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第9話 猫、かわいいでしょ?

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 風呂から上がってリビングの扉を開けようとしたところで、俺は手をとめた。
 中から「ふぅ」という長い息づかいが聞こえてきたからだ。
 音を立てないようにほんの少しだけ扉を開ける。
 2cmほど開いたところでこっそりと盗み見る。
 妹尾がリビングの床に膝を立てて仰向けに寝転がっている。
 両手を胸の前でクロスして、そのまま上半身だけをゆっくりと起こす。
 ほっと胸をなで下ろして、ゆっくりと扉を開けた。
 いかがわしいサイトでも見て自慰行為でもしているのかと、ちょっとでも疑った自分をぶん殴りたい。

「筋トレとは精が出るな」
「あっ、課長。お湯加減いかがでしたか?」

 俺が戻ってきたことに気づいた妹尾が急いで座り直そうとするので「続けていいよ」と返した。

「すみません。あと50回ほどで終りますから」

 彼は床から上半身を20㎝ほど離した姿勢で体を固定したまま、顔だけ俺のほうを向けて答えた。
 俺が風呂に入ってから40分ほど経過している。
 その間、ずっと筋トレをしていたのだろうか。

「毎日やってるのか?」
「あ、はい。うちに暖房がないので、体を動かしてないと寒くって」
「暖房がないって……買えるくらいの給料はもらっているはずだろう?」
「貰ってはいますが、エアコンは設置する場所がなくって。ファンヒーターやストーブは火事になりやすいから禁止されてますし。部屋も四畳半なんで、こたつも置けないくらい狭いんですよ。あと、ちょっと電気使うとすぐにブレーカーが飛んじゃうんです」

 どんな部屋に住んでいるんだよ、こいつは。
 築60年の風呂の壊れた四畳半のアパートに住まないといけないほど、うちの会社は給料が低いわけではないはずだ。

「なんでそんなところ、わざわざ住んだんだよ?」
「お祖父様の教えなんです。若いうちの苦労は買ってでもしろって。ぼく、就職するまでは本当になに不自由のない裕福な暮らしをしてきたので。これは修行なんです」
「そう…なのか」

 たしかに育ちはよさそうだ。彼の立ち居振る舞いには品がある。
 裕福でもわがままに育てられた感じもしない。
 愛情をたっぷり受けて大事にされてきたのだろう。
 祖父の教えをきちんと守ることからも、彼がいかに世間擦れしていないかが伺える。
 本当にまっすぐに育ってきたのだと感心してしまうくらいだ。

 座椅子の上に座って妹尾を不思議そうに見ている係長を抱き上げてから、腰を下ろす。彼はふぅっと長いブレスを吐きながら腹筋運動を続けている。
 そんな妹尾を眺めながら、俺は係長を腹の上に置いた。すると係長が不思議な行動を始めた。
 座った姿勢のまま前足で一生懸命に俺の腹を踏むのだ。
 前足を交互に突っ張りながら、じゃんけんのパーやグーを出すときみたいに開いたり閉じたりするのを繰り返す。その上、スウェットの上からちゅちゅちゅと甘噛みしてくるのだ。
 妹尾のように腹を鍛えろという訴えだろうか。
 たしかにビールも飲んでいる。
 ジムに通っているわけではない。
 いい年になってきて、少々腹がたるんできた気がしないわけでもない。
 しかし、パンツの上にはまだ肉は乗っていない。

「なあ、妹尾」
「はい、なんでしょう?」
「係長は俺に痩せろと言っているのか?」
「課長は太ってませんよ?」
「じゃあ、これはなんだ?」

 俺の腹をもみもみ、ちゅっちゅする係長を指さす。すると妹尾は「あはは」と軽く笑って「よいしょっ」と上体を起こした。

「それ、ウールサッキングっていうんです。子猫が母猫の乳房を両手で押して母乳を出す仕草の名残なんですよ」
「へえ、そうなのか。俺はてっきり、おまえと一緒に腹を鍛えろと言われているもんだと思ったが」
「いえいえ、そうじゃないですよ。係長は今、すごく課長に甘えているんです。安心できる人だと思って、リラックスできているからこその行動です」
「なるほどなあ。でも、俺、世話とかなんにもしてないぞ?」
「そんなことないですよ。抱っこしたり、なでたりしてるでしょう?  それに課長の体温が心地いんだと思います。あと、もしかしたらお腹の上が気持ちいいのかもしれませんね。すごくしあわせそうな顔をしていますから」

