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第二話 悪魔と弟子としあわせの鳥
しあわせの鳥
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「ふわあああああ」
お師匠先生は雲ひとつなく冴え渡った空に向かって片手を突き上げながら、涙目で大あくびした。学校までの十分足らずの道のりを、彼はうつらうつらと船をこぎつつ歩いている。
それもそのはず。ちゅんたが巣立ち、これまでの忙しさが嘘のように暇になった。おかげでお師匠先生はやることがなくて退屈で、退屈で仕方ないんである。
仮にも教壇に立っている身の上なんだから、もう少し実を入れて生徒に教えたらいいと思うが、そもそもお師匠先生が『美術教師』なるものを選んだのは「芸術は自由だから、好きにしたらいい」と、正々堂々、職務放棄ができるからだった。そう言われたら身も蓋もあったもんじゃない。
が、この世の無責任を一手に引き受けるくらいには無責任極まりないお師匠先生である。「それじゃ、教えを乞う生徒があまりにも不憫だ」と言ったところで「ならば教えてくれる人に乞えばいい」と一笑に付すだけで、聞く耳なんか持ちゃしない。
そもそも、彼に「身を粉にして働き給え」なんてことは戯言以外の何物でもない。つまるところ、お師匠先生には何を言っても無駄なんである、興味を引くこと以外は。
「ちゅんた、元気でやってますかねえ」
「まず大丈夫でしょう。あんな凄腕ハンター、二羽といないでしょうから」
「はあ……そうですよねえ」
あたしはちゅんたの立派になった広い背中を思い出し、嘆息した。彼は鳥界でも類を見ない狩り名人になって巣立っていったんだが、そうなった原因は、言うまでもなくお師匠先生だった。
あたしたちがガーゴイルに襲われたあの日。怒りに満ちたお師匠先生はガーゴイルたちを、鳥界で大人気の昆虫であるハエに姿を変え、ちゅんたに狩りの練習をするように命じたんである。
それは阿鼻叫喚の地獄絵図とも言えた。
ちゅんたは、指南役を買って出たチュン太郎兄さんの言うことを、それはそれはよく聞いた。ハエなったガーゴイルたちが泣こうと喚こうと執拗に追い回し「お願い、食べてくれ」「ご慈悲をくだされ」と哀願してこようがトコトン無視して突き回した。
そうして日が暮れるまで何時間も、何時間も狩りの練習に勤しんだ。
逃げ疲れたガーゴイルたちが飛ぶことすらままならなくなったころ、ようやく狩猟の修業は終わりを告げた。
ちゅんたはその鬼のような修行の結果、疾風のような俊敏さと、相手を一撃で仕留める攻撃力、さらにはどんな場所に隠れようとも確実に獲物を捉える探索力を手に入れた。そのあまりの勇猛な姿に、「ホークアイ(鷹の目)」という異名をつけたチュン太郎兄さんたちは、その名を鳥界に広めに走っていった。
これら一連をにこやかに眺めていたお師匠様は、手にしていたクリームソーダからクリームがポタポタこぼれ落ちようとも「ツバメが鷹になった」と諸手を上げて喜んだ。川村さんも感無量といった様子で、大きな両目からドバドバと滝のように涙を溢れさせた。
かくいうあたしも、ちゅんたの目を見張る成長に涙を禁じえなかった。オイオイと声を上げて男泣きに泣いた。胸の奥に噴水の蛇口があって、そこから一気に水があふれ出てくるように、感情がドッと溢れてきて、止めようにも止められなかった。こんなことは初めてである。
そしてまた、そんなあたしの頭を、お師匠先生が優しくポンポンしてくれた。とても珍しいことである。
彼は大量の鼻水を垂れ流して泣き倒すあたしに「いいかい」と言った。
「子供はいつだって旅立つものなんだよ」
と、らしくもなく、しみじみとした声風でそんなことを囁いた。
だもんであたしは、もっと泣けてきてしまった。
なんだかそれは「おまえもいつか私から旅立って行くんだからね」と念押しされているみたいだったから。
でも、お師匠先生には言わなかった。切ない気持ちがこみあげてくるのを、グッと胸の奥深くにしまい込んで、あたしたちはちゅんたと最後の時間を過ごした。
