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case6 伊藤真紀『真夏の夜のお猫様』

第26話【インテーク】あんた、頭おかしいんじゃない?

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 真夏の夜の夢なんだろうか。
 駅のホームで停まった電車に一匹の猫が乗り込んできた。
 小さな顔には大きすぎるんじゃないかと思える三角耳をした白い猫だ。
 しかも、やたらと尻尾が長い。

 さっきまでネット掲示板を開いていたスマホ画面をスウィングして、待ち受け画面に戻す。
 デジタル表示された時間を確認すると、午後11時40分になっていた。
 最終電車。
 酔っぱらったおっさんや残業疲れで顔をやつれさせたサラリーマンがまばらに乗っている。
 そんな電車内に猫がやってきた。
 何食わぬ顔で私の足元を通過した猫はどういうわけか、ひとり分の空席を設けて私の隣へ、足音も立てずに飛び乗った。
 そのまま両手足を体の中に折り畳んで丸くなると、猫は静かに目を閉じた。

 プシューッと空気が抜けるような音がして扉が閉まって、ゆっくりと線路の上を車輪が滑る。
 線路のつなぎ目でカタンッと車両が小さく揺れた。
 しかし猫はまったく気にする様子もなく、ただじっと目をつむったまま丸くなって座っている。

 周りに視線を走らせる。
 向かいに座っている酔っ払いのおっさんは猫に気づきもしていないのか、うつらうつらと船を漕いでいる。
 少し離れたところの対面にいるデート帰りのカップルは顔を寄せ合ってはクスクスと楽しげに笑って、気にも留めていない様子だった。

 誰ひとりとして猫のことなど気になっていない様子なのが不思議で仕方ない。
 だって猫だ。
 体長は50cmくらいはある。
 猫のサイズとしてはそこそこデカいほうだと思う。
 蛍光灯に照らし出された白い毛は、目がちかちかするほどまばゆくテカっていた。
 オーラをまとっているとでも言ったらいいんだろうか。
 とにかく普通の状況じゃないし、普通の猫じゃない――と思う。

 ちらりと伺うように猫に視線を戻した。
 目をつむっていたはずの猫が私が座る側の目だけを開けた。

 眼球が動く。
 視線がぶつかる。

 数秒だと思う。
 猫は面白くないものでも見たと言いたげに、また目をつむってしまった。

「かわいくないわあ……」

 ぽつりと思わずこぼれた言葉に反応して、猫の大きな耳がプルッと震えた。
 ふああと大きな欠伸をした猫が、退屈そうにまた私を見た。
 今度は顔をこちらにまっすぐ向けている。
 その表情はなんともやさぐれている。

 ふてぶてしいヤツ。

 それが白猫に対する正直な私の感想だ。
 飼い猫だろうか。
 野良猫のようには見えない、やわらかそうな毛だ。
 となると、相当ワガママに育てられたんだろう。
 ここにはいない飼い主には同情したくなる。
 こんな我が物顔で家の中を闊歩されたら、私なら即、外へたたき出す。
 誰が飼い主なのか思い知って来いって。

「次は神守坂かもりざか~。神守坂です。お出口は左側になります」

 車内アナウンスが流れて、電車の速度がゆるやかになった。
 ゆっくりとホームに入っていく電車が停車する。
 空気が抜ける音が再び鼓膜を打った。
 扉が開く。
 夏のじっとりと湿気を含んだ熱い空気が冷房の効いた車内へ縫うように入ってくる。
 それと同時に白い着物に紫色の袴をはいた男の人が乗り込んできた。
 袴には白い色の模様が描かれている。
 とても凛々しく、神々しい感じがした。
 その人の周りだけ空気がすごく澄んでいる。
 年はそう、20代後半だろうな。

 長い黒髪を後ろでひとつに束ねていて、肌もすごく白い。
 コスプレイヤーだろうか。
 この人がコミケ会場に来たら、すごい人だかりができそうだけど――と思いながら男の人を観察する。
 彼の切れ長の目がこちらを見た。
 視線が合う。
 その直後、にこりとほほ笑まれた。

 ――えっ!? うそっ!?

 彼が私のほうへ迷いなく真っ直ぐに向かってくる。
 慌てふためいて、姿勢を正す。
 二次元萌えの私にとって、彼はまさに超タイプ!
 というか、私の描いている漫画の主人公にしたい!

「ああ、迎えに来てくださったんですね」

 彼がそう話しかけてきた。

「えっ、その……」

 ドギマギして、うまく言葉が出てこない。
 予想外の展開だ。
 しかし次に彼が口にした言葉で、私の心は瞬間冷却されることになった。

「こんな夜遅くにすみません。白夜さん」

 ――白夜さん!?

