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親子の肖像
絶望
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どこまでも、どこまでも暗闇が続く。スマホの画面の光で、かろうじて見える範囲しか見えないが、見えている部分も真っ黒に塗りこめられたキャンパスのように、なにがあるのか、またなにがないのかもわからない。
――ここはなんなんだ。
行けども、行けども終わりがない。本来ならあるはずの壁がない。つまり、突き当たるものがないのだ。ずっと前進を続けている。いや、そう思い込まされているのかもしれない。周りを覆う闇が濃すぎて、進んでいる方向がひどく曖昧なのだ。
「香奈枝! 香奈枝、どこだ! いるなら返事をしろ!」
ありったけの声で叫ぶ。しかし声は反響することなく、分厚い闇に吸い込まれていく。
ちらっと握っているものに視線を落とす。三分切っている。
――ダメだ! 時間がない!
焦って走り出す。「香奈枝!」と彼女の名前を呼び続ける。
スマホの画面をまたチラ見した。残り二分。カウンターは止まらない。どこまでも続く道をただ闇雲に走り続けるだけ。埒が明かない。
「香奈枝!」
その場に立ち止まって名前を呼ぶ。耳を澄ましても返事は聞こえない。それどころか益々闇は濃くなっていく。
「香……」
再び叫ぼうとして、寒さにブルっと身震いした。走り回っていた体が急速に冷たくなっていく。吐く息が白い。足のほうからじわじわと迫ってくる冷気を確かめるようにスマホの灯りを向けて言葉を失った。
闇がもぞりと動いて足に絡みついた途端、ぷすりっとふくらはぎに針のように鋭いものが刺さった。
「痛ッ……」
飛び退きたくても足は闇にがっちりと押さえつけられていて動けない。ぷつん、ぷつんと針が足のいたるところに刺さっていく。同時に闇が足を上ってくる。足元の闇がぬうっ、ぬうっと次々に盛り上がり、ボコボコボコッと波立った。二つの三角形に山なりの背中。ゆらゆらと長い棒のようなものが揺れるもの……猫の形になったものは連なり、体にしがみついてくる。
「クソッ! クソッ!」
左手で闇を振り払うと影が弾けた。フシュウ、フシュウと影の猫たちが不満の声を上げる。一匹剥がれたかと思うと、別の一匹が飛んできてしがみつく。体を揺すって振り落とす。叩きつぶす。それでも猫たちは諦めない。自分たちと同化させようと躍起になっているのか。
不意に右手がもぞもぞと動いて視線を向けた。女の指が画面を叩いていた。そのせいでカウンターがさらに進められる。残り時間は一分を切っていた。
「クソッ!」
女の親指と人差し指をつまみ上げ、ポキポキと反対側に折っていく。折れた指がまだスマホを操作しようとブルブルと痙攣していた。
「クソクソクソクソッ!」
陰の猫たちが爪を立てるせいで、体のあちこちが痛んだ。シャツやズボンがビリビリに破れて、地肌からはたらたらと血が垂れている。
時間はどんどん無くなっていく。残り三十秒……
香奈枝香奈枝香奈枝香奈枝。
爪が鎖骨に食い込んだ。猫たちが這い登ってくる。悔しさに痛いほど強く歯を食いしばり、目を瞑った。
もう、なにもできない。時間もない。彼女も探せない。負けるのだ。千佳に負けて、自分は千佳の玩具になるんだ――
切り刻まれ、蜘蛛の巣に引っかかった自分を想像した。どうしてこんなことになったのか。悔やんでも悔やみきれない。せめて香奈枝だけでも助け出したかったのに……
「諦めるんじゃない!」
唐突に降ってわいたしわがれた老人の声に弾かれるようにまぶたを開いた。影の猫たちに覆われ、閉ざされようとしている視界の先に煌々とした光の玉が見えた。急速に近づいてくる光の奥からぬうっと大きな手が伸びてきた。その手に強く肩を掴まれた瞬間、蜘蛛の子が散るように、うなあ……うなあ……という悲しげな声をあげて影が霧散していった。
目の前にいたのは、井田親子の下の階に住む、あの老人だった。老人は脇に懐中電灯を挟むと片山からスマホを奪い取った。素早く操作したあと「ほれ」と返して寄こした。寄こされたスマホの画面に視線を落とすと、残り一秒の状態で止まっている。
「こっちだ」
なにが起きたのか目を見張る片山を置いて、老人は急ぎ足でたったか歩いていく。明るい光が前を照らす。光があることがこれほど安心するものか。
「ま、まってくれ」とその背を急いで追いかける。ようやく追いついて隣に並ぶと老人はふんっと鼻を鳴らして「まったく」と呆れたようにこぼした。
「子供の遊びに本気でつき合うとは、あんたもお人よしも過ぎるよ」
「だって、香奈枝が……」
「わかっとるよ」
老人は小さく嘆息した。それから「心配しなくていい」と告げた。
「あんたの大事な人は無事だよ」
「それじゃあ、この……この手の女の人は……」
老人がちらりとスマホにくっついた両手を見た。
「そりゃあ、あの子の母親だよ。大方、邪魔になったから手に掛けたんだろうな」
「そんなこと……」
できるわけがない――と続けようとした言葉を飲みこんだ。千佳はすでに祖父を手に掛けている。おそらく隣人も。二人の大人を手に掛けておいて、上手いこと周りを騙せている子供が、なにを恐れることがあるだろう。むしろ経験を積んだだけ、もっと狡猾にやるのではないか。
仮に千佳が手に掛けたとして、首と両手以外はどこへやったのか。
「母親を殺したということだけでいいだろう。他のことは考えるだけ意味がない。なにせあの子はもう人ではないんだから」
心底憐れんでいるとでも言わんばかりに、苦渋に満ちた声音だった。
「あの子は生物の生態を観察したり、本を読んだりするのが好きだった。だから、たくさん教えた。よかれと思ってな。なにより、あの子がかわいかったんだ。だけどもな。あの子は寂しかったんだ。両親は仕事ばかりだったし、友だちも上手に作れなかった。祖父がどんなにかわいがろうと、あの子が一番に欲しかったのは両親の愛情だった。そのやりきれない思いをあの子は弱いものをいじめることで発散したんだろう。きっと振り向いてほしかったのさ。悪いことをすれば、祖父も両親に言うだろう。そうすれば、両親は少なくとも自分に時間を割くだろうと。ところがな、祖父は両親にはなにも言わず、あの子を叱り飛ばした。こんなひどいことができるおまえは悪魔の子だと罵ったんだ。祖父とあの子の間に亀裂が生まれた。その亀裂が修復される前に、祖父は体を壊し、寝たきりのようになった。満足に言葉を話すことができなくなった。すると家族は祖父の世話に追われるようになった。あの子はますます孤立した。祖父さえいなくなれば――と思った。そうなれば、時間ができる。祖父に使う時間を自分に回してもらえるってな」
老人はふふっと笑った。陰った笑い声だった。彼はなおも続けた。
「祖父が死んで、やっとと思ったところで両親が離婚した。母親は父親に捨てられたと言い、もう二度と父親には会えないと言った。以前よりも貧しい暮らしになり、母親はもっと忙しくなった。帰って来ても、クタクタで、ろくに話もせずに眠ってしまう。あの子は再び悪さを始めた。悪さはどんどんエスカレートしていった。虫を殺し、鳥を殺し、猫を殺し、気の優しい隣のおばあさんまで殺した。母親はあの子をひどく𠮟りつけた。おまえなんて産まなければよかったと……心にもないことを口にしてしまったのは疲れのせいだ。本当はそんなこと、微塵も思っていなかったのに、心がやせ細ってしまってな。かわいそうなことだ。誤解だと言ったところで、こぼれた言葉はもう二度と元には戻せんのだから」
老人はそこまで話し終えると、ふうっと大きく息をついた。
なぜ、老人は井田家のことについてこんなに詳しいのだろう。母親がこぼしたのか。その可能性は大いにある。千鶴子とは何度か話したことがあると言っていた。千佳が手に掛けた猫を一緒に埋葬しながら、誰にも話せないことをこぼす千鶴子の姿が容易に想像できた。
「さて、ここだ」
と、老人が暗闇の中に隠れていた扉の前で足をとめた。
「この扉をまっすぐに行くと外へ出られる。あんたの大事な人も今頃はもう外にいて、あんたが出てくるのを待っているはずだ」
さあ行け――老人が促した。
「あの……ありがとうございました」
深々と頭を下げる。ことり……と老人の手にあったはずの懐中電灯が足元に落ちてきた。驚いて顔を上げると、びしゃんっと大量の液体が飛んできた。顔の半分をぬるりとした生温かなものが覆っている。
目の前にプラプラと力なく揺れる老人の足があった。視線を上に向けると、老人の胸に細い鋭利な棒状のものが突き刺さっている。毛に覆われた尖ったものは老人の背中のほうから飛び出ていた。
「ちかのじゃまばっかりするじじいはしんじゃえばいいんだ」
ガクンッとうなだれた体をぷらんと揺らしながら、巨大な蜘蛛が不機嫌そうにキリキリと歯噛みした。そして汚物を捨てるみたいに、老人の体を投げ落とした。力の抜けた人形となった彼の体はピクリとも動かない。
殺された――と悟った瞬間、恐怖心が背筋を遡った。今度は自分の番だ。
逃げろ。逃げなければ殺られる!
カサカサカサ……と千佳が移動している音が聞こえた。扉に手を掛け、回そうとしたところで背後に気配を感じた。
粗くなる呼吸を整える。
にがさない……にがすもんか……ぜったいに、にがすもんか……
はああああ。
鼻の奥をつんっと刺激する強烈な異臭が漂ってきた。
怖い怖い怖い怖い――
右手にグッと力を込めた瞬間、パッと振り返った。
目の前に千佳の真っ白な顔があった。目が合うと、彼女はニタアと嗤った。
無我夢中だった。大きく手を振り上げると、スマホをめり込ませるようにして千佳の額にたたきつけた。
ギャアアアアアッ!
絶叫が轟き、千佳の巨体がぐらりと揺らいだのを視界の端で確かめると、勢いよく扉を開いた。
幅にして一メートルくらいの長い廊下があった。その向こうに光が見える。あそこがきっと出口だ。
全力で走る。出口が近づいてくる。あとわずか数十メートル。
急げ急げ急げ――
手を伸ばす。指先が出口の光に触れた瞬間、ずるりっと足が滑った。そのまま後方に引っ張られる。ハッとして足のほうを見ると、白い糸が足首に絡まりついていた。糸は暗闇から伸びている。千佳だ。千佳が糸を吐いたのだ。逃がすまいと、あの子の執念が糸となって追ってきたのだ。
ズルズルと元来た道へ引きずり戻される。出口の光が再び遠のき、代わりに入り口がすぐそこまで迫っていた。入り口には嬉々とした表情の千佳が待っている。なんとか糸から脱しようともがいたが、粘着性の高い糸がぐるぐると足首に絡まっていて、どうにもこうにもならなかった。その間にも、体は千佳のほうへと引き寄せられていく。ゆっくり、ゆっくり糸を手繰り寄せながら、獲物を待ち構える千佳の笑い声が狭い廊下内に反響している。
悔しさで目頭が熱くなった。今度こそお終いだ。自分はこのまま千佳に食い殺されるのだろう。あと少しだった。少しだったのに――
「いい加減にしろおおおおおお、千佳あああああ!」
耳をつんざく怒声があきらめかけていた心を寸でのところで踏みとどまらせた。老人の声だった。
やめろ、じじい。あんたなんかきらいだ。あっちいけえ。あっちいけえええ。
続いて、千佳の苦痛に満ちた絶叫がこだました。と同時に、足を縛っていた糸が解け、体がふっと軽くなった。
行け! 行けえええええ!
老人の声が背中を押した。再び起き上がり、出口に向かって走った。
もうすぐ出口というところで、出口に黒い影が差した。千佳に先回りされたのか。やはりここから出られないのか――
「佑くん、手を! 手を伸ばして!」
香奈枝だ。香奈枝が出口から半身を乗り出して手を差し伸べていた。必死になって手を伸ばし、香奈枝の手を握りしめる。彼女はその手を力強く握り返した。
香奈枝の手のぬくもりを感じた。この手を離したくない。生きていたい。こんなところで死にたくない。
香奈枝がぐうっと光のほうへと引っ張った。腕が、肩が、頭が、胴が、足が外へ出た。どさりっとその場に倒れ込むと、ドオンッと地を揺らす轟音がし、熱風が背中を吹き抜けていった。
それが覚えている最後の記憶だった。
佑くん! 佑くん!
香奈枝の呼び声を遠くに感じながら、泥に溶けるように意識が消えていった。
――ここはなんなんだ。
行けども、行けども終わりがない。本来ならあるはずの壁がない。つまり、突き当たるものがないのだ。ずっと前進を続けている。いや、そう思い込まされているのかもしれない。周りを覆う闇が濃すぎて、進んでいる方向がひどく曖昧なのだ。
「香奈枝! 香奈枝、どこだ! いるなら返事をしろ!」
ありったけの声で叫ぶ。しかし声は反響することなく、分厚い闇に吸い込まれていく。
ちらっと握っているものに視線を落とす。三分切っている。
――ダメだ! 時間がない!
焦って走り出す。「香奈枝!」と彼女の名前を呼び続ける。
スマホの画面をまたチラ見した。残り二分。カウンターは止まらない。どこまでも続く道をただ闇雲に走り続けるだけ。埒が明かない。
「香奈枝!」
その場に立ち止まって名前を呼ぶ。耳を澄ましても返事は聞こえない。それどころか益々闇は濃くなっていく。
「香……」
再び叫ぼうとして、寒さにブルっと身震いした。走り回っていた体が急速に冷たくなっていく。吐く息が白い。足のほうからじわじわと迫ってくる冷気を確かめるようにスマホの灯りを向けて言葉を失った。
闇がもぞりと動いて足に絡みついた途端、ぷすりっとふくらはぎに針のように鋭いものが刺さった。
「痛ッ……」
飛び退きたくても足は闇にがっちりと押さえつけられていて動けない。ぷつん、ぷつんと針が足のいたるところに刺さっていく。同時に闇が足を上ってくる。足元の闇がぬうっ、ぬうっと次々に盛り上がり、ボコボコボコッと波立った。二つの三角形に山なりの背中。ゆらゆらと長い棒のようなものが揺れるもの……猫の形になったものは連なり、体にしがみついてくる。
「クソッ! クソッ!」
左手で闇を振り払うと影が弾けた。フシュウ、フシュウと影の猫たちが不満の声を上げる。一匹剥がれたかと思うと、別の一匹が飛んできてしがみつく。体を揺すって振り落とす。叩きつぶす。それでも猫たちは諦めない。自分たちと同化させようと躍起になっているのか。
不意に右手がもぞもぞと動いて視線を向けた。女の指が画面を叩いていた。そのせいでカウンターがさらに進められる。残り時間は一分を切っていた。
「クソッ!」
女の親指と人差し指をつまみ上げ、ポキポキと反対側に折っていく。折れた指がまだスマホを操作しようとブルブルと痙攣していた。
「クソクソクソクソッ!」
陰の猫たちが爪を立てるせいで、体のあちこちが痛んだ。シャツやズボンがビリビリに破れて、地肌からはたらたらと血が垂れている。
時間はどんどん無くなっていく。残り三十秒……
香奈枝香奈枝香奈枝香奈枝。
爪が鎖骨に食い込んだ。猫たちが這い登ってくる。悔しさに痛いほど強く歯を食いしばり、目を瞑った。
もう、なにもできない。時間もない。彼女も探せない。負けるのだ。千佳に負けて、自分は千佳の玩具になるんだ――
切り刻まれ、蜘蛛の巣に引っかかった自分を想像した。どうしてこんなことになったのか。悔やんでも悔やみきれない。せめて香奈枝だけでも助け出したかったのに……
「諦めるんじゃない!」
唐突に降ってわいたしわがれた老人の声に弾かれるようにまぶたを開いた。影の猫たちに覆われ、閉ざされようとしている視界の先に煌々とした光の玉が見えた。急速に近づいてくる光の奥からぬうっと大きな手が伸びてきた。その手に強く肩を掴まれた瞬間、蜘蛛の子が散るように、うなあ……うなあ……という悲しげな声をあげて影が霧散していった。
目の前にいたのは、井田親子の下の階に住む、あの老人だった。老人は脇に懐中電灯を挟むと片山からスマホを奪い取った。素早く操作したあと「ほれ」と返して寄こした。寄こされたスマホの画面に視線を落とすと、残り一秒の状態で止まっている。
「こっちだ」
なにが起きたのか目を見張る片山を置いて、老人は急ぎ足でたったか歩いていく。明るい光が前を照らす。光があることがこれほど安心するものか。
「ま、まってくれ」とその背を急いで追いかける。ようやく追いついて隣に並ぶと老人はふんっと鼻を鳴らして「まったく」と呆れたようにこぼした。
「子供の遊びに本気でつき合うとは、あんたもお人よしも過ぎるよ」
「だって、香奈枝が……」
「わかっとるよ」
老人は小さく嘆息した。それから「心配しなくていい」と告げた。
