだ。
「イヤッ!」
キョウの背後で同じく体を振り回されていたフク。キョウがジキルを抑えていたのと、彼の足が支えられるように、伸ばしてくれていたおかげで転びなどはしなかった。だがそれでもジキルの力は凄まじく、フクの体はボールの中の水のように乱暴に揺れた。
「もうっ!」
我慢の限界が来たのか、ジキルの方を振り返り、き、と睨みつけた。そして、フードを掴まれていた手を、小さな手で包み返す。
「何、うをっ!?」
ジキルが途中で言葉をとぎったのも無理はない。ジキルの体はフクの体を支点に、放物線を描くように浮かび上がったのだ!
ジキルも「うわあぁ!!」と叫び、キョウも共に廊下に叩きつけられた。ジキルは頭部をぶつけたらしく、廊下に仰向けに倒れてから、ピクリもしない。
ジキルの腕にしがみついていたため、共に投げ飛ばされたキョウは、なんとか受け身をとれたが、先ほど打った背骨が痛んだ。
「び、びっくりした!」
フクは先ほどの興奮が冷めきらないらしく、頬を赤く染めている。はふはふと、息切れしているところを見ると、フクもそろそろキャパオーバーだ。
(無理もない・・・)
突然、この世界に連れてこられて、急に自分の身の危険に晒されたのだ。だが、ここでダウンしてしている場合ではない。
キョウは倒れたジキルの元へ行き、状態を確認する。脈を測り、瞼を開け、呼吸も聞いたが、とりあえず安静にしておけば大丈夫だろう。本当の医者ではないから、頭をぶつけたときの影響がどう出るかはわからないが、見立てでは差し迫っての命の危機はない。
「大丈夫、そうですね・・・」
ほっと息を吐く。
だが、ジキルの容体を見ていたキョウの後ろから、抑揚のない声が後ろから響いた。
「その人、もう長くないねぇ」
振り返ると、フクが笑顔でジキルの顔を眺めている。キョウがキョンシーと共に襲いかかってきた時と同じような、絶品料理を見るかのような恍惚としたその顔。
その口の端からは涎が滲み出てきていた。
◼︎
フクは部屋にジキルが現れてから、非常に困惑していた。
(ふ、二人が何を話をしているのか、全くわからない!!)
フクは改めてここが異世界であることを思い出した。さっきまではキョウがフクに合わせて日本語を話していたから、会話ができていたけれど、フクはさっき来たばかりの異世界人だ。ここの言語を理解できるわけがない!
異世界転移、異世界転生の主人公は普通に、異世界語を話してたけれど、あれは転移ボーナスというやつなのだろうか?サービスでつくタイプではなく?妖怪であるフクには、妖怪パワーでどうにかしろということか!
(食べることしか能のない『ざしきわらし』にどうしろと!?)
食べたら能力が開花するとかだったら、どれほど良かっただろう。この一千年間食べてもついたのは、「落ちこぼれざしきわらし」の悪評と噂だけだ。仮に「伏喰童子」の力を使ったとしても、今この状況でできることなど何もない。
(もっと本読んでおけば良かった!)
今2人が話しているのを、フクは字幕なしの外国映画を見ている気分なのだ。
(後でキョウさんに話の内容を聞くから良いとして、今はできることをしなくちゃ・・・)
フクはそっとキョウの裾の影からジキルを見る。背の高さはキョウよりも低く、体つきはちょっと痩せ型だ。服はぱっと見で普通のズボンとシャツと茶色のベスト、だが異様なのは体の至る所に革でできた頑丈なベルトが巻き付いている。
(縄で縛られてるみたいだ)
過去に見た、処刑場に連れて行かれる罪人たちが、体の至る所に鎖や縄で拘束されて身動きが取れないようにされていた。大体はすでに体力が消耗しており、おとなしく従っているのだが、死に際で暴れたときに取り押さえれるように、複数人で縄を引っ張って抑えるのだ。
フクはその後の死体から出たおこぼれを、もらいに行っていたのでよく知っていた。
(死体漁りの近所のカラスに次ぐ常連だったもんね)
ジキルの革ベルトの付ける位置は、それによく似ていたのだ。
ガーガーと喚き散らすジキルにフクは怯み、キョウの影にまた引っ込む。先ほどジキルに思いっきり殴られていたが、彼は気にすることなくジキルと会話を続けている。
フクは緊張した心を落ち着かせて、再度、ジキルの方を見た。
(!あれは・・・)
フクはジキルの肩から上に視線を向ける。
ジキルの顔は大きな犬のような被り物をしている。パグみたいに鼻先が潰れた、獅子舞のような被りものではない。黒く、大きな耳が尖り、鼻先がスッとのびた、狼のような頭がそのまま
乗っかったような被り物だ。それがデパートとかのイベントに見る着ぐるみの頭のようにスッポリと、ジキルの頭を覆い被さっている。
フクは一瞬、何かの冗談かと思ったが、キョウが気にしていないところを見ると、見えていないのか、それか普段から被っているのが普通なのか・・・
ギョロリ・・・
被り物の目に当たる場所が、パッと開き、大きな赤い瞳でフクの方を見た。明らかに普通の犬よりか比率の違う大きな目に見つめられ、フクは体をこわばらせる。明らかにただの被り物ではないソレに、フクは一つ、心当たりがあった。
(確か、昔、流行ってたやつ・・・)
記憶の中でソレが『何』であるか思い出そうと急いだが、目の前の犬のお面に睨みを効かせているせいでなかなか集中できない。赤い瞳の奥の真っ黒な瞳孔から目を外さないように、こわばっていた体にさらに力を入れた。
(大丈夫、多分、フクのことは見えない、ハズ)
ジキルが気がついていないのならば、おそらく、あの犬の被り物も反応することはない。
もう一度落ち着こうと、大きく息をしたときだった。
「げふっ」
『!』
思わず出てしまった、ゲップに下を向いて口を押さえた。うっかりさっきの人形の『指先』が出てきそうだったのを、どうにか喉奥に引っ込めた。
(さっき食べた『モノ』が・・・ちょっと食べすぎた!)
フクは満腹になることは少ないのだが、ここまで短時間で色々ありすぎたのだ!
視線がこちらに向いている気がする。穴が空きそうなほどの視線に、ゆっくり上を見上げると、キョウ、被り物の犬、いや、ジキル本人の目がフクを捕捉していた!
突如、犬の被り物が歯をむき出しに、フクを追いたてるようにギャンギャン吠えた。
「!」
「⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎ !⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎!!」
同時にジキルがフクを指さして、何かを言っているようだが、犬が喚いているせいで聞こえない。だがそれでもフクの疑念は確信に変わった。
(こ、この人、フクが見えてる?!)
ジキルの指先は間違いなくフクの顔の中央を指している。目と目の間に指先が置かれているために、眉間がぞわり、と気持ちが悪い。
おそらく、犬がフクを感知してしまったために、ジキルもそれに釣られて気がついたのだろう。
フクは慌ててキョウの影に隠れたが、時すでに遅し。キョウが間に割って入ってくれているが、ジキルと、ジキルが被っている犬はフクを今にも飛びついて噛み殺さん勢いだ。
あとで思い出したことだが、犬は視力はそれほどではないが、鼻がとても効く。息を顰めていた獲物が少しでも尻尾を出すと、地の果てまで追いかけるという。だとすれば、このままここにいても事態は、収拾のつかないことになる。
ジキルがフクに向かって手を伸ばす。フクの目には、ジキルの右の手のひらは、フクの顔に蓋ができるほど大きく見えた。
「イヤッ!」
フクは手のひらを避けて、子供が通れるほどしかない大人の足の隙間を、難なくすり抜けた。
(とにかく離れなきゃ!)
フクは部屋の外に向かって、かけだした。このまま屋敷の外に出て、あとでキョウと落ち合えば・・・
そう思っていたが、実際のところ現実は優しくない。
フクは首に縄でも掛けられたかのような衝撃がかかった。「ッエ」とのどの奥からまた、何かを吐き出しそうな掠れた音が出た。
(何度も首に衝撃を与えないでほしい!今日で三回目だよ!)
たとえ言ったところで、今ここでフクの言葉がわかるのは、キョウだけなのだが。今はそれどころではない。
ジキルがフクのパーカーのフードを掴んでいるせいで、逃げられないのだ。キョウもどうにか解放しようとジキルの腕を掴んで離そうと努力しているが、パーカーにはジキルの腕に加えて、あの被り物の犬の顎が、頭から腕まで伸びてパーカーに食いついているのだ。これではどうやってもフクを離すことなんて無理だ。
「はなっ・・離してよっ!」
犬は食らいついた肉を引きちぎらんばかりに、フクとキョウを右、左と大きく振り回す。その度に
「ビッ、ビリッ」と嫌な音が後ろから響く。それが自分の服がちぎれる音であるのに、フクは顔が青ざめる。
(やめてよ!キシ姐がくれたフクなのに!)
大事な一張羅なのだ。元の世界に帰ったとき、彼女がどんな顔をするか・・・想像もしたくない。
「もうっ!」
これ以上、ジキルの思い通りにするべきではない!
フクはフードを掴まれたまま、ジキルの腕についた犬の顎を思いっきり握り返す。
みし、と犬の顎が軋む音。
フードがマフラーのように巻き付いて顔半分が煩わしいが、気にしない。
キョウと、犬の顔は、フクが動いたことに、虚をつかれたようで、目を見開いていた。フクは思い切って腕に力を込めて、そのままジキルの腕を背中で背負うように、反対方向へ投げた。
「⚫︎⚫︎⚫︎!??」
「わ!」
ジキルの腕にしがみついていた、キョウも一緒に投げ飛ばされたが今は緊急事態だ。気にせず思い切り、地面に引き摺り込むように身を低くして投げた。同時にフードを噛みつかんでいた犬の顎も剥がれた。
大人2人を小さな体のフクが、放り投げたあと、ジキルの野太い悲鳴と共にゴン、と鈍い音が鳴った。キョウは受け身をとれたようで、倒れたジキルの横で右手をついているが、フクの方を地面から頭を離した状態で見ている。
フクはジキルについている被り物の犬を見た。猟犬のように険しい顔つきだったその被り物は、ジキルが気を失った影響か、原型を留めることができずに輪郭があやふやになっている。ふにゃふにゃとスライムのように湾曲に歪んだその形は、犬なのか、アメーバなのか、もうわからない。何の根性か、三角の耳だけは頭頂部に二つ残しているのだ。
だがそれもすぐに溶けてしまった。
被り物は雪が溶けるように、だが風呂の水が栓の穴に吸い込まれるようにジキルの口、目、耳に吸い込まれていった。犬は砂のような黒煤になってジキルの中に吸い込まれていった。ジキルの顔色はとても悪く、キョウの人形よりも死体のようだった。
その様子を見てフクは確信した。
(やっぱり・・・)
このような状態の人間を、フクは見たことがあった。
いつだって思いやった人を苦しめるソレは、甘美に満ちていて、糖蜜のようにとろとろと舌にこびりつく。
きっとそれを、人は『呪い』と呼ぶ。
◼︎
ジキルの状態が思った以上に、手遅れな状態であることをフクは理解した。
「その人、もう長くないねぇ」
ジキルの容態を見ていたキョウが、フクの顔を見てからひどく驚いたような顔をする。フクからしてみれば、ここまで顔色が悪いと死にかけ一歩手前の人間であることは確かだし、呪いも人に死を与えるようなものであると考察できる。あの犬に化けた黒煤は、純粋にジキルを呪うためにできたエネルギー体だ。
フクが『黒煤』と呼ぶソレは、二種類ある。一つは誰かが残した痕跡であること。それを「感情のオーラ」や「邪気」と呼んだりするが、結局のところ誰かの廃棄物だ。それから鬼とか妖魔とか生まれたりするが、それは置いておく。
そしてもう一つは、誰かが自発的に使うためのエネルギーのことだ。陰陽師とか、魔法使いは「法力」とか「魔力」とか区別したがるが、フクにとってはどれも同じだ。誰かを傷つけるための燃料でしかない。
フクが好むのは前者であり、霧の中で出会った神や地獄でうろつく亡者にだ。術師が黒煤を使った呪いは、実に淡白で、味付けされていない人工肉にすぎない。さっきキョウがキョンシーたちを操るために使った術を喰ったのは、緊急事態だったのと、キョンシーの味を確かめるだけのつもりだった。
(美味しくなかったけど)
だからこそ、ジキルにかけられた『呪い』にフクは歓喜した。
誰かが、自分勝手に、ジキルを恨んで死に追いやっている。そんな「呪い」をフクはあの犬から感じ取った。
(どんな味がするんだろう・・・って違う違う!!)
そんなことを考えて、フクは口はしに滲み出ていたよだれをゴシゴシと吸い取った。基本的に食いしん坊なフクは、これまで味にはそこまで頓着しなかった。だが、異世界(ここ)に来てから、あの黒い神やジキルのように、翼や犬のように形を具現化するまでの黒煤に興味を強く持ち始めていた。
(もしかしたらこの世界の煤は、向こうの世界とは違うのかもしれない)
「フク、これで拭いてくだサイ」
フクが異世界の黒煤に思いを馳せていると、キョウがフクに綺麗に折り畳まれたハンカチを差し出している。それに気づいて、おずおずと受け取り、言われた通りに口を拭いた。
人のもので自分のよだれを拭くのは気が引けて、なるべく汚さないようにハンカチの端、角でそっと触れるように拭いた。
拭き終わった後、ハンカチを両手で持ってキョウに返した。キョウはそれを受け取ると、胸ポケットにしまう。
「フク、彼を救うにはどうしたら良いですか?」
「え?」
キョウが丁寧な日本語でフクに問いかける。発音に何の違和感のない日本語だ。
キョウを驚かせていたが、今度はフクが驚く番になった。
(救う?なんでフク?)
