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第23話 あの、ちょっといいですか?

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 アレルギーの問題は、オフィスで猫を飼うことの大きな壁になりうることだった。
 専務なら間違いなくそこを突いて来るとは思っていたが、まさか本人が猫アレルギーだとは思わなかった。

 思い出してみれば、たしかに害虫だと呼んでいた。
 係長を見たときも一瞬怯んだような気がする。
 アレルギーを持っている人からすれば猫が近くにいるだけで死活問題なのは理解できる。
 かゆみのある発疹やくしゃみ、鼻水がとまらないなどの身体的反応はつらいものがあるからだ。
 猫アレルギーも花粉症やじんましんなどと同じアレルギー型に分類されている。
 だから飼った後で発症することも少なくないのだ。
 好きで一緒に暮らすようになったのに、アレルギーが原因で手放すという例をこれ以上増やさないためにも、ここはしっかり説明しなければならなかった。

「そもそも猫アレルギーは猫そのものが原因で起こるものではありません」

 多くの人が誤解していること――アレルギーの原因が猫の毛であるという考え方。
 しかし実際は猫が舐めた唾液やおしっこに含まれるタンパク質だ。

「アレルゲンであるタンパク質は猫の毛自体には存在しません。猫が毛づくろいしたときに出た唾液が毛についていて、それが飛ぶから症状が出てしまうんです」

 グルーミングのときに唾液が毛につく。
 その毛が宙に飛ぶ。
 また毛が飛ばなくても、乾燥した唾液が宙に飛散してアレルゲンとなる。
 アレルゲンとなる唾液などに含まれたタンパク質は花粉などに比べると粒子が細かい。
 ゆえに空気中に舞いやすくなる。
 猫に触らなくても同じ空間にいるだけで症状が出てしまうのはこのためだ。

「しかし、アレルギーを抑える方法はあります」

 そうだ。
 解決方法はある。
 猫を遠ざけなくても、きちんと対処さえしていればアレルギーを持っている人でも共存は可能なのだ。

「まず猫の体を清潔に保ってやることです」

 清潔に保つことで、ふけや唾液、汗、肛門から出る分泌液などに含まれるタンパク質が室内に散らばってしまう前に回収するのだ。
 そのためにブラシで抜けかけた毛を排除する。定期的にシャンプーしたり、ホットタオルでしっかり体を拭いてやることも有効な手段だ。

「それにアレルギーを引き起こすタンパク質を分泌されるのは雌猫よりも雄猫だといいます。特に去勢していない雄猫の場合が多いのです」
「その猫は雌猫なのかね?」

 専務の隣に座った中肉中背の男性が声をあげた。眉間に深い溝を刻んだ顔は総務部長のものだった。

「いえ、この子は雄猫です。小さいですから去勢もしていません」

 室内がざわざわと騒がしくなる。だが、ここでウソは言えない。

「時期が来れば去勢します。これはアレルギー問題だけでなく、猫自体のストレスの軽減のためにも――ではありますが」

 専務がにやりと笑む。
 俺の答え方が取り繕ったように見えたのだろうか。
 先ほどまで少し焦った様子があったのに、今はほくそ笑む余裕があるらしい。

「猫自体を清潔に保つだけが解決方法ではありません。こちらの画像は猫の全自動トイレになります」

 スクリーンに丸い宇宙ポッドのような形の写真を映す。管理職たちがこぞってスクリーンに目を向けた。

「人の手を借りなくても、機械が猫の排泄物を処理してくれます。ただ、定期的に砂を入れたり、メンテナンスしたりという手間は人の手で行わなければなりませんが、排泄物を放置することはなくなります。アレルゲンの発生率も格段に低下させることが可能だと思われます」
「それは一台いくらするのですか?」

 総務部長の向かいに座る、いかにも神経質そうな細身の男が尋ねた。経理課長だ。俺より二個上の先輩だが、こいつとは馬が合わなくて、最近も経費削減のことでチクチク言われていた。

「六万五千円ほどです」

 ハッキリと告げる。
 経理課長だけでなく、管理職たち各々が苦い顔をする。

「安いものではありませんが、猫アレルギーを持つ社員全員の医療費を出すことに比べれば安上がりではないでしょうか」

 部屋が三度ざわめく。切り返しが悪くなかったらしく、酒井部長はうんうんと深くうなずいている。他にも酒井部長ほどではないけれど、小さくうなずいている姿がちらほら目に入った。

「また部屋をクリーンに保つことでアレルギー発症を抑えられます。空気清浄器を利用すれば、花粉などのアレルギーの対策にもなります。オフィスをキレイにすることで、働く環境の改善も促せます。猫がいる環境を保つことは、オフィスの健全化にもつながるのです」

 なにも猫アレルギーだけが問題じゃない。
 社員の多くがいろんなアレルギーと戦っている。
 ハウスダスト、花粉、エトセトラ。それらもひっくるめて対策できることになるのだ。
 それに、だ。
 これは雇用促進にもつなげられる。
 超高齢化社会日本において、老齢に達して仕事をしたい人はこれからもっと増えてくる。
 障がい雇用枠だって広げなければならない。
 オフィスクリーニングの人材確保によって、積極的に企業として雇用促進に取り組めることになるのだから。

