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第26話 猫課長ですって、課長
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なんとかピンチをチャンスに変えられた翌日。
係長とともに堂々と出勤した俺を会社で待ち構えていたのは『辞令』という二文字だった。
酒井部長が神妙な面持ちで俺と妹尾にそれぞれ一枚のA4用紙を配る。
まさか管理職会議の翌日に異動を告知されるとは思ってもいなかった。
一週間後かなあなんてのんびりしていた俺が実に甘かった。
管理職会議で決を採ったのは他でもない会長自身だ。
俺はトップダウンで命令されたのだ、あの場で。
むしろ当日でなかっただけ猶予をもらった――と考えたほうがいいのかもしれない。
部長から受け取った辞令書に目を通す俺のまぶたがぴくぴくぴくっと高速痙攣した。
鼻先すれすれで見直す。
今度は腕をめいいっぱい伸ばして並ぶ文字を見る。
印刷された文字はどんな角度から見ても変わる物ではなかった。
「えっと辞令。妹尾隆成殿。平成31年2月16日をもって営業部第一課から営業部猫事業課に異動を命ずる。うわあ、猫事業課ですって、課長!」
妹尾がくりくりとした二重の目を一回り半ほど大きくさせて叫んだ。同じ課の同僚たちが彼を囲んで「おおっ!」「すげえっ!」と声を上げている。
歓喜と期待に満ち溢れる中、俺はというか、俺だけは素直に喜べずにいた。
酒井部長が「どうした?」と見かねたように声をかけてきた。
「部長、あの……これはなんの冗談なんですか?」
酒井部長は「はて?」と首をひねる。
「この役職はなんの冗談でしょうか?」
具体的に述べると、部長は「ああ、それか」とやっと気づいた様子で、ポンっと手を打った。
「冗談なんかじゃないぞ。とても名誉な役職じゃないか! 俺が代わりたいくらいだぞ!」
ガハハと豪快に部長は笑い飛ばした。
思わず口元が引きつった。
そんなに代わりたいのなら代わってあげたい。
俺と部長の会話に興味を引かれた妹尾や部下たちがこぞって近寄ってくる。
俺の隣にやってきた妹尾がヒョイっと俺の手元を覗きこむ。
「辞令。小宮山誠一郎殿。平成31年2月16日をもって営業部第一課の課長の任を解き、同日付けで営業部猫事業課猫課長を命ずる。うわあ、猫課長ですって、課長!」
妹尾が自分のときよりうれしそうに頬をゆるませた。
彼の大きな目にはたくさんの星々が輝いている。
いや、彼だけじゃない。
課の部下たち全員が羨望の眼差しで俺を見つめている。
その視線から目をそらして再び部長と向き合った。
「部長。この肩書き、名刺にも印刷されるんですよね?」
「もちろんだ!」
酒井部長がぐるんと腕を一回転させてから、ギュンッと力強く親指を突き立ててみせる。
――なんてこった!
ゴンッ! ゴンッ! ゴンッ! と、俺の頭の上に宇宙から隕石が降ってきたような重い衝撃が加わった。
営業先の名刺交換で「営業部猫事業課、猫課長の小宮山と申します。相棒は係長と名付けた猫ちゃんです」と笑顔で挨拶する未来の自分の姿を想像したら、ひょぉぉぉぉっと北極の風が心の中を駆け抜けていった。
――なんで『課長』に『猫』をつけたんだよ! 普通に『課長』でよかったじゃないか!
