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case3小池幸子『お礼はかつお節踊るたこやきで』

第14話【計画実施】クズに名乗る名前なし!

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 翌日の土曜日。
 私はさっそく白夜さんに言われたフレアの膝丈プリーツスカートを購入した。
 彼の目のように薄い青色を選んだ。
 少し透け感がある、今までの私が選んだことがないような女性らしいデザインの白のブラウスも一緒に購入してみた。
 あと、忘れてはいけないのがピンヒールだった。
 それこそ人生初になるヒールの購入はちょっとドキドキしてしまった。
 ツヤツヤ、テカテカの意味も「おそらくエナメルのことかと」と、久能先生から教えてもらっている。
 7cmもあるピンヒールに足を通すと、背筋がすっと伸びた気がした。
 履き慣れていないから、最初はおっかなびっくりだったけど、履いてみるとちょっと景色がちがって見えた。
 顔が自然に前を向く。
 足元を見て歩くとバランスが取れなくなるからだ。
 一本の線上を歩くように足を置く。
 コツンッと地面に響くヒールの音がクセになりそうだった。

 ここまで変わるのならと、思いきって髪もアップにしてみる。
 たったそれだけのことなのに、鏡の前の自分はまるで別人だった。
 いつも自信がなくて真一文字にひき結んでいた口が自然に緩んでいた。
 不思議なことに口角も上がって見える。

「大丈夫、幸子。今日の私なら、課長の誘いだって断れる」

 そう口にして会社へ向かった。
 胸の鼓動がおさまらない。
 会社に入る前に一度思いきり深呼吸した。
 緊張がやまない。
 震える手で頬を打つ。
 うんっと大きくうなずいて、私はオフィスの扉を開けた。

「おはようございます」

 いつもと同じように挨拶をして、自分の席に腰を下ろす。
 すでに出勤していた先輩や同僚が目を丸くして遠巻きに私を見つめている。
 驚くのも無理はないか。
 私だって、自分の変身ぶりには心底驚いたのだから。

 オフィス内を見回す。
 課長はまだ来ていない。
 ふうっと一息ついてからパソコンの電源を入れた。
 立ちあがる画面を眺めていると背後から「おはよう」という低い声が聞こえてきて、すかさず振り返る。
 やってきたのは言うまでもなく高塚課長だった。

 課長と目が合う。
 彼は目を見張った。
 私を凝視する彼は声を上げることなく、じっとこちらを見つめていた。
 しばらくして彼はまいったとでもいうように頭をゴリゴリと掻くと、「なんだ。小池かあ」と大きく笑った。

「見違えるもんだなあ。あんまりにも女っぷりが上がって、一瞬誰かわからなかったよ。もしかして男でもできたのか?」

 私の傍に近寄ってくると、肩を抱いて揺する。
 タバコの匂いがうっすら漂って、すぐに顔を背けた。
 歓迎会のときに飲んだビールの苦い味が口の中に広がっていくみたいに体の中を気持ち悪さが駆け抜けていく。

「なあ、小池。ちょっと今いいかな」

 課長が私の耳元でささやく。
 すばやく周りに目を走らせるが、課長の様子を察した社員たちがこちらを見ないように着席していく。

 ――やっぱりだ。

 みんなわかっていながらも助けてくれない。
 素知らぬふりをする同僚や先輩の姿に、私はぎゅうっと奥歯をかみしめた。
 こんな仕打ちに耐えられずに辞めていった人は少なくないと聞いた。
 本来なら辞めるべき人間は課長のはずなのに、みんな泣き寝入りを強いられる。こんなことがまかり通っていいわけがない。
 それなのに、悔しさだけが空回りする。
 でも言わなくちゃ。
 変えなくちゃ。
 そう思うのに体の震えがとまらない。

 ――言うのよ、幸子。私なら言える! 絶対に!