フクは自分がどうしてキョウに求められているのか全くわからなかった。ジキルとは面識もなければ、さっき自分に噛みついてきた。
「ジキル様はご存知のように呪われています。フク、『座敷童』であるあなたなら、この呪いを払うことはできませんか」
「 」
言葉が出なかった。血の気を引くような感覚が再び、フクの背筋に走る。
キョウがフクに望んでいたのは『座敷童』の特徴である、「無病息災」「厄除け」をもたらす力だ。座敷童というのは、家に富や福をもたらすということは、そこに住む人にそれを与えるだけの力を持つ。それゆえに彼らを囲もうとする人間は後をたたない。だが、その『座敷童』の落ちこぼれである、『ざしきわらし』のフクができることは、「食べる」こと。しかも中身を分けることもできず、その肉まるごと・・・
ジキルの頭ごと食べてもいいのなら問題はないが、「助ける」となると話は別だ。
「その、ふ、フク(ぼく)は・・・」
一応、『伏喰童子』時代の力である、どんな状態でも黒煤を食べる「食指」の力は使える。それを使うことによって、「厄除け」の役割はこなしてきた。だが解呪など、術に詳しいわけでもなければ、それがどういう特徴持つのかもわからない。
「それに、もし彼を救うことができなければ、君は家を失いマスよ」
「え?」
突然、キョウの喋り方がまた元の変な発音に戻る。だが、それよりも・・・
(家を失う?何で?)
「当たり前でしょう?この家の主人はこの、ヘンリー・ジキルです。家主のない家を守って何になりマスカ?」
「ミャっ?!?」
突然の正論にフクは戸惑う。
それはそうだ、キョウはこの家に住み込みで雇われているだけで、主人ではない。主人あっての家なのに、その主人を亡くして仕舞えば、『ざしきわらし』としてなんの意味があるだろうか。
フクは再びジキルを見た。彼の顔色は先ほどよりも悪く、呼吸もよろしくないリズムをとっている。持って数日、最悪今夜に頭を打ちつけた衝撃で・・・そんな理由であの世行きになるのではないだろうか。そう思うと、ますます自分の状況に切羽詰まる。
仮にジキルが死亡したとすれば、キョウは少なくとも自分に手を貸さないだろう。貸したとしても、キョウほどの実力のある術師だ。フク程度の小妖怪を出し抜く方法なんて、星の数ほどある。この世界に来てから、数時間しか過ごしていないフクが他の家に行って生活・・・他の小妖怪にいじめられる気しかない。
意外にも自分の状況が危機的な状況にあることに気がついて、フクの顔は青くなったことを感じ取った。フクはギギギ、とキョウの方を見た。
彼は困ったような笑顔を浮かべているが、彼の術師としての能力を鑑みるにおそらく秀才タイプの実力者なのだろう。フクの正体の半分を掴んだり、フクの動きを封じる陣を書いたりとその実力を見せている。そんな彼が、フクに「助けて欲しい」というのは、初めこそ、また別の罠かと思った。
キョウはフクを襲った、しかし、なぜかそこに悪意を感じなかった。
だからフクは、彼に食欲がわかず、襲わずに様子を見ることにしたのだ。彼の目的が「ジキルを助けること、呪いから解放すること」となると、それも納得できる。そもそも悪意なんてなかったのだ。
だけど。誰かを『救う』ことなんて、今までフクは一度たりともできたことがない。
この千年間、誰も・・・
「ご、ごめんなさい」
「・・・え」
フクは目を伏せて、キョウから目を逸らす。フクが謝ったことで、彼がどんな顔をしているのか見ることができない。
『罪悪感』
今、フクを襲っているのは、目の前のキョウでも、犬の化け物でもない。フク自身だ。助けを求める目の前の人を救えないと諦める、フクだ。
「ふ、フク、フクはね、あの人を助けることは出来ないの」
絞り出すようにフクはキョウに言葉を返した。
「理由を、聞かせてもらってモ?」
「ふ、フクは普通の、『座敷童』じゃないの・・・、ただ煤を食べるだけの、落ちこぼれの『ざしきわらし』なの」
「『煤』?」
「みんなが『邪気』とか、『嫌悪感』とか呼ぶやつ、黒いもやのこと・・・キョウさんだって人形さんについているでしょ」
「そうなんですか?」
キョウが意外そうな顔をする。それもそのはず、『黒煤』と呼んでいるのはフクだけで、彼以外のものは、オーラとか色など、もっと別の見え方をする。さらにいえば、キョウのように肌で感じたりするだけで、見えない術者だっている。
「僕は確かに、黒煤食べることできるけど、でも、食べてるだけじゃ、人は幸せを感じてくれなくて・・・、『座敷童』は幸運や財力とかの富を渡さなきゃ、なのに、僕、そんな力無くて・・・みんなに馬鹿にされて」
これまでたくさんの家を渡り歩いてきた。部屋の隅にある黒煤を齧ったり、時にはその家の厄災になりかねない悪鬼を食べたりして守ってきたこともある。だが人というものは、強欲であり、飽き性だ。何もない平和をありがたがるどころか、刺激のある生活を求め、もっと上の富を要求する。初めこそ、喜んでもらおうと、フクだって『富』を運ぼうとした。だが、黒煤を食べていることで、誰からも避けられているフクに、力を貸すものは誰もなかった。当然、「福の神」だってこない。
「ひ、人を救うなんてこと、フクはできたことなんてない・・・。ジキルさんについた呪いだって・・・」
「・・・・・・一つ、質問いいですカ?」
ずっとフクの話を何も言わずに聞いていたキョウが、口を開いた。薄く開かれていた目は、しっかりとフクを捉えている。
フクはふる、と体をこわばらせた。
「『呪術』、『呪い』単体なら君は対処は可能ですか?」
「えっと、ジキルさんの体の中のやつは・・・」
「もし、それが外に出て、呪いだけになったら、君はそれを食べれますカ?」
「それなら、できる・・・でも」
「じゃあ、問題ないデスね」
「え?」
にっこり、とキョウはフクに笑顔を向けた。
「君に、何があったのか知りませン。ですが、私が必要としていたのは君のように、『呪いを消滅させる存在』、運気は二の次デス。あの強力な呪いを消し去れると言えるぐらいデス、君は十分強い、だってさっき私とジキル様をいっぺんに放り投げたんデスヨ」
「それに」とキョウは付け加える。
「それに・・・あの霧で君を拾えたのも、偶然ではナイ。君は私の力になってくれますよ」
「そうかな・・・」
「もとより、ダメもとなので!」
「ダメな気がしてきた・・・」
「やっぱり、自分は座敷童向いてない」と涙目で、キョウから目を逸らした。人命がかかっているのに、導師らしからぬ、この楽観さは一体なんだろうか。
「大丈夫デス!こう見えて私、人を見る目はあるんですヨ!」
(それ、フクを当てはめても大丈夫な目?)
ニヤニヤと胡散臭かった笑みが、だんだん気持ち悪く感じるようになってきたフク。血の気の引いたヘンリー・ジキルだけは、険しい顔で、今にも飛び上がって牙を剥いてきそうで恐ろしかった。
だが、この「ヘンリー・ジキル」が、それから目を覚ますことは、なかった。
ヘンリー・ジキルを彼の部屋のベッドに寝かした頃には、外は薄暗くなっていて、異世界でも夕方というものがあることに、フクは感動した。
いつだって夕方は、色鮮やかで、魔の力を昂らせる夜の蕾を開かせる時間は、心躍る。
だが、自分の置かれている状況を思い出し、ため息をついた。
(フクは、呪いを解くことはできない・・・ならばあの犬の被り物をつけた人を探すか、呪いの元を食べれば・・・)
自分ができることは、あの黒煤(犬の姿)を食べることだ。
だけど、フクは自身が万能じゃないことを、よぉく知っている。特に食事のタイミングは、いつも彼が呪いを食べる瞬間に、『自分に注意が向いていないこと』が必要なのだ。
誰だって、自分を襲ってくるモノを食べようと思わない。
「フク、ジキル様についている呪いですが・・・見たことがあるというのは本当ですカ?」
「うん・・・一族を根絶やしにできるから、一時期流行ってたことは覚えてる」
「なぜ、そんなものが、この世界に??」
「知らない。でも、なんてモノだったか思い出せない」
もう、関わることもないだろうと、たかを括っていたのだ。
お釈迦さまだって、「あんな可哀想な禁術、忘れた方が世間のためだ」と言っていたのだ。
(忘れるに限る、はずだったんだけどなぁ・・・)
こんな状態になってから、後々困ったことになるんだ・・・。
「あまり時間は残されていません。ジキル様の容体は今は安定してますガ」
ちら、とキョウはジキルの部屋の扉に目線を向ける。
あのあと、キョウとフクはジキルを部屋まで運び、彼のベッドに寝かせたのだ。
部屋は簡素な設備で、ベッドと、本を読んだりできる程の、シンプルな書きもの机しかない。
ベッドにジキルを寝かした後、フクとキョウは部屋の中で小声で話し始めた。
「ここ一ヶ月で彼の精神は、目に見えて不安定になりつつありマシタ。ですが、このように暴力に出ることは一度だって、ありませんデシタ」
「呪いの進行って、同じくらい悪くなるんじゃなくて、徐々に強度を上げていくから・・・もしかしたら、もうあのジキルさんって人は、呪いにとっては『食べ頃』なのかもね」
「・・・つまり、比例ではなく、指数比例ということですカね」
「なぁに?それ?」
「いえ、とにかくジキル様に残された時間はほとんどないことは変わりませン。なので術の方はわたしが解析します」
「ほんと!?」
「これでも術師の端くれです。得意ではありませんが、封じることぐらいはできましょウ」
思いがけないキョウの提案にフクは目を輝かせる。
「ですが、術の発生源、発生理由の対処は、あなたの方が得意でしょ?」
「ああ・・・うん」
フクは再び、頭を抱えた。
人命救助とはいえ、フクが自ら動いて直接人を助けるなんて、初めてだ。疫病神を食べることはできても、人の中にいる病魔は腹を割くか、他人に取り憑こうとするときに捕まえるしかない。パンの中のカレーを食べようと思ったら、パンごと齧った方が手っ取り早いのと同じことだ。ならば普通に人間の病院へ行って薬をもらったほうが、病魔に犯された人は良いに決まってる。
フクの「ざしきわらし」の、それも落ちこぼれの力なんて、その程度でしかない。
だが、ジキルの呪いをどうにかしなくちゃならない。住処確保のため、家を守るためにも、このかた(ジキル)を守らなくちゃいけない。
フクはキョウに向き直った。真っ直ぐに見つめるフクに、キョウもまた、細い目をしっかりと開いてフクの言葉を待っている。
「まずは、ジキルさんについて教えてくれる?」
キョウはフクの言葉を待っていたと言わんばかりに、頷いた。
「わかりました」
ヘンリー・ジキルという人物は、品行方正、非の打ちどころのない町の頼れる薬学の研究者だった。「だった」というのは、もちろん今は違うということだ。
彼は十五年前に、ある女性を妻として迎え入れた。奥方のエリス・ジキル様は薬学に精通しており、ともに薬学で大学を専攻していたヘンリー・ジキルとウマがあったようだ。夫婦2人で薬を研究し、旦那であるヘンリーの方は軍の研究職についた。そして結婚から五年後、エドワード・ジキルを出産した。
何もかも順調で、幸せな家庭を築いている、はずだった。
エリス・ジキルがエドワードを出産時の肥立が悪く、そのまま死亡した。それから残されたヘンリーとエドワードは2人で、この屋敷で暮らしていた。だが、現在から半年前にエドワードが失踪した。行方不明になった後、この世界の警察に捜索を依頼したが、いまだに進展はないらしい。
そしてエドワードが失踪してから、ヘンリーの様子がおかしくなっていった。毎晩叫び、狂ったように庭先で暴れ回る姿を見かけるようになった。
ある時には「人を埋めるところを見た」という、近隣の住人が噂を立てるようになった。
「そして三ヶ月前に、わたしがこの世界にやってきて、ジキル様が死体を埋めるところを出会してしまいました」
「ナイスタイミングー」
キョウは「いやあ、それホドでも~」と頭を掻いて照れたそぶりをする。
(「褒めてない」とか言わないからね)
「ジキル様には、黙っておくのを条件に、埋めてた死体を譲ってもらうことと、住み込みの職をお願いしまシタ」
「・・・」
(可哀想に、ジキル様)
よりにもよってこの、胡散臭い導師に見つかったのだから。
それはさておき、キョウさんが知っている情報から、ジキル様がおかしくなったのは半年前、そこから殺人を犯している。これならば呪われていてもおかしくはないのだけれど、呪いはあくまで方法だ。つまり自然発生したわけではなく、生きた「誰か」が術をかけたのだ。
でもなぜ?