 ハッと冷静になって隣を見る。
 私の隣で丸くなっていた白猫が退屈そうにふぁあと長いあくびをした。
 和装姿の男の人はそんな大あくびをする白猫に向かって話しかけていたのだ。
 自分の勘違いに恥ずかしくなって急いで顔をそらした。
 なにもなかったかのようにスマホをいじる。
 
 ――クッソ恥ずかしいわ、これ!

 画面をスワイプする指がこれまでにないほど早くなっている。

 男の人が白猫の隣にゆっくりと腰を下ろした。
 カタタン、カタタンとレールのつなぎ目で跳ねる電車の車輪の音だけが、静まり返った社内に響く。

 白猫は姿勢を変えることなく、ただじっと座っている。
 その隣で、白猫の飼い主らしき男の人も黙って座っている。

「あのお」

 気持ちがやっと落ち着いた頃、そう声を掛けられた。
 返事はせずに視線だけを声のしたほうへ向ける。
 男の人がこちらを見ていた。
 今度こそ間違いなく、だ。

「よろしければ、次の駅でお茶しませんか?」
「は?」

 あまりにも唐突な誘いについつい声が出てしまった。
 男の人は慌てたように胸の前で両手をバタバタと忙しく左右に振って「違うんです」と答えた。

「突然こんなこと言ってくるなんて、何言ってるんだって思いますよね! でも本当に違うんです。私じゃなくてこの方がそう言えっていうものだから」

 男の人が隣の白猫を指して言い訳した。

「っていうか、ナンパならもっとマシな嘘のつき方あると思うけど?」
「そんなんじゃないですって! ほらっ、白夜さん。だから怪しまれるって言ったじゃないですか! だって相手の子は中学生ですよ! 中学生に成人男性が声を掛けたらどうなるかわかるでしょ! 私、犯罪者になっちゃいますよ! っていうか、お茶じゃなくてもアイス一緒にどう?とか、もっと違う誘い方あるじゃないですか! お茶なんて言うからもう、こんなことに!」

 男の人が白猫に向かってマシンガンのように訴えている。
 猫のほうはと言うと、知らん顔で目をつむっている。

 黙っていれば超イケメンなのに、言っていることが残念過ぎるという自覚はあるのだろうか。
 っていうか、変人と思われる原因、そこじゃないし。

「なんか、猫のほうが上って感じだね」
「そうなんです! この人、もう人使いが荒くって! 私のことをあごでこき使うんですよ。ひどいんです! 本当にひどすぎるんです!」

 そう答えた男の人から「いたっ!」という小さな悲鳴が上がる。
 どうやら彼の言葉に機嫌を損ねた猫がしっぽで反撃したらしい。
 男の人は手の甲をすりすりと摩っている。
 いい関係なんだな――そう思ったら、胸の傷がじくりと大きくうずいた。
 こんな風に好きなことを言っても許される仲だったらどんなによかったろう。
 そう思ったら無性に苦しくなって、唇を噛んだ。

「ええっと。そうですね。疑われているようなので自己紹介しましょうね。実は私、こういう者でして」

 男の人が着物の懐から一枚のカードを取り出して、私に見せた。
 そこには黒い文字で『しろねこ心療所 久能孝明』とハッキリ印刷されていた。

「あんた、神主さんかなんかのコスプレしてただけじゃないの?」
「コスプレじゃないです。半分、そっち系の仕事してまして。今日はちょっと会合に呼ばれてこんな姿をしてますけど、本職はこっちです」
「精神病のお医者さんなの?」
「いえいえ、残念ながらお医者さんではないです。強いて言うなら女性の味方、でしょうか?」
「女性の味方って……ヒーロー気取ってるの?」
「気取ってるんじゃなくて、正真正銘のヒーローかと。あっ、でもヒーローになるのは私じゃなくて、こちらにいる白夜さんなんですけども」
「ちょっと、本当に何言ってんの? あんた、頭おかしいんじゃないの?」

 本気で変な人だ。 
 関わらないほうがいい。
 レイヤーさんじゃないなら、新手の宗教勧誘に違いない。

 そう思って次の駅で降りてしまおうと席を立つ。
 扉へ向かおうとする私に向かって男の人の声が飛び込んできた。

「どうせ行く宛もない家出娘なんだから、一杯くらいつき合えよ」

 上から目線な言い方に、ムカッと来て振り返る。
 男の人は困ったように「私じゃないです、こっちです」と白猫を示して続けた。

 男の人から視線をずらして、座席で丸まったままじっとしている猫を見る。
 私を睨みつける二つの水色の目ん玉が強い力を放っていた。
 「口答えは却下だ」とでも言いたげに――




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