まず、お師匠先生が念願だったちゅんたとの散歩を成就させた。あたしたちもちゅんたの背に乗って、並んで散歩に同行した。
遥か向こうに遠州灘の水平線が見えた。沈んでいく真っ赤な夕日は、青かった空と海とを橙色に染め、境界線を曖昧にさせた。
美しい絵画みたいに水面は白波を立て、キラキラとまばゆく光っていた。みんな、弾けるような笑顔を浮かべていた。あたしも笑っていた。
なんと楽しく、なんと胸躍ることか。この夕日を、きっとあたしは一生忘れまい――そう思った。
そうして空の散歩を終え、家路についたあたしたちは、ちゅんたの大好物のお団子を山ほど作り、同じカップラーメンを啜った。特性の巨大プリンアラモードを皆でガツガツ平らげ、ちゅんたの羽毛にうずもれてぐっすり眠った。
しかし、どんなに来るなと願っても、旅立ちの朝はやってくる。
その日、お師匠先生はちゅんたに掛けた魔法を解いた。魔法が解けて普通のサイズに戻ったちゅんたは、川村さんの手のひらから元気に空へと飛び立った。一度、近くの電線に停まったあとは、もう振り返ることなく大空へと羽ばたいていった。
去っていくちゅんたを見つめながら、お師匠先生は川村さんに質問した。
「きみはこれでよかったかい?」
「はい、先生」
「とてもいいことをしたと思うかい?」
「はい、先生。とってもいいことをしたと思います」
「そうかい。それはどうもありがとう」
立派な漆黒の片翼が姿を見せたのと同時に、川村さんの意識は吸い込まれるように失われていった。
こうしてあたしたちの二週間に渡るちゅんたとの生活は終わりを告げると同時に、川村さんの相談も無事に解決することになった。
「しかしなあ、やっぱりスタンプ一個は納得がいかないなあ。だって、考えてごらんなさい? 町の美化活動にも一役買ったし、働かずにゴロゴロしているだけの旦那連中も働いて、奥様方のストレス減にも役だったし。それにむやみに人の世界を荒らしていたうちの連中にも仕置きしてやったし。なにより無駄に犠牲を出してないじゃないか、今回! 良いことづくめなのに、なんでおまけのスタンプがないのか。あのイカレ天使は天使のくせに慈悲というものが皆無だね。鬼天使だね。いや、鬼〇〇〇野郎だね」
「そうですねえ……」
あたしは静かに相槌を打った。
たしかに――とは思う。人の世界で好き放題して、むやみに命を食い散らかしていたガーゴイルたちだって、お師匠先生は殺しはしなかった。最後の最後に慈悲深さを見せ、あるべき世界へ帰らせた。
なお、彼らは昔、お師匠先生が飼っていたというガーゴイルらしい。小さい頃は可愛く、なにかとお師匠先生の後ろをついて回ったガーゴイルたちだったが、思春期を迎えたころに、お師匠先生の大事にしているドールたちを引きちぎって遊びんだせいで怒りを買い、片目を奪われたうえ捨てられたらしい。
その後、余計にやさぐれたガーゴイルたちは人間界へ潜入。自分たちを捨てたお師匠先生にいつか仕返ししてやろうと力をつけるために命を貪ったということだった。
こうして聞いてみると、ちゅんたの家族が亡くなった理由は元を正すとお師匠先生のせいということになる。当のお師匠先生は「言いがかりにもほどがある」とぷうぷう文句を垂れまくっていたが、一度拾った命を捨てたお師匠先生がやっぱりどう考えても悪いわけで。
そして一度捨てたということは、二度目がないとは言い難いわけで。あたしはこの先の未来に愁いを抱くことになってしまった。とはいえ、今回に限って、お師匠先生はほぼ悪さを働いていない。
なれば、なぜスタンプが一個だけだったのか。
それはひとつだけ、してはならない禁忌をお師匠先生があえて犯したから――
「流生先生え! すずめさあん!」
背後から飛んできたなじみ深い声に、あたしとお師匠先生は足を止めた。振り返ると、ぽわぽわ綿毛を絵に描いたような美少年が、息を切らしてこちらに走って来るところだった。
「おやおや、そんなに急がなくても遅刻なんてしやしないのに。どうしたんですか、川村くん」
「あのね、これをさ。見せたくって」
と彼は、手にしたものをあたしたちの前に差し出した。
「トンボ?」
「うん! 朝、起きたらベランダに置いてあった」
