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第25話 死ぬまでついていきます!

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 紙やすりで頬をざりざり研磨されている。
 痛い。地味に痛い。
 誰だ、俺の顔にやすりをかけているやつは――

 薄い水の膜が張ったような景色が広がっている。
 ぼやけてよく見えないが、なにか白い物が目に映っている。
 顔の近くにある白い物に触れる。ふさっと柔らかい毛の感触がある。

 ――ああ、係長。

 ざりざりとした紙やすりのような感触の正体は係長の舌だということに気づいてホッと息をついた。と同時に『ここはどこ?』という疑問が急浮上する。
 一体、自分の身に何が起きたのか。
 必死に思考を巡らせる。

 管理職会議に出た。しっかりと猫の有用性を説明できた。
 でも、遠藤専務の罠にハマって負けてしまった。
 と、思ったところに御剣会長登場で、なんとか辞表提出は免れた。
 異動を宣告されて、会議室を出た。たしかに出た。
 が、その先からの記憶がまったくない。

 もう一度、重いまぶたを閉じた後、視界が真っ暗になるまで目元に力を入れる。
 それを何度かくり返してからゆっくりと目を開けると、水の膜で覆われていた景色が今度はくっきりと鮮明に見えるようになった。

「あっ、課長! お目覚めですか!」

 ひょっこりと妹尾が顔を出した。
 その声に反応するように係長が「みぃ」っと鳴いた。
 俺の頬やあごにおでこをごっつんと何度も頭突きをしてくる。
 怒っているのだろうか?
 早く起きろと言っているのだろうか?

「妹尾。係長が頭突きしてくるんだが?」

 すると妹尾は「ああ」と小さく首を縦に振ると「愛情表現ですよ」と笑った。

「課長がずっと起きなかったので、係長、すごく心配していたんですよ。あっ、もちろんぼくもですけど」
「起きなかった? どれくらい?」
「えっと。五時間くらいでしょうか?」
「ご、五時間!」

 大きく目を見開いて確認した壁掛け時計の針が『午後三時半』を回ろうとしていた。
 急いで上半身を起こして、周りを再度確認する。
 社内の休憩室のソファーに寝かされていたらしい。
 下半身には毛布が掛かっている。

「もう、本当にびっくりしたんですからねえ! 急に倒れちゃうんですから! いっぱい呼びかけたのに返事もしないし! このまま死んじゃったらどうしようって、ぼく、生きた心地しなかったんですよ!」
「ああ、そうか――」

 額に手を添える。
 会議室を出た途端にめまいを起こしたのだ。
 ほとんど寝ていない状態の上に極度の緊張感で、心身共にまいってしまった結果だろう。
 しかし、同時に安心もしたのだ。
 会長の言った『異動』という二文字には少々の不安が残るとはいえ、係長を連れて出勤できる大義名分はいただけたのだから。
 充分すぎる成果だ。
 それもこれも、すべては妹尾のおかげであるのだが。

 ーー本当になんてやつだよ。

 普通じゃないとは思っていた。
 空気はまったく読まないし、人のことを疑わないし。
 妙な格言みたいなものをやたら信じているし。
 人をたらしこむ能力高いし。
 裕福な家庭で育ってきたとは言っていたが、よもや会長の孫だとは想像さえしていなかった。
 もしかして、会社で猫を飼うということ自体、最初から会長のお墨付きだったんじゃないだろうな?

「課長、あの」

 妹尾が遠慮がちに声をかけてきた。伏した目で俺を見つめる彼の目元がうっすらと赤みを帯びている。

「な、なんだよ」

 熱の入った妹尾の表情があまりにもなまめかしく、俺の心臓の音がトクトクトクと早くなる。
 緊張してきたのか、手がうっすらと汗ばみ始める。
 部屋には今、妹尾と俺、係長しかいない。
 まさか、愛の告白⁉︎  
 いや待て、妹尾。
 俺はまだ完全に覚悟を決めたわけじゃ……

「ぼくらのこと助けてくださり、本当にありがとうございました!」

 ぺこりと頭と股がくっついてしまうくらい、妹尾は深く頭を下げた。そのままの姿勢で彼は続けた。

「へっ?」

 愛の告白でなかったことに肩透かしを食らう。
 パチパチと高速まばたきを繰り返す俺に、妹尾は照れ笑いしてみせた。

「課長のおかげで係長を会社で飼ってもいいって許可がおりました。ぼくの夢だった保護活動がここでできるようになるのも、全部、全部課長のおかげです!」
「よ、よせよ。俺はおまえの、その上司だし?  当たり前のことをしただけだよ。それにな、本心を言うと、その、なんだ。ただ係長と……お、おまえとの三人の生活をま、守りたかっただけだから」

 大事なときに限って、どもってしまう自分の不甲斐なさに全力で泣きたくなる。
 プレゼンのときに噛まずにスラスラ話せたことが奇跡だと思えるほど、今の俺は緊張でカミカミになっている。
 これだから結婚できないんだ。
 格好良く決めなくちゃならないところでスマートにいかない。
 そういう俺を見て女性たちはガッカリする。
 とはいえ、噛んだ内容は全部本心だ。
 一番守りたかったのは妹尾と一緒に係長を育てていく時間だった。
 これまでの人生で最高の時間を俺は手放したくなかった。
 とにかく楽しかったし、癒された。
 ああ、こういう生活も悪くないなって心から思えたんだから。
 そんなエゴを単に貫いただけなので、彼に感謝されるようなことは本当はまったく、これっぽっちもしていない。 
 それがとても心苦しいし、申し訳ない気持ちになる。

「課長~! 死ぬまでついていきます~!」
「えっ! おいっ! ちょっと!」

 妹尾が顔を上げて、俺に抱きついた。
 背中に腕を回してくる。
 胸に顔を埋めて、えぐえぐと鼻を鳴らして泣いている。
 今度は妹尾がくっついている反対側のわき腹に係長が何度も、何度も頭や体をこすりつけてくる。

 ――ちょっ! これは反則だぞ、おまえら!

 かわいい部下が俺の胸で泣き、かわいい子猫ちゃんが俺の腹にスリスリしているのだから。

 ――くそっ! くそっ! くそっ!

 ここは妹尾と係長をぎゅうっと抱きしめるべきか。それとも「ダメだ」と突き放すべきか。
 どっちだ。どっちが正解だ。
 男、小宮山誠一郎としては前者を選びたい。
 だけど、課長、小宮山誠一郎としては後者であるべきだ。

 ――究極の選択すぎるわっ!

 どうしようかと迷いに迷って、グーパーを繰り返す俺の手が妹尾と係長の頭に触れる。
 ふわっと同じような毛の感触に、俺の唇は自然とほころんでいた。

 ――大人の猫と子供の猫を同時に飼ったみたいだわ。

 泣きやまない子どもたちの頭をなでながら、俺は『しあわせホルモン』が全身に広がっていく感覚を噛みしめていた。
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