 ぎゅうっと両手を握りしめて勇気を振り絞る。

「あの……課長。手を放していただけますか? セ……セクハラだと思います……」
「はあ?」

 課長があからさまにいやな声を上げた。
 何を言ってるんだとでも言いたげな剣呑な色を含んでいる。

「おまえ? 恥ずかしい写真とか動画、社内中にバラまかれたいのか?」

 課長が私の耳元でささやくように言った。
 写真の有無は確認してないけど、この人ならやりかねない。

 ――白夜さんにせっかく勇気をもらったのに、やっぱり泣き寝入りしかないんだ。

 そう思って唇をかんだときだった。

「まったく、ここにはロクな人間が揃ってねえなあ」

 聞き覚えのある声が鼓膜を叩いて、私の震えがピタリとやんだ。
 ゆっくりと振り返れば、見覚えのある若い男性がオフィスの扉付近の壁に寄りかかって立っていた。
 その隣には知らない中年男性の姿もあった。
 無精ひげを生やした人の好さそうなスーツ姿の男性は、困ったように目じりを下げながらぼりぼりと頭を掻いている。

 ――いつの間にいたの?

 誰も気づかなかったようで、二人を不思議そうに見つめている。
 だけど私にはもっと不思議なことがあった。
 若い男性の雰囲気が初めて会ったときとまったく違うのだ。
 長い黒髪は白色に変わり、肩にかかるように下りていた。
 黒のスーツも着ていない。
 真っ赤なスカジャンにジーンズ姿。
 つばの広いスポーツ帽を被っているので表情はまったくわからないけど、その立ち姿は間違いない。
 久能先生その人だ。

 白い髪に変化した久能先生は「よいしょっ」と壁から背中を離してまっすぐ立つと、首を左右交互に倒した。
 コキッ、コキッと関節が鳴る。
 そんな久能さんに中年男性が「やりすぎるなよ」と声を掛けると、久能さんは面倒そうに「うっせえなあ」とつぶやいた。

「誰だ、おまえらは?」

 課長が私から手を離して、久能先生に問う。

「生憎、クズに名乗る名は持ち合わせてねえんだわ」

 部屋の空気が一気に冷えきるほど低い声で久能先生が答えた。
 あごを上げた彼の顔がほんの少し見える。
 帽子の下で、ギラギラと尖ったアクアブルーの目が光っていた。
 口調までがまったく違う。
 あの腰の低い久能先生とは到底思えない。
 白猫の白夜さんが人間に変化しているとしか言いようがない。

「貴様! 部外者が入ってきていいと思ってるのか!」
「黙れ、外道が!」

 ガツンっと近くにあった椅子を久能先生が思いっきり蹴っ飛ばした。
 勢いづいた椅子が課長の足にまっすぐ向かってくる。
 すると課長はとっさに自分の身を守ろうと私を縦にした。
 ヒールを履いていてよろめく私に椅子が迫る。
 怖くて硬直する私の目の前に、刹那大きな影が走った。
 ぐんっと引き寄せられて力強く抱きしめられる。
 しっかりと鼓動が聞こえた。
 ゆっくりと視線だけを上げる。
 私を抱きしめたのは久能先生だった。
 何メートルも離れた場所にいたはずなのに――彼は瞬間移動したみたいな俊敏さで私の前にいたのだった。

「おまえ、女を盾にしたな」

 ベキベキベキッと固い物が握りつぶされるような音が響いた。
 久能先生が椅子の背を握りしめていた。
 硬い背もたれが信じられないくらいベコベコに折れ曲がっている。
 空気がミシミシと音を立てて凍りつき、真冬の空の下にいるみたいに芯から冷えて、ぶるぶると震えが走る。
 驚いたことに吐き出す息も白くなっていた。