「殺された人って、誰かわかっているの?」
「身元ですか?ならばわかりますよ。この屋敷の使用人、十人です。君に食べられちゃいましたがね」
「『食べた』?僕が?」
(ぼくはこの世界に来てから、人を食べた覚えがないけれど。)
フクは首を横に捻る。右に、左に、そしてもう一度右に首をゆっくり曲げてみたが、フクは人を食べたりしたことなど、なかった。
「フク、私が手がけた人形のお味いかがでしたか?」
「うん?あんまり味しなかった・・・あ、そういえば」
フクは、キョウに襲われたとき、思わず『食指』で人形を口に入れたことを思い出した。
そう、フクは人形を、食べたのだ。
すでに食べてしまった・・・。
「ああ」
そういや、あれらの材料って・・・
フクは遠い空を見るように、部屋の角を見た。こっちの方向が、キョウさんの部屋だったな。
「あれら、全部掘り返すの、大変だったんですよ」
ふっ、と笑みを浮かべるキョウは、どこか寂しそうだ。
(そうか、あれ食べちゃったんだ・・・。そうか、使用人さん達か・・・)
「キョウさん、フクが食べる系の妖であることわかってるね・・・」
僕は聞こえないように、そっとつぶやく。
「はは、ついでにただの『ざしきわらし』じゃないことも、・・・正体も気づきつつありますヨ」
「わあ、怖い・・・」
いつの間にか後ろにいて、目線を合わせて囁くキョウさん。
(やっぱりこの人怖いな・・・)
この短時間で、着々とフクの正体を暴きつつある。中国の導師は伊達じゃない。おそらく敵に回さない方がいいに決まってる。さっきまで、お菓子でフクに命乞いしていたのが嘘のようだ。
出そうになった涙を落ち着かせて、フクはジキルの寝室を見渡す。
ジキルの部屋は寝室のベッド、そしてフクが寝れそうなくらいの、小さな書き物机が一つ。
書き物机には、メモらしきものが置いてあって、机の上に乱雑に置かれて、床に二枚ほど落ちている。そのメモに何かあるかもと、フクの背丈ほどある椅子にのり、メモを解読してみる。が、やはりこの世界は異世界だ、フクには文字の意味が全くわからない。
「どうかしましたか?」
机についてきてくれたキョウさんがフクの隣から顔を出す。
「うん、ヒントがあるかなって」
これがゲームなら、こういう机の上にヒントが残されていたりするけれど、うまくはいかないものだ。キョウも訝しげに、眉を八の字にしてみている。
「フク、読めないや。他のところにいこ」
「『子供』『死体』『蘇生』・・・うーん、きな臭いですね」
「読めるの?」
諦めてたところに、キョウが隣で解読していた。
(そういえばこの人、さっきもジキルさんと話をしていたっけ・・・というか)
「キョウさんどうしてこの世界の人とお話しできるの?」
キョウがいくら語学学習が得意と言っても、異世界の言葉だ。三ヶ月で、仕事もしながら、ここまでマスターできるものだろうか。
キョウは、はっと目を開き、苦笑いを浮かべながら、フクから目を逸らした。
「えぇっと・・・」と言葉を詰まらせているあたり、すごく言いづらいことなのだろう。
「わたし、ジキル様に死体を要求したと、言いましたよね。あの死体の頭の中の海馬というところを取り出して、わたしの」
「待って、やっぱり聞かない」
フクは両の手の平をキョウに向けて、言葉を静止した。と同時に、キョウのような「死体使い」が忌み嫌われることも、なんとなくわかった。
人は、死んだ後もその尊厳を守ろうとする。それは彼らが一生を生きたことを敬意を示すとともに、埋めたり、燃やしたりすることで、生きた人を慰めたりするためにある。
もう、死んだその人を悼んだりしなくても良いのだと。
(キシ姐とお釈迦さまの受け売りだけどね)
フクはそれを教わっても、共感を得ることは全くなかったが、それが人に嫌われることは知っていた。だからキョウが「カイバ」と「頭の」とか言い出したあたり、聞かない方がいいと思ったのだ。
どう考えても、フクのお腹が空くような内容だった。
(でも、キョウさんをみても『食指』が動かないんだよね)
どんな相手でもその匂いから動いてしまう、フクの指。どんなに隠しても、フクが制御しても、震えてしまう彼の『口』は、神にだって容赦はない。
だからこそ、キョウには興味が惹かれる。彼がどうしてここまでうまくフクを『誤魔化せる』のか。
(食べたらお腹壊しそうだからかな)
実際に、壊したことはないが、もしかしたら、とフクは思う。
「今、失礼なことを考えてましたヨネ?」
「キョウさん食べたらお腹壊しそうって思ってた」
「ハハ、光栄デス」
もしも機会があるのなら、フクは容赦なく動くのだろうか・・・?
(いや、今はよそう)
今はジキルだ。キョウに対して、食指が動きそうなのを抑えて、フクは話を続けた。
「キョウさん・・・キョウさんが、死体を・・・使って言語とか知識を得ているのはわかった。だから続き、『子供』とか『死体』『蘇生』で思いつくことってなに?」
「わたしはキョンシー使いですからね、『死体』と『蘇生』だけならいくらでも、ただこの屋敷での『子供』でしたら、一つしか思いつきません」
「ジキルさんの息子さん?」
「はい。わたしも彼の情報がほぼないので」
「全く?ここに三ヶ月も住んでるのに?」
フクは頭を傾げた。
「ええ、わかっているのは、この屋敷の人達は、あまり彼のことを好んでいなかったようです」
「・・・それってさ」
「はい」
夕日は沈み、あかりを灯さねば何も見えない部屋の中、2人は静かに部屋をでた。この部屋にはなんの手がかりもなかったからだ。
「エドワード・ジキルこそが、呪いの根源ではないかと・・・」
フクとキョウは屋敷の中をくまなく探索していた。キョウはもうほとんど慣れ親しんだ屋敷なので、フクを抱えて屋敷のあちらこちらを歩いている。
キッチン、使用人部屋、風呂場、トイレなど、一見関係のない場所まで、手がかりを探した。
だが手がかりらしい手がかりはなく、捜査は難航していた。
「もしかしたら、外の物置小屋に死体や、凶器が残っているのではないかと、フクのドラマの影響で屋敷の外に隣接している物置小屋を見に行った。
小屋は普通に整頓された倉庫として使用されており、地面は土だった。床下、地下の秘密の部屋なんてものは、もちろんない。
呪いの正体がエドワード・ジキルの怨念ならば、彼の遺体を探す必要がある。怨念が自分を殺した屋敷の住人への復讐だったとしても、キョウ自身は彼を救わねばならないのだ。
二人は物置小屋から屋敷に戻る途中、わかっていることを話し合っていた。
「エドワードくんの死体は見つからなかったんだよね?なら、ここに勤めてた使用人さん達なら知ってるんじゃないかな?」
「いいえ、それが全く・・・知っているならば、わたしが放っておくわけないでショウ?」
「え、人形にするの?」
フクは嫌そうに顔を顰めた。フクだって死体といえど、子供にまで手を出すのはいただけない。彼らはフクにとっては、大事な遊び仲間なのだ。
だがキョウも、子供を扱うのに嫌悪感を抱くのは、フクと同じなようで、彼も細めた目にさらに力を入れて、整った顔の、眉間に皺を寄せる。
「私は子供の人形は作りまセン。趣味が悪すぎマス!ちゃんと体を綺麗にして弔うって意味ですヨ!」
「ぷんぷん」と効果音がつきそうな、ほおを膨らませている。本当に彼の趣味に使ったことはないようだ。
「じゃあ、どこにエドワードくんの遺体があるんだろう」
「フクは、子供の霊魂とか見えたりしないのですか?」
「それが、全く見えない。ジキルさんについていた犬の被り物しか今の所見てない」
「え、何それ・・・」
「え?見えてなかったの?めっちゃくちゃ噛みついてきたのに?」
お互いがお互いの驚いた顔をみている。フクがよだれを垂らしていたのに、触れなかったのは、キョウにはあの犬が見えていなかったからということか。
「だとしたら、僕、ジキルさんをみて涎垂らしてた、ヤベーやつじゃん」
「実際、『ヤベーやつ』デスヨ、あなた」
キョウのツッコミを聞かないフリをして、犬の呪いについて考察する。
「あれがエドワードくんってこともあるかもなんだけど・・・なんで犬の姿で現れたのかわからないし・・・」
フクが犬の被り物について考察していたのを聞き、さっきまで考えていたことを、頭の中で横に置いて、一拍置いてからキョウは答える。
「・・・ここで犬が飼われていたということも、今までなかったようですし、エドワードくんにとって犬の形が力の象徴だったのではないでしょうか?」
「わかんない、まだ材料がない、から」
「そうですね、やっぱり残りの部屋に何か、あるのでしょうね」
ここで二人は屋敷の玄関にたどり着いた。相変わらず、重たそうな扉が2人を待ち構えていたようだ。
「あと見てないのってさ・・・」
扉を開ける前に、フクがキョウに聞いた。この屋敷で調べていない場所は、あと二つ。
「ジキル様の執務室と、子供部屋ですね」
ジキルの部屋と子供べやは、屋敷の二階に存在する。はじめに一階と物置小屋を調べたのは、気を失っているジキルがいつ目を覚ましても、駆けつけることができるように近場を回っていたのだ。屋外の物置小屋は、ジキルから離れているようで、実は屋敷のそばにあり、ジキルの部屋からとても近かった。
そして2階を後回しにしたもう一つの理由、ジキルの執務室が屋敷の部屋の中で一番広く混雑していたのと、そもそも子供部屋がどこにあるのか、キョウも知らなかったのだ。
この数ヶ月、キョウはこの屋敷に拠点を置いているので、この屋敷の構造はほとんどわかっているつもりだった。だがどの使用人の記憶を覗いても、エドワードがジキルの執務室から離れることがほとんどなかったので、本当に子供部屋があるのかすらも怪しい。
「一階になければ、二階に子供部屋があると思うのデスガ・・・」
「今、この屋敷のお掃除してるキョウさんが知らないのなら、多分隠されているよね」
2人は階段を使って、二階へと上る。途中の階段の踊り場は大きな窓がはめこまれており、下から見上げると月灯りで照らされるステージのように見えた。
今夜は月が輝く、美しい日で、ほとんど円に近い形だった。
「あっ」とフクが、何か気がついたようだ。キョウは足をとめ、「どうしましタカ?」と聞き返した。
「ジキルさんって狼男って説ないかな?もうすぐ満月っぽいし、だんだん暴れてくる理由もわかるよ」
「残念ながら、満月は昨日でしたヨ。狼男なら、すぐに教会に引き渡せますし」
「『教会』?この世界にあるの?」
フクは意外にも、この世界に教会なんてものがあるのかと、驚いた。先ほど天使の絵があったのだから、神を祀る神殿なんてものがあってもいいが、教えを広める場所があるのは元の世界だけかと思っていたのだ。
キョウは二階を目指して階段を上りながら、教会について、腕の中のフクに説明する。
「ええ、ありますよ。この世界には神が一柱・・・「ユニット」というこの国の創造神が
世界を作る際に決めた取り決めと、豊かに生きるための教えを広めています」
「この国を作った人のことなんだね。どんな神なの?」
「ありきたりなものです。全知全能の神で、真っ暗な世界だったこの場所を一人で築き上げたという神話があるだけです」
「すごいね!これが終わったら挨拶に行かなきゃ」
どんなものにも神が宿る国にいたフクは、生まれたての神、妖怪、たまたま天界に来ていたよその国の神にはフレンドリーに、キシと共に挨拶していたものだ。自分を知らない神というのは、色眼鏡なしにフクを子供扱いしてくれるので、友達作りにもってこいなのだ。
(まあ、周りに警告されて、いなくなっちゃうけど・・・)
異世界の、それもこんなに幻想的な世界を生み出した神に、フクは一度謁見して、話を聞いてみたいと思ったのだ。
頬を赤らめて興奮するフクをよそに、キョウはつまらなそうに警告した。
「やめておいた方がイイですよ、その「ユニ神」は、よその世界からきた異形を「悪魔」として敵視しているみたいでシテ・・・見つかり次第、討伐天使に串刺しにされマスヨ」
「え」
思った以上に鎖国的だった神に、フクは言葉が出なかった。
(何?『討伐天使』って・・・)
フクの国は、そこらに落ちている石にすら、時間が経てば神として崇められるというのに、なぜよそから来ただけで、悪魔として討伐されなければならないのか。
「仮に、ジキル様の今の現状を、教会が認知して仕舞えば、彼も「悪魔憑き」として処分される可能性すらありマス。そうなって仕舞えば、私も検査されて「悪魔」として殺されてしまうデショウ」
「そ、う、なんだ」
だからキョウはジキルを病院に連れて行こうとはせず、フクを捕まえて問題解決させようとしたのかと、フクはようやく理解した。
「さて、執務室につきマシタ」
階段を登り切ると、玄関を見下ろせる吹き抜けがある。吹き抜けの天井から吊るされた、分厚いホコリの化粧を施されたシャンデリアを、キョウの腕の中から見下ろした。
吹き抜けの反対方向には、階段と、ジキル当主の仕事部屋である、執務室へと廊下が続いていた。廊下の片側は窓が4つ、等間隔に奥まで続いている。月明かりが廊下を照らしており、ランプの光など、微々たる灯りで存在感がなかった。
執務室の扉は一つ、大きな観音開きの扉で、使い込まれているのか、ドアの取手が片方だけ、ニスがすり減っていた。
フクは廊下を奥まで進んで、壁を叩いたり、手で凹凸を確認してみたが、特に変なところはない。だが、二階に部屋が一つ、それも扉は中央より手前側にある。廊下が部屋の奥まで続いているのに、扉がこれだけなのは違和感しかなかった。
(・・・これは、フクの予想が正しければ)
フクとキョウの二人は一緒に部屋に入る。フクは入ってすぐ右折、部屋の一番奥、廊下側から触れた場所の反対側に行こうとした。
フクは奥の壁について、コンコンと壁を小さく叩いた。
「あ、やっぱり。キョウさん!こっち、秘密の部屋があるよ!」
「なぜわかるンデス?」
「廊下の長さと部屋の長さが違うの!あと壁の音!」
フクはフンス、フンスと鼻息を荒くして、キョウに報告する。子犬が『とってこい』を上手くできたときのように、無邪気に目をキラキラさせている。ただやっていることが子犬ではない。
キョウは廊下の壁と、フクが叩いている壁の音をコンコン、と叩いてみた。確かに音が幾分か違う。目の前の壁、部屋の奥の壁の方がずっと薄いようだ。
「こっちニ?」
「あるかもね」
『何が』とは、聞かない。決していい物ではないことは確かだ。
フクがしゃがみ込み、壁の下の壁板の至る所を押したり、引っ掻いたりしている。そしてようやくフクのお目当てのものがあったのか、「あった」と呟いていた。
ばすっ、ガラッ
フクのいるところから、鈍い音が響き、何かが転がる音が聞こえた。フクがにっこりと得意げな顔でキョウを見ている。
「隠し、扉、デスカ」
「むふふ・・・」
フクが見つけた隠し扉は、六十センチ平方の広さで、キョウが頑張って入れるくらいの大きさの抜け穴だ。
フクと初めて出会ったときに、前は忍者屋敷にいたと言っていたことをキョウは思い出した。手慣れた扉の探し方に、「座敷童」とはやはり家に強い妖怪だと感じる。
(好奇心が旺盛というか、怖がりな割には度胸があるんですよね・・・)
キョウは楽しそうに扉を開けるフクに、ほんの少し和む。
だがフクとキョウはそこからふわっと漂う、嗅ぎ慣れた腐臭に顔を顰めることになる。
「・・・ありますネ」
口を引き攣らせているキョウに、フクは対照的に目を大きく開いて、隠されていた部屋の奥をずっと見ている。彼には一体何が見えているのか、キョウは横目でフクを観察した。
(今度はよだれを垂らしていませんね)
ということは、彼のお眼鏡に適うものではなかったのだろうと思うが、彼の瞳に映し出しているのは一体、何なのか・・・。
「この部屋にあるね、呪いの根源」
フクがつぶやいた。そしてそのまま中に入ろうと、狭い扉に頭頂部を向けた。
「私が、行きます」
キョウは先に行こうとするフクを抑えて、先に秘密の部屋に潜り抜けた。入れば、天井は執務室と変わらないようで、キョウの背でも余裕で立てる。懐からあらかじめ持っていた呪符に灯りを灯すと部屋を一望した。
本、本、机、体、首、屍蝋化・・・
「素晴らしい、殺人現場ですね」
部屋は三畳ほどのスペース。その中に机と分厚い本が収まっている本棚が二つ分、そして先客が二人。それは成人男性と細身の女性、おそらく二十になったばかりか、若い女性の遺体だ。その二つが、狭い部屋なのに部屋の両端に離れて倒れている。
キョウは一番入り口に近い男の遺体から触れてみる。男の死因は頭部を鋭い刃物で切断、離れたところに乾いた肉がこびりついた頭蓋骨がもう一体の死体のそばに落ちている。落ちた場所のそばには女性の遺体。
こちらの遺体には全く損傷は見当たらない。それどころか、体がどこも朽ちていない。今にも目を覚まして、起き上がれそうなほど綺麗な体だった。
(死体の処理がされている?)
