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親子の肖像
部屋の中
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市内に入ると出来うるかぎりの最短ルートで井田親子の住むアパートへ向かった。
ところが、こういう急いでいるときに限って、道は大いに込み合い、足止めを食らう。それこそ見えない何か――禍々しい悪意の両手が横に手を広げ、意地悪をする――に邪魔立てされている感覚。もう少しなのに届かないもどかしさに自然、体を揺すってしまう。
「動きませんね。事故かな……」
梶山が小さくこぼす。青になっても車が動かない。どこか別の道へ逃れたくても車が連なっていて、にっちもさっちもいかなかった。おそらくもう、一キロもないはずなのだ、アパートまで。苛立ったようにあちこちから飛び交うクラクション。交通整備をする甲高いホイッスルの音。それらが重なり、不協和音となってビリビリと車窓を叩いている。
「俺、走ります!」
矢も楯もたまらず、シートベルトを外し、車のドアの施錠を外した。そのまま飛び出そうとしたら、梶山の力強い手でぐっと肩を掴まれた。
「私も必ず行きますから! 絶対に無茶なこと、しないでください。いいですね!」
有無を言わせない力強い声と言葉に圧倒されるように首肯した。梶山の手が離れると同時に外へ飛び出す。
地面に降り立った瞬間、蒸せるような暑さにぐんにゃりと視界が揺らいだ。立ち眩みだった。焦がされたアスファルトから、ゆらゆらと白い靄が上がっている。ギラギラと照りつける太陽に焚きつけられるように走り出した。十代のころはもっと軽やかだったはずの足は鉛のように重たい。思っているよりも前へ進めないのに、汗だけは噴き出してくる。
それでもなんとか半分近くまでやってくると、渋滞の原因である事故現場が見えてきた。乗用車とトラックが追突していた。死亡事故にはなっていないようだが、救急車は来ている。現場の脇の歩道は事故の様子を撮影する野次馬たちが餌にたかる蟻のように群れができている。
「すみません」「通してください」と叫びながら群れの間を分け入るようにして突き進んだ。鬱陶しそうに顔をしかめて睨んだり、チッとあからさまに舌打ちしされたりしたが、そんなことに構っている余裕はなかった。なんなら蹴り倒したかったし、突き飛ばしたかった。そうして倒れた背中を踏み進んでいきたかった。香奈枝の身に危険が差し迫っている。もう一秒だって猶予はないのだ。
ようやく野次馬の群れを抜け、件のアパートが見えたときは安堵さえ覚えた。大した距離を走ってきたわけでもないのに、たどり着けないのではないかと思った。
門前までたどり着いたときには、猛暑の中を全力疾走したせいもあり、喉が焼けるようにひりついていた。全身の血が肉を溶かすほど沸騰し、高熱を噴き上げている。
ぜいぜいと喘鳴する呼吸を整える。ふと、違和感が襲った。地面に映っていたはずの影が闇に取り込まれて消えた。
顔を上げると、辺りは急激に暗くなっていた。あんなに晴れ渡っていたはずの空は黒とも見まがうほど暗い灰色になった。見渡す限りの風景から、ごっそりと色が抜け落ちたのだ。グレースカラーになった風景の中で、アパートは黒々とした陰になって、奇妙な生き物に変化して見えた。
風もないのにカタカタとガラスを揺らす窓。地震でもないのにキシキシと揺れて軋む支柱。パンクして、膨らんだ壁がぱつんっ、ぱつんっと音を立てて割れていた。古い皮膚が剥がれるようにボロボロと崩れ落ちる壁。その隙間から、ガサガサと黒い小さな虫が這いだしてくる。そして『ここだよ……ここだよ……』と誘うようにパタン、パタンと開いたり閉まったりを繰り返す『二〇三』号室のドア……
――なんなんだ、これは。
ドロドロとヘドロのような黒い泥が表面を覆う階段へ歩み寄る。卵が腐った臭いがする。鼻がひん曲がりそうだ。
階段に足をかける。ぬちゃと革靴が泥に埋まり、ずるりと滑る。焦りのあまり掴んだ手摺のぬるっとした感触に、ひゅうっと口から悲鳴にならない声が漏れ、思わず手をひっこめた。
ズボンに擦り付けて手の平の汚れを拭い、慎重に階段を上がる。一段上がるごとにぬちゃ、ぬちゃっという陰湿な音が耳を打った。それは廊下にまで及んでいた。廊下どころか、その泥の出所は井田親子の部屋なのだ。
開閉する扉は、それ自体が汚物を吐き出す口になっていて、ドロドロのヘドロが一定の間隔を置きながら、ぴしゃん、ぴしゃんと廊下に飛び散っている。
しかし扉の前までやってくると、バタンッと派手な音を立てて扉がしまった。それきり口を開こうとしない。サッと扉の前に手を出してみる。反応はない。これなら行けるか。いや、もう少し警戒すべきか。
扉に耳をつけてみる。
カサカサ……カサカサ……
中でなにかが動き回っているような音がする。
けけけけ……けけけけけ……
笑い声? きっと笑い声だ。高いとも低いとも言い難い笑い声。それが近くにあったのに、遠のいていく。
肺の中の息をすべて吐き出し、一度呼吸を止め、もう一度大きく吸い込んだ。そっとドアノブに手を掛けて、ゆっくりと回してみる。鍵はかかっていない。わずかに引いてみると扉にすき間ができた。
――一、二の……三!