「おまえだけは絶対に許さねえ」

 久能先生が立ちあがる。
 その足元にポトリと帽子が落ちて、見上げた私の目に信じがたいものが飛び込んできた。
 大きな白い耳が二つ、彼の頭から生えている。

「な! 化け物!」

 課長が青ざめた顔を引きつらせた。
 悲鳴を上げて、踵を返す。
 慌てふためいて一目散に逃げ出そうとする背中に向かって、四つん這いになった久能先生が背中を弓なりに反らせて一気に飛んだ。
 課長の無防備になった背中に赤い五本線が斜めに走る。
 スーツの生地が千切れて宙に舞う。
 久能先生の長く尖った爪が課長の背中を渾身の力で引き裂いたのだ。
 背中から真っ赤な血が飛んだ。
 ひっかき傷がぷっくりと赤く盛りあがる。

「いぎゃあああっ!」

 課長の絶叫がこだました。
 彼は呻きながら、床に突っ伏して「痛い! 痛い!」と叫んだ。
 光に当たった久能先生の目は縦長に瞳孔が閉じている。
 怒りが収まらない彼の口から尖った牙までも見える。
 彼はじたばたともがく課長の髪を容赦なく引っ掴むと、自分の顔を近づけた。
 目を見開いて「助けてくれ。助けてくれ」と命乞いする課長を睨みつける。
 鼻には小さな横じわがいくつもできていた。
 しわができるたびにちらちらと鋭い犬歯が見え隠れした。

「ひっ! ひぃっ! お願いだ! 命だけは助けてくれ! なんでもする! 金が欲しかったらいくらでも出す! だから頼む! 命だけはとらないでくれえっっっっ!」

 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で課長は久能先生に哀願した。
 すると彼は待っていたとばかりにうなずく。
 それから「命だけでいいんだな」とニヤッといじわるく笑ってみせたのだった。

「あとはどうなってもかまわないんだよな?」

 念を押すように久能先生が尋ねた。

「あ、ああ。もちろんだ! 命だけで! 本当に!」
「じゃあ。そうさせてもらおう」

 そう言うと彼は課長の目の前に突きつけていた右手をすばやく動かした。
 大きな手が課長の股間に伸びる。
 
「はい、はい。そこまで」

 力をこめようとしていたと思われる久能先生の手をつかんだのは、それまで静かに成り行きを見守っていた中年男性だった。
 男性は「これ以上やると、いくら俺でもおまえを逮捕しなきゃならなくなるからな」と告げた。

「な……なんだって?」

 課長が震える唇でそう問うと、中年男性はスーツの上着から身分証を見せてこう言った。

「俺は神守坂警察の犬飼って言います。今回、小池幸子さんへの脅迫罪であんたを逮捕しに来たんだ。あっ、ちなみにこれは逮捕状」

 そう言って、折りたたまれたA4サイズの紙を広げて見せる。

「ちがう! 俺はそんなことしてない!」
「そうですかい? 俺は地獄耳でねえ。あんたがさっき小池さんに向かって『恥ずかしい写真や動画をバラまかれたいのか?』って言ってんの、聞いちゃってるんだよねえ、これが」
「そ、そんなこと、い、いうわけがない!」
「ごちゃごちゃ言ってんじゃねえよ、外道が! そういうことは後でゆっくり聞いてやる! まあ、言えたらの話だがな」

 犬飼刑事さんが久能先生から手を放して、首を縦に振った。
 その瞬間、久能先生の手が躊躇なく課長の股間を握りつぶした。

「ぎやあああああっっっ!」

 断末魔の叫び声――というものを私は初めて聞いた。
 それこそ会社中に響き渡ったのではないかと思うほどの絶叫が課長の口から飛び出していた。
 課長の体から一気に力が抜けて、床に転がる。
 白目になって泡を吹いている。
 完全に意識が飛んでいるのは誰の目から見ても明らかだった。
 だけど、誰も彼を助けに動こうとはしなかった。
 自業自得なのかもしれない。
 捨て置かれたままの課長を哀れな目で見つめながら、久能先生は「やれやれ」と肩を落とした。

