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第4話 お泊りセット持ってきました
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「お疲れ様でした。お先に失礼します、課長」
「ああ、お疲れ様」
定時を過ぎて次々と帰っていく部下たちを見送る中、妹尾はまだオフィスに残っていた。普段なら19時にでもなれば帰るはずなのに、今日は一向に帰る気配がない。
「おい、妹尾。おまえも早く帰れよ」
そう声を掛ける俺に、妹尾は「帰れませんよ」と答えた。
「なんで?」
「だって、一緒に係長を育てるって約束したじゃないですか!」
仕事のために残っているんじゃないのか――と喉を掻い潜りそうになる言葉を押し戻す。
「コイツなら俺がちゃんと面倒見るから」
「課長は猫、育てたことないじゃないですか。課長をひとりにさせるなんてできません!」
ごもっともだ。
「猫の飼い方ハウツー本を買ってだな……」
「係長、ほら。ご飯だよ」
人の話をまったく聞かずに妹尾は係長に猫用のフードの入った皿を与えた。
「ミルクと混ぜてあるのか?」
「はい。カリカリフードはまだ歯が生えそろっていないこの子には硬いので、ミルクで少しふやかすんです」
「へえ、そうなのか」
係長は器のフードを舐めとるともちゃもちゃと大きく口を動かした。うまく食べられなくてポロッと落としてしまう。また舐める。落とす。がんばるを繰り返す。そんな風に一生懸命にカリカリフードを食べる姿が身悶えするほど愛らしい。
「あっ、仕事続けてください。ぼくが係長見てますから」
「ああ」
係長をずっと見ていてもよかったが、そうなると仕事がいつまで経っても終わらなくなる。仕方なく俺はデスクに向き合った。
「ほらほら、係長~! よしっ、いいぞお」
妹尾が係長と戯れている声が聞こえ、パソコンのキーボードの手がとまる。そっと横目で確認する。
子猫は小さな手を必死に伸ばして、妹尾が振るねこじゃらしをパンチする。なかなか当たらない。ぴょんっと跳ねる。うまく着地できなくて、床に転がる。負けじと起き上がって、体を伸ばす。
――かわいい!
「いいぞ、係長。それっ!」
満面の笑顔で係長と遊ぶ妹尾の横顔が目に入る。
「う……!」
まただ。また心臓がぎゅうっと押しつぶされるみたいに痛くなった。
――かわいすぎるぞ。
そう、妹尾が。
そこでハッと我に返る。今しがた脳内で再生した言葉を打ち消すように、ぶんぶんと思いきり首を振った。パソコンの画面に張りつき、カタカタカタカタとキーボードを鬼のように打つ。
「課長?」
心配そうな細い声が飛んでくる。彼が立ちあがって、こちらに近づいて来る気配がした。
「ち、近づくな! ストップ!」
俺は右手をぐんっと突き出して妹尾を制止した。
「顔、真っ赤です。風邪でも引かれたんじゃないですか?」
妹尾の細い指が俺の額に向かって伸びてくる。
――ダメだ、妹尾。触るんじゃない。
パタンっと大げさな音を立ててノートパソコンを閉じる。
「か、帰ろう。もう20時だ」
額までわずか一関節分の距離で妹尾の指がとまる。彼が壁掛け時計に顔を向けた。
「そうですね。あっ、それなら湯たんぽ用意しなくちゃ!」
「湯たんぽ?」
「ここ、エアコン切れちゃいますよね? 猫は寒いのがダメなんです。風邪引いたら一大事ですからね」
「湯たんぽって、どうやって用意するんだ?」
「これです」
俺のデスクの上に置いてあった空のペットボトルを彼は取り上げて見せた。
「ペットボトル?」
「これに熱いお湯を入れてタオルでくるんでやるんです。すごくあったかいんですよ」
「それじゃ用意してきますね」と言って、妹尾がオフィスを出ていった。
そうか。ペットボトルに熱いお湯を入れるだけで湯たんぽができるのか――と俺は係長を見る。
体重はどれくらいだろう。俺が帰宅してから飲む缶ビール一本分の重みと一緒くらいだろうか。小さいうえにガリガリで、手足もものすごく細い。今から帰って出社するまで12時間。エアコンの切れた部屋は何度になるのだろう。
二月の中旬。10度を下回るかもしれない。