ここまで美しく遺体を保つのは、キョンシーを制作するキョウだからこそ、その管理と処理の難しいことを知っている。湿気の少ない場所といえど、複数の死体を放置すると湿度が上がり、結局痛みやすくなる。だが、彼女の顔は血の気が引いていて青白く、おそらく薬によって防腐処理と肉体の硬化処理をしていると考察する。
二人の簡単な検死を終えると、キョウは部屋に入る前にフクに頼まれていた、机の上のものをとりに行った。
「もし、机があったら、その上のもの持ってきて。多分ヒントがある」だそうだ。子供らしい、ゲームや小説の見過ぎによるものだろう。
「これは・・・」と言って、キョウは机のものを手に取って眺めた。机の上に置かれていたものはある程度手に取りやすいように、背表紙を立てて置いてあり、つい最近まで使われていた形跡があった。
机の上にあったのは、ペンとノート、そして数冊の医学書と薬学書。
キョウはすぐにフクが待つ部屋の入り口へと、机にあったもの全てを持って向かった。
「フク、これが全てです」
「うん、キョウさん、ここにあるもの、簡単に教えて」
字の意味がわからないフクに変わって、医学書と薬学書の題名をフクに伝える。
「『精神理論学』これは肉体と魂の結びつきについての本。『薬品生理学』これは・・・薬が体に及ぼす影響ですね、付箋には精神に影響を及ぼすものについてのページに貼ってあります。あと、『悪魔解剖』オカルトチックですが、この世界では『悪魔』は対抗すべき存在なので、発見されているそれらについてまとめた本ですね」
フクにわかりやすいように、比較的「優しい」表現で言ったつもりだが、少しだけ顔を顰めっつらにする。だが、フクもバカではない。わからないところを指をさしたり、内容について聞いてくるので、キョウも大量に並べられた単語をかいつまんで説明する。
そして満足したのか、フクは説明されていた医学書より、ずっと薄っぺらいノートを彼に差し出した。
「うん、じゃあこのノート、一番最後の日付、いつになってる?」
キョウは言われるがままにノートの最後の方からパラパラとめくっていく。すると、ノートの中盤のところに、つい最近に書かれたページが存在した。
日付は書きなぐられていたので、解読は難しかったが、その前のページと頻度から見て推測する。
「・・・昨日ですね」
「・・・・・・」
フクは何も言わなかった。ノートの中身を見るわけでもなく、心ここにあらず、といった様子でキョウがページを読んでいるのを見ている。
昨日の日付
おかあさま ごめんなさい
一昨日の日付
だんだん 怒号が 僕を 埋め尽くす
ごめんなさい、ごめんなさい、お父様 もう ゆるして
お母様を 許して
三日前の日付
外の化け物が、また庭を掘り返している。
一体何がしたいのか・・・
今日の月はやけに明るい。相変わらず、僕を睨みつけている。
遠くで悪魔の鳴き声が聞こえる。 警備隊が悪魔退治に出ているのか。
月は出たり、出なかったりしているのに、どうして僕の夜は明けないのだろう。
朝日を迎えたい。
・・・
一番最初のページ
新しいノートになった
屋敷にはいまだに、化け物がうろついている。
僕を見ると、狂ったように叫んで襲いかかってくる。
多分、もう四ヶ月は経っているのだろう。
屋敷には出られないいが、カレンダーの日付だけは毎日変わっている。
この世界はいったいなんなんだ?
お父様は、今も僕を恨んでいるのだろうか。 だからこんな仕打ちをするのだろうか?
この日記の持ち主は、子供のようだ。大人ぶった表現をしようしていたり、不安を紙に打ち明けるように書いている。おそらく見た目だけでいえば、フクと変わらない年齢だろう。
十歳から十五歳以下。大人がこれを書くには、筆跡の跡から見ても、丁寧すぎるような気がするのだ。仮にジキルのや、以前の執事長が残した筆跡は癖字と流れるようなレタリングが多用されていて、人に見せるわけでない文字は読めなくはないが、ぐちゃぐちゃとした印象だ。
キョウはこの日記を書いたのが、毎日書く生真面目さと、不安を押し隠せずに表現した文章から、誰によるものかわかった。そして同時に普通ならありえないような、この事件の真相。
(私の予想が正しければ、彼は・・・)
「キョウさん、なんて書いてあるの?」
待っていたフクが、少し退屈そうにこちらを見ていた。どうやらキョウが本を読んでいる間、退屈しのぎに本を立てて遊んでいたらしい。本を二つたてて、その間に橋渡しの本を載せている。
彼の集中力が、一般の人間の子供と変わらないことに、乾いた笑いが込み上げた。その様子に、フクは不満げだ。
「な・ん・て・書いてあるのって聞いているじゃん」
「ハハハ、すみまセン。これはエドワード様の日記です」
「え?」
「彼はまだ生きています。」
「そ、っかぁ!良かったぁ!」
フクは目を丸くさせてから、後ろにパタンと倒れた。子供なりに「心底安心した」と喜んでいるようだ。キョウはその姿を見て、こんな可愛らしくも恐ろしい化け物でも、安心することがあるのかと感心した。
だが、すぐにフクが反動をつけて上半身を起き上がると、キョウに詰め寄る。
「じゃあさ、じゃあさ、エドワード君はどこにいるの?」
「その答えを得る前に、先にあの人達が誰なのか、知る必要があります」
『あの人達』と言われて、真っ先に目を向けたのは、壁の向こうにいる首なしの男性の遺体と、女性の遺体のことだ。男性の方は儀式に使われた上に、腐敗が酷く、なんとかできたのが男女の判別だ。彼の着ている服から推測するに、この屋敷に勤めていた召使ではなく、ジキル家の一族の者と思われる。女性もまた、一介の召使ではなく、一見大人しい紺のドレスだが、布地には花の刺繍が薄くされている。
「キョウさんはこの人達知ってる?」
「いいえ、初めて見ました。召使はおろか、主人のご友人でも親族でもありません」
だとすると彼らは、一体何者なのか?フクは再び、頭を悩ませる。だがすぐにキョウが先に壁の向こう、ちょうど死体たちがあるところだろうか、そちらに目を向けていた。
【こちらに、来なさい】
彼の瞳が淡く、紅く光る。何か術を使ったのだろうか。ピリ、とフクの肌にも刺激が走った。フクが待っていると、思ったよりすぐに変化はあった。
秘密の部屋の奥から、ガタ、ガタッと何かがもがくような、物音が聞こえてきたのだ。
がた ガタガタ どちゃ、 ゴロゴロゴロゴロ・・・
どん どん ずり ずりずり ずりずりずりずり・・・・
秘密の部屋の入り口から、生きた人間であれば、しないだろう動き方に、フクは総毛立つのを感じた。
入り口には、体の曲がらない芋虫のように、足首の動きだけで、ずりずりと、部屋から出てくる男の体と、ボールのように転がる頭。それらが苦労して狭い枠組みの入り口から出てきた後から、綺麗な女性が膝や腰を曲げて出てきた。
「おお・・・」
「さっき検死をしていた時に、彼の服に手帳があるのを見かけまして・・・」
キョウはうつ伏せになっている、白骨気味の男の遺体の体に手を臆せずに突っ込む。絨毯でも転がすかのように、仰向けに体をひっくり返すと、そのまま遠慮なしに胸ポケットを弄った。
「ああ、ありまシタ・・・」
キョウはパラパラとページを開く、少し粘液で乾いたページに苦戦しながらも、だんだんと笑顔になっていくのがわかる。
その様子にフクは、顔を顰め、訝しむ。時々、キョウが「うんうん」とか「原來如此」とか中国語らしい言葉を呟くのを見ると、間違いなく真相に近づいている、が良い予感がしない・・・。
パタン、と手帳を閉じる。読み終えると、キョウは満面の笑みを持ち上げたのだった。
それは、ベストセラーの漫画を読み終えた時のお釈迦さまのように・・・
「フク・・・」
「何が・・・わかったの?」
恐る恐るフクが、目の前の糸目の青年に尋ねると、彼は弧を描いた口を薄く開いた。
「ヘンリー・ジキルさんの正体がわかりました」
それと同時に、フクの目の前に一枚の写真を見せる。
「これは?」
写真の中には、厳格そうな四十代くらいの男性が椅子に腰掛けて、座っている。下で寝ているジキルが歳をとると、こんな顔になるのだろうと思う。そして写真の彼ともう一人、人が写っている。
男のその横には、綺麗な女性が立っていた。その女性には見覚えがある、というか目の前にいる。死体の男性と一緒に出てきた、遺体の女性だ。
だが、写真の年齢よりも少し、幼く見える。
「この写真の男性、そしてこの死体こそが、ヘンリー・ジキルさんです」
「・・・・・は?」
「そして、写真の女性は奥さんのエリス様、そしてこちらの女性は彼女の妹様のガレッタ様です」
「????」
急に説明し出したかと思えば、この写真の人、そして死体が「ヘンリー・ジキル」で、写真の中の奥さんの妹が、目の前の女性と言い出した。
(いくら何でも突飛が過ぎる・・・)
「・・・急に人の名前出すと、よくわかりませんよね、ちゃんと説明します。ですが、その前に
飢えた生者の首を飛ばして作る呪いに、心当たりは?」
「 ヘァッ!!」
フクは呼吸の吸うのと吐くのを同時にしてしまったような、引き攣ったような音を喉から出した。
乱暴に踏み鳴らした足音に、呼応するように屋敷中にその音が響き渡る。
キョウはその足音の主がくる前に、足元に落ちている少年の片手を掴み、無理やり立たせた。そして自分の背後に回して、廊下側から一見して見られないように隠した。
本当ならば、正面から見えない執務机の下や、クローゼットの中に隠しておきたかった。だが部屋にあるのは、自分の背丈ほどの本棚と、上としたにも荷物の置かれたベッドくらいだ。彼の所持品と呼べるのが薬品と医療器具ぐらいで、他の物を合わせても大きめのトランクケースに収まる量しかない。
「フク、後ろへ・・・何があっても大人しくしていてくださいね」
「わかった」
フク少年が、ジキルに見つかるとは思わないが、先ほどまで泣きじゃくっていた子供を、怒り狂った男の前に出すわけにはいかない。
キョウは先ほどの戦闘を悟られないように、体についた埃を払い、息を整えた。背後にピッタリとくっつくフクは、キョウのジャケットをきつく握りしめた。
やがて、足音が自分の部屋の前でとまり、瞬間に扉を乱暴に押し開けた。パラパラと扉の枠組みから砂埃が落ちる。
目の前の男は「自分は気分を害されました」と言わんばかりに、部屋の中にいるキョウに詰め寄った。
「キョウ!さっきからうるさいぞ!何している!!」
聞き慣れたこの国の言語を話す目の前の人間に、キョウは半笑いで対応する。
「申し訳ございまセン、ジキル様。旦那様が心配されることは全くナク、部屋にネズミがでて驚いただけなのデス」
ガッ、ガッ、と床を踏み抜かん勢いで、キョウのそばまで近づくと、思いっきり拳を彼の頬に殴りつけた。
殴られたキョウは頬を抑えることなく、普段の困ったような笑顔でジキルをそのまま迎え入れた。だが、今のジキルがこんなことで帰ってくれるとは思っていない。
「黙れ!言い訳をするな!さっきからギャーギャーと喚きやがって!誰のおかげでこの屋敷にお前のような根無草のクズを住まわせてやっていると思っているんだ!」
ジキルは目の前のキョウに、唾を飛ばしながら喚いた。目の下の隈はひどく、ここのところ眠れていないのか、精神不安定で、少しの衝撃で簡単に燃え盛ってしまう。
彼の世話をして三ヶ月経つが、日に日に気性が荒くなっていく。この屋敷を勤め始めた頃は、落ち着いた青年で、若くして薬の研究者として務めるのも納得できるほど、実に明快で、理論立てて会話ができていた。それなのに今は、まるで別の人が着々と塗られていくように、暴言や暴力といった行為を増やしていった。顔も二十年は老け込んだかのように、目元のシワが目立ち、クマは黒くなっていた。
「おい!聞いているのか!キョウ!」
「アア、お赦しください、旦那様・・・次は気をつけマスので」
「次があるわけないだろ!お前の皮を剥いでやるからな!」
三ヶ月前ならば、このようなことを口走る人ではなかった。使用人に注意するときだって、論理的に説明してから注意していた。
それに、キョウに対して、そんな対応するべきではないことを、ジキルは覚えていないようだった。
三ヶ月という関わりしかない、キョウも流石にこの短期間の性格の変貌はおかしいと思う。なぜなら、彼との契約がなくとも、一般的な感性の持ち主のジキルならば、キョウに対してこのような言葉を使えないからだ。
「ん?」
ジキルは何かに気がついた。その視線を追うと、キョウの足元に行き着く。その視線に先にあったのは、フクだ。だが彼がフクを見つけることなんて、あり得ない。彼がいくら、カンが良かったとしても、『ただの人』が座敷童を認知できるはずがない。おそらく、キョウの足元から覗かせていたフクの視線を感じただけだろう。
そのことをフクだってそれをわかっているのだろう、ジキルとばっちりと目があう。だが視線が自分の方を向いていても変に慌てたり、喚いたりせず、じっと緊張した面持ちでジキルの方を向いていた。
ジキルは足元を睨みつけたかと思えば、眉間の皺を一層深めて、牙を剥き出しにした。
「なんだこのガキは!!さっき喚いていたのはこいつか!!」
『!!』
キョウは信じられない顔でフクの方を見た。フクもまた、同じく驚いた顔でジキルを見ている。
「キョウ!てめえ!一体何を連れてきやがった!」
「旦那様、・・・こ、これは、近所の子供なのデス。転んで怪我をしたから、介抱しただけなのデス」
「ふざけているのか!てめえ!」
だんだん、ジキルの言葉が荒くなっていく。だが視線の先はキョウではない。
ジキルの視線の先はフクだ!
