25 / 26
第25話 死ぬまでついていきます!
しおりを挟む
紙やすりで頬をざりざり研磨されている。
痛い。地味に痛い。
誰だ、俺の顔にやすりをかけているやつは――
薄い水の膜が張ったような景色が広がっている。
ぼやけてよく見えないが、なにか白い物が目に映っている。
顔の近くにある白い物に触れる。ふさっと柔らかい毛の感触がある。
――ああ、係長。
ざりざりとした紙やすりのような感触の正体は係長の舌だということに気づいてホッと息をついた。と同時に『ここはどこ?』という疑問が急浮上する。
一体、自分の身に何が起きたのか。
必死に思考を巡らせる。
管理職会議に出た。しっかりと猫の有用性を説明できた。
でも、遠藤専務の罠にハマって負けてしまった。
と、思ったところに御剣会長登場で、なんとか辞表提出は免れた。
異動を宣告されて、会議室を出た。たしかに出た。
が、その先からの記憶がまったくない。
もう一度、重いまぶたを閉じた後、視界が真っ暗になるまで目元に力を入れる。
それを何度かくり返してからゆっくりと目を開けると、水の膜で覆われていた景色が今度はくっきりと鮮明に見えるようになった。
「あっ、課長! お目覚めですか!」
ひょっこりと妹尾が顔を出した。
その声に反応するように係長が「みぃ」っと鳴いた。
俺の頬やあごにおでこをごっつんと何度も頭突きをしてくる。
怒っているのだろうか?
早く起きろと言っているのだろうか?
「妹尾。係長が頭突きしてくるんだが?」
すると妹尾は「ああ」と小さく首を縦に振ると「愛情表現ですよ」と笑った。
「課長がずっと起きなかったので、係長、すごく心配していたんですよ。あっ、もちろんぼくもですけど」
「起きなかった? どれくらい?」
「えっと。五時間くらいでしょうか?」
「ご、五時間!」
大きく目を見開いて確認した壁掛け時計の針が『午後三時半』を回ろうとしていた。
急いで上半身を起こして、周りを再度確認する。
社内の休憩室のソファーに寝かされていたらしい。
下半身には毛布が掛かっている。
「もう、本当にびっくりしたんですからねえ! 急に倒れちゃうんですから! いっぱい呼びかけたのに返事もしないし! このまま死んじゃったらどうしようって、ぼく、生きた心地しなかったんですよ!」
「ああ、そうか――」
額に手を添える。
会議室を出た途端にめまいを起こしたのだ。
ほとんど寝ていない状態の上に極度の緊張感で、心身共にまいってしまった結果だろう。
しかし、同時に安心もしたのだ。
会長の言った『異動』という二文字には少々の不安が残るとはいえ、係長を連れて出勤できる大義名分はいただけたのだから。
充分すぎる成果だ。
それもこれも、すべては妹尾のおかげであるのだが。
ーー本当になんてやつだよ。
普通じゃないとは思っていた。
空気はまったく読まないし、人のことを疑わないし。
妙な格言みたいなものをやたら信じているし。
人をたらしこむ能力高いし。
裕福な家庭で育ってきたとは言っていたが、よもや会長の孫だとは想像さえしていなかった。
もしかして、会社で猫を飼うということ自体、最初から会長のお墨付きだったんじゃないだろうな?