「みぃ」
係長が俺の足に顔をこすりつける。何度も、何度もだ。まるで「置いて行かないで」と切願されているようだ。
「うーん」
彼を膝の上に抱き上げる。
軽い。恐ろしく軽い。こんな子猫をだだっ広くて真っ暗な部屋にひとり置き去りにするのか、俺は。
「動物……禁止なんだよなあ」
係長は俺の膝で丸くなって寝始めた。安心しているのか。それとも温かいのか。
「課長~! 湯たんぽ、用意して来ましたよ~!」
妹尾が戻ってきて、俺にペットボトルを振って見せた。じっと彼を見る。それから膝の上を見る。茶色のもふもふは膝の上でしあわせそうな顔をして眠っている。
――腹をくくるか。
ケージの毛布の中に湯たんぽをせっせと入れ込む妹尾に「帰るぞ」と俺は声をかけた。
「あ、じゃあ係長を」
「コイツは俺の家に連れて帰る」
妹尾がきょとんと目をまんまるにして俺を見上げた。
「課長のマンション、動物飼育禁止なのに?」
「こんなところに置いておいて、風邪を引かれても大変だし。仮に脱走して、そこらへん引っ搔きまわされても困るしな」
「大丈夫です。そんなこともあろうかと、ぼく、お泊りセット持ってきました」
自分のデスクに走っていき、足元からパンパンに膨らんだ大きなボストンバックを取り出して妹尾は笑った。どこまでも気配りの男である。
「お泊りセットって……ここにおまえが泊まるのか?」
「だってひとりじゃかわいそうですし」
「おまえなあ」
「安心してください。こう見えて、ぼく頑丈なんですよ!」
右腕をパンパンと叩いて強さアピールをする妹尾の姿に、俺の胸が不覚にも小さく跳ね上がった。
こいつらを残して自分だけ帰れるわけがない。かといって、暖房のつけられない部屋に居続けるのは遠慮したい。
「おまえも来い」
「え?」
「おまえも一緒に俺のマンションに来い」
「課長のマンションですか?」
彼が驚いたように目を見開いた。なにを言っているんだ、俺。これは決していかがわしい考えで言っているわけじゃない。そうだ。猫のためだ。猫のためなんだ。
「俺は猫のことはわからないから……一緒に来て、俺に教えてくれ」
彼の顔が霧が晴れるようにぱあっと明るく輝いた。
「はい!」
かくして俺はバレンタインの夜に子猫とかわいい部下を連れて帰ることになった。
「ああ、お疲れ様」
定時を過ぎて次々と帰っていく部下たちを見送る中、妹尾はまだオフィスに残っていた。普段なら19時にでもなれば帰るはずなのに、今日は一向に帰る気配がない。
「おい、妹尾。おまえも早く帰れよ」
そう声を掛ける俺に、妹尾は「帰れませんよ」と答えた。
「なんで?」
「だって、一緒に係長を育てるって約束したじゃないですか!」
仕事のために残っているんじゃないのか――と喉を掻い潜りそうになる言葉を押し戻す。
「コイツなら俺がちゃんと面倒見るから」
「課長は猫、育てたことないじゃないですか。課長をひとりにさせるなんてできません!」
ごもっともだ。
「猫の飼い方ハウツー本を買ってだな……」
「係長、ほら。ご飯だよ」
人の話をまったく聞かずに妹尾は係長に猫用のフードの入った皿を与えた。
「ミルクと混ぜてあるのか?」
「はい。カリカリフードはまだ歯が生えそろっていないこの子には硬いので、ミルクで少しふやかすんです」
「へえ、そうなのか」
係長は器のフードを舐めとるともちゃもちゃと大きく口を動かした。うまく食べられなくてポロッと落としてしまう。また舐める。落とす。がんばるを繰り返す。そんな風に一生懸命にカリカリフードを食べる姿が身悶えするほど愛らしい。
「あっ、仕事続けてください。ぼくが係長見てますから」
「ああ」
係長をずっと見ていてもよかったが、そうなると仕事がいつまで経っても終わらなくなる。仕方なく俺はデスクに向き合った。
「ほらほら、係長~! よしっ、いいぞお」
妹尾が係長と戯れている声が聞こえ、パソコンのキーボードの手がとまる。そっと横目で確認する。
子猫は小さな手を必死に伸ばして、妹尾が振るねこじゃらしをパンチする。なかなか当たらない。ぴょんっと跳ねる。うまく着地できなくて、床に転がる。負けじと起き上がって、体を伸ばす。
――かわいい!
