極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ

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Lesson 6 指に残る甘いしびれ

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 職員玄関から外へ出て、そこで松永からカバンを受け取った。
 松永は私を送ると言い張ったけど、彼の家の方角は私とは真逆だし、部活でヘトヘトなところをわざわざ送ってもらうのもなんだか気がひけた。
 それになにより葵に出くわしでもしたらシャレにならない気がしたから。
 だから『絶対に送って帰る』と粘る松永の申し出をどうにか断って、一人で帰ることにしたのだ。

「それじゃあ、LINEの交換してよ」
「なんで?」
「なんかあったらすぐに助け呼べるだろ?」

 そう言われ、半ば強引にLINEの交換をすることになった。
 松永は心底嬉しそうにほほを緩めて笑うと、「無事に家に着いたらLINEしてくれよ」と言い残して、しぶしぶ帰って行った。
 私は登録された松永のアカウントを確認した後、スマホをカバンの中に突っ込むとゆっくりと歩き出した。
 校門もすでに閉まっていて、出られるのは校門脇の来客用の門だけだった。
 うっすら紺色のカーテンを広げ始めた空を見上げながら私は門をくぐる。
 家に向かって歩き出そうとして、私の足がとまる。
 まるで金縛りでもあったみたいに1mmも動かすことができなかった。
 両手をスーツのズボンのポケットに突っ込んで、ガードレールに腰を下ろす男の横顔が、通り過ぎる車のヘッドライトの中に浮かび上がる。
 息をするのも忘れそうになる私のほうに、その顔がゆっくりと向けられる。
 私を見つけたその目がフッと緩んで細められた。

「遅かったな」

 たった一言に、心臓が握りつぶされたみたいに縮こまった。

 思いもしない時間と場所に、想定外の相手が現れたら動揺しないわけがない。
 足のつま先から頭の先へと一瞬にして鳥肌が立つ。

「なんで……いるのよ」

「迎えに来ちゃいけなかった?」

 葵は立ち上がりながら意地悪く笑って見せた。

「仕事は……?」

 単語しか出てこない自分が、葵の笑顔に完全に飲み込まれている自分が、本当に悔しくてたまらない。
 相変わらず一歩も動けない私の代わりに、葵のほうが近づいてきた。

 ゆっくり、ゆっくり。
 一歩一歩。

 後ろにも前にも逃げられない。
 まるで根が生えたみたいにその場から動けない私の前まで葵はやってくると、私の顔に自分の顔を近づけて、どこかとげのある笑みを浮かべてみせた。

「テスト前だから居残り勉強でもしてたのかな?」

 探るような目に、背中が急に汗ばみ始める。
 葵の目が私の中を全て見透かすみたいに見えて、気まずさに唇を噛んでしまった。
 松永との『秘密のキス』まで葵にバレてしまいそうで、胸のドキドキが鳴りやまない。

 後ろめたいことなんてない。
 罪悪感を抱く必要なんてまるでない。
 だって別に付き合っている彼女彼氏でもないんだから。
 目の前にいるのは隣に住んでいるお兄ちゃん。
 ただの『意地悪カテキョ』。
 そう思うのに、浮気したみたいな心境に陥っている。

「陽菜子ちゃん?」

 こちらを見る葵の力を帯びた瞳におびえた顔した羊が一匹映り込んでいる。

 意地悪く細められる目に、触られている一房の髪の毛に、神経という神経が全部集中してしまって、葵の一つひとつのしぐさや言葉に過剰反応しそうになる。

「が……学祭の看板作ってた」

 間違った答えじゃない。
 でも、『あれ』だけは絶対に言えない。

「一人で?」

 ――聞くな、バカ!!