「ちゅんた……の貢ぎ物?」
「たぶん」
そう言って、川村さん、もとい真琴くんは笑った。
「ツバメの恩返し……なんてあるのかなあ?」
「さあ? 聞いたことないけど」
「どうせ恩返しなら、私。トンボより可愛いクッキーとかがいいなあ。ちゅんた、持ってきてくれないかなあ?」
「あっ。それなら、ぼく。コーギーのプリケツクッキー焼いてきましたよ!」
「あら! それはなんてすばらしい!」
あたしたちは連れ立って歩き出す。他愛ないことを話しながら笑い合う真琴くんの記憶からはあたしのことも、ちゅんたのことも、ちゅんたと過ごした日々もすべて消えてはいない。お師匠先生が記憶を消さなかったから――これが原因で、あのクリクリ金髪天使からはスタンプを余分に押してもらえなかったんである。
どうして記憶を消さなかったのか。消せばスタンプが三つはもらえたはずなのに――と天界のミカエル様の元を立ち去るときにあたしは訊いた。
するとお師匠先生は「そんなアホな質問をわざわざするとは」と呆れたようにあたしを見た。
「きみのしあわせな笑顔を見るのが、私の楽しみだからに決まってるじゃないか」
と、彼はさらりと言ってのけたんだった。
あたしはちらりと隣に並んで歩くお師匠先生を盗み見る。
可愛いものが大好きで、己が楽しいを貫くためには何を犠牲にしてもかまわない傍若無人な高等悪魔。
だけどお涙頂戴に弱くて、家事全般苦手で、人一倍世話が焼けるし、暇つぶしで遊んだあとの尻拭いはいつもたいへん。
だけど、こんなに弟子思いのお師匠先生はこの世の中、どこを探してもいないに違いない。
思わずにやけてしまいそうになるのをぐっとこらえるために、あたしは空を見た。
ツバメが飛んでいた。
ちゅんただろうか。
ツバメはあたしたちの頭上をひゅんっと飛び去って行った。風が立つ。その風に頬を撫でられたあたしは、ようやく思い当たった。
ツバメはしあわせを運ぶ鳥だと言う。例に漏れず、あたしもその恩恵に預かったんだと――
「ありがとう、ちゅんた。また来年、元気に会いに来るんだよ!」
あたしはそう叫んで、去っていったツバメに思いっきり手を振った。
(おしまい)
お師匠先生は雲ひとつなく冴え渡った空に向かって片手を突き上げながら、涙目で大あくびした。学校までの十分足らずの道のりを、彼はうつらうつらと船をこぎつつ歩いている。
それもそのはず。ちゅんたが巣立ち、これまでの忙しさが嘘のように暇になった。おかげでお師匠先生はやることがなくて退屈で、退屈で仕方ないんである。
仮にも教壇に立っている身の上なんだから、もう少し実を入れて生徒に教えたらいいと思うが、そもそもお師匠先生が『美術教師』なるものを選んだのは「芸術は自由だから、好きにしたらいい」と、正々堂々、職務放棄ができるからだった。そう言われたら身も蓋もあったもんじゃない。
が、この世の無責任を一手に引き受けるくらいには無責任極まりないお師匠先生である。「それじゃ、教えを乞う生徒があまりにも不憫だ」と言ったところで「ならば教えてくれる人に乞えばいい」と一笑に付すだけで、聞く耳なんか持ちゃしない。
そもそも、彼に「身を粉にして働き給え」なんてことは戯言以外の何物でもない。つまるところ、お師匠先生には何を言っても無駄なんである、興味を引くこと以外は。
「ちゅんた、元気でやってますかねえ」
「まず大丈夫でしょう。あんな凄腕ハンター、二羽といないでしょうから」
「はあ……そうですよねえ」
あたしはちゅんたの立派になった広い背中を思い出し、嘆息した。彼は鳥界でも類を見ない狩り名人になって巣立っていったんだが、そうなった原因は、言うまでもなくお師匠先生だった。
あたしたちがガーゴイルに襲われたあの日。怒りに満ちたお師匠先生はガーゴイルたちを、鳥界で大人気の昆虫であるハエに姿を変え、ちゅんたに狩りの練習をするように命じたんである。
それは阿鼻叫喚の地獄絵図とも言えた。
ちゅんたは、指南役を買って出たチュン太郎兄さんの言うことを、それはそれはよく聞いた。ハエなったガーゴイルたちが泣こうと喚こうと執拗に追い回し「お願い、食べてくれ」「ご慈悲をくだされ」と哀願してこようがトコトン無視して突き回した。