彼は怒りのまま、フクに手を伸ばす。
「! フク!」
「!」
フクはキョウの言葉に反射で反応して、ジキルの手を躱して部屋の外へ走った。ジキルとは対照的に、猫が走るような静かな音だ、そして早い。先ほど、キョンシーたちを避けてキョウの元へ辿り着けたのにも納得できる。
だが少し遅かった。いくら早くても、ジキルの反射と腕のリーチがあったからか、部屋に出る直前にフクのパーカーのフードを掴んでしまったのだ!
キョウは咄嗟にジキルの腕を掴み、彼の腕を押さえた。
「おやめください!彼はほんの子供です!!」
「黙れ!黙れ!勝手に家にいれやがって!!こうなったら!」
キョウは半狂乱になっているジキルに、落ち着かせるのは無理だと思った。彼に危害を加えるのは忍びないが、後でどうとでもなる。とにかく、フクの安全を確保し、家から離れないようにしなければならない!
「どけ!キョウ!」
しがみつくキョウを振り払うために、拘束されている腕を左右に振る。その力は普段力仕事をしているキョウですら、簡単に振り解かれそうだ。
「イヤッ!」
キョウの背後で同じく体を振り回されていたフク。キョウがジキルを抑えていたのと、彼の足が支えられるように、伸ばしてくれていたおかげで転びなどはしなかった。だがそれでもジキルの力は凄まじく、フクの体はボールの中の水のように乱暴に揺れた。
「もうっ!」
我慢の限界が来たのか、ジキルの方を振り返り、き、と睨みつけた。そして、フードを掴まれていた手を、小さな手で包み返す。
「何、うをっ!?」
ジキルが途中で言葉をとぎったのも無理はない。ジキルの体はフクの体を支点に、放物線を描くように浮かび上がったのだ!
ジキルも「うわあぁ!!」と叫び、キョウも共に廊下に叩きつけられた。ジキルは頭部をぶつけたらしく、廊下に仰向けに倒れてから、ピクリもしない。
ジキルの腕にしがみついていたため、共に投げ飛ばされたキョウは、なんとか受け身をとれたが、先ほど打った背骨が痛んだ。
「び、びっくりした!」
フクは先ほどの興奮が冷めきらないらしく、頬を赤く染めている。はふはふと、息切れしているところを見ると、フクもそろそろキャパオーバーだ。
(無理もない・・・)
突然、この世界に連れてこられて、急に自分の身の危険に晒されたのだ。だが、ここでダウンしてしている場合ではない。
キョウは倒れたジキルの元へ行き、状態を確認する。脈を測り、瞼を開け、呼吸も聞いたが、とりあえず安静にしておけば大丈夫だろう。本当の医者ではないから、頭をぶつけたときの影響がどう出るかはわからないが、見立てでは差し迫っての命の危機はない。
「大丈夫、そうですね・・・」
ほっと息を吐く。
だが、ジキルの容体を見ていたキョウの後ろから、抑揚のない声が後ろから響いた。
「その人、もう長くないねぇ」
振り返ると、フクが笑顔でジキルの顔を眺めている。キョウがキョンシーと共に襲いかかってきた時と同じような、絶品料理を見るかのような恍惚としたその顔。
その口の端からは涎が滲み出てきていた。
◼︎
フクは部屋にジキルが現れてから、非常に困惑していた。
(ふ、二人が何を話をしているのか、全くわからない!!)
フクは改めてここが異世界であることを思い出した。さっきまではキョウがフクに合わせて日本語を話していたから、会話ができていたけれど、フクはさっき来たばかりの異世界人だ。ここの言語を理解できるわけがない!
異世界転移、異世界転生の主人公は普通に、異世界語を話してたけれど、あれは転移ボーナスというやつなのだろうか?サービスでつくタイプではなく?妖怪であるフクには、妖怪パワーでどうにかしろということか!
(食べることしか能のない『ざしきわらし』にどうしろと!?)
食べたら能力が開花するとかだったら、どれほど良かっただろう。この一千年間食べてもついたのは、「落ちこぼれざしきわらし」の悪評と噂だけだ。仮に「伏喰童子」の力を使ったとしても、今この状況でできることなど何もない。
(もっと本読んでおけば良かった!)
今2人が話しているのを、フクは字幕なしの外国映画を見ている気分なのだ。
(後でキョウさんに話の内容を聞くから良いとして、今はできることをしなくちゃ・・・)
フクはそっとキョウの裾の影からジキルを見る。背の高さはキョウよりも低く、体つきはちょっと痩せ型だ。服はぱっと見で普通のズボンとシャツと茶色のベスト、だが異様なのは体の至る所に革でできた頑丈なベルトが巻き付いている。
(縄で縛られてるみたいだ)
過去に見た、処刑場に連れて行かれる罪人たちが、体の至る所に鎖や縄で拘束されて身動きが取れないようにされていた。大体はすでに体力が消耗しており、おとなしく従っているのだが、死に際で暴れたときに取り押さえれるように、複数人で縄を引っ張って抑えるのだ。
フクはその後の死体から出たおこぼれを、もらいに行っていたのでよく知っていた。
(死体漁りの近所のカラスに次ぐ常連だったもんね)
ジキルの革ベルトの付ける位置は、それによく似ていたのだ。
ガーガーと喚き散らすジキルにフクは怯み、キョウの影にまた引っ込む。先ほどジキルに思いっきり殴られていたが、彼は気にすることなくジキルと会話を続けている。
フクは緊張した心を落ち着かせて、再度、ジキルの方を見た。
(!あれは・・・)
フクはジキルの肩から上に視線を向ける。
ジキルの顔は大きな犬のような被り物をしている。パグみたいに鼻先が潰れた、獅子舞のような被りものではない。黒く、大きな耳が尖り、鼻先がスッとのびた、狼のような頭がそのまま
乗っかったような被り物だ。それがデパートとかのイベントに見る着ぐるみの頭のようにスッポリと、ジキルの頭を覆い被さっている。
フクは一瞬、何かの冗談かと思ったが、キョウが気にしていないところを見ると、見えていないのか、それか普段から被っているのが普通なのか・・・
ギョロリ・・・
被り物の目に当たる場所が、パッと開き、大きな赤い瞳でフクの方を見た。明らかに普通の犬よりか比率の違う大きな目に見つめられ、フクは体をこわばらせる。明らかにただの被り物ではないソレに、フクは一つ、心当たりがあった。
(確か、昔、流行ってたやつ・・・)
記憶の中でソレが『何』であるか思い出そうと急いだが、目の前の犬のお面に睨みを効かせているせいでなかなか集中できない。赤い瞳の奥の真っ黒な瞳孔から目を外さないように、こわばっていた体にさらに力を入れた。
(大丈夫、多分、フクのことは見えない、ハズ)
ジキルが気がついていないのならば、おそらく、あの犬の被り物も反応することはない。
もう一度落ち着こうと、大きく息をしたときだった。
「げふっ」
『!』
思わず出てしまった、ゲップに下を向いて口を押さえた。うっかりさっきの人形の『指先』が出てきそうだったのを、どうにか喉奥に引っ込めた。
(さっき食べた『モノ』が・・・ちょっと食べすぎた!)
フクは満腹になることは少ないのだが、ここまで短時間で色々ありすぎたのだ!
視線がこちらに向いている気がする。穴が空きそうなほどの視線に、ゆっくり上を見上げると、キョウ、被り物の犬、いや、ジキル本人の目がフクを捕捉していた!
突如、犬の被り物が歯をむき出しに、フクを追いたてるようにギャンギャン吠えた。
「!」
「⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎ !⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎!!」
同時にジキルがフクを指さして、何かを言っているようだが、犬が喚いているせいで聞こえない。だがそれでもフクの疑念は確信に変わった。
(こ、この人、フクが見えてる?!)
ジキルの指先は間違いなくフクの顔の中央を指している。目と目の間に指先が置かれているために、眉間がぞわり、と気持ちが悪い。
おそらく、犬がフクを感知してしまったために、ジキルもそれに釣られて気がついたのだろう。
フクは慌ててキョウの影に隠れたが、時すでに遅し。キョウが間に割って入ってくれているが、ジキルと、ジキルが被っている犬はフクを今にも飛びついて噛み殺さん勢いだ。
あとで思い出したことだが、犬は視力はそれほどではないが、鼻がとても効く。息を顰めていた獲物が少しでも尻尾を出すと、地の果てまで追いかけるという。だとすれば、このままここにいても事態は、収拾のつかないことになる。
ジキルがフクに向かって手を伸ばす。フクの目には、ジキルの右の手のひらは、フクの顔に蓋ができるほど大きく見えた。
「イヤッ!」
フクは手のひらを避けて、子供が通れるほどしかない大人の足の隙間を、難なくすり抜けた。
(とにかく離れなきゃ!)
フクは部屋の外に向かって、かけだした。このまま屋敷の外に出て、あとでキョウと落ち合えば・・・
そう思っていたが、実際のところ現実は優しくない。
フクは首に縄でも掛けられたかのような衝撃がかかった。「ッエ」とのどの奥からまた、何かを吐き出しそうな掠れた音が出た。
(何度も首に衝撃を与えないでほしい!今日で三回目だよ!)
たとえ言ったところで、今ここでフクの言葉がわかるのは、キョウだけなのだが。今はそれどころではない。
ジキルがフクのパーカーのフードを掴んでいるせいで、逃げられないのだ。キョウもどうにか解放しようとジキルの腕を掴んで離そうと努力しているが、パーカーにはジキルの腕に加えて、あの被り物の犬の顎が、頭から腕まで伸びてパーカーに食いついているのだ。これではどうやってもフクを離すことなんて無理だ。
「はなっ・・離してよっ!」
犬は食らいついた肉を引きちぎらんばかりに、フクとキョウを右、左と大きく振り回す。その度に
「ビッ、ビリッ」と嫌な音が後ろから響く。それが自分の服がちぎれる音であるのに、フクは顔が青ざめる。
(やめてよ!キシ姐がくれたフクなのに!)
大事な一張羅なのだ。元の世界に帰ったとき、彼女がどんな顔をするか・・・想像もしたくない。
「もうっ!」
これ以上、ジキルの思い通りにするべきではない!
フクはフードを掴まれたまま、ジキルの腕についた犬の顎を思いっきり握り返す。
みし、と犬の顎が軋む音。
フードがマフラーのように巻き付いて顔半分が煩わしいが、気にしない。
キョウと、犬の顔は、フクが動いたことに、虚をつかれたようで、目を見開いていた。フクは思い切って腕に力を込めて、そのままジキルの腕を背中で背負うように、反対方向へ投げた。
「⚫︎⚫︎⚫︎!??」
「わ!」
ジキルの腕にしがみついていた、キョウも一緒に投げ飛ばされたが今は緊急事態だ。気にせず思い切り、地面に引き摺り込むように身を低くして投げた。同時にフードを噛みつかんでいた犬の顎も剥がれた。
大人2人を小さな体のフクが、放り投げたあと、ジキルの野太い悲鳴と共にゴン、と鈍い音が鳴った。キョウは受け身をとれたようで、倒れたジキルの横で右手をついているが、フクの方を地面から頭を離した状態で見ている。
フクはジキルについている被り物の犬を見た。猟犬のように険しい顔つきだったその被り物は、ジキルが気を失った影響か、原型を留めることができずに輪郭があやふやになっている。ふにゃふにゃとスライムのように湾曲に歪んだその形は、犬なのか、アメーバなのか、もうわからない。何の根性か、三角の耳だけは頭頂部に二つ残しているのだ。
だがそれもすぐに溶けてしまった。
被り物は雪が溶けるように、だが風呂の水が栓の穴に吸い込まれるようにジキルの口、目、耳に吸い込まれていった。犬は砂のような黒煤になってジキルの中に吸い込まれていった。ジキルの顔色はとても悪く、キョウの人形よりも死体のようだった。
その様子を見てフクは確信した。
(やっぱり・・・)
このような状態の人間を、フクは見たことがあった。
いつだって思いやった人を苦しめるソレは、甘美に満ちていて、糖蜜のようにとろとろと舌にこびりつく。
きっとそれを、人は『呪い』と呼ぶ。
◼︎
ジキルの状態が思った以上に、手遅れな状態であることをフクは理解した。
「その人、もう長くないねぇ」
ジキルの容態を見ていたキョウが、フクの顔を見てからひどく驚いたような顔をする。フクからしてみれば、ここまで顔色が悪いと死にかけ一歩手前の人間であることは確かだし、呪いも人に死を与えるようなものであると考察できる。あの犬に化けた黒煤は、純粋にジキルを呪うためにできたエネルギー体だ。
フクが『黒煤』と呼ぶソレは、二種類ある。一つは誰かが残した痕跡であること。それを「感情のオーラ」や「邪気」と呼んだりするが、結局のところ誰かの廃棄物だ。それから鬼とか妖魔とか生まれたりするが、それは置いておく。
そしてもう一つは、誰かが自発的に使うためのエネルギーのことだ。陰陽師とか、魔法使いは「法力」とか「魔力」とか区別したがるが、フクにとってはどれも同じだ。誰かを傷つけるための燃料でしかない。
フクが好むのは前者であり、霧の中で出会った神や地獄でうろつく亡者にだ。術師が黒煤を使った呪いは、実に淡白で、味付けされていない人工肉にすぎない。さっきキョウがキョンシーたちを操るために使った術を喰ったのは、緊急事態だったのと、キョンシーの味を確かめるだけのつもりだった。
(美味しくなかったけど)
だからこそ、ジキルにかけられた『呪い』にフクは歓喜した。
誰かが、自分勝手に、ジキルを恨んで死に追いやっている。そんな「呪い」をフクはあの犬から感じ取った。
(どんな味がするんだろう・・・って違う違う!!)