「課長、あの」
妹尾が遠慮がちに声をかけてきた。伏した目で俺を見つめる彼の目元がうっすらと赤みを帯びている。
「な、なんだよ」
熱の入った妹尾の表情があまりにもなまめかしく、俺の心臓の音がトクトクトクと早くなる。
緊張してきたのか、手がうっすらと汗ばみ始める。
部屋には今、妹尾と俺、係長しかいない。
まさか、愛の告白⁉︎
いや待て、妹尾。
俺はまだ完全に覚悟を決めたわけじゃ……
「ぼくらのこと助けてくださり、本当にありがとうございました!」
ぺこりと頭と股がくっついてしまうくらい、妹尾は深く頭を下げた。そのままの姿勢で彼は続けた。
「へっ?」
愛の告白でなかったことに肩透かしを食らう。
パチパチと高速まばたきを繰り返す俺に、妹尾は照れ笑いしてみせた。
「課長のおかげで係長を会社で飼ってもいいって許可がおりました。ぼくの夢だった保護活動がここでできるようになるのも、全部、全部課長のおかげです!」
「よ、よせよ。俺はおまえの、その上司だし? 当たり前のことをしただけだよ。それにな、本心を言うと、その、なんだ。ただ係長と……お、おまえとの三人の生活をま、守りたかっただけだから」
大事なときに限って、どもってしまう自分の不甲斐なさに全力で泣きたくなる。
プレゼンのときに噛まずにスラスラ話せたことが奇跡だと思えるほど、今の俺は緊張でカミカミになっている。
これだから結婚できないんだ。
格好良く決めなくちゃならないところでスマートにいかない。
そういう俺を見て女性たちはガッカリする。
とはいえ、噛んだ内容は全部本心だ。
一番守りたかったのは妹尾と一緒に係長を育てていく時間だった。
これまでの人生で最高の時間を俺は手放したくなかった。
とにかく楽しかったし、癒された。
ああ、こういう生活も悪くないなって心から思えたんだから。
そんなエゴを単に貫いただけなので、彼に感謝されるようなことは本当はまったく、これっぽっちもしていない。
それがとても心苦しいし、申し訳ない気持ちになる。
「課長~! 死ぬまでついていきます~!」
「えっ! おいっ! ちょっと!」
妹尾が顔を上げて、俺に抱きついた。
背中に腕を回してくる。
胸に顔を埋めて、えぐえぐと鼻を鳴らして泣いている。
今度は妹尾がくっついている反対側のわき腹に係長が何度も、何度も頭や体をこすりつけてくる。
――ちょっ! これは反則だぞ、おまえら!
かわいい部下が俺の胸で泣き、かわいい子猫ちゃんが俺の腹にスリスリしているのだから。
――くそっ! くそっ! くそっ!
ここは妹尾と係長をぎゅうっと抱きしめるべきか。それとも「ダメだ」と突き放すべきか。
どっちだ。どっちが正解だ。
男、小宮山誠一郎としては前者を選びたい。
だけど、課長、小宮山誠一郎としては後者であるべきだ。
――究極の選択すぎるわっ!
どうしようかと迷いに迷って、グーパーを繰り返す俺の手が妹尾と係長の頭に触れる。
ふわっと同じような毛の感触に、俺の唇は自然とほころんでいた。
――大人の猫と子供の猫を同時に飼ったみたいだわ。
泣きやまない子どもたちの頭をなでながら、俺は『しあわせホルモン』が全身に広がっていく感覚を噛みしめていた。
痛い。地味に痛い。
誰だ、俺の顔にやすりをかけているやつは――
薄い水の膜が張ったような景色が広がっている。
ぼやけてよく見えないが、なにか白い物が目に映っている。
顔の近くにある白い物に触れる。ふさっと柔らかい毛の感触がある。
――ああ、係長。
ざりざりとした紙やすりのような感触の正体は係長の舌だということに気づいてホッと息をついた。と同時に『ここはどこ?』という疑問が急浮上する。
一体、自分の身に何が起きたのか。
必死に思考を巡らせる。
管理職会議に出た。しっかりと猫の有用性を説明できた。
でも、遠藤専務の罠にハマって負けてしまった。
と、思ったところに御剣会長登場で、なんとか辞表提出は免れた。
異動を宣告されて、会議室を出た。たしかに出た。
が、その先からの記憶がまったくない。
もう一度、重いまぶたを閉じた後、視界が真っ暗になるまで目元に力を入れる。
それを何度かくり返してからゆっくりと目を開けると、水の膜で覆われていた景色が今度はくっきりと鮮明に見えるようになった。
「あっ、課長! お目覚めですか!」
ひょっこりと妹尾が顔を出した。
その声に反応するように係長が「みぃ」っと鳴いた。
俺の頬やあごにおでこをごっつんと何度も頭突きをしてくる。
怒っているのだろうか?
早く起きろと言っているのだろうか?