そうして日が暮れるまで何時間も、何時間も狩りの練習に勤しんだ。
逃げ疲れたガーゴイルたちが飛ぶことすらままならなくなったころ、ようやく狩猟の修業は終わりを告げた。
ちゅんたはその鬼のような修行の結果、疾風のような俊敏さと、相手を一撃で仕留める攻撃力、さらにはどんな場所に隠れようとも確実に獲物を捉える探索力を手に入れた。そのあまりの勇猛な姿に、「ホークアイ(鷹の目)」という異名をつけたチュン太郎兄さんたちは、その名を鳥界に広めに走っていった。
これら一連をにこやかに眺めていたお師匠様は、手にしていたクリームソーダからクリームがポタポタこぼれ落ちようとも「ツバメが鷹になった」と諸手を上げて喜んだ。川村さんも感無量といった様子で、大きな両目からドバドバと滝のように涙を溢れさせた。
かくいうあたしも、ちゅんたの目を見張る成長に涙を禁じえなかった。オイオイと声を上げて男泣きに泣いた。胸の奥に噴水の蛇口があって、そこから一気に水があふれ出てくるように、感情がドッと溢れてきて、止めようにも止められなかった。こんなことは初めてである。
そしてまた、そんなあたしの頭を、お師匠先生が優しくポンポンしてくれた。とても珍しいことである。
彼は大量の鼻水を垂れ流して泣き倒すあたしに「いいかい」と言った。
「子供はいつだって旅立つものなんだよ」
と、らしくもなく、しみじみとした声風でそんなことを囁いた。
だもんであたしは、もっと泣けてきてしまった。
なんだかそれは「おまえもいつか私から旅立って行くんだからね」と念押しされているみたいだったから。
でも、お師匠先生には言わなかった。切ない気持ちがこみあげてくるのを、グッと胸の奥深くにしまい込んで、あたしたちはちゅんたと最後の時間を過ごした。
まず、お師匠先生が念願だったちゅんたとの散歩を成就させた。あたしたちもちゅんたの背に乗って、並んで散歩に同行した。
遥か向こうに遠州灘の水平線が見えた。沈んでいく真っ赤な夕日は、青かった空と海とを橙色に染め、境界線を曖昧にさせた。
美しい絵画みたいに水面は白波を立て、キラキラとまばゆく光っていた。みんな、弾けるような笑顔を浮かべていた。あたしも笑っていた。
なんと楽しく、なんと胸躍ることか。この夕日を、きっとあたしは一生忘れまい――そう思った。
そうして空の散歩を終え、家路についたあたしたちは、ちゅんたの大好物のお団子を山ほど作り、同じカップラーメンを啜った。特性の巨大プリンアラモードを皆でガツガツ平らげ、ちゅんたの羽毛にうずもれてぐっすり眠った。
しかし、どんなに来るなと願っても、旅立ちの朝はやってくる。
その日、お師匠先生はちゅんたに掛けた魔法を解いた。魔法が解けて普通のサイズに戻ったちゅんたは、川村さんの手のひらから元気に空へと飛び立った。一度、近くの電線に停まったあとは、もう振り返ることなく大空へと羽ばたいていった。
去っていくちゅんたを見つめながら、お師匠先生は川村さんに質問した。
「きみはこれでよかったかい?」
「はい、先生」
「とてもいいことをしたと思うかい?」
「はい、先生。とってもいいことをしたと思います」
「そうかい。それはどうもありがとう」
立派な漆黒の片翼が姿を見せたのと同時に、川村さんの意識は吸い込まれるように失われていった。
こうしてあたしたちの二週間に渡るちゅんたとの生活は終わりを告げると同時に、川村さんの相談も無事に解決することになった。
「しかしなあ、やっぱりスタンプ一個は納得がいかないなあ。だって、考えてごらんなさい? 町の美化活動にも一役買ったし、働かずにゴロゴロしているだけの旦那連中も働いて、奥様方のストレス減にも役だったし。それにむやみに人の世界を荒らしていたうちの連中にも仕置きしてやったし。なにより無駄に犠牲を出してないじゃないか、今回! 良いことづくめなのに、なんでおまけのスタンプがないのか。あのイカレ天使は天使のくせに慈悲というものが皆無だね。鬼天使だね。いや、鬼〇〇〇野郎だね」
「そうですねえ……」
あたしは静かに相槌を打った。