そんなことを考えて、フクは口はしに滲み出ていたよだれをゴシゴシと吸い取った。基本的に食いしん坊なフクは、これまで味にはそこまで頓着しなかった。だが、異世界(ここ)に来てから、あの黒い神やジキルのように、翼や犬のように形を具現化するまでの黒煤に興味を強く持ち始めていた。
(もしかしたらこの世界の煤は、向こうの世界とは違うのかもしれない)
「フク、これで拭いてくだサイ」
フクが異世界の黒煤に思いを馳せていると、キョウがフクに綺麗に折り畳まれたハンカチを差し出している。それに気づいて、おずおずと受け取り、言われた通りに口を拭いた。
人のもので自分のよだれを拭くのは気が引けて、なるべく汚さないようにハンカチの端、角でそっと触れるように拭いた。
拭き終わった後、ハンカチを両手で持ってキョウに返した。キョウはそれを受け取ると、胸ポケットにしまう。
「フク、彼を救うにはどうしたら良いですか?」
「え?」
キョウが丁寧な日本語でフクに問いかける。発音に何の違和感のない日本語だ。
キョウを驚かせていたが、今度はフクが驚く番になった。
(救う?なんでフク?)
フクは自分がどうしてキョウに求められているのか全くわからなかった。ジキルとは面識もなければ、さっき自分に噛みついてきた。
「ジキル様はご存知のように呪われています。フク、『座敷童』であるあなたなら、この呪いを払うことはできませんか」
「 」
言葉が出なかった。血の気を引くような感覚が再び、フクの背筋に走る。
キョウがフクに望んでいたのは『座敷童』の特徴である、「無病息災」「厄除け」をもたらす力だ。座敷童というのは、家に富や福をもたらすということは、そこに住む人にそれを与えるだけの力を持つ。それゆえに彼らを囲もうとする人間は後をたたない。だが、その『座敷童』の落ちこぼれである、『ざしきわらし』のフクができることは、「食べる」こと。しかも中身を分けることもできず、その肉まるごと・・・
ジキルの頭ごと食べてもいいのなら問題はないが、「助ける」となると話は別だ。
「その、ふ、フク(ぼく)は・・・」
一応、『伏喰童子』時代の力である、どんな状態でも黒煤を食べる「食指」の力は使える。それを使うことによって、「厄除け」の役割はこなしてきた。だが解呪など、術に詳しいわけでもなければ、それがどういう特徴持つのかもわからない。
「それに、もし彼を救うことができなければ、君は家を失いマスよ」
「え?」
突然、キョウの喋り方がまた元の変な発音に戻る。だが、それよりも・・・
(家を失う?何で?)
「当たり前でしょう?この家の主人はこの、ヘンリー・ジキルです。家主のない家を守って何になりマスカ?」
「ミャっ?!?」
突然の正論にフクは戸惑う。
それはそうだ、キョウはこの家に住み込みで雇われているだけで、主人ではない。主人あっての家なのに、その主人を亡くして仕舞えば、『ざしきわらし』としてなんの意味があるだろうか。
フクは再びジキルを見た。彼の顔色は先ほどよりも悪く、呼吸もよろしくないリズムをとっている。持って数日、最悪今夜に頭を打ちつけた衝撃で・・・そんな理由であの世行きになるのではないだろうか。そう思うと、ますます自分の状況に切羽詰まる。
仮にジキルが死亡したとすれば、キョウは少なくとも自分に手を貸さないだろう。貸したとしても、キョウほどの実力のある術師だ。フク程度の小妖怪を出し抜く方法なんて、星の数ほどある。この世界に来てから、数時間しか過ごしていないフクが他の家に行って生活・・・他の小妖怪にいじめられる気しかない。
意外にも自分の状況が危機的な状況にあることに気がついて、フクの顔は青くなったことを感じ取った。フクはギギギ、とキョウの方を見た。
彼は困ったような笑顔を浮かべているが、彼の術師としての能力を鑑みるにおそらく秀才タイプの実力者なのだろう。フクの正体の半分を掴んだり、フクの動きを封じる陣を書いたりとその実力を見せている。そんな彼が、フクに「助けて欲しい」というのは、初めこそ、また別の罠かと思った。
キョウはフクを襲った、しかし、なぜかそこに悪意を感じなかった。
だからフクは、彼に食欲がわかず、襲わずに様子を見ることにしたのだ。彼の目的が「ジキルを助けること、呪いから解放すること」となると、それも納得できる。そもそも悪意なんてなかったのだ。
だけど。誰かを『救う』ことなんて、今までフクは一度たりともできたことがない。
この千年間、誰も・・・
「ご、ごめんなさい」
「・・・え」
フクは目を伏せて、キョウから目を逸らす。フクが謝ったことで、彼がどんな顔をしているのか見ることができない。
『罪悪感』
今、フクを襲っているのは、目の前のキョウでも、犬の化け物でもない。フク自身だ。助けを求める目の前の人を救えないと諦める、フクだ。
「ふ、フク、フクはね、あの人を助けることは出来ないの」
絞り出すようにフクはキョウに言葉を返した。
「理由を、聞かせてもらってモ?」
「ふ、フクは普通の、『座敷童』じゃないの・・・、ただ煤を食べるだけの、落ちこぼれの『ざしきわらし』なの」
「『煤』?」
「みんなが『邪気』とか、『嫌悪感』とか呼ぶやつ、黒いもやのこと・・・キョウさんだって人形さんについているでしょ」
「そうなんですか?」
キョウが意外そうな顔をする。それもそのはず、『黒煤』と呼んでいるのはフクだけで、彼以外のものは、オーラとか色など、もっと別の見え方をする。さらにいえば、キョウのように肌で感じたりするだけで、見えない術者だっている。
「僕は確かに、黒煤食べることできるけど、でも、食べてるだけじゃ、人は幸せを感じてくれなくて・・・、『座敷童』は幸運や財力とかの富を渡さなきゃ、なのに、僕、そんな力無くて・・・みんなに馬鹿にされて」
これまでたくさんの家を渡り歩いてきた。部屋の隅にある黒煤を齧ったり、時にはその家の厄災になりかねない悪鬼を食べたりして守ってきたこともある。だが人というものは、強欲であり、飽き性だ。何もない平和をありがたがるどころか、刺激のある生活を求め、もっと上の富を要求する。初めこそ、喜んでもらおうと、フクだって『富』を運ぼうとした。だが、黒煤を食べていることで、誰からも避けられているフクに、力を貸すものは誰もなかった。当然、「福の神」だってこない。
「ひ、人を救うなんてこと、フクはできたことなんてない・・・。ジキルさんについた呪いだって・・・」
「・・・・・・一つ、質問いいですカ?」
ずっとフクの話を何も言わずに聞いていたキョウが、口を開いた。薄く開かれていた目は、しっかりとフクを捉えている。
フクはふる、と体をこわばらせた。
「『呪術』、『呪い』単体なら君は対処は可能ですか?」
「えっと、ジキルさんの体の中のやつは・・・」
「もし、それが外に出て、呪いだけになったら、君はそれを食べれますカ?」
「それなら、できる・・・でも」
「じゃあ、問題ないデスね」
「え?」
にっこり、とキョウはフクに笑顔を向けた。
「君に、何があったのか知りませン。ですが、私が必要としていたのは君のように、『呪いを消滅させる存在』、運気は二の次デス。あの強力な呪いを消し去れると言えるぐらいデス、君は十分強い、だってさっき私とジキル様をいっぺんに放り投げたんデスヨ」
「それに」とキョウは付け加える。
「それに・・・あの霧で君を拾えたのも、偶然ではナイ。君は私の力になってくれますよ」
「そうかな・・・」
「もとより、ダメもとなので!」
「ダメな気がしてきた・・・」
「やっぱり、自分は座敷童向いてない」と涙目で、キョウから目を逸らした。人命がかかっているのに、導師らしからぬ、この楽観さは一体なんだろうか。
「大丈夫デス!こう見えて私、人を見る目はあるんですヨ!」
(それ、フクを当てはめても大丈夫な目?)
ニヤニヤと胡散臭かった笑みが、だんだん気持ち悪く感じるようになってきたフク。血の気の引いたヘンリー・ジキルだけは、険しい顔で、今にも飛び上がって牙を剥いてきそうで恐ろしかった。
だが、この「ヘンリー・ジキル」が、それから目を覚ますことは、なかった。
ヘンリー・ジキルを彼の部屋のベッドに寝かした頃には、外は薄暗くなっていて、異世界でも夕方というものがあることに、フクは感動した。
いつだって夕方は、色鮮やかで、魔の力を昂らせる夜の蕾を開かせる時間は、心躍る。
だが、自分の置かれている状況を思い出し、ため息をついた。
(フクは、呪いを解くことはできない・・・ならばあの犬の被り物をつけた人を探すか、呪いの元を食べれば・・・)
自分ができることは、あの黒煤(犬の姿)を食べることだ。
だけど、フクは自身が万能じゃないことを、よぉく知っている。特に食事のタイミングは、いつも彼が呪いを食べる瞬間に、『自分に注意が向いていないこと』が必要なのだ。
誰だって、自分を襲ってくるモノを食べようと思わない。
「フク、ジキル様についている呪いですが・・・見たことがあるというのは本当ですカ?」
「うん・・・一族を根絶やしにできるから、一時期流行ってたことは覚えてる」
「なぜ、そんなものが、この世界に??」
「知らない。でも、なんてモノだったか思い出せない」
もう、関わることもないだろうと、たかを括っていたのだ。
お釈迦さまだって、「あんな可哀想な禁術、忘れた方が世間のためだ」と言っていたのだ。
(忘れるに限る、はずだったんだけどなぁ・・・)
こんな状態になってから、後々困ったことになるんだ・・・。
「あまり時間は残されていません。ジキル様の容体は今は安定してますガ」
ちら、とキョウはジキルの部屋の扉に目線を向ける。
あのあと、キョウとフクはジキルを部屋まで運び、彼のベッドに寝かせたのだ。
部屋は簡素な設備で、ベッドと、本を読んだりできる程の、シンプルな書きもの机しかない。
ベッドにジキルを寝かした後、フクとキョウは部屋の中で小声で話し始めた。
「ここ一ヶ月で彼の精神は、目に見えて不安定になりつつありマシタ。ですが、このように暴力に出ることは一度だって、ありませんデシタ」
「呪いの進行って、同じくらい悪くなるんじゃなくて、徐々に強度を上げていくから・・・もしかしたら、もうあのジキルさんって人は、呪いにとっては『食べ頃』なのかもね」
「・・・つまり、比例ではなく、指数比例ということですカね」
「なぁに?それ?」
「いえ、とにかくジキル様に残された時間はほとんどないことは変わりませン。なので術の方はわたしが解析します」
「ほんと!?」
「これでも術師の端くれです。得意ではありませんが、封じることぐらいはできましょウ」
思いがけないキョウの提案にフクは目を輝かせる。
「ですが、術の発生源、発生理由の対処は、あなたの方が得意でしょ?」
「ああ・・・うん」
フクは再び、頭を抱えた。
人命救助とはいえ、フクが自ら動いて直接人を助けるなんて、初めてだ。疫病神を食べることはできても、人の中にいる病魔は腹を割くか、他人に取り憑こうとするときに捕まえるしかない。パンの中のカレーを食べようと思ったら、パンごと齧った方が手っ取り早いのと同じことだ。ならば普通に人間の病院へ行って薬をもらったほうが、病魔に犯された人は良いに決まってる。
フクの「ざしきわらし」の、それも落ちこぼれの力なんて、その程度でしかない。
だが、ジキルの呪いをどうにかしなくちゃならない。住処確保のため、家を守るためにも、このかた(ジキル)を守らなくちゃいけない。
フクはキョウに向き直った。真っ直ぐに見つめるフクに、キョウもまた、細い目をしっかりと開いてフクの言葉を待っている。
「まずは、ジキルさんについて教えてくれる?」
キョウはフクの言葉を待っていたと言わんばかりに、頷いた。
「わかりました」
ヘンリー・ジキルという人物は、品行方正、非の打ちどころのない町の頼れる薬学の研究者だった。「だった」というのは、もちろん今は違うということだ。
彼は十五年前に、ある女性を妻として迎え入れた。奥方のエリス・ジキル様は薬学に精通しており、ともに薬学で大学を専攻していたヘンリー・ジキルとウマがあったようだ。夫婦2人で薬を研究し、旦那であるヘンリーの方は軍の研究職についた。そして結婚から五年後、エドワード・ジキルを出産した。
何もかも順調で、幸せな家庭を築いている、はずだった。
エリス・ジキルがエドワードを出産時の肥立が悪く、そのまま死亡した。それから残されたヘンリーとエドワードは2人で、この屋敷で暮らしていた。だが、現在から半年前にエドワードが失踪した。行方不明になった後、この世界の警察に捜索を依頼したが、いまだに進展はないらしい。
そしてエドワードが失踪してから、ヘンリーの様子がおかしくなっていった。毎晩叫び、狂ったように庭先で暴れ回る姿を見かけるようになった。
ある時には「人を埋めるところを見た」という、近隣の住人が噂を立てるようになった。
「そして三ヶ月前に、わたしがこの世界にやってきて、ジキル様が死体を埋めるところを出会してしまいました」
「ナイスタイミングー」
キョウは「いやあ、それホドでも~」と頭を掻いて照れたそぶりをする。
(「褒めてない」とか言わないからね)
「ジキル様には、黙っておくのを条件に、埋めてた死体を譲ってもらうことと、住み込みの職をお願いしまシタ」
「・・・」
(可哀想に、ジキル様)
よりにもよってこの、胡散臭い導師に見つかったのだから。
それはさておき、キョウさんが知っている情報から、ジキル様がおかしくなったのは半年前、そこから殺人を犯している。これならば呪われていてもおかしくはないのだけれど、呪いはあくまで方法だ。つまり自然発生したわけではなく、生きた「誰か」が術をかけたのだ。
でもなぜ?
