白猫様は悩める乙女の味方なり~こちら、しろねこ心療所~

恵喜 どうこ

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case7 河合めぐみ『ママの笑顔を取り戻せ』

第33話【相談内容】彼女を殺そうとした理由

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 私、河合めぐみが夫と出会ったのは8年前のこと。
 私が23歳、夫が28歳の頃です。
 行きつけの喫茶店で、たまたま相席になったことがきっかけで、私たちは仲良くなりました。
 初対面にもかかわらず懐に飛び込んでくるのがとてもうまかい人で、一流商社のトップ営業マンと後から聞いて、なるほどと思ったものです。

 そんな夫とはなんでも気軽に相談できる友人として付き合っていました。
 ええ、最初は本当に男女のお付き合いという形ではなかったんです。
 結婚を前提とした正式なお付き合いを申し込まれたのは、知り合ってちょうど二年目のことです。

 最初はびっくりしました。
 友人でしたから。
 だけど運命的なものも感じていたんです。
 今思えば、間違ってました。
 もしも時間が戻るなら、あのときの私に言ってあげたいです。

 本当にいいの?

 って。

 なぜ、彼と付き合うと決めたのか?
 友人としての彼はとてもまじめで、几帳面な人でした。
 お付き合いするようになってからは本当に完ぺきな彼氏だったんです。
 記念日を忘れない。
 常日頃の連絡を絶やさない。
 サプライズなどの演出をする。
 疲れている私を優しい言葉で癒し、温かく抱きしめてくれる。
 こんなことを積み重ねられたら『この人だったらしあわせになれるんじゃないか』って誰もが思うでしょう?
 
 付き合い始めて一年後に真奈を身ごもったときだって、彼はとても喜んでくれました。
 ありがとうって何度も言って。
 いい夫婦、親になろうって。
 だから私たちは結婚しました。
 本当にここまでは順調そのものだったんです。
 当時の私はこの先も順調にいくものだと信じてやみませんでした。
 それが一瞬の幻想だったなんて、後にならなければわからなかったんですから……

 結婚後に夫の態度が一変しました。
 付き合っているときのような優しい言葉はなくなりました。
 些細なことで怒るようにもなりました。
 彼より先に風呂に入ることも、寝ることも許されなかった。
 朝は必ず彼より先に起きて、朝食や洗濯、すべてきちんと終わっていなければならなかった。
 つわりがひどかろうが、体調が悪かろうが関係ない。
 彼の生活スタイルを乱すことは許されないことだったんです。

 もちろん、なんの努力もしなかったわけじゃありません。
 一生懸命尽くしました。
 だけど、できないときもあります。
 ごめんなさいと謝っても、いいよなんて言葉はかけてもらえませんでした。
 彼の思い描いたようにできなければ責められたんです。

 なぜできない?
 なぜ間違えた?
 考えればわかることだろう?
 君はどうしてそんなに無能なんだ。

 正直、言われたこと全部は覚えていないんです。
 ただつらかったのだけは鮮明に頭と心に残っています。
 泣きました。
 泣いて、泣いて、泣いて。
 なにをしていても涙が出てくるんです。
 もうなにもかも放り出したい――そんな私を支えてくれたのが真奈でした。

 私がつらくて泣いてると、真奈がお腹の中から蹴るんです。
 頑張ってって。
 そう言われているみたいに思えました。
 真奈がお腹の中で元気に育ってくれていることだけが私をこの世界に留めてくれたんです。
 この子のためにも父親は必要。
 だからどんなひどいことを言われても、自分さえがまんすればいいと思って、私は毎日をやり過ごしていました。

 真奈が生まれるまでの期間はとても長かったです。
 そしてこの子が生まれたときのことを私は生涯忘れません。
 24時間以上もの陣痛に耐えて、彼女の産声を聞いたときはそれまで耐えてきたものがあふれるみたいに涙がとまらなかったんです。
 だって本当に天使だったんです。
 かわいくて、かわいくて。
 つぶらな目を見て、小さな手を握って、私は誓いました。
 絶対にこの子を幸せにするんだって。
 夫も生まれたばかりの真奈に最初こそとまどってはいましたけど、無垢な彼女の寝顔に癒されたみたいで謝ってくれました。

『今までつらくあたってごめん。これからはいい夫に、いい父親になるよ』

 そうやって、彼は病室で泣きながら私に謝ってくれました。
 真奈が生まれてきてくれたことで、私たち夫婦の関係は結婚する前の状態に戻っりました。
 彼は宣言通り、完璧な夫、完璧な父親でいてくれた。
 真奈はそんな彼が大好きになった。

 ああ、これで大丈夫。真奈がいればきっと――

 そう思ったのもつかの間でした。
 しあわせな時間って長くは続かないものですね。
 真奈のいやいや時期を迎えた途端に終止符が彼がおかしくなったんです。

 いやいや時期?
 二歳児特有の症状というか、成長に必要な行程なんです。
 なんでも『いや』って言うんです。
 それまでは笑顔でなんでも喜んでくれたのに、好きだったものも嫌いになっちゃうんです。
 とはいえ、本当に嫌いで『いや』っていうわけじゃなくて。
 そういう時期なんですよ。
 でも、これに夫が対応できなくなったんです。