たしかに――とは思う。人の世界で好き放題して、むやみに命を食い散らかしていたガーゴイルたちだって、お師匠先生は殺しはしなかった。最後の最後に慈悲深さを見せ、あるべき世界へ帰らせた。
なお、彼らは昔、お師匠先生が飼っていたというガーゴイルらしい。小さい頃は可愛く、なにかとお師匠先生の後ろをついて回ったガーゴイルたちだったが、思春期を迎えたころに、お師匠先生の大事にしているドールたちを引きちぎって遊びんだせいで怒りを買い、片目を奪われたうえ捨てられたらしい。
その後、余計にやさぐれたガーゴイルたちは人間界へ潜入。自分たちを捨てたお師匠先生にいつか仕返ししてやろうと力をつけるために命を貪ったということだった。
こうして聞いてみると、ちゅんたの家族が亡くなった理由は元を正すとお師匠先生のせいということになる。当のお師匠先生は「言いがかりにもほどがある」とぷうぷう文句を垂れまくっていたが、一度拾った命を捨てたお師匠先生がやっぱりどう考えても悪いわけで。
そして一度捨てたということは、二度目がないとは言い難いわけで。あたしはこの先の未来に愁いを抱くことになってしまった。とはいえ、今回に限って、お師匠先生はほぼ悪さを働いていない。
なれば、なぜスタンプが一個だけだったのか。
それはひとつだけ、してはならない禁忌をお師匠先生があえて犯したから――
「流生先生え! すずめさあん!」
背後から飛んできたなじみ深い声に、あたしとお師匠先生は足を止めた。振り返ると、ぽわぽわ綿毛を絵に描いたような美少年が、息を切らしてこちらに走って来るところだった。
「おやおや、そんなに急がなくても遅刻なんてしやしないのに。どうしたんですか、川村くん」
「あのね、これをさ。見せたくって」
と彼は、手にしたものをあたしたちの前に差し出した。
「トンボ?」
「うん! 朝、起きたらベランダに置いてあった」
「ちゅんた……の貢ぎ物?」
「たぶん」
そう言って、川村さん、もとい真琴くんは笑った。
「ツバメの恩返し……なんてあるのかなあ?」
「さあ? 聞いたことないけど」
「どうせ恩返しなら、私。トンボより可愛いクッキーとかがいいなあ。ちゅんた、持ってきてくれないかなあ?」
「あっ。それなら、ぼく。コーギーのプリケツクッキー焼いてきましたよ!」
「あら! それはなんてすばらしい!」
あたしたちは連れ立って歩き出す。他愛ないことを話しながら笑い合う真琴くんの記憶からはあたしのことも、ちゅんたのことも、ちゅんたと過ごした日々もすべて消えてはいない。お師匠先生が記憶を消さなかったから――これが原因で、あのクリクリ金髪天使からはスタンプを余分に押してもらえなかったんである。
どうして記憶を消さなかったのか。消せばスタンプが三つはもらえたはずなのに――と天界のミカエル様の元を立ち去るときにあたしは訊いた。
するとお師匠先生は「そんなアホな質問をわざわざするとは」と呆れたようにあたしを見た。
「きみのしあわせな笑顔を見るのが、私の楽しみだからに決まってるじゃないか」
と、彼はさらりと言ってのけたんだった。
あたしはちらりと隣に並んで歩くお師匠先生を盗み見る。
可愛いものが大好きで、己が楽しいを貫くためには何を犠牲にしてもかまわない傍若無人な高等悪魔。
だけどお涙頂戴に弱くて、家事全般苦手で、人一倍世話が焼けるし、暇つぶしで遊んだあとの尻拭いはいつもたいへん。
だけど、こんなに弟子思いのお師匠先生はこの世の中、どこを探してもいないに違いない。
思わずにやけてしまいそうになるのをぐっとこらえるために、あたしは空を見た。
ツバメが飛んでいた。
ちゅんただろうか。
ツバメはあたしたちの頭上をひゅんっと飛び去って行った。風が立つ。その風に頬を撫でられたあたしは、ようやく思い当たった。
ツバメはしあわせを運ぶ鳥だと言う。例に漏れず、あたしもその恩恵に預かったんだと――
「ありがとう、ちゅんた。また来年、元気に会いに来るんだよ!」
あたしはそう叫んで、去っていったツバメに思いっきり手を振った。
(おしまい)
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