「殺された人って、誰かわかっているの?」
「身元ですか?ならばわかりますよ。この屋敷の使用人、十人です。君に食べられちゃいましたがね」
「『食べた』?僕が?」
(ぼくはこの世界に来てから、人を食べた覚えがないけれど。)
フクは首を横に捻る。右に、左に、そしてもう一度右に首をゆっくり曲げてみたが、フクは人を食べたりしたことなど、なかった。
「フク、私が手がけた人形のお味いかがでしたか?」
「うん?あんまり味しなかった・・・あ、そういえば」
フクは、キョウに襲われたとき、思わず『食指』で人形を口に入れたことを思い出した。
そう、フクは人形を、食べたのだ。
すでに食べてしまった・・・。
「ああ」
そういや、あれらの材料って・・・
フクは遠い空を見るように、部屋の角を見た。こっちの方向が、キョウさんの部屋だったな。
「あれら、全部掘り返すの、大変だったんですよ」
ふっ、と笑みを浮かべるキョウは、どこか寂しそうだ。
(そうか、あれ食べちゃったんだ・・・。そうか、使用人さん達か・・・)
「キョウさん、フクが食べる系の妖であることわかってるね・・・」
僕は聞こえないように、そっとつぶやく。
「はは、ついでにただの『ざしきわらし』じゃないことも、・・・正体も気づきつつありますヨ」
「わあ、怖い・・・」
いつの間にか後ろにいて、目線を合わせて囁くキョウさん。
(やっぱりこの人怖いな・・・)
この短時間で、着々とフクの正体を暴きつつある。中国の導師は伊達じゃない。おそらく敵に回さない方がいいに決まってる。さっきまで、お菓子でフクに命乞いしていたのが嘘のようだ。
出そうになった涙を落ち着かせて、フクはジキルの寝室を見渡す。
ジキルの部屋は寝室のベッド、そしてフクが寝れそうなくらいの、小さな書き物机が一つ。
書き物机には、メモらしきものが置いてあって、机の上に乱雑に置かれて、床に二枚ほど落ちている。そのメモに何かあるかもと、フクの背丈ほどある椅子にのり、メモを解読してみる。が、やはりこの世界は異世界だ、フクには文字の意味が全くわからない。
「どうかしましたか?」
机についてきてくれたキョウさんがフクの隣から顔を出す。
「うん、ヒントがあるかなって」
これがゲームなら、こういう机の上にヒントが残されていたりするけれど、うまくはいかないものだ。キョウも訝しげに、眉を八の字にしてみている。
「フク、読めないや。他のところにいこ」
「『子供』『死体』『蘇生』・・・うーん、きな臭いですね」
「読めるの?」
諦めてたところに、キョウが隣で解読していた。
(そういえばこの人、さっきもジキルさんと話をしていたっけ・・・というか)
「キョウさんどうしてこの世界の人とお話しできるの?」
キョウがいくら語学学習が得意と言っても、異世界の言葉だ。三ヶ月で、仕事もしながら、ここまでマスターできるものだろうか。
キョウは、はっと目を開き、苦笑いを浮かべながら、フクから目を逸らした。
「えぇっと・・・」と言葉を詰まらせているあたり、すごく言いづらいことなのだろう。
「わたし、ジキル様に死体を要求したと、言いましたよね。あの死体の頭の中の海馬というところを取り出して、わたしの」
「待って、やっぱり聞かない」
フクは両の手の平をキョウに向けて、言葉を静止した。と同時に、キョウのような「死体使い」が忌み嫌われることも、なんとなくわかった。
人は、死んだ後もその尊厳を守ろうとする。それは彼らが一生を生きたことを敬意を示すとともに、埋めたり、燃やしたりすることで、生きた人を慰めたりするためにある。
もう、死んだその人を悼んだりしなくても良いのだと。
(キシ姐とお釈迦さまの受け売りだけどね)
フクはそれを教わっても、共感を得ることは全くなかったが、それが人に嫌われることは知っていた。だからキョウが「カイバ」と「頭の」とか言い出したあたり、聞かない方がいいと思ったのだ。
どう考えても、フクのお腹が空くような内容だった。
(でも、キョウさんをみても『食指』が動かないんだよね)
どんな相手でもその匂いから動いてしまう、フクの指。どんなに隠しても、フクが制御しても、震えてしまう彼の『口』は、神にだって容赦はない。
だからこそ、キョウには興味が惹かれる。彼がどうしてここまでうまくフクを『誤魔化せる』のか。
(食べたらお腹壊しそうだからかな)
実際に、壊したことはないが、もしかしたら、とフクは思う。
「今、失礼なことを考えてましたヨネ?」
「キョウさん食べたらお腹壊しそうって思ってた」
「ハハ、光栄デス」
もしも機会があるのなら、フクは容赦なく動くのだろうか・・・?
(いや、今はよそう)
今はジキルだ。キョウに対して、食指が動きそうなのを抑えて、フクは話を続けた。
「キョウさん・・・キョウさんが、死体を・・・使って言語とか知識を得ているのはわかった。だから続き、『子供』とか『死体』『蘇生』で思いつくことってなに?」
「わたしはキョンシー使いですからね、『死体』と『蘇生』だけならいくらでも、ただこの屋敷での『子供』でしたら、一つしか思いつきません」
「ジキルさんの息子さん?」
「はい。わたしも彼の情報がほぼないので」
「全く?ここに三ヶ月も住んでるのに?」
フクは頭を傾げた。
「ええ、わかっているのは、この屋敷の人達は、あまり彼のことを好んでいなかったようです」
「・・・それってさ」
「はい」
夕日は沈み、あかりを灯さねば何も見えない部屋の中、2人は静かに部屋をでた。この部屋にはなんの手がかりもなかったからだ。
「エドワード・ジキルこそが、呪いの根源ではないかと・・・」
フクとキョウは屋敷の中をくまなく探索していた。キョウはもうほとんど慣れ親しんだ屋敷なので、フクを抱えて屋敷のあちらこちらを歩いている。
キッチン、使用人部屋、風呂場、トイレなど、一見関係のない場所まで、手がかりを探した。
だが手がかりらしい手がかりはなく、捜査は難航していた。
「もしかしたら、外の物置小屋に死体や、凶器が残っているのではないかと、フクのドラマの影響で屋敷の外に隣接している物置小屋を見に行った。
小屋は普通に整頓された倉庫として使用されており、地面は土だった。床下、地下の秘密の部屋なんてものは、もちろんない。
呪いの正体がエドワード・ジキルの怨念ならば、彼の遺体を探す必要がある。怨念が自分を殺した屋敷の住人への復讐だったとしても、キョウ自身は彼を救わねばならないのだ。
二人は物置小屋から屋敷に戻る途中、わかっていることを話し合っていた。
「エドワードくんの死体は見つからなかったんだよね?なら、ここに勤めてた使用人さん達なら知ってるんじゃないかな?」
「いいえ、それが全く・・・知っているならば、わたしが放っておくわけないでショウ?」
「え、人形にするの?」
フクは嫌そうに顔を顰めた。フクだって死体といえど、子供にまで手を出すのはいただけない。彼らはフクにとっては、大事な遊び仲間なのだ。
だがキョウも、子供を扱うのに嫌悪感を抱くのは、フクと同じなようで、彼も細めた目にさらに力を入れて、整った顔の、眉間に皺を寄せる。
「私は子供の人形は作りまセン。趣味が悪すぎマス!ちゃんと体を綺麗にして弔うって意味ですヨ!」
「ぷんぷん」と効果音がつきそうな、ほおを膨らませている。本当に彼の趣味に使ったことはないようだ。
「じゃあ、どこにエドワードくんの遺体があるんだろう」
「フクは、子供の霊魂とか見えたりしないのですか?」
「それが、全く見えない。ジキルさんについていた犬の被り物しか今の所見てない」
「え、何それ・・・」
「え?見えてなかったの?めっちゃくちゃ噛みついてきたのに?」
お互いがお互いの驚いた顔をみている。フクがよだれを垂らしていたのに、触れなかったのは、キョウにはあの犬が見えていなかったからということか。
「だとしたら、僕、ジキルさんをみて涎垂らしてた、ヤベーやつじゃん」
「実際、『ヤベーやつ』デスヨ、あなた」
キョウのツッコミを聞かないフリをして、犬の呪いについて考察する。
「あれがエドワードくんってこともあるかもなんだけど・・・なんで犬の姿で現れたのかわからないし・・・」
フクが犬の被り物について考察していたのを聞き、さっきまで考えていたことを、頭の中で横に置いて、一拍置いてからキョウは答える。
「・・・ここで犬が飼われていたということも、今までなかったようですし、エドワードくんにとって犬の形が力の象徴だったのではないでしょうか?」
「わかんない、まだ材料がない、から」
「そうですね、やっぱり残りの部屋に何か、あるのでしょうね」
ここで二人は屋敷の玄関にたどり着いた。相変わらず、重たそうな扉が2人を待ち構えていたようだ。
「あと見てないのってさ・・・」
扉を開ける前に、フクがキョウに聞いた。この屋敷で調べていない場所は、あと二つ。
「ジキル様の執務室と、子供部屋ですね」
ジキルの部屋と子供べやは、屋敷の二階に存在する。はじめに一階と物置小屋を調べたのは、気を失っているジキルがいつ目を覚ましても、駆けつけることができるように近場を回っていたのだ。屋外の物置小屋は、ジキルから離れているようで、実は屋敷のそばにあり、ジキルの部屋からとても近かった。
そして2階を後回しにしたもう一つの理由、ジキルの執務室が屋敷の部屋の中で一番広く混雑していたのと、そもそも子供部屋がどこにあるのか、キョウも知らなかったのだ。
この数ヶ月、キョウはこの屋敷に拠点を置いているので、この屋敷の構造はほとんどわかっているつもりだった。だがどの使用人の記憶を覗いても、エドワードがジキルの執務室から離れることがほとんどなかったので、本当に子供部屋があるのかすらも怪しい。
「一階になければ、二階に子供部屋があると思うのデスガ・・・」
「今、この屋敷のお掃除してるキョウさんが知らないのなら、多分隠されているよね」
2人は階段を使って、二階へと上る。途中の階段の踊り場は大きな窓がはめこまれており、下から見上げると月灯りで照らされるステージのように見えた。
今夜は月が輝く、美しい日で、ほとんど円に近い形だった。
「あっ」とフクが、何か気がついたようだ。キョウは足をとめ、「どうしましタカ?」と聞き返した。
「ジキルさんって狼男って説ないかな?もうすぐ満月っぽいし、だんだん暴れてくる理由もわかるよ」
「残念ながら、満月は昨日でしたヨ。狼男なら、すぐに教会に引き渡せますし」
「『教会』?この世界にあるの?」
フクは意外にも、この世界に教会なんてものがあるのかと、驚いた。先ほど天使の絵があったのだから、神を祀る神殿なんてものがあってもいいが、教えを広める場所があるのは元の世界だけかと思っていたのだ。
キョウは二階を目指して階段を上りながら、教会について、腕の中のフクに説明する。
「ええ、ありますよ。この世界には神が一柱・・・「ユニット」というこの国の創造神が
世界を作る際に決めた取り決めと、豊かに生きるための教えを広めています」
「この国を作った人のことなんだね。どんな神なの?」
「ありきたりなものです。全知全能の神で、真っ暗な世界だったこの場所を一人で築き上げたという神話があるだけです」
「すごいね!これが終わったら挨拶に行かなきゃ」
どんなものにも神が宿る国にいたフクは、生まれたての神、妖怪、たまたま天界に来ていたよその国の神にはフレンドリーに、キシと共に挨拶していたものだ。自分を知らない神というのは、色眼鏡なしにフクを子供扱いしてくれるので、友達作りにもってこいなのだ。
(まあ、周りに警告されて、いなくなっちゃうけど・・・)
異世界の、それもこんなに幻想的な世界を生み出した神に、フクは一度謁見して、話を聞いてみたいと思ったのだ。
頬を赤らめて興奮するフクをよそに、キョウはつまらなそうに警告した。
「やめておいた方がイイですよ、その「ユニ神」は、よその世界からきた異形を「悪魔」として敵視しているみたいでシテ・・・見つかり次第、討伐天使に串刺しにされマスヨ」
「え」
思った以上に鎖国的だった神に、フクは言葉が出なかった。
(何?『討伐天使』って・・・)
フクの国は、そこらに落ちている石にすら、時間が経てば神として崇められるというのに、なぜよそから来ただけで、悪魔として討伐されなければならないのか。
「仮に、ジキル様の今の現状を、教会が認知して仕舞えば、彼も「悪魔憑き」として処分される可能性すらありマス。そうなって仕舞えば、私も検査されて「悪魔」として殺されてしまうデショウ」
「そ、う、なんだ」
だからキョウはジキルを病院に連れて行こうとはせず、フクを捕まえて問題解決させようとしたのかと、フクはようやく理解した。
「さて、執務室につきマシタ」
階段を登り切ると、玄関を見下ろせる吹き抜けがある。吹き抜けの天井から吊るされた、分厚いホコリの化粧を施されたシャンデリアを、キョウの腕の中から見下ろした。
吹き抜けの反対方向には、階段と、ジキル当主の仕事部屋である、執務室へと廊下が続いていた。廊下の片側は窓が4つ、等間隔に奥まで続いている。月明かりが廊下を照らしており、ランプの光など、微々たる灯りで存在感がなかった。