「本当にクズばかりの会社だな、ここは。上司も上司なら、部下も部下だ」

 呆れたように周りを見て「いいか、おまえら」と彼は静かに告げた。

「見て見ぬフリをして、こいつの悪事をとめなかったおまえらにだって同罪なんだぜ? 今回は見逃してやるが、今後同じようなことをする奴がいたら、こいつと同じ目に遭わせてやるからな。覚悟して仕事に励め。いいな!」

 久能先生の恫喝に、一同揃って頭を縦に振った。
 それを見届けた彼はゆっくり私の元まで近寄ってくると「大丈夫か、幸子?」と気遣うような優しい声音で尋ねた。

「は、はい」
「そうか」

 彼が私の手をとって立ちあがらせてくれる。
 目の前にいる彼をじっと見つめる。
 姿は久能先生だけど中身は違う。
 この人は間違いなくしろねこの白夜さんだ。

「あの……白夜さん。その……ありがとうございます」

 頭を下げると、上から「チッ」という舌打ちが聞こえた。
 急いで体を起こすと「違うんだよなあ」と大きくため息を吐かれた。

「間違えんな、愚民め。俺様は白夜さんじゃねえ。白夜様だ」

 まったく孝明あのバカが訂正しないから……なんてブツブツ文句を言いつつ、彼は足元の帽子を拾い上げた。
 キュッと深く被り直すと「さてと」と彼は大きく伸びをした。
 180cm近くある身長がさらに伸びたような気がした。

「あの……どうなってるんですか、その体? 魂が入れ替わってるとかですか?」

 私の問いに白夜さんは面倒臭そうに片方の目をつむった顔で「ちげえよ」と答えた。

「憑依術。昔、昔、平安よりも前からある由緒正しい呪術だよ。あのバカは神力の高い家の血筋で、そういう術に長けてるんだよ。すげえだろ?」
「は……い」
「おまえ、リアクションうっすいなあ。もうちょっとテンション高く『すごい! かっこいい!』くらい言えるようにならねえと。まあ、それは後々の宿題にしてやるか。じゃあ、あとは犬飼のおっさん、たのんだぜ? 俺様は忙しいから帰る」
「まったく、いっつもおまえの尻ぬぐいさせられるこっちの身にもなれよなあ。やることだけやって、はいサヨナラだからな、おまえってやつは」
「俺様のおかげで出世しまくったくせになに言ってんだ? だいたい、あんたもやれってGOサイン出したんだから同罪じゃねえか」
「まあ、日本の法律じゃあ加害者は守られちまうもんだから。被害者のことを思うとこれくらいの代償は必要かなと思ってな」
「あんたのそういうところ、俺様は高く評価してるぜ?」
「猫神ごときに褒められてもちっともうれしくねえよ」
「なんだと! そっちは畜生神だろうが!」

 面と面を突き合わせていがみ合う二人の間に「まあまあ」と割って入る。
 するとする少し落ち着いたのか、「そうだ」と白夜さんがなにかに気づいたようにふと天井を見上げた。

「幸子。今のおまえなら、お酒じゃなくてお茶でもいいから時間作ってくれって誘う男は多いと思うぞ。やっぱり俺様の見立ては確かだったな」

 うんうんと彼は満足そうに大きくうなずいて自画自賛した。
 しかしすぐに真剣な表情に戻り、私に向かってビシッと力強く右手の人差し指を突き出した。

「だけどな、バカな男もごまんといるから。下心しかねえようなヤツが近づいて来たら、そのときは今度こそ今履いているピンヒールで蹴とばしてやれ! 股間を狙ってな!」

 白夜さんの命令に、私は姿勢を正して「は、はい!」と返した。

 それを聞くと「じゃあ、いい子でな」と彼はくるりと背中を見せてバイバイと手を振った。

「はい。がんばります」

 見えなくなった彼の背中に向かって、私も手を振り返した。
 口角は自然に上向きになっていた。
 スカジャンの背中の柄が力強く吠える白虎の顔だったことに笑わずにはいられなかったから。
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