上 下
15 / 26

第15話 SMクラブに通っています

しおりを挟む
 猫の有用性――それを示すことができなければ会社を辞めなければならないというミッションに取り組んでから、すでに三時間が経過していた。
 その間、俺は猫に関するサイトを片っ端から検索して、猫を飼うことのメリットやデメリットを調べていた。
 かなり多くのサイトを検索してみたが、どのサイトも大抵同じことを言う。
 デメリットで多く上がっていたのは経済面や躾の難しさだった。やはり生き物だ。金は掛かる。

 猫一匹の一カ月あたりの飼育費用は五千円が平均だ。
 これだけで年間六万円の出費となる。
 それに加えて去勢や避妊費用が平均して一万円くらい。
 年に一回の予防接種の費用が五千円くらい。
 病気や怪我になれば都度医療費が必要になる。
 通う病院によって費用が変わるといえど、保険がきかないのは同じだから実費である医療費は、経済的な負担がやはり大きい。
 若いうちはいいとして、年を重ねてくれば病気や怪我になりやすい。
 今後健康を保った状態で15年以上生きることを想定しても、子供ひとりを育てるのとなんら変わらない費用がかかってくる。
 つまるところ、予算がなければ動物は飼育できないということになる。

 また犬と違って従順でもない。
 もちろん、飼い主になつく猫もいるみたいなのだが、犬とはかなり様子がちがってくるらしい。
 きちんと躾すれば号令で従わせる犬のようにはならないと言うのだから困りごとは山のように出てくる。

 オフィスで飼育となると、大切な書類をどう守るかも考えなければならない。
 それならケージから出さなければいいのだろうが、出たいと鳴くことが集中力をそぐと言われてしまっては本末転倒なわけだ。
 働いている人間だけでなく、猫にまでストレスを背負わせるわけにはいかない。
 病気のリスクを上げてしまい、出費の要因となる。
 これは非常にまずい。

 じゃあ、逆にメリットはと言えば、サイトで調べてみて多い意見は『かわいい』とか『癒される』ということだった。
 しかしこれではあまりにも抽象的すぎる。

 かわいいからどうした? 
 癒されるからなんだ? 

と専務なら斬り返してくるに違いない。

 それにプレゼン相手は管理職の皆さまだ。
 会社の利益となる部分を示さなければどうやっても反対意見に傾くのは目に見えている。
 もっと具体的に、数字で会社の生産性が上がることを証明しなければならない。
 となると、ここはやはり妹尾も言っていたストレスや痛みの軽減を押すべきだろう。
 だが、これも数字で示さねば意味がない。

「参ったな」

 髪を掻きむしる。
 そう言えば、部長も昔から壁にぶつかるとよく頭を掻いていた。
 そのせいであんなに髪が薄くなってしまったのかもしれないなんて考えたら、はたっと手がとまった。
 禿げるわけにはいかない。
 少なくとも独身のうちは。
 いや、恋人がいないうちは絶対に禿げるわけにはいかない。
 カツラ着用なんてもってのほかだ。

「大丈夫ですか、課長? あんまり掻きむしると禿げちゃいますよ?」

 俺のデスクに淹れたてのホットコーヒーのカップを置きながら、妹尾が言った。
 禿げるとか言うな、禿げるとか!
 年齢的に気にしていることなんだから!

「お困りみたいですが、やっぱり難しいんでしょうか?」
「ん? まあな。おまえが言うように、猫を飼ったことでストレスが減るという部分で攻めたいんだが、どうにもデータが足りなくてな」

 サイトにはアメリカの研究機関で実証されているだの、科学的に証明されただのという話は載っている。
 だが、これを自社に置き換えて想定しなければ、あそこまで怒った専務を納得させることなどできないだろう。