 そんな目で、顔で、口で、声で、見透かすように聞くなと心が悲鳴をあげ始める。

「ひ……ひとりに決まってんじゃん」

 上ずった声が悲しいくらい『ウソ』を暴露する。
 葵が笑うのをやめて、さらにじっと私を見つめてきた。
 映り込んだ自分の姿が揺れるように見えるのは、そこに熱いものが浮かんで見えるからなのかもしれない。
 葵は黙ったまま私をじっと見つめている。
 その沈黙が心地悪くて、ジリジリする。
 次の瞬間、私の唇の上に葵の人差し指が触れた。
 愛おしそうにゆっくりと端から端をなぞっていく感触に身震いしそうになって、私は必死になって足に力を込めた。

「誰かにキスされたとか?」

 私の唇の真ん中に指先を当てたまま、真っすぐな視線を私に向けて葵はそう言った。
 言われた途端に激しい動機に教われた。
 顔は異常なほどの熱を帯びているから、きっと頭から湯気が出てしまいそうなほど赤くなっているに違いない。
 耳まで熱いと感じる私に、葵はこわばった表情を崩して見せた。



「本当にヒナは素直だねえ」

 目を細めて笑うその顔が怖くて怖くて、違う意味で震えが走った。

「ち……ちがうもん。唇じゃないもん!」

『しまった!!』と思ったときにはもう遅くて、出てしまった言葉は二度と戻ってはくれない。
 私を見つめる葵の目に黒い影が走ったようにも見えたけど、それは一瞬で……
 彼は小さくため息をつくと「かわいすぎ」とつぶやいた。

 大人の余裕をにおわせる笑みを乗せた葵に、私は安堵と不安が半々になった。

 ――ヤキモチやかないの?

 いや、そもそもヤキモチやかれるような関係でもないし、怒られる筋合いもない。
 だけど――

「ほら、カバン貸せ」

 そう言って葵は私の手からカバンを取り上げると、ひょいっと肩に担いだ。
 歩き始める葵の背中をぼんやり見つめる私に気づいて足をとめる葵が振り返った。

「置いてくぞ」

 置いていってもらって一向に構わない。
 なのに小走りで追いかける自分が悲しい。

 横には並べずに、スーツ姿の広い背中を見つめながらとぼとぼ歩く。
 葵はなにも言わないまま、まっすぐ前を見て歩いていた。
 後ろを歩く私の顔を見もしない。

 そのことに小さな苛立ちが胸に湧き上がる。

 なんで聞かないの?
 なんで『キス』のこと聞かないの?
 誰ととか、いつしたとか、どこでしたとか、どこにされたとか、なんで聞かないの?
 そんなに気にならないの?
 気にしても仕方ないってことなの?

「ねえっ!」

 気がついたら立ちどまって、葵の背中に向かってそう叫んでいた。
 それでも葵の足はとまらない。

 なんで止まってくれないの!
 呼んでるのに!
 葵のことを呼んでるのに!

 そう思って走って葵に近づくと、ギュッとスーツの裾を引っ掴んで、もう一度「ねえっ!」とはっきり大きく叫んだ。

「ん?」


 やっと足をとめて私を見る葵の顔はなんとも涼やかで、それがまた私をイライラさせる。

「なんで聞かないのよ!」
「なにを?」
「なにをって……」

『キスのことを聞いてほしい』なんて、口が裂けても言いたくない。

「なぁに?」

 と私の気持ちを見透かすみたいに葵が訊いた。
「ねえ、なにを訊いてほしいわけ?」

 喉で転がすようにして笑って、私を見下ろす葵。
 この身長差もムカつくけど、わかっていながらあえて訊いてくる葵はもっとムカつく。

「もういいっ!」

 掴んでいた葵のスーツの裾から手を放して歩き出そうとしたそのとき、葵の手が私の手をハシッと掴んだ。

「ちょ……放して!」

 そう言って振り切ろうとしたけれど、葵はグッと力を込めてそれを許してくれなかった。

「ちゃんと言ったら放してあげるよ」

 悪魔を彷彿とさせる極上の笑顔に唾を飲み込んだ。
 どうあっても私の口から言わせたいらしい。

「ねえ」

 葵の唇に乗る言葉にピクリと身体が反応する。

「どうして欲しいか言ってごらん?」

 葵の長い指がそっと私の顔の輪郭を撫でて行く。

 背中がゾワゾワした。
 体の中心がジリジリした。
 触れる指先を熱が追いかけていく。
 流されそう。
 このまま葵の言葉に流されちゃいそうで、私は唇を強く噛みしめた。


 ――悔しい! 悔しい! 悔しい!

