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第5話 しあわせホルモンが出るんです
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後部座席には猫トイレとお泊りグッズの入ったずっしりと重たいボストンバック。助手席には子猫を抱えた部下を乗せて、俺は自宅へと車を走らせていた。バレンタインの夜にいったいなにをしているのだろう。ため息はもういくつ吐いたかわからない。
ちらりと隣に座る妹尾を見る。とても楽しそうに笑っている。
「どうかしましたか、課長?」
俺の視線に気づいた妹尾が尋ねた。俺は前を見る。
「あ、そうか! 喉が乾いたんですね。今はインフルエンザも流行ってますからね! 乾燥は大敵ですよ!」
妹尾は足元のデイバッグからお茶のペットボトルを取り出した。蓋を開けて俺に差し出す。きめ細やかすぎる。そしてこれは彼女が彼氏に「はい、どうぞ」とやるシチュエーションに他ならない。
「すまないな」
あくまでも冷静を装ってペットボトルを受け取る。ほんのり温かい。そう言えば、会社を出る前に自動販売機でお茶を買っていたが、俺のためとは思わなかった。
くすぐったい感覚にぶるっと身が震える。おそろしく気が回る。同性にしておくのが惜しい。もったいなさすぎる。彼が異性であったなら、間違いなく恋に落ちていた。なぜ男同士なのだろう。とても歯がゆい。
妹尾から受け取ったペットボトルに口をつける。乾いた喉を温かなお茶が潤してくれる。普段から飲みなれているはずなのに、今夜はやけに美味く思えた。
「なあ。そいつ、どうしたんだ? 拾ったのか?」
妹尾の腕の中で小さく丸まって眠る係長をチラ見して尋ねた。猫のことに詳しくはない。しかし、どうにもペットショップで売られているような血統書つきには見えない。
「ぼくのアパートの近くに捨てられていたんです。みかんのダンボールに入っていました。一昨日のことです」
「そのままおまえが飼えばよかっただろう? おまえ、猫好きみたいだし」
「飼いたいのは山々だったんですけど。その……」
いつになく歯切れが悪い。妹尾はもごもごと言葉を濁した。
「なんだよ? どうかしたのか?」
「その……立ち退かないといけなくて」
「は?」
「今、ぼくが住んでいるアパートなんですけど、築60年のオンボロでして。近いうちに取り壊すことになるので、立ち退かないといけないんです」
だから今、住むところを探していましてと妹尾はつけ加えた。
「それに隙間風もすごいし。床もふかふかで抜けそうだし。風呂も壊れてまして銭湯通いです。ぼくは平気でもこの子には酷だなと」
「それで俺に目をつけたのか」
「いえ、そうじゃありません! そんな理由じゃないんです!」
妹尾が勢いよく俺のほうにぐるんと上半身を向けて、全力で否定した。
「声、でかいよ」
「す、すみません」
背を縮こませて、ゆっくりと彼は前を向いた。しゅんっとうなだれて、とつとつと話す
「ここのところ、課長の吸うタバコの本数が目に見えて増えていましたし。コーヒーも胃潰瘍になりそうなくらいガブ飲みしていましたし。目の下、少し隈ができていましたし。頬も心なしかこけてきていましたし。きっとすごくたいへんなんだろうなと心配していまして。どうにか課長のストレスを減らせないかなって考えていたときに、この子に出会ったんです。運命だと思いました」
赤信号で車をとめる。彼のほうに視線を走らせる。腕の中の係長の頭を優しく撫でながら、彼はにこにこと頬を緩ませていた。
「猫でストレスが減るのか?」
「はい。動物を15分なでるだけでストレスが軽減されるんです。『しあわせホルモン』って呼ばれているオキシトシンが分泌されるからなんですけどね。このホルモンによってしあわせを感じるとですね。ストレス耐性が身につくんです。不安やイライラが中和されて、心拍数が低くなる効果があるんですよ!」
「それはすごいな」
「ですよね!」
妹尾が満面の笑みを浮かべて俺を見る。その笑顔につられて思わず口角が上がる。彼はきっと心の底から猫が好きなのだろう。その気持ちが伝わってくる柔らかな笑みだった。
「まあ、おまえの気持ちはちょっとうれしいよ」
青信号になったので、再び車を走らせる。彼の顔を見ないで言えたのはちょうどよかった。こんなこと、真正面きっては恥ずかしすぎて言えたもんじゃない。
「ぼく、約束は守りますから! この子のことも、課長のことも、途中で投げ出したりしませんから!」
セリフだけ聞いていると愛の告白にしか聞こえない。勘違いしてしまいそうだ。だが、待て。コイツは男だ。同性だ。恋愛対象にしてはならない相手だ。
――耐えろ、誠一郎!
「ははは。本当におまえはいい奴だ」
いい奴だから傷つけてはいけない。大切な部下なのだから。そう、部下なんだ。
「ありがとうございます! 尊敬する小宮山課長にそう言っていただけると、すごくうれしいです!」
潤んだ熱い目で俺を見る妹尾が視界の端に見えた気がして、俺はごくんっと唾を飲みこんだ。
車のシフトレバーから左手を離し、彼の頭に手を置く。綿毛のようなふわふわした髪が指に触れる。そのまま力を入れずに彼の頭をなでた。感触は係長をなでたときとよく似ている。
気持ちが少し軽くなって、ほわんと胸の真ん中があたたかくなる。
――しあわせホルモンでも出てるんだろうか?