「妹尾」
「はい、課長?」
「おまえ、会長に『猫課長ってよくない?』なんて言ってないよな?」
じぃっと妹尾を見つめる。
彼はきょとんと目をまん丸にさせ、頬をぽりぽりと指先で掻いた。
思い当たることはありそうだ。
「それは言っていませんが、どうせならキャッチ―な役職名のほうが若者は興味を持ちやすいと思うとは伝えましたけど」
「そうか」
わかっていたことだが、ため息がもれた。
こいつは天然一直線だが、切れ者なのかもしれない。
彼の言うとおり、若者が食いつきそうなネーミングだとは思う。
戦略的にアリかナシかと言えばアリなのだろう。
『小宮山猫課長とその飼い猫の係長』というフレーズに元部下たちが両手を上げて喜んでいる姿を見れば一目瞭然である。
「しかし部長。なんで営業部所属になるんですか?」
独立の部署ではなく、営業部。
保護猫活動を事業展開する上で、営業部所属はなんら問題はない。
むしろ上司が大の猫好きである酒井部長なら、いろんな意味でバックアップは受けやすいし、相談もしやすい。
他の人が上司になるよりはずいぶんと融通も利くだろう。
これは会長の配慮なのだろうか。
酒井部長はいまやぜい肉と化してしまった元筋肉で覆われた厚い胸板を突き出して、ふふんっと笑った。
「会長に直訴したんだぞ、おまえの上司のままでいさせてくれってな。俺も係長の守り隊会員のひとりだからな」
「はい?」
係長の守り隊? なにそれ、聞いてない。
「だから、係長の守り隊会員だよ。おまえ、猫課長なのに知らんのか?」
すかさず妹尾を見る。
彼はニコニコ笑いながら、マジシャンさながら両手にザザザッと数枚の名刺サイズのカードを扇の形に広げてみせた。
「係長を育成するのにはお金がかかりますから。ひとまずファン制度を導入してみました。推しメンには課金を厭わないというファンの心理をくすぐる作戦です。ちなみに酒井部長には会員ナンバー2番を差し上げました」
部長がちらちらと会員証を見せてくる。
証明写真のように顔写真まできっちり貼りつけてある。
ラミネート加工のカードは手作り感満載だ。
「それじゃ、一番は誰なのかな?」
まあ、予想はつく。間違いなくあの人だ。
「会長です!」
ビンゴ!
会社からの予算とは別に、個人的に資金を工面してくれるというわけか。
このシステムをいったい妹尾はいつから構想していたのだろう。
会社で猫を飼うことが夢だと言っていた。
まさか、孫の夢を実現できる人材を会長はずっと探していたなんていうのは……考えすぎだと思いたい。
「とりあえず、おまえたち専用の部屋へ引っ越しするぞ。営業一課全員で手伝うからな。あ、そうそう。係長が喜ぶだろうと思って、キャットタワーもほらっ、買ってきておいたからな!」
「さっすが部長!」
妹尾が大きなダンボールを見せて満面の笑みを浮かべる部長とハイタッチする。
引っ越し? そうか、引っ越しか。
会社の部屋も移動するなら、俺もきちんと引っ越ししないとならないな。
そう、ちゃんと動物が飼える自宅に――
「おいっ、妹尾」
ふふふ~んっと鼻歌交じりの妹尾をちょいちょいと手招きする。
彼は足取り軽やかに俺に近づいてきて「どうしました、猫課長?」と尋ねた。
「あのな、猫課長はやめろ。猫課長は」
「じゃあ、なんて呼べばいいんです?」
「そ、それは……」
猫のような愛らしい目で俺を見つめる妹尾から目を逸らす。
だめだ! あんな目で見られたら思わず言ってしまいそうになるじゃないか。
「誠一郎ってどう?」って。
それはダメだ。まだダメだ。早すぎる!
「課長?」
「そ、そうだ! か、課長でいい! これからも俺のことは課長で!」
「はい。では課長!」
「な、なんだ」
妹尾が乙女のように後ろで両手を組んで「ふふふ」とほほえんだ。
そのまま左へ三十度、首を傾けた彼はこう告げた。
「今度の休みはぼくらの新居、探しに行きましょうね!」と――
「なっ……!」
鼻頭を急激にツンっと刺すような痛みが襲った。ツツツっと生温かな液体が鼻の穴から伝い落ちてくる。
「あ! 課長、鼻血がっ! 誰か、ティッシュを!」
「だ、大丈夫だから」
鼻を両手で俺は自分の不甲斐なさに心の中で全力で泣いた。
係長が俺のデスクの上のティッシュの箱の上で「みいっ」と叫ぶ。
かくして俺は会社で子猫を育てることになり、猫課長という大層名誉な役職までいただくことになった。だが、ここからが本番だ。
「誠一郎~」
鼻の穴にティッシュのこよりを詰め込んで、引越し作業を始めようとした俺の耳に女性の甘ったるい猫なで声が飛んでくる。
振り返った俺の目に真っ赤なコートが矢みたいに突き刺さる。
見覚えのあるコート。
長い髪。
細い足。
おいおいおいっ!