 葵の手のひらで私は簡単に転がされる。
 だって、逆らえなくなるんだもの。
 葵の目に宿る炎や言葉に混じる甘い匂いに、私の胸がわしづかみにされたまま持っていかれそうになる。

「陽菜子?」

『ヒナ』でも『陽菜子ちゃん』でもない呼び捨てをこのタイミングで使ってくるのはズルすぎる。
 そんなふうに呼ばれたら、必死で頑張って拒否しようとしている私の気持ちが簡単に揺らいでしまう。
 下の名前を呼ばれただけなのに、心の奥底が焼けつくように熱くなる。
 葵を求めたくなる。
 葵の全てに触れたくなる。
 あの夏の日みたいに、甘いキスをねだりたくなる。

「キス……」

 ――言うな。言うな。言うな、私!

 負けちゃダメだと思うのに、もう一人の私がいつもの私を押しのける。

 欲しいなら貰えばいい。
 欲しいなら乞えばいい。

 簡単なことみたいにもうひとりの私がそうささやいてくる。

 私の顔をなぞる葵の手がとまる。
 見上げた顔はヘッドライトに照らされて、妙に艶めかしく私の目に映り込んだ。
 がまんできない衝動が大波のように私をさらう。

「した……」

 葵の指が私の唇にそっと触れた。
『黙って』というサインを送ってくる。
『い』という最後の言葉を飲み込んで、ゆっくり近づいてくる葵を見ないように私はゆっくりまぶたを閉じた。
 葵の顔が近づいてくる気配とともに自分の右手がゆっくりと持ちあげられる気配もした。
 それでもキスされると思う緊張が全身を痺れさせ、目を開けることを困難にさせる。

 ――葵の唇と自分の唇とが触れるまであと何cmなんだろう?

 すぐそこに迫る葵の気配に、胸のドキドキはもう押さえることができなかった。
 体の全神経がその瞬間に息をひそめている。


 ――もうどうにでもなれ!

 緊張のピークがやってきたとき、ふと右手に柔らかいものが触れた。

「……ん……」

 想像していなかったことに驚いて目を開ける。
 漏れた吐息に残ったほうの手でとっさに口を塞いだ。
 顔が一気に熱くなって、団扇でばさばさ仰ぎたいほど熱い。

 右手に落ちる葵の唇――キス。

 指先にも指と指の間にも、等しく注がれるキスにめまいがするほど感じてしまう。
 ゆっくりと這う葵の唇の柔らかさに、指先の感覚が溶けていく。
 その一方で満たされない情熱がさらに焼けつくように炎をたぎらせる。
 体の中心がほてりを冷ましてくれといっているのに、葵は炎を鎮めるための水を用意してはくれない。
 むしろ炎の勢いが増すように煽ってくる。
 私の喉が渇ききるのを待つかのように、私の表情を窺いながら楽しそうにフッと笑って――

「本物のキスしちゃったら、お勉強できなくなっちゃうでしょ?」

 ポンポンと軽く頭を叩いて葵は歩き出す。


 意地悪!
 悪魔!
 最低エロカテキョ!

 あんたなんか大っきらいだし!
 好きになったり絶対にしないんだから!

 そんな私の心の声なんか聞こえないみたいに葵が振り返る。

「置いてっちゃうよ?」

 余裕しゃくしゃくの笑顔をたたえた葵から顔をそむけるように、ぷぃっと横を見ながら歩き出す。

 だけど握りしめた拳の中で降り注いだキスの余韻に……指先だけはまだ甘くしびれていた。
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