「せめて喫煙者とか、持病のある社員の人数とかわかったら、また違うのになあ」

 コーヒーを飲む。
 砂糖が入っていないから、苦味が一気に口の中に広がった。
 いつもよりも苦味が濃いと感じるのは、苦い思いでいっぱいだからなのかもしれない。
 はあ……と机の上に突っ伏す。
 ぬいぐるみの置物みたいに、俺のデスクに座る係長の顎の下をちょこちょこと撫でる。
 やわらかな毛が指先をすべる。彼が俺を心配するようにちろっとざらついた舌で指を舐めた。

 ――ああ。癒される。

 いつもならここで俺はタバコを吸いに行っただろう。
 でも係長に触れると、吸いたい気持ちが吹っ飛ぶから不思議だ。
 大きな目でじっと見つめられると、思わずにやにやしてしまう。

「わかりました。データがあればいいんですね」
「え?」
「ちょっと行ってきますね」

 じゃあっと手を振って、妹尾が部屋を出ていく。
 どこへ行く気だ、あいつは。
 頼むから、変な問題を起こしてくるんじゃないぞ!
 そう思って待つこと15分。

「かっちょお~」

 るんるんとスキップするように軽い足取りで妹尾が俺のデスクにやってきた。

「ずいぶん早かったな」

 パソコンの画面を凝視しすぎて目が痛い。
しょぼしょぼとする目元を指で押さえながら妹尾に尋ねると、彼は俺の前にすっとA4冊子を差し出した。

「なんだ、これは?」
「課長が欲しがっていたデータです」

 にんまりとほほ笑みを湛える妹尾に促されるままに俺は冊子を開いた。
 びっしりと並んだ文字を追う。追う。お……

「妹尾、これは?」
「大木部長に言って、データをもらってきました」
「大木部長って……人事部に行ってきたのか!」
「はい」

 妹尾が持っていたのは社員の個人情報だった。
 名前に住所、生活歴。既往歴にこれまでの健診データやストレステストの結果まで載っている。

「どうやったらこんなもの……」

 人事部以外に流出することがあり得ない情報を、どうして妹尾に渡したのか――まさか、大木部長も猫友なのか。

「大木部長は週三回、N区のSMクラブ『クイーンズヒール』に通っているんですよ。実はですね、部長がいつも指名する『凜子女王様』は猫スキー仲間でして、『ねこねこふぁんたじあ』でよくお会いするんです」
「ちょちょちょちょっ! 妹尾!」
「はい?」
「もしかして、それを部長に言ったのか?」
「はい。協力していただけたら、凜子女王様に言って、おしおきたっぷりしてもらえるように口添えするって言ったら、泣いていらっしゃいました」
「それ、人事部のみんながいる前で言ってないよな?」
「いえ。みなさんいらっしゃいましたよ。就業中ですし」

 妹尾はケロッとしている。
 悪いことをした自覚はまったくない。
 ほとんど脅迫だというのに、彼自身はそう思っていない。
 大木部長が喜んで協力してくれたと思って喜ぶ姿はもはや悪魔だ。魔性だ。

 大木部長には心から同情する。泣きたくなる気持ちも嫌というほどわかる。
 大木人事部長と言えば、赤子も黙る鬼神だ。
 いかつい顔に大柄な彼が、SMクラブで女王様にあんなことやこんなことをされているなんて。
 しかも週三回も通っている。
 そんなことを部下の前で晒されたら、俺だったらその場で首を吊りたくなっただろう。
 彼の人事部での威厳が、いや社内での威厳が急降下することは目に見えていた。
 
 ――すみません、大木部長。

 俺が専務に喧嘩を売るような真似をしなければ、いや、会社で猫を飼うなんていうことにならなければ、知られたくない秘密を世に晒すようなことにはならなかっただろうに。

 それでもせっかく手に入れた個人情報は大切に使わせてもらうことにしよう。
 喫煙者数もわかる。
 ストレステストの結果も合わせれば、いいプレゼンができるに違いない。
 具体的な数字を乗せて、未来の展望を語れば、きっといける!