「妹尾。係長が頭突きしてくるんだが?」
すると妹尾は「ああ」と小さく首を縦に振ると「愛情表現ですよ」と笑った。
「課長がずっと起きなかったので、係長、すごく心配していたんですよ。あっ、もちろんぼくもですけど」
「起きなかった? どれくらい?」
「えっと。五時間くらいでしょうか?」
「ご、五時間!」
大きく目を見開いて確認した壁掛け時計の針が『午後三時半』を回ろうとしていた。
急いで上半身を起こして、周りを再度確認する。
社内の休憩室のソファーに寝かされていたらしい。
下半身には毛布が掛かっている。
「もう、本当にびっくりしたんですからねえ! 急に倒れちゃうんですから! いっぱい呼びかけたのに返事もしないし! このまま死んじゃったらどうしようって、ぼく、生きた心地しなかったんですよ!」
「ああ、そうか――」
額に手を添える。
会議室を出た途端にめまいを起こしたのだ。
ほとんど寝ていない状態の上に極度の緊張感で、心身共にまいってしまった結果だろう。
しかし、同時に安心もしたのだ。
会長の言った『異動』という二文字には少々の不安が残るとはいえ、係長を連れて出勤できる大義名分はいただけたのだから。
充分すぎる成果だ。
それもこれも、すべては妹尾のおかげであるのだが。
ーー本当になんてやつだよ。
普通じゃないとは思っていた。
空気はまったく読まないし、人のことを疑わないし。
妙な格言みたいなものをやたら信じているし。
人をたらしこむ能力高いし。
裕福な家庭で育ってきたとは言っていたが、よもや会長の孫だとは想像さえしていなかった。
もしかして、会社で猫を飼うということ自体、最初から会長のお墨付きだったんじゃないだろうな?
「課長、あの」
妹尾が遠慮がちに声をかけてきた。伏した目で俺を見つめる彼の目元がうっすらと赤みを帯びている。
「な、なんだよ」
熱の入った妹尾の表情があまりにもなまめかしく、俺の心臓の音がトクトクトクと早くなる。
緊張してきたのか、手がうっすらと汗ばみ始める。
部屋には今、妹尾と俺、係長しかいない。
まさか、愛の告白⁉︎
いや待て、妹尾。
俺はまだ完全に覚悟を決めたわけじゃ……
「ぼくらのこと助けてくださり、本当にありがとうございました!」
ぺこりと頭と股がくっついてしまうくらい、妹尾は深く頭を下げた。そのままの姿勢で彼は続けた。
「へっ?」
愛の告白でなかったことに肩透かしを食らう。
パチパチと高速まばたきを繰り返す俺に、妹尾は照れ笑いしてみせた。
「課長のおかげで係長を会社で飼ってもいいって許可がおりました。ぼくの夢だった保護活動がここでできるようになるのも、全部、全部課長のおかげです!」
「よ、よせよ。俺はおまえの、その上司だし? 当たり前のことをしただけだよ。それにな、本心を言うと、その、なんだ。ただ係長と……お、おまえとの三人の生活をま、守りたかっただけだから」
大事なときに限って、どもってしまう自分の不甲斐なさに全力で泣きたくなる。
プレゼンのときに噛まずにスラスラ話せたことが奇跡だと思えるほど、今の俺は緊張でカミカミになっている。
これだから結婚できないんだ。
格好良く決めなくちゃならないところでスマートにいかない。
そういう俺を見て女性たちはガッカリする。
とはいえ、噛んだ内容は全部本心だ。
一番守りたかったのは妹尾と一緒に係長を育てていく時間だった。
これまでの人生で最高の時間を俺は手放したくなかった。
とにかく楽しかったし、癒された。
ああ、こういう生活も悪くないなって心から思えたんだから。
そんなエゴを単に貫いただけなので、彼に感謝されるようなことは本当はまったく、これっぽっちもしていない。
それがとても心苦しいし、申し訳ない気持ちになる。
「課長~! 死ぬまでついていきます~!」
「えっ! おいっ! ちょっと!」
妹尾が顔を上げて、俺に抱きついた。
背中に腕を回してくる。
胸に顔を埋めて、えぐえぐと鼻を鳴らして泣いている。
今度は妹尾がくっついている反対側のわき腹に係長が何度も、何度も頭や体をこすりつけてくる。
――ちょっ! これは反則だぞ、おまえら!
かわいい部下が俺の胸で泣き、かわいい子猫ちゃんが俺の腹にスリスリしているのだから。
――くそっ! くそっ! くそっ!
ここは妹尾と係長をぎゅうっと抱きしめるべきか。それとも「ダメだ」と突き放すべきか。
どっちだ。どっちが正解だ。
男、小宮山誠一郎としては前者を選びたい。
だけど、課長、小宮山誠一郎としては後者であるべきだ。
――究極の選択すぎるわっ!
どうしようかと迷いに迷って、グーパーを繰り返す俺の手が妹尾と係長の頭に触れる。
ふわっと同じような毛の感触に、俺の唇は自然とほころんでいた。
――大人の猫と子供の猫を同時に飼ったみたいだわ。
泣きやまない子どもたちの頭をなでながら、俺は『しあわせホルモン』が全身に広がっていく感覚を噛みしめていた。
0
お気に入りに追加
19
あなたにおすすめの小説
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
アルバートの屈辱
プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。
『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる