極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ

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Lesson 1 数センチの甘い距離

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 羨ましくなるほど長くてふさふさのまつげに隠れる瞳。
 筋の通った鼻。
 うっすらと濡れた形のいい唇。
 長い指の先には形のいい爪がある。
 少し茶色みがかかった髪はさらさらとしていて、程よく焼けた肌を隠す服の下の体は筋肉質で引き締まっていることを知っている。

 それらすべてが今、息がかかるほどに近い距離にある。

 全部に触れたから知っているだけで、愛おしいとか好きだとかいう気持ちは置き去りになったまんまになっている。

 それなのに矛盾しているのは、またそこに触れたくなることだ。
 私の身体の芯がじんわりと熱くなって、早まる鼓動にぎゅうっと胸が苦しくなる。

陽菜子ひなこちゃん? ちゃんと聞いてた?」

 自分の名前を呼ばれたことにハッとなって我に返った。

 ――違う。この声じゃない。

「陽菜子ちゃん?」
「ごめんなさい。ちゃんと聞いてなかった」

 そう答えると、私の目の前にある人は眉間に深いしわを刻んで、呆れたような目をした。

「今はお勉強の時間でしょ? 違うこといっぱい妄想するのはきちんとやることやってからにしましょうね」

 指でコツコツと机の上を叩いた彼が深いため息を吐く。
 そのしぐさにまた、胸がきつく締めつけられる。

 本当は思い出したくないのに、いっぱい後悔もしてるのに、どうしても思い出してしまって苦しくなるの。
 忘れようって何度も思ったし、トライした。
 なのに、忘れようとすればするほど色濃く脳裏に浮かび上がってくるのだからやるせない。
 それもこれも隣に座る人物が悪い。
 その人から香るかすかなタバコと香水の匂いが私の身体に刷り込まれた記憶を呼び起こすんだから。

「陽菜子ちゃん?」

 整った顔がずいっと近づいてくる。
 鼻先すれすれの、ともすれば息がかかるほどの近い距離に詰め寄られた私の心臓が大きく波打ってしまう。
 全身を駆け抜けるしびれのせいで、手にしていたシャーペンを落としそうになる。
 なにも言わないでただじっと見つめてくるなんてずるい!
 ドキドキと一方的に早くなる鼓動が耳元で響いている。
 緊張に耐えられなくて、膝の上で左手を握り込んだ。
 握った手のひらが汗で滲んでいる。

 ――来ないで。それ以上近づかないで。おかしくなりそう。どうにかなっちゃう!

 全身に廻る血が沸騰してしまっている。
 頭の中が真っ白になって、口元があわあわと震えてしまいそうなのを必死にこらえる。

「困ったな」

 目の前の彼が体を引くようにして顔を離すと、くすっと小さく笑った。
 それから肩にかかっている私の髪を一房拾って「どうしたもんかな」と言いたげな視線をこちらに投げてよこしたのだ。
 そんな彼の切れ長の目に射抜かれるように、思わずビクッと体が反応した。

 ――こんなことぐらいでイチイチ反応するな、私!

 髪に神経なんかないはずなのに、掴まれている部分が熱を伝えてくる。
 じわじわと這いのぼる悪寒にも似たその感覚に、私は必死で自分を抑え込んだ。

「ちゃ、ちゃんと……やるわよ」

 気を抜けば上ずってしまいそうになる声を振りしぼりながら彼を睨む。
 彼は「ちゃんとしなさいね」とからかうように小さく笑った。

「今の時間、俺はお隣のお兄ちゃんでも、初体験の相手でもなく、キミの家庭教師だから。一応、先生と生徒。この時間だけはきちんとしようね、陽菜子ちゃん?」

 ――自分だってちゃんとしてないくせに!

 そう言いたかったけど、言葉を喉の奥へ追い返した。
 相手の言うことはもっともだ。
 今はお隣のお兄ちゃんじゃない。
 私の初体験の相手でももちろんない。
本宮もとみやあおい』という、私の家庭教師。

 葵は私の髪を優しく手離すと、机の上の問題集に向き合う私と同じように視線をそちらに戻した。
 私がわかりやすいように丁寧に葵は説明していく。

 張りのある凛としたつややかな声にあの日、たくさん名前を呼ばれた。
『かわいいよ』『きれいだよ』『がまんしなくていいよ』『大丈夫だよ』といろいろ言われたのも覚えてる。
 だけどひとつだけ聞いてない言葉がある。

『好きだよ』という言葉だけ――

 視線を少しずらしただけで密着するほどに近い距離にいるのに、この時間だけは葵との間に高い壁が見える。

 濁りのない瞳の中には炎のように燃える熱はない。
 参考書に伸びた指はおもしろくないほど規則的に文字を追っている。
 紡がれる言葉に甘美な響きは乗っていない。
 ときおり触れそうになる肌には心地のいい湿り気は宿ってもいない。
 知っている顔には顔だけど、小さい頃からずっと見てきた隣のお兄ちゃんの顔とは少し違った厳しい顔。

『家庭教師』という仮面を被った『顔』に、私は内心舌打ちしてる。
 葵の声とは別に聞こえてくる秒針の音がやけに大きくて気持ちが萎える。
 この時間は苦痛で、退屈で、つまらなくて、しんどい。
 まるで拷問を受けてるみたい。

 ――早く過ぎてしまえ、時間!