「あんたの大事な人は無事だよ」
「それじゃあ、この……この手の女の人は……」
老人がちらりとスマホにくっついた両手を見た。
「そりゃあ、あの子の母親だよ。大方、邪魔になったから手に掛けたんだろうな」
「そんなこと……」
できるわけがない――と続けようとした言葉を飲みこんだ。千佳はすでに祖父を手に掛けている。おそらく隣人も。二人の大人を手に掛けておいて、上手いこと周りを騙せている子供が、なにを恐れることがあるだろう。むしろ経験を積んだだけ、もっと狡猾にやるのではないか。
仮に千佳が手に掛けたとして、首と両手以外はどこへやったのか。
「母親を殺したということだけでいいだろう。他のことは考えるだけ意味がない。なにせあの子はもう人ではないんだから」
心底憐れんでいるとでも言わんばかりに、苦渋に満ちた声音だった。
「あの子は生物の生態を観察したり、本を読んだりするのが好きだった。だから、たくさん教えた。よかれと思ってな。なにより、あの子がかわいかったんだ。だけどもな。あの子は寂しかったんだ。両親は仕事ばかりだったし、友だちも上手に作れなかった。祖父がどんなにかわいがろうと、あの子が一番に欲しかったのは両親の愛情だった。そのやりきれない思いをあの子は弱いものをいじめることで発散したんだろう。きっと振り向いてほしかったのさ。悪いことをすれば、祖父も両親に言うだろう。そうすれば、両親は少なくとも自分に時間を割くだろうと。ところがな、祖父は両親にはなにも言わず、あの子を叱り飛ばした。こんなひどいことができるおまえは悪魔の子だと罵ったんだ。祖父とあの子の間に亀裂が生まれた。その亀裂が修復される前に、祖父は体を壊し、寝たきりのようになった。満足に言葉を話すことができなくなった。すると家族は祖父の世話に追われるようになった。あの子はますます孤立した。祖父さえいなくなれば――と思った。そうなれば、時間ができる。祖父に使う時間を自分に回してもらえるってな」
老人はふふっと笑った。陰った笑い声だった。彼はなおも続けた。
「祖父が死んで、やっとと思ったところで両親が離婚した。母親は父親に捨てられたと言い、もう二度と父親には会えないと言った。以前よりも貧しい暮らしになり、母親はもっと忙しくなった。帰って来ても、クタクタで、ろくに話もせずに眠ってしまう。あの子は再び悪さを始めた。悪さはどんどんエスカレートしていった。虫を殺し、鳥を殺し、猫を殺し、気の優しい隣のおばあさんまで殺した。母親はあの子をひどく𠮟りつけた。おまえなんて産まなければよかったと……心にもないことを口にしてしまったのは疲れのせいだ。本当はそんなこと、微塵も思っていなかったのに、心がやせ細ってしまってな。かわいそうなことだ。誤解だと言ったところで、こぼれた言葉はもう二度と元には戻せんのだから」
老人はそこまで話し終えると、ふうっと大きく息をついた。
なぜ、老人は井田家のことについてこんなに詳しいのだろう。母親がこぼしたのか。その可能性は大いにある。千鶴子とは何度か話したことがあると言っていた。千佳が手に掛けた猫を一緒に埋葬しながら、誰にも話せないことをこぼす千鶴子の姿が容易に想像できた。
「さて、ここだ」
と、老人が暗闇の中に隠れていた扉の前で足をとめた。
「この扉をまっすぐに行くと外へ出られる。あんたの大事な人も今頃はもう外にいて、あんたが出てくるのを待っているはずだ」
さあ行け――老人が促した。
「あの……ありがとうございました」
深々と頭を下げる。ことり……と老人の手にあったはずの懐中電灯が足元に落ちてきた。驚いて顔を上げると、びしゃんっと大量の液体が飛んできた。顔の半分をぬるりとした生温かなものが覆っている。
目の前にプラプラと力なく揺れる老人の足があった。視線を上に向けると、老人の胸に細い鋭利な棒状のものが突き刺さっている。毛に覆われた尖ったものは老人の背中のほうから飛び出ていた。
「ちかのじゃまばっかりするじじいはしんじゃえばいいんだ」
ガクンッとうなだれた体をぷらんと揺らしながら、巨大な蜘蛛が不機嫌そうにキリキリと歯噛みした。そして汚物を捨てるみたいに、老人の体を投げ落とした。力の抜けた人形となった彼の体はピクリとも動かない。
殺された――と悟った瞬間、恐怖心が背筋を遡った。今度は自分の番だ。
逃げろ。逃げなければ殺られる!