そんなことを思いながら、俺はまっすぐに車を走らせた。妹尾の顔は恥かしくてどうにも見られなかった。
ちらりと隣に座る妹尾を見る。とても楽しそうに笑っている。
「どうかしましたか、課長?」
俺の視線に気づいた妹尾が尋ねた。俺は前を見る。
「あ、そうか! 喉が乾いたんですね。今はインフルエンザも流行ってますからね! 乾燥は大敵ですよ!」
妹尾は足元のデイバッグからお茶のペットボトルを取り出した。蓋を開けて俺に差し出す。きめ細やかすぎる。そしてこれは彼女が彼氏に「はい、どうぞ」とやるシチュエーションに他ならない。
「すまないな」
あくまでも冷静を装ってペットボトルを受け取る。ほんのり温かい。そう言えば、会社を出る前に自動販売機でお茶を買っていたが、俺のためとは思わなかった。
くすぐったい感覚にぶるっと身が震える。おそろしく気が回る。同性にしておくのが惜しい。もったいなさすぎる。彼が異性であったなら、間違いなく恋に落ちていた。なぜ男同士なのだろう。とても歯がゆい。
妹尾から受け取ったペットボトルに口をつける。乾いた喉を温かなお茶が潤してくれる。普段から飲みなれているはずなのに、今夜はやけに美味く思えた。
「なあ。そいつ、どうしたんだ? 拾ったのか?」
妹尾の腕の中で小さく丸まって眠る係長をチラ見して尋ねた。猫のことに詳しくはない。しかし、どうにもペットショップで売られているような血統書つきには見えない。
「ぼくのアパートの近くに捨てられていたんです。みかんのダンボールに入っていました。一昨日のことです」
「そのままおまえが飼えばよかっただろう? おまえ、猫好きみたいだし」
「飼いたいのは山々だったんですけど。その……」
いつになく歯切れが悪い。妹尾はもごもごと言葉を濁した。
「なんだよ? どうかしたのか?」
「その……立ち退かないといけなくて」
「は?」
「今、ぼくが住んでいるアパートなんですけど、築60年のオンボロでして。近いうちに取り壊すことになるので、立ち退かないといけないんです」
だから今、住むところを探していましてと妹尾はつけ加えた。
「それに隙間風もすごいし。床もふかふかで抜けそうだし。風呂も壊れてまして銭湯通いです。ぼくは平気でもこの子には酷だなと」
「それで俺に目をつけたのか」
「いえ、そうじゃありません! そんな理由じゃないんです!」
妹尾が勢いよく俺のほうにぐるんと上半身を向けて、全力で否定した。
「声、でかいよ」
「す、すみません」
背を縮こませて、ゆっくりと彼は前を向いた。しゅんっとうなだれて、とつとつと話す
「ここのところ、課長の吸うタバコの本数が目に見えて増えていましたし。コーヒーも胃潰瘍になりそうなくらいガブ飲みしていましたし。目の下、少し隈ができていましたし。頬も心なしかこけてきていましたし。きっとすごくたいへんなんだろうなと心配していまして。どうにか課長のストレスを減らせないかなって考えていたときに、この子に出会ったんです。運命だと思いました」
赤信号で車をとめる。彼のほうに視線を走らせる。腕の中の係長の頭を優しく撫でながら、彼はにこにこと頬を緩ませていた。
「猫でストレスが減るのか?」
「はい。動物を15分なでるだけでストレスが軽減されるんです。『しあわせホルモン』って呼ばれているオキシトシンが分泌されるからなんですけどね。このホルモンによってしあわせを感じるとですね。ストレス耐性が身につくんです。不安やイライラが中和されて、心拍数が低くなる効果があるんですよ!」
「それはすごいな」
「ですよね!」
妹尾が満面の笑みを浮かべて俺を見る。その笑顔につられて思わず口角が上がる。彼はきっと心の底から猫が好きなのだろう。その気持ちが伝わってくる柔らかな笑みだった。
「まあ、おまえの気持ちはちょっとうれしいよ」
青信号になったので、再び車を走らせる。彼の顔を見ないで言えたのはちょうどよかった。こんなこと、真正面きっては恥ずかしすぎて言えたもんじゃない。
「ぼく、約束は守りますから! この子のことも、課長のことも、途中で投げ出したりしませんから!」
セリフだけ聞いていると愛の告白にしか聞こえない。勘違いしてしまいそうだ。だが、待て。コイツは男だ。同性だ。恋愛対象にしてはならない相手だ。
――耐えろ、誠一郎!
「ははは。本当におまえはいい奴だ」
いい奴だから傷つけてはいけない。大切な部下なのだから。そう、部下なんだ。
「ありがとうございます! 尊敬する小宮山課長にそう言っていただけると、すごくうれしいです!」
潤んだ熱い目で俺を見る妹尾が視界の端に見えた気がして、俺はごくんっと唾を飲みこんだ。
車のシフトレバーから左手を離し、彼の頭に手を置く。綿毛のようなふわふわした髪が指に触れる。そのまま力を入れずに彼の頭をなでた。感触は係長をなでたときとよく似ている。
気持ちが少し軽くなって、ほわんと胸の真ん中があたたかくなる。
――しあわせホルモンでも出てるんだろうか?
そんなことを思いながら、俺はまっすぐに車を走らせた。妹尾の顔は恥かしくてどうにも見られなかった。
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