 そんな願いを抱えていても終了時間はまだ先のこと。

 数字。
 アルファベット。
 漢字。
 文字、文字、文字。
 ひしめき合って並ぶ文字と睨めっこをしながら、私は葵の指先を追う。


 教科書と問題集の上を走る葵の指に撫でられる文字にまでなにか嫉妬めいたものを感じる私脳はどこかネジが飛んでしまっている。

 ――私、葵が好きなのかな?

 わからない。
 自分の気持ちも相手の気持ちも確認するよりも前に体を重ねてしまったから。
 たぶん、今の私はすごく酔っている。
 大波に揺られた船に乗っているみたいに、ものすごい船酔いを起こしている。

 消化不良だし。
 気持ち悪いし。
 納得いかないし!

「じゃ、ここは次回までにやっておくこと。了解?」

 そう言って葵は目じりを下げて優しく笑う。
 家庭教師という仮面が外れて、お隣のお兄ちゃんという別の仮面がまた姿を見せる。

 どれが本物の『本宮葵』なのか。
 どれが私の知っている『本宮葵』なのか。
 仮面を付け替えられるたびに私は混乱して戸惑う。

 どれも葵だし、どれも知っている顔。
 だけど欲しい顔はそれじゃなくて、もっと違う顔で。
 いやらしいけど私の中の『女』の部分が訴えてくる。
『早く彼を引きずり出して』って――

「ねえ」

 葵の紡いだ一言に胸がひと際大きく鼓動した。

「なんでしょう……か?」

 なんでもない顔を必死に作るけど、本当にちゃんとできているのか不安すぎて視線が揺れてしまう。
 目の前の葵は相変わらず余裕な笑みで私を見つめている。

『ねぇ』

 という言葉は魔法の呪文のように私を凍らせる。
 その続きに喉がゴクリと鳴って口が乾いてくる。

 葵はフッと笑うと小さくため息を吐いてから「テストいつから?」と訊いてきた。
『テスト』という単語を耳にしたとたんに一気に緊張がほどけた。
 どこかで『なにか』を『期待』していたらしい気持ちにポトリとひとつ陰が落ちる。

「来週からだって……言ったと思ったけど?」

 そんな私を横目でチラリと見た後で、葵はハンガーにかけてあったスーツの上着から赤黒い皮の手帳を取り出してパラパラとめくった。

「じゃあ、週末は特訓だな」

 そう言って手にしていたボールペンで何かを書き込むと、机の上の私のカレンダーにも赤い丸印を二つつけた。

「いい成績を取ってもらわないと俺が来ている意味がないからね。弱いところはこの2日間で克服ね。了解?」

 やんわりとした笑顔を浮かべる葵。
 これは確信的に使っているものだとわかっているのに、絶対に逆らえない私がいる。

「了解もなにも……ないじゃない」

 精いっぱい反抗する私の頭に手を乗せてから、葵はまたツィッと顔を近づけた。

「強がるヒナの顔……俺ってば大好物なんだけど?」

 なんとも色気のある葵の潤んだ目と視線がぶつかった。

 ――んもうっ! 反則過ぎっ!

 その手も、その言葉も、その呼び方も全部、全部、反則だ!
 小さい悪魔のようなほほ笑みをのせて、葵の顔がさらに近づいてくる。
 咄嗟に目をつむる。
 膝の上の拳に力がさらにこもった。

 ――震えるな、膝!

 思わず丸くなる背筋に、ビリビリと電気が走っていく。
『期待』と『不安』が交錯する中で、『女』の意識と『女の子』のままでいたい願望が入り混じる。
 顔を出そうとするもう一人の私を必死になっていつもの私が抑え込もうとしている。

 だけど、そんな私の内側の事情なんてきっと葵には関係なくて。
 ううん。
 葵は全部わかっていてやってる。
 触れるか触れないかのギリギリのところを攻めてきて、私を惑わすの。
 前髪に触れたのか、おでこに触れたのかもわからない究極のライン。
 息のかかる本当にギリギリのところで、葵の気配が遠のいていく。
 ゆっくりとまぶたをあげる私に向かって、葵は片方の口角だけをクッと持ち上げた。

「がんばってお勉強したら……続きしようね」

 くすっ。
『だから頑張りなさい』と言いたげに笑う葵に私は目を見張った。
 言い返すこともできないまま、スーツを羽織って出て行く葵の背中を睨みつける。

「おやすみ、陽菜子ちゃん」

 なんて、キレイな笑顔を添えて残していく悪魔が憎らしい。

「葵の……葵のバッカヤロー!」

 階段を上機嫌に降りていく彼の姿を想像しながら、ひっつかんだ枕を全力で扉に向かってぶん投げた。
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