カサカサカサ……と千佳が移動している音が聞こえた。扉に手を掛け、回そうとしたところで背後に気配を感じた。
粗くなる呼吸を整える。
にがさない……にがすもんか……ぜったいに、にがすもんか……
はああああ。
鼻の奥をつんっと刺激する強烈な異臭が漂ってきた。
怖い怖い怖い怖い――
右手にグッと力を込めた瞬間、パッと振り返った。
目の前に千佳の真っ白な顔があった。目が合うと、彼女はニタアと嗤った。
無我夢中だった。大きく手を振り上げると、スマホをめり込ませるようにして千佳の額にたたきつけた。
ギャアアアアアッ!
絶叫が轟き、千佳の巨体がぐらりと揺らいだのを視界の端で確かめると、勢いよく扉を開いた。
幅にして一メートルくらいの長い廊下があった。その向こうに光が見える。あそこがきっと出口だ。
全力で走る。出口が近づいてくる。あとわずか数十メートル。
急げ急げ急げ――
手を伸ばす。指先が出口の光に触れた瞬間、ずるりっと足が滑った。そのまま後方に引っ張られる。ハッとして足のほうを見ると、白い糸が足首に絡まりついていた。糸は暗闇から伸びている。千佳だ。千佳が糸を吐いたのだ。逃がすまいと、あの子の執念が糸となって追ってきたのだ。
ズルズルと元来た道へ引きずり戻される。出口の光が再び遠のき、代わりに入り口がすぐそこまで迫っていた。入り口には嬉々とした表情の千佳が待っている。なんとか糸から脱しようともがいたが、粘着性の高い糸がぐるぐると足首に絡まっていて、どうにもこうにもならなかった。その間にも、体は千佳のほうへと引き寄せられていく。ゆっくり、ゆっくり糸を手繰り寄せながら、獲物を待ち構える千佳の笑い声が狭い廊下内に反響している。
悔しさで目頭が熱くなった。今度こそお終いだ。自分はこのまま千佳に食い殺されるのだろう。あと少しだった。少しだったのに――
「いい加減にしろおおおおおお、千佳あああああ!」
耳をつんざく怒声があきらめかけていた心を寸でのところで踏みとどまらせた。老人の声だった。
やめろ、じじい。あんたなんかきらいだ。あっちいけえ。あっちいけえええ。
続いて、千佳の苦痛に満ちた絶叫がこだました。と同時に、足を縛っていた糸が解け、体がふっと軽くなった。
行け! 行けえええええ!
老人の声が背中を押した。再び起き上がり、出口に向かって走った。
もうすぐ出口というところで、出口に黒い影が差した。千佳に先回りされたのか。やはりここから出られないのか――
「佑くん、手を! 手を伸ばして!」
香奈枝だ。香奈枝が出口から半身を乗り出して手を差し伸べていた。必死になって手を伸ばし、香奈枝の手を握りしめる。彼女はその手を力強く握り返した。
香奈枝の手のぬくもりを感じた。この手を離したくない。生きていたい。こんなところで死にたくない。
香奈枝がぐうっと光のほうへと引っ張った。腕が、肩が、頭が、胴が、足が外へ出た。どさりっとその場に倒れ込むと、ドオンッと地を揺らす轟音がし、熱風が背中を吹き抜けていった。
それが覚えている最後の記憶だった。
佑くん! 佑くん!
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