 どんなに優しい言葉をかけても彼女は横を向きました。
 抱っこしようとすれば全力で拒否して私の背に隠れました。

 違う。
 これは時期的なものだから。
 あなたを嫌いになったからじゃないから。

 どんなに伝えても、彼は聞いてはくれませんでした。
 拒絶されたことに傷ついてしまったんです。
 根は純粋な人だから。
 彼は真奈に対する怒りを募らせていきました。
 いやいや時期を乗り越えて、彼女が再び彼を求めようとしても、今度は二度と手を差し伸べませんでした。
 それどころか怒りを彼女にぶつけるようになりました。
 箸を落とせば怒鳴る。
 大きな物音を立てれば物を投げる。

 私は必死に彼女をかばいました。
 それもいけなかったんです。
 でも、母親です。
 子供を守るのは当然でしょう?
 
 彼はそんな私の態度にますます怒りを溜め込んでいきました。
 そしてついに手を上げました。

 ごめんなさい。
 はあっ……
 はあっ……
 
 思い出すだけで苦しくて。
 すみません。
  
 手をあげた理由は些細なことでした。
 彼女が彼の大事にしているプラモデルを壊してしまったんです。
 一緒に謝ろうと言いました。
 パパに正直に話そうと。
 そのことを今でも私は後悔しています。

「ごめんなさい」と言い終わる前に彼は彼女の頬を思いっきりはたいていました。小さな体が仰向けに床に倒れて……頬は真っ赤に膨れ上がってました。
 口の端が切れて血がにじんで。
 火がついたように小さな彼女は泣きじゃくりました。
 それを聞いてますます夫は逆上し、倒れる彼女の髪の毛をひっつかみました。

 『やめて! 真奈を殺さないで!』

 私は声の限りに叫びました。
 それくらい、鬼気迫っていたんです。
 叫んだ私を見下す彼の目が大きく見開きました。

『ふっざけるな!』

 彼は容赦なく私の腹を蹴りました。
 顔も殴られました。
 どれほどの時間、暴行を受けたのか。
 気づいたら、私は床に倒れていました。
 指一本動かせなくなっていて……
 真奈の『ママ! 死なないで!』っていう叫び声だけが遠くに聞こえました。
 
 ――あなたが無事ならそれでいいのよ。

 意識が飛んで、真っ暗になりました。
 ああ、私は死ぬんだと覚悟もしました。
 
 次に目を開けたとき、夫は憔悴しきった姿で私の目の間に座っていました。
 私と真奈に何度も、何度も「ごめん」と土下座をして謝りました。
 昔からカッとなると自制できないんだと。
 だからいつも完璧な自分であろうとしていたんだと、彼は告白してくれました。

『今まで以上に大事にする。だから許してくれ』

 私は彼を許しました。
 こんなにもひどい仕打ちをされたのにって不思議でしょう?
 普通ならありえないですよね。
 だけどね。
 怒らせてしまった自分にも非はあるのだとそう思ったんです。
 それに死ぬほど後悔しているのならば、きっと繰り返すことはないだろうとそう思って。
 
 でも甘かった……
 一度暴力を振るえば、枷が外れやすくなってしまうということに気づいていなかったんです。

 それに運も悪かったんです。
 彼の業績が落ちてしまったんです。
 一時期は会社のトップセールスを築いたこともあった彼が売り上げを伸ばすことができなくなってしまったんです。
 そのストレスが私や真奈に向かう。
 
 地獄のループの始まりです。
 
 そのうち、彼は会社にも行けなくなりました。
 酒を浴びるほど飲む。
 ギャンブルに手を出す。
 酒を切らせば暴力に走る。
 怒声は毎日やむことがありません。

 生活はギリギリ。
 貯金も底をついた。
 もうどうしていいかわからない。
 誰に相談していいのか。
 誰が自分たちをこの地獄から救い出してくれるのか、私にはわからなかったんです。

 それに相談したことが彼の耳に入って、余計に暴力を振るわれたら私たちは確実に死んでしまうでしょう。
 真奈を守りたい。
 この子だけでも守りたい。
 生かしたい。
 
 だから怖くても、怖くても誰にも言えなかったんです。
 
 それでも暴力はやみません。
 真奈の体は傷だらけ。
 ううん、体だけじゃない。
 心はもっと傷ついてます。
 なのに、あの子は笑うんです。

 『ママ、だいじょうぶ。あたしがまもるよ』

 って、私のことを抱きしめてくれるんです。

 真奈をこれ以上苦しめたくなかった。
 逃げても彼は追ってくる。
 どこまでも執拗に。
 完全に彼との縁を切るには死ぬしかない。

 そう思って私は、すこやかな寝息を立てている娘の細い首に両手をかけました。
 彼女を守るために――
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