「助かった。本当にありがとう」
「はい!」

 えへへと照れくさそうに頬を赤らめて笑う妹尾は天使のようにかわいいが……俺は一抹の不安を抱く。

「なあ、妹尾」
「はい、課長」
「管理職全員の個人的な情報をいろいろ知っているなんてことは……さすがにないよな?」

 俺の質問に妹尾は「え?」と目をまん丸にさせた。パチパチと長いまつ毛が上下する。

「悪かった。忘れてくれ」

 そうだよな。そんなわけがない。
 いや、もしも彼がそんなに情報を持っていたら怖すぎるだろう。
 しかし天井を見上げながら、妹尾は思いっきり両方の口角を上げて言ったのだ。

「個人的な情報かどうかはわかりませんけど……人間版ねこねこネットワークの情報はたしかに侮れないかもしれませんね」

 そんな彼にぞくりと背中が寒くなったのは言うまでもない。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

黒龍の神嫁は溺愛から逃げられない

めがねあざらし
BL
「神嫁は……お前です」 村の神嫁選びで神託が告げたのは、美しい娘ではなく青年・長(なが)だった。 戸惑いながらも黒龍の神・橡(つるばみ)に嫁ぐことになった長は、神域で不思議な日々を過ごしていく。 穏やかな橡との生活に次第に心を許し始める長だったが、ある日を境に彼の姿が消えてしまう――。 夢の中で響く声と、失われた記憶が導く、神と人の恋の物語。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

ハピネスカット-葵-

えんびあゆ
キャラ文芸
美容室「ハピネスカット」を舞台に、人々を幸せにするためのカットを得意とする美容師・藤井葵が、訪れるお客様の髪を切りながら心に寄り添い、悩みを解消し新しい一歩を踏み出す手助けをしていく物語。 お客様の個性を大切にしたカットは単なる外見の変化にとどまらず、心の内側にも変化をもたらします。 人生の分岐点に立つ若者、再出発を誓う大人、悩める親子...多様な人々の物語が、葵の手を通じてつながっていく群像劇。 時に笑い、たまに泣いて、稀に怒ったり。 髪を切るその瞬間に、人が持つ新しい自分への期待や勇気を紡ぐ心温まるストーリー。 ―――新しい髪型、新しい物語。葵が紡ぐ、幸せのカットはまだまだ続く。

『イケメンイスラエル大使館員と古代ユダヤの「アーク探し」の5日間の某国特殊部隊相手の大激戦!なっちゃん恋愛小説シリーズ第1弾!』

あらお☆ひろ
キャラ文芸
「なつ&陽菜コンビ」にニコニコ商店街・ニコニコプロレスのメンバーが再集結の第1弾! もちろん、「なっちゃん」の恋愛小説シリーズ第1弾でもあります! ニコニコ商店街・ニコニコポロレスのメンバーが再集結。 稀世・三郎夫婦に3歳になったひまわりに直とまりあ。 もちろん夏子&陽菜のコンビも健在。 今作の主人公は「夏子」? 淡路島イザナギ神社で知り合ったイケメン大使館員の「MK」も加わり10人の旅が始まる。 ホテルの庭で偶然拾った二つの「古代ユダヤ支族の紋章の入った指輪」をきっかけに、古来ユダヤの巫女と化した夏子は「部屋荒らし」、「ひったくり」そして「追跡」と謎の外人に追われる! 古代ユダヤの支族が日本に持ち込んだとされる「ソロモンの秘宝」と「アーク(聖櫃)」に入れられた「三種の神器」の隠し場所を夏子のお告げと客観的歴史事実を基に淡路、徳島、京都、長野、能登、伊勢とアークの追跡が始まる。 もちろん最後はお決まりの「ドンパチ」の格闘戦! アークと夏子とMKの恋の行方をお時間のある人はゆるーく一緒に見守ってあげてください! では、よろひこー (⋈◍>◡<◍)。✧♡!

元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~

おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。 どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。 そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。 その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。 その結果、様々な女性に迫られることになる。 元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。 「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」 今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

処理中です...