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第11話 ダメですよ、課長

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 ピピピピピピピ!

 耳元近くでスマホのアラーム音が鳴り響いた。
 スマホを手探りして、アラームを消す。
 まぶたが重い。
 結局眠ることができたのは午前三時過ぎだった。
 数えた羊は何匹だったろう。
 あまりにも多すぎて思い出すこともできない。
 意識がまた眠りへと誘われて落ちそうになるところに、普段とは違ういい香りが漂ってきた。
 思わず鼻をひくひくと動かす。
 ぼんやりとする頭で香りを分析する。
 ああ、これは味噌だ。

 ――味噌!?

 重たかったまぶたを跳ねあげる。
 急いで身を起こし、布団の上を確認する。
 俺と妹尾の間で眠っていた係長の姿がない。
 いや、それどころか俺の隣に妹尾がいない。
 布団は冷たくなっている。

 ――どこにいった!?

 ぐるりとリビングを見回す。係長も妹尾もいない。
 起きたばかりの心臓がポンプ活動を活発化させる。
 勢いよく排出される血が眠っている頭を起こしていく。

 ――落ち着け、誠一郎。冷静になれ、冷静に。

 ガツガツと掌底で頭を小突く。ようやっと頭が冴えてくる。

「おはようございます、課長。朝ごはんの用意ができましたよ」

 昨夜見た白いエプロンを再び身にまとって、のほほんとした笑顔をたたえた妹尾がお椀を二つ、両手に持って現れた。
 その後ろからちょこちょこと係長がついてくる。
 どうやらつぶされずに済んだようだ。
 無事な姿に心底安堵の息がもれた。

 それにしても妹尾の後をついて歩く係長の姿はカルガモの親子のようでものすごくかわいい。
 俺にもあんなことをしてくれるのだろうか。
 そんなことをされたら後ろが気になりすぎて、振り返ってばかりで前に進めそうにないのだが……

「朝はごはんでよかったですか? それともパンのほうがよかったですか?」
「朝飯なんて普段食ったことないから、用意してもらえるだけありがたいよ」

 布団から出る。
 掛け布団と敷布団を三つ折りにして部屋の隅に寄せながら答えた。
 普段は出勤ギリギリまで寝ているから、朝食なんてゆっくり食べることがない。
 コーヒーが精いっぱいだ。

「朝はしっかり食べないとダメですよ? 課長はこれから係長を立派な雄猫さんに育てないといけないんです。健康第一です」
「ん? 雄猫?」
「はい。係長は雄猫さんです。今はこんなに小さいですけど、大きくなったらきっと立派な体つきになると思います!」
「そうか、雄猫か」

 係長が雄なのか、雌なのかなんてことにも目を向けていなかった。
 興味がなかったというよりも、そこまで気が回らなかったというのが正直な感想だ。
 それどころじゃないくらい、昨日はいろいろありすぎた。
 係長よりも気が行ってしまう圧倒的存在のせいでもある。

「それより妹尾。どうやってこれを用意した?」

 リビングのテーブルの上に並べられた炊き立ての白米、わかめの味噌汁、焼きたての鮭と味海苔を見つめる。
 どの品もここにはなかったはずなのだ。

「えっと課長が寝ている間にジョギングしまして。そのついでにコンビニで買ってきました。あ、ちなみに味噌汁と米は自宅から持ってきたものです」

 全部、レトルトで申し訳ないですが――と彼はつけ加えた。

「何時に起きたんだ?」
「四時半です。五キロのジョギングが日課なんです。自家発電して体を温めないと、うちのアパート寒いので」
「そう……か」

 歯磨きと一緒ですなんて勢いで答えた彼の向かいに腰を下ろす。
 苦労は買ってでもしろと言った御尊父に、ここまで頑張って生活しているので、もう少しランク上げてもいいぞと言ってあげてほしいという気持ちが湧きあがる。
 こいつは素直すぎるのだ。
 まあ、そこが憎めない、こいつのかわいい長所なのだろうが。

「課長?」

 朝食を前にぼーっとしていた俺を不思議そうに彼が見る。
 いかん。
 なぜか『かわいい』という形容詞がついつい出てきてしまう。

「い、いただきます」

 さっと彼の視線から逃れるように顔の真ん前で両手を合わせて箸を手に取った。
 味噌汁の椀を持ち上げ、一口すする。
 合わせ味噌の風味豊かな香りと味わいが聴覚と味覚を刺激した。
 落ち着く。
 ものすごく落ち着く。
 日本人はやはり味噌汁だなとしみじみ思うとともに、春の陽だまりが胸にできたみたいにぽかぽか温かくなる。

 味噌汁の椀を置き、焼鮭を箸でつまむ。

「みぃ」

 あぐらをかいて座る俺の膝元で係長が鳴いた。

「おまえ、ほしいのか?」

 係長がまた「みぃ」と鳴く。箸でつまんだ焼鮭を左手に乗せようとしたときだ。

「だめですよ、課長」

 妹尾がビシッといつになく厳しい声をあげた。

「なんで? 猫は魚が好きだろう?」
「猫さんは魚が好きです。ちなみにタンパク質中心の食事をさせなくちゃいけません」
「なら、鮭をやっても問題ないだろう?」
「ダメです。タンパク質は必要ですが、焼鮭は塩分が高すぎます。焼鮭だけでなく、人間の食べる加工食品は与えちゃダメなんです」
「塩分高いとダメなのか?」

 俺の質問に妹尾は大きくうなずいた。

「猫は汗をかきませんから、塩分は少なくていいんです。ほら、ポテトチップスを食べると喉が渇くでしょう? 塩分が高いと水分がほしくなります。体の塩分濃度を一定に保つために水分が欲しくなる。だけど水分をたくさん蓄えると血圧が上昇してしまい、腎臓に負担がかかります。猫は元々腎臓が弱い生き物ですし、腎不全にもなりやすい。病気のリスクを軽減する意味でも、塩分の高いものは与えないほうがいいんです」
「そう……なのか」

 係長を見る。
 ものすごく物欲しそうな目で俺を見上げている。
 つぶらな二つの目が「ちょうだい」と訴えている。

「猫の塩分致死量は1Kgあたり4g以下と言われているんですよ、課長?」

 目の前の妹尾が目をつり上げている。
 いつになく鋭くとがった彼の二つの目が「絶対にダメだ」と脅している。

「わかった。ごめんな、係長」

 係長の頭をなでる。残念そうにうな垂れる係長に胸が締めつけられる。

「なあ、妹尾」
「なんでしょう?」
「カリカリなら……あげてもいいかな?」

 俺の問いかけに、彼は待っていましたとばかりに顔をほころばせた。

「そう言ってくださると思って、ちゃんと用意していました。はい、これ。今日は課長が係長にごはんをあげてくださいね」

 昨日見たミルクでふやかして食べやすくなったカリカリフードの入った器を差し出された。

 ――こいつ、本当に悪魔だな。

 誘導されたんじゃなかろうか――そう思いながら、俺は係長の目の前にフードの器を置いた。
 おいしそうに食べる係長に「よかったなあ。たくさん食えよ」と話しかける俺を、妹尾がうれしそうに笑って見つめる。

 こんなしあわせな朝を迎えた俺は、もう少しこんな時間が続けられないものかと思い始めていた。

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