執務室の扉は一つ、大きな観音開きの扉で、使い込まれているのか、ドアの取手が片方だけ、ニスがすり減っていた。
フクは廊下を奥まで進んで、壁を叩いたり、手で凹凸を確認してみたが、特に変なところはない。だが、二階に部屋が一つ、それも扉は中央より手前側にある。廊下が部屋の奥まで続いているのに、扉がこれだけなのは違和感しかなかった。
(・・・これは、フクの予想が正しければ)
フクとキョウの二人は一緒に部屋に入る。フクは入ってすぐ右折、部屋の一番奥、廊下側から触れた場所の反対側に行こうとした。
フクは奥の壁について、コンコンと壁を小さく叩いた。
「あ、やっぱり。キョウさん!こっち、秘密の部屋があるよ!」
「なぜわかるンデス?」
「廊下の長さと部屋の長さが違うの!あと壁の音!」
フクはフンス、フンスと鼻息を荒くして、キョウに報告する。子犬が『とってこい』を上手くできたときのように、無邪気に目をキラキラさせている。ただやっていることが子犬ではない。
キョウは廊下の壁と、フクが叩いている壁の音をコンコン、と叩いてみた。確かに音が幾分か違う。目の前の壁、部屋の奥の壁の方がずっと薄いようだ。
「こっちニ?」
「あるかもね」
『何が』とは、聞かない。決していい物ではないことは確かだ。
フクがしゃがみ込み、壁の下の壁板の至る所を押したり、引っ掻いたりしている。そしてようやくフクのお目当てのものがあったのか、「あった」と呟いていた。
ばすっ、ガラッ
フクのいるところから、鈍い音が響き、何かが転がる音が聞こえた。フクがにっこりと得意げな顔でキョウを見ている。
「隠し、扉、デスカ」
「むふふ・・・」
フクが見つけた隠し扉は、六十センチ平方の広さで、キョウが頑張って入れるくらいの大きさの抜け穴だ。
フクと初めて出会ったときに、前は忍者屋敷にいたと言っていたことをキョウは思い出した。手慣れた扉の探し方に、「座敷童」とはやはり家に強い妖怪だと感じる。
(好奇心が旺盛というか、怖がりな割には度胸があるんですよね・・・)
キョウは楽しそうに扉を開けるフクに、ほんの少し和む。
だがフクとキョウはそこからふわっと漂う、嗅ぎ慣れた腐臭に顔を顰めることになる。
「・・・ありますネ」
口を引き攣らせているキョウに、フクは対照的に目を大きく開いて、隠されていた部屋の奥をずっと見ている。彼には一体何が見えているのか、キョウは横目でフクを観察した。
(今度はよだれを垂らしていませんね)
ということは、彼のお眼鏡に適うものではなかったのだろうと思うが、彼の瞳に映し出しているのは一体、何なのか・・・。
「この部屋にあるね、呪いの根源」
フクがつぶやいた。そしてそのまま中に入ろうと、狭い扉に頭頂部を向けた。
「私が、行きます」
キョウは先に行こうとするフクを抑えて、先に秘密の部屋に潜り抜けた。入れば、天井は執務室と変わらないようで、キョウの背でも余裕で立てる。懐からあらかじめ持っていた呪符に灯りを灯すと部屋を一望した。
本、本、机、体、首、屍蝋化・・・
「素晴らしい、殺人現場ですね」
部屋は三畳ほどのスペース。その中に机と分厚い本が収まっている本棚が二つ分、そして先客が二人。それは成人男性と細身の女性、おそらく二十になったばかりか、若い女性の遺体だ。その二つが、狭い部屋なのに部屋の両端に離れて倒れている。
キョウは一番入り口に近い男の遺体から触れてみる。男の死因は頭部を鋭い刃物で切断、離れたところに乾いた肉がこびりついた頭蓋骨がもう一体の死体のそばに落ちている。落ちた場所のそばには女性の遺体。
こちらの遺体には全く損傷は見当たらない。それどころか、体がどこも朽ちていない。今にも目を覚まして、起き上がれそうなほど綺麗な体だった。
(死体の処理がされている?)
ここまで美しく遺体を保つのは、キョンシーを制作するキョウだからこそ、その管理と処理の難しいことを知っている。湿気の少ない場所といえど、複数の死体を放置すると湿度が上がり、結局痛みやすくなる。だが、彼女の顔は血の気が引いていて青白く、おそらく薬によって防腐処理と肉体の硬化処理をしていると考察する。
二人の簡単な検死を終えると、キョウは部屋に入る前にフクに頼まれていた、机の上のものをとりに行った。
「もし、机があったら、その上のもの持ってきて。多分ヒントがある」だそうだ。子供らしい、ゲームや小説の見過ぎによるものだろう。
「これは・・・」と言って、キョウは机のものを手に取って眺めた。机の上に置かれていたものはある程度手に取りやすいように、背表紙を立てて置いてあり、つい最近まで使われていた形跡があった。
机の上にあったのは、ペンとノート、そして数冊の医学書と薬学書。
キョウはすぐにフクが待つ部屋の入り口へと、机にあったもの全てを持って向かった。
「フク、これが全てです」
「うん、キョウさん、ここにあるもの、簡単に教えて」
字の意味がわからないフクに変わって、医学書と薬学書の題名をフクに伝える。
「『精神理論学』これは肉体と魂の結びつきについての本。『薬品生理学』これは・・・薬が体に及ぼす影響ですね、付箋には精神に影響を及ぼすものについてのページに貼ってあります。あと、『悪魔解剖』オカルトチックですが、この世界では『悪魔』は対抗すべき存在なので、発見されているそれらについてまとめた本ですね」
フクにわかりやすいように、比較的「優しい」表現で言ったつもりだが、少しだけ顔を顰めっつらにする。だが、フクもバカではない。わからないところを指をさしたり、内容について聞いてくるので、キョウも大量に並べられた単語をかいつまんで説明する。
そして満足したのか、フクは説明されていた医学書より、ずっと薄っぺらいノートを彼に差し出した。
「うん、じゃあこのノート、一番最後の日付、いつになってる?」
キョウは言われるがままにノートの最後の方からパラパラとめくっていく。すると、ノートの中盤のところに、つい最近に書かれたページが存在した。
日付は書きなぐられていたので、解読は難しかったが、その前のページと頻度から見て推測する。
「・・・昨日ですね」
「・・・・・・」
フクは何も言わなかった。ノートの中身を見るわけでもなく、心ここにあらず、といった様子でキョウがページを読んでいるのを見ている。
昨日の日付
おかあさま ごめんなさい
一昨日の日付
だんだん 怒号が 僕を 埋め尽くす
ごめんなさい、ごめんなさい、お父様 もう ゆるして
お母様を 許して
三日前の日付
外の化け物が、また庭を掘り返している。
一体何がしたいのか・・・
今日の月はやけに明るい。相変わらず、僕を睨みつけている。
遠くで悪魔の鳴き声が聞こえる。 警備隊が悪魔退治に出ているのか。
月は出たり、出なかったりしているのに、どうして僕の夜は明けないのだろう。
朝日を迎えたい。
・・・
一番最初のページ
新しいノートになった
屋敷にはいまだに、化け物がうろついている。
僕を見ると、狂ったように叫んで襲いかかってくる。
多分、もう四ヶ月は経っているのだろう。
屋敷には出られないいが、カレンダーの日付だけは毎日変わっている。
この世界はいったいなんなんだ?
お父様は、今も僕を恨んでいるのだろうか。 だからこんな仕打ちをするのだろうか?
この日記の持ち主は、子供のようだ。大人ぶった表現をしようしていたり、不安を紙に打ち明けるように書いている。おそらく見た目だけでいえば、フクと変わらない年齢だろう。
十歳から十五歳以下。大人がこれを書くには、筆跡の跡から見ても、丁寧すぎるような気がするのだ。仮にジキルのや、以前の執事長が残した筆跡は癖字と流れるようなレタリングが多用されていて、人に見せるわけでない文字は読めなくはないが、ぐちゃぐちゃとした印象だ。
キョウはこの日記を書いたのが、毎日書く生真面目さと、不安を押し隠せずに表現した文章から、誰によるものかわかった。そして同時に普通ならありえないような、この事件の真相。
(私の予想が正しければ、彼は・・・)
「キョウさん、なんて書いてあるの?」
待っていたフクが、少し退屈そうにこちらを見ていた。どうやらキョウが本を読んでいる間、退屈しのぎに本を立てて遊んでいたらしい。本を二つたてて、その間に橋渡しの本を載せている。
彼の集中力が、一般の人間の子供と変わらないことに、乾いた笑いが込み上げた。その様子に、フクは不満げだ。
「な・ん・て・書いてあるのって聞いているじゃん」
「ハハハ、すみまセン。これはエドワード様の日記です」
「え?」
「彼はまだ生きています。」
「そ、っかぁ!良かったぁ!」
フクは目を丸くさせてから、後ろにパタンと倒れた。子供なりに「心底安心した」と喜んでいるようだ。キョウはその姿を見て、こんな可愛らしくも恐ろしい化け物でも、安心することがあるのかと感心した。
だが、すぐにフクが反動をつけて上半身を起き上がると、キョウに詰め寄る。
「じゃあさ、じゃあさ、エドワード君はどこにいるの?」
「その答えを得る前に、先にあの人達が誰なのか、知る必要があります」
『あの人達』と言われて、真っ先に目を向けたのは、壁の向こうにいる首なしの男性の遺体と、女性の遺体のことだ。男性の方は儀式に使われた上に、腐敗が酷く、なんとかできたのが男女の判別だ。彼の着ている服から推測するに、この屋敷に勤めていた召使ではなく、ジキル家の一族の者と思われる。女性もまた、一介の召使ではなく、一見大人しい紺のドレスだが、布地には花の刺繍が薄くされている。
「キョウさんはこの人達知ってる?」
「いいえ、初めて見ました。召使はおろか、主人のご友人でも親族でもありません」
だとすると彼らは、一体何者なのか?フクは再び、頭を悩ませる。だがすぐにキョウが先に壁の向こう、ちょうど死体たちがあるところだろうか、そちらに目を向けていた。
【こちらに、来なさい】
彼の瞳が淡く、紅く光る。何か術を使ったのだろうか。ピリ、とフクの肌にも刺激が走った。フクが待っていると、思ったよりすぐに変化はあった。
秘密の部屋の奥から、ガタ、ガタッと何かがもがくような、物音が聞こえてきたのだ。
がた ガタガタ どちゃ、 ゴロゴロゴロゴロ・・・
どん どん ずり ずりずり ずりずりずりずり・・・・
秘密の部屋の入り口から、生きた人間であれば、しないだろう動き方に、フクは総毛立つのを感じた。
入り口には、体の曲がらない芋虫のように、足首の動きだけで、ずりずりと、部屋から出てくる男の体と、ボールのように転がる頭。それらが苦労して狭い枠組みの入り口から出てきた後から、綺麗な女性が膝や腰を曲げて出てきた。
「おお・・・」
「さっき検死をしていた時に、彼の服に手帳があるのを見かけまして・・・」
キョウはうつ伏せになっている、白骨気味の男の遺体の体に手を臆せずに突っ込む。絨毯でも転がすかのように、仰向けに体をひっくり返すと、そのまま遠慮なしに胸ポケットを弄った。
「ああ、ありまシタ・・・」
キョウはパラパラとページを開く、少し粘液で乾いたページに苦戦しながらも、だんだんと笑顔になっていくのがわかる。
その様子にフクは、顔を顰め、訝しむ。時々、キョウが「うんうん」とか「原來如此」とか中国語らしい言葉を呟くのを見ると、間違いなく真相に近づいている、が良い予感がしない・・・。
パタン、と手帳を閉じる。読み終えると、キョウは満面の笑みを持ち上げたのだった。
それは、ベストセラーの漫画を読み終えた時のお釈迦さまのように・・・
「フク・・・」
「何が・・・わかったの?」
恐る恐るフクが、目の前の糸目の青年に尋ねると、彼は弧を描いた口を薄く開いた。
「ヘンリー・ジキルさんの正体がわかりました」
それと同時に、フクの目の前に一枚の写真を見せる。
「これは?」
写真の中には、厳格そうな四十代くらいの男性が椅子に腰掛けて、座っている。下で寝ているジキルが歳をとると、こんな顔になるのだろうと思う。そして写真の彼ともう一人、人が写っている。
男のその横には、綺麗な女性が立っていた。その女性には見覚えがある、というか目の前にいる。死体の男性と一緒に出てきた、遺体の女性だ。
だが、写真の年齢よりも少し、幼く見える。
「この写真の男性、そしてこの死体こそが、ヘンリー・ジキルさんです」
「・・・・・は?」
「そして、写真の女性は奥さんのエリス様、そしてこちらの女性は彼女の妹様のガレッタ様です」
「????」
急に説明し出したかと思えば、この写真の人、そして死体が「ヘンリー・ジキル」で、写真の中の奥さんの妹が、目の前の女性と言い出した。
(いくら何でも突飛が過ぎる・・・)
「・・・急に人の名前出すと、よくわかりませんよね、ちゃんと説明します。ですが、その前に
飢えた生者の首を飛ばして作る呪いに、心当たりは?」
「 ヘァッ!!」
フクは呼吸の吸うのと吐くのを同時にしてしまったような、引き攣ったような音を喉から出した。
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