「萌香……」
こうしてまた新たな嵐がやって来る。
ひきつった笑顔を作る俺の腕の中で、未来を憂いてため息を吐くかのように、係長が「みいっ」と鳴いた。
【第1部 完】
係長とともに堂々と出勤した俺を会社で待ち構えていたのは『辞令』という二文字だった。
酒井部長が神妙な面持ちで俺と妹尾にそれぞれ一枚のA4用紙を配る。
まさか管理職会議の翌日に異動を告知されるとは思ってもいなかった。
一週間後かなあなんてのんびりしていた俺が実に甘かった。
管理職会議で決を採ったのは他でもない会長自身だ。
俺はトップダウンで命令されたのだ、あの場で。
むしろ当日でなかっただけ猶予をもらった――と考えたほうがいいのかもしれない。
部長から受け取った辞令書に目を通す俺のまぶたがぴくぴくぴくっと高速痙攣した。
鼻先すれすれで見直す。
今度は腕をめいいっぱい伸ばして並ぶ文字を見る。
印刷された文字はどんな角度から見ても変わる物ではなかった。
「えっと辞令。妹尾隆成殿。平成31年2月16日をもって営業部第一課から営業部猫事業課に異動を命ずる。うわあ、猫事業課ですって、課長!」
妹尾がくりくりとした二重の目を一回り半ほど大きくさせて叫んだ。同じ課の同僚たちが彼を囲んで「おおっ!」「すげえっ!」と声を上げている。
歓喜と期待に満ち溢れる中、俺はというか、俺だけは素直に喜べずにいた。
酒井部長が「どうした?」と見かねたように声をかけてきた。
「部長、あの……これはなんの冗談なんですか?」
酒井部長は「はて?」と首をひねる。
「この役職はなんの冗談でしょうか?」
具体的に述べると、部長は「ああ、それか」とやっと気づいた様子で、ポンっと手を打った。
「冗談なんかじゃないぞ。とても名誉な役職じゃないか! 俺が代わりたいくらいだぞ!」
ガハハと豪快に部長は笑い飛ばした。
思わず口元が引きつった。
そんなに代わりたいのなら代わってあげたい。
俺と部長の会話に興味を引かれた妹尾や部下たちがこぞって近寄ってくる。
俺の隣にやってきた妹尾がヒョイっと俺の手元を覗きこむ。
「辞令。小宮山誠一郎殿。平成31年2月16日をもって営業部第一課の課長の任を解き、同日付けで営業部猫事業課猫課長を命ずる。うわあ、猫課長ですって、課長!」
妹尾が自分のときよりうれしそうに頬をゆるませた。
彼の大きな目にはたくさんの星々が輝いている。
いや、彼だけじゃない。
課の部下たち全員が羨望の眼差しで俺を見つめている。
その視線から目をそらして再び部長と向き合った。
「部長。この肩書き、名刺にも印刷されるんですよね?」
「もちろんだ!」
酒井部長がぐるんと腕を一回転させてから、ギュンッと力強く親指を突き立ててみせる。
――なんてこった!
ゴンッ! ゴンッ! ゴンッ! と、俺の頭の上に宇宙から隕石が降ってきたような重い衝撃が加わった。
営業先の名刺交換で「営業部猫事業課、猫課長の小宮山と申します。相棒は係長と名付けた猫ちゃんです」と笑顔で挨拶する未来の自分の姿を想像したら、ひょぉぉぉぉっと北極の風が心の中を駆け抜けていった。
――なんで『課長』に『猫』をつけたんだよ! 普通に『課長』でよかったじゃないか!