「あとは手洗い、うがいを推奨します。猫に触った手で肌や目に触れるまえに洗い流すことです。これはインフルエンザやノロウィルスなどの感染症の対策にもなります」

 猫アレルギーへの対策を行うことで得られるメリットは少なからずあることを証明できたと思う。
 あとは結果を待つだけだ。
 今の俺にできることは最大限やったと思うから。

「以上です」と言って、マイクを置く。

 専務は一瞬、苦虫をかみつぶしたような表情をした。
 ここまでちゃんと発表できるとは思っていなかったのだろう。
 ことアレルギーに関してはレジメには載っていないものだったし、本来ならレジメもパワーポイントで作った資料データも俺たちの手元にはないはずだったのだから。
 じっと専務を見つめる。
 彼は踏ん反り返っていた姿勢を正し、ぐるりと周りを見回したあとで告げた。

「では採決をとろう。猫を飼うことに賛同する人は挙手を」

 室内の空気が張り詰める。
 俺も息を飲んだ。
 ひとつ、二つ、手が上がる。

「他にはいないかね?」

 専務が念を押すように尋ねる。
 しかし酒井部長と数名だけ手が上がった以外に、賛同する人はいなかった。

「残念だったね、小宮山君。半数に満たなかったようだ」

 勝ち誇って笑う専務の姿に、俺はギリッと唇を噛みしめる。
 前もって根回しされていたことに今気づいたのがたまらなく悔しい。

「君は自分の進退をかけていたと思うが、それで構わないね?」

 専務が鼻先で笑う。できることはした――と思う。
 こんな形で負けるのは悔しいが、それだって自分の考えの甘さが招いた結果だ。
 専務が他の管理職たちをいい含めることなんて容易に考えついたはずだ。
 詰めが甘かった。
 細かく震える指を折りたたんで、強く拳を握りしめた。

「あの、ちょっといいですか?」

 俺の背後で声がした。
 妹尾だ。
 ゆっくりと振り返る。
 彼は小さく手を上げている。

「この結果に納得できないので、もう一人、意見を聞いてみてもいいでしょうか?」
「なんだね、もう一人とは。他に誰に聞くというつもりだね?」

 それまで黙って聞いていた佐々木常務が口を挟む。
 常務は専務とは対立軸にいる人だから、妹尾の言葉に身を乗り出していた。

「会長です」

 妹尾が気負いなく告げた一言にどっと悲鳴に近い声が上がった。

「か、会長だと!」

 専務が威きり立って腰を上げる。それと同時に妹尾が「もういいですよ、会長」と会議室と隣続きになっている部屋に向かって声を掛けた。
 全員がおもむろに開く扉に注目する。和服姿の老人が杖をついて入ってくる。

 誰もが息を飲んだ。
 いや、飲まざるを得なかったのだと思う。
 実際に目にするのは久しぶり。
 こんな近くで会うのは初めてである御剣隆成会長の存在感たるや凄まじかった。
 この人が現れた途端に空気が変わった。
 体全体から気が発せられているのだろうか。
 圧倒されるのだ。
 腰を屈めてはいるものの、足取りはしっかりしている。
 杖をついてはいるが、歩行を安定させるために使っているようにはとても見えず、むしろ風格が漂っている。
 会長が妹尾の前にやってくる。
 顎から伸ばした長い白ひげをゆったりとなでながら、係長をしげしげと見つめる。
 会長の大きな手が係長の前に出た。
 細くて長い指でちょんちょんと係長の小さな桃色の鼻先に触れると「ふふふ」と口元をゆるめたのだった。

「ワシは賛成じゃよ。会社で猫を飼うなんて、面白い発想じゃないかね」

 会長が俺を見る。柔らかな眼差しは衰えを知らない生き生きとした光を湛えている。

「これから我が社を背負って導いていく若者たちの心意気も、しかと見届けられたしな」
「しかし会長!」

 専務が会長に食い下がろうとした。
 会長はまっすぐ杖の先を専務に向かって伸ばすと「いいかね、遠藤君」

「彼らは夢の実現のためにあらゆる情報を集めたのだよ。君にはそれがわからんのかね?  それにな、彼らはこの決戦のために命を賭けた。そのために儂が選んだ勝利パンツまではいて来た。君にはそこまでの覚悟ができるかね?  ん?」

 会長の言葉に俺は徐々に口が開いていった。

 ちょっと待て。
 どこかで聞いた話だし、どこかで聞いたワードだぞ。
 それに儂が選んだってなんだ! 
  考えたくはない。まさか、この人は――

 妹尾を見る。
 俺の視線に気づいた彼がにっこりと白い歯を見せて笑った。

「妹尾……」

 妹尾の隣に身を引いて、小声でこわごわ問う。

「会長はもしや……」

 声にならなかった言葉を妹尾が続けた。

「はい。ぼくのお祖父様です」

 滑舌の良い彼の返事に俺はめまいを覚えたのだった。


 


 

 
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