「いいぞ、係長。それっ!」
満面の笑顔で係長と遊ぶ妹尾の横顔が目に入る。
「う……!」
まただ。また心臓がぎゅうっと押しつぶされるみたいに痛くなった。
――かわいすぎるぞ。
そう、妹尾が。
そこでハッと我に返る。今しがた脳内で再生した言葉を打ち消すように、ぶんぶんと思いきり首を振った。パソコンの画面に張りつき、カタカタカタカタとキーボードを鬼のように打つ。
「課長?」
心配そうな細い声が飛んでくる。彼が立ちあがって、こちらに近づいて来る気配がした。
「ち、近づくな! ストップ!」
俺は右手をぐんっと突き出して妹尾を制止した。
「顔、真っ赤です。風邪でも引かれたんじゃないですか?」
妹尾の細い指が俺の額に向かって伸びてくる。
――ダメだ、妹尾。触るんじゃない。
パタンっと大げさな音を立ててノートパソコンを閉じる。
「か、帰ろう。もう20時だ」
額までわずか一関節分の距離で妹尾の指がとまる。彼が壁掛け時計に顔を向けた。
「そうですね。あっ、それなら湯たんぽ用意しなくちゃ!」
「湯たんぽ?」
「ここ、エアコン切れちゃいますよね? 猫は寒いのがダメなんです。風邪引いたら一大事ですからね」
「湯たんぽって、どうやって用意するんだ?」
「これです」
俺のデスクの上に置いてあった空のペットボトルを彼は取り上げて見せた。
「ペットボトル?」
「これに熱いお湯を入れてタオルでくるんでやるんです。すごくあったかいんですよ」
「それじゃ用意してきますね」と言って、妹尾がオフィスを出ていった。
そうか。ペットボトルに熱いお湯を入れるだけで湯たんぽができるのか――と俺は係長を見る。
体重はどれくらいだろう。俺が帰宅してから飲む缶ビール一本分の重みと一緒くらいだろうか。小さいうえにガリガリで、手足もものすごく細い。今から帰って出社するまで12時間。エアコンの切れた部屋は何度になるのだろう。
二月の中旬。10度を下回るかもしれない。
「みぃ」
係長が俺の足に顔をこすりつける。何度も、何度もだ。まるで「置いて行かないで」と切願されているようだ。
「うーん」
彼を膝の上に抱き上げる。
軽い。恐ろしく軽い。こんな子猫をだだっ広くて真っ暗な部屋にひとり置き去りにするのか、俺は。
「動物……禁止なんだよなあ」
係長は俺の膝で丸くなって寝始めた。安心しているのか。それとも温かいのか。
「課長~! 湯たんぽ、用意して来ましたよ~!」
妹尾が戻ってきて、俺にペットボトルを振って見せた。じっと彼を見る。それから膝の上を見る。茶色のもふもふは膝の上でしあわせそうな顔をして眠っている。
――腹をくくるか。
ケージの毛布の中に湯たんぽをせっせと入れ込む妹尾に「帰るぞ」と俺は声をかけた。
「あ、じゃあ係長を」
「コイツは俺の家に連れて帰る」
妹尾がきょとんと目をまんまるにして俺を見上げた。
「課長のマンション、動物飼育禁止なのに?」
「こんなところに置いておいて、風邪を引かれても大変だし。仮に脱走して、そこらへん引っ搔きまわされても困るしな」
「大丈夫です。そんなこともあろうかと、ぼく、お泊りセット持ってきました」
自分のデスクに走っていき、足元からパンパンに膨らんだ大きなボストンバックを取り出して妹尾は笑った。どこまでも気配りの男である。
「お泊りセットって……ここにおまえが泊まるのか?」
「だってひとりじゃかわいそうですし」
「おまえなあ」
「安心してください。こう見えて、ぼく頑丈なんですよ!」
右腕をパンパンと叩いて強さアピールをする妹尾の姿に、俺の胸が不覚にも小さく跳ね上がった。
こいつらを残して自分だけ帰れるわけがない。かといって、暖房のつけられない部屋に居続けるのは遠慮したい。
「おまえも来い」
「え?」
「おまえも一緒に俺のマンションに来い」
「課長のマンションですか?」
彼が驚いたように目を見開いた。なにを言っているんだ、俺。これは決していかがわしい考えで言っているわけじゃない。そうだ。猫のためだ。猫のためなんだ。
「俺は猫のことはわからないから……一緒に来て、俺に教えてくれ」
彼の顔が霧が晴れるようにぱあっと明るく輝いた。
「はい!」
かくして俺はバレンタインの夜に子猫とかわいい部下を連れて帰ることになった。
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