「妹尾」
「はい、課長?」
「おまえ、会長に『猫課長ってよくない?』なんて言ってないよな?」
じぃっと妹尾を見つめる。
彼はきょとんと目をまん丸にさせ、頬をぽりぽりと指先で掻いた。
思い当たることはありそうだ。
「それは言っていませんが、どうせならキャッチ―な役職名のほうが若者は興味を持ちやすいと思うとは伝えましたけど」
「そうか」
わかっていたことだが、ため息がもれた。
こいつは天然一直線だが、切れ者なのかもしれない。
彼の言うとおり、若者が食いつきそうなネーミングだとは思う。
戦略的にアリかナシかと言えばアリなのだろう。
『小宮山猫課長とその飼い猫の係長』というフレーズに元部下たちが両手を上げて喜んでいる姿を見れば一目瞭然である。
「しかし部長。なんで営業部所属になるんですか?」
独立の部署ではなく、営業部。
保護猫活動を事業展開する上で、営業部所属はなんら問題はない。
むしろ上司が大の猫好きである酒井部長なら、いろんな意味でバックアップは受けやすいし、相談もしやすい。
他の人が上司になるよりはずいぶんと融通も利くだろう。
これは会長の配慮なのだろうか。
酒井部長はいまやぜい肉と化してしまった元筋肉で覆われた厚い胸板を突き出して、ふふんっと笑った。
「会長に直訴したんだぞ、おまえの上司のままでいさせてくれってな。俺も係長の守り隊会員のひとりだからな」
「はい?」
係長の守り隊? なにそれ、聞いてない。
「だから、係長の守り隊会員だよ。おまえ、猫課長なのに知らんのか?」
すかさず妹尾を見る。
彼はニコニコ笑いながら、マジシャンさながら両手にザザザッと数枚の名刺サイズのカードを扇の形に広げてみせた。
「係長を育成するのにはお金がかかりますから。ひとまずファン制度を導入してみました。推しメンには課金を厭わないというファンの心理をくすぐる作戦です。ちなみに酒井部長には会員ナンバー2番を差し上げました」
部長がちらちらと会員証を見せてくる。
証明写真のように顔写真まできっちり貼りつけてある。
ラミネート加工のカードは手作り感満載だ。
「それじゃ、一番は誰なのかな?」
まあ、予想はつく。間違いなくあの人だ。
「会長です!」
ビンゴ!
会社からの予算とは別に、個人的に資金を工面してくれるというわけか。
このシステムをいったい妹尾はいつから構想していたのだろう。
会社で猫を飼うことが夢だと言っていた。
まさか、孫の夢を実現できる人材を会長はずっと探していたなんていうのは……考えすぎだと思いたい。
「とりあえず、おまえたち専用の部屋へ引っ越しするぞ。営業一課全員で手伝うからな。あ、そうそう。係長が喜ぶだろうと思って、キャットタワーもほらっ、買ってきておいたからな!」
「さっすが部長!」
妹尾が大きなダンボールを見せて満面の笑みを浮かべる部長とハイタッチする。
引っ越し? そうか、引っ越しか。
会社の部屋も移動するなら、俺もきちんと引っ越ししないとならないな。
そう、ちゃんと動物が飼える自宅に――
「おいっ、妹尾」
ふふふ~んっと鼻歌交じりの妹尾をちょいちょいと手招きする。
彼は足取り軽やかに俺に近づいてきて「どうしました、猫課長?」と尋ねた。
「あのな、猫課長はやめろ。猫課長は」
「じゃあ、なんて呼べばいいんです?」
「そ、それは……」
猫のような愛らしい目で俺を見つめる妹尾から目を逸らす。
だめだ! あんな目で見られたら思わず言ってしまいそうになるじゃないか。
「誠一郎ってどう?」って。
それはダメだ。まだダメだ。早すぎる!
「課長?」
「そ、そうだ! か、課長でいい! これからも俺のことは課長で!」
「はい。では課長!」
「な、なんだ」
妹尾が乙女のように後ろで両手を組んで「ふふふ」とほほえんだ。
そのまま左へ三十度、首を傾けた彼はこう告げた。
「今度の休みはぼくらの新居、探しに行きましょうね!」と――
「なっ……!」
鼻頭を急激にツンっと刺すような痛みが襲った。ツツツっと生温かな液体が鼻の穴から伝い落ちてくる。
「あ! 課長、鼻血がっ! 誰か、ティッシュを!」
「だ、大丈夫だから」
鼻を両手で俺は自分の不甲斐なさに心の中で全力で泣いた。
係長が俺のデスクの上のティッシュの箱の上で「みいっ」と叫ぶ。
かくして俺は会社で子猫を育てることになり、猫課長という大層名誉な役職までいただくことになった。だが、ここからが本番だ。
「誠一郎~」
鼻の穴にティッシュのこよりを詰め込んで、引越し作業を始めようとした俺の耳に女性の甘ったるい猫なで声が飛んでくる。
振り返った俺の目に真っ赤なコートが矢みたいに突き刺さる。
見覚えのあるコート。
長い髪。
細い足。
おいおいおいっ!
「萌香……」
こうしてまた新たな嵐がやって来る。
ひきつった笑顔を作る俺の腕の中で、未来を憂いてため息を吐くかのように、係長が「みいっ」と鳴いた。
【第1部 完】
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