 妹尾がゆっくり近づいてきて、俺の隣にちょこんと三角座りした。そのまま手を伸ばし、スウェットを甘噛みしている係長の頭を人差し指で撫でた。

「ねえ、課長」

 甘えたような声で妹尾が俺を呼んだ。声掛けに体が自然に身が引き締まる。彼のほうへ恐る恐るゆっくりと顔を向ける。

「猫、かわいいでしょ?」

 少女みたいに小首を傾げて、満面の笑みを浮かべそんなことを問う妹尾。
 胸に弾丸を撃ち込まれたような痛みが走る。
 やめろ。
 その笑顔で俺の理性を壊すの、本当にやめてくれ。

「あ、ああ。そうだな」

 おまえもな――という言葉はギリギリのところで飲みこんだ。

「よかったあ」

 そう言うや否や、妹尾の頭がこつんと俺の肩に乗っかった。

 ――なんなんだ、これは。どういうつもりだ、妹尾!

 ドキドキ、ドキドキと鼓動が早くなる。いきなり甘えてくるなんて反則だろう。こっちはまだ覚悟ができていないというのに。

「せ、妹尾?」

 小声で彼の名前を呼ぶ。しかし反応がない。
 試されているのだろうか? 
 俺がこの先どうでるか、試されているのだろうか?

「せ、妹尾。その、俺達はほら、上司と部下じゃないか。こういうのはやっぱりちゃんと話し合ってから」
「う……ん。あ、すみません。なにか言いましたか、課長?」

 彼は軽く目をこすった。その後、大きな欠伸をする。とろんとした眼で俺を見ている。

「寝てたのか?」
「すみません。筋トレした後、すぐ眠くなっちゃうんです」
「そ、そうか。なんでもない。寝ろ。ベッドはおまえが使え」
「え?  大丈夫ですよ。こんなこともあろうかと、ちゃんと寝袋持参してますから」

 そろそろと立ちあがり、ボストンバッグのほうへ歩く。相当眠いらしく、よろよろと足がふらついている。

「わわわ、わかった! ここに布団敷いてやるから! 大人しく座ってろ!」

 ふみふみを続ける係長を座椅子にそっと置いて、俺は慌てて立ちあがった。

「ふぁ~い」

 妹尾がくるんっと頼りない足で一回転する。その体がぐらりと揺れて、そのまま床に突っ伏しそうになる。
 すんでのところで彼を受けとめる。
 ズシッと両腕に彼の重みが圧しかかった。

「おっも……」

 華奢に見えるが、毎日しっかりトレーニングしているのだろう。筋肉質な妹尾の体は想像以上に重たかった。
 やはり男だ。
 同性なんだと再確認。

「課長……好きになって……」
「え?」

 目を見開いて反射的に妹尾を見た。
 聞き耳を立てて、続きを待つ。
 しかし聞こえてくるのはすうすうという健やかな寝息ばかりだった。

「勘弁してくれよ、もう」

 彼をゆっくりと床に寝かせると、おもむろに立ちあがる。
 寝室に向かおうとしてリビングを出るところで足をとめて、ゆっくりと振り返る。
 座椅子の上にいたはずの係長が俺の足元に駆け寄ってきた。
 彼を抱き上げてもう一度リビングに目をむければ、にやけ面の妹尾が目に入る。

 ――はあ。人の苦労も知らないで。

 がっくりと肩を落とすと同時に、盛大なため息がこぼれた。そんな俺を気遣うように「みぃ」と係長が鳴いた。

「ありがとうな、係長」

 小さな声でお礼を言って、係長の顎をこそっと撫でる。撫でた指に甘えて顔をこすりつける係長に思わず笑みがこぼれた。
 俺は係長を抱いたまま、静かに寝室へと向かった。
 寝ている妹尾を起こさないように。

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