思いきって扉を開けた。先ほどみたいに閉まるかと思いきや、扉はそのまま力なく開いたままだった。吐瀉物も出てくる気配はない。
扉の端からそっと中を覗き込む。薄暗い。ここからではよくわからない。ただ、すぐそばに人がいる気配はない。
――中に入って確かめるしかない!
そろり……忍び足で三和土にあがる。蒸し暑い。サウナにいるみたいだ。奥のほうからブウン、ブウンと扇風機の羽根が回る音が聞こえる。
――やはり誰かいるのか?
足を止め、ズボンのポケットからスマホを取り出した。懐中電灯のアプリを起動する。にわかに明るくなり、部屋の様相が露になる。刹那、あまりの薄気味の悪さにギョッと目を剥いた。
床はびっしりと黒い汚物にまみれている……だけではない。台所なのか。冷蔵庫や食器棚といった家財道具も汚物にまみれている。ひどい悪臭だ。以前訪問したときにも嗅いだ臭い。外の臭いよりもずっと濃厚で、下水道の中にいると言ってもいいほどだった。
空いているほうの手で鼻と口を覆いながら、ゆっくりと奥へ進む。居間と台所を隔てる引き戸がある。擦りガラスになっていて、ここからでは奥の状況はわからない。
――行くしかない!
引き戸には汚泥はついていなかった。取っ手の部分にも特に異常は見られない。静かに、刻むように扉を開けた。中に入ろうとして足を止めた。
六畳ほどの居間のようだ。雨戸に閉ざされた窓の傍に背の低い古い扇風機が置いてあり、ブウン、ブウンと回っている。
「香奈枝……? いるのか……?」
扇風機の風に揺れるようにちらちらと赤い色の細い糸のようなものが張り巡らされている。
――蜘蛛の……巣?
光を当ててよく見てみた瞬間、ぎゅうっと激しく縮こまった。赤い糸ではない。足元のほうは薄いピンク。それは床に近づくほど白い部分が残っているのだ。
足元から舐めるようにして顔を天井に向けた。糸は天井に向かうほど色濃くなっている。糸を伝って見た先でそれを見つけた。
顔……がある。
女の顔がある。
頭部が陥没した女性の首が赤い糸にくっついて宙に浮いている。血に濡れて固まった黒髪がべったりと顔にへばりついている。その合間から覗く濁りきった白濁した目がこちらを向いていたのだ。それに加え、おそらく彼女のものと思われるバラバラに切断された手足が、首を支える添え木のように交差した状態でくっついている。糸を赤く染めていたのは首や腕から流れた血だったのだ。
「うわあああああっ」
喉が張り裂けんばかりの絶叫がほとばしり、その場に尻もちをついた。そのとき、部屋の隅のほうでカサカサ……と闇が蠢いた。
うふふふふ……うふふふふ……
カサカサカサ……カサカサカサ……
うふふふふ……うふふふふ……
「だ、誰だ! 誰かいるのか!」
闇に向かって叫ぶ声が恐怖でうわずり、裏返る。
うん、いるよ。いるよ、おにいちゃん……
声が徐々に明瞭になり、尻もちをついた足の合間の闇がずわりっと盛り上がる。
ぱっくりと禍々しい闇が裂け、にまあっと少女の白い顔がぽっかりと浮かび上がった。
声は出なかった。出せなかった。
「いらっしゃい、おにいちゃん」
この家を初めて訪問した帰り道にすれ違った少女――そう、梶山に貰った写真の少女が膝の合間でニタァ……と白い歯を見せて嗤った。
ところが、こういう急いでいるときに限って、道は大いに込み合い、足止めを食らう。それこそ見えない何か――禍々しい悪意の両手が横に手を広げ、意地悪をする――に邪魔立てされている感覚。もう少しなのに届かないもどかしさに自然、体を揺すってしまう。
「動きませんね。事故かな……」
梶山が小さくこぼす。青になっても車が動かない。どこか別の道へ逃れたくても車が連なっていて、にっちもさっちもいかなかった。おそらくもう、一キロもないはずなのだ、アパートまで。苛立ったようにあちこちから飛び交うクラクション。交通整備をする甲高いホイッスルの音。それらが重なり、不協和音となってビリビリと車窓を叩いている。
「俺、走ります!」
矢も楯もたまらず、シートベルトを外し、車のドアの施錠を外した。そのまま飛び出そうとしたら、梶山の力強い手でぐっと肩を掴まれた。
「私も必ず行きますから! 絶対に無茶なこと、しないでください。いいですね!」
有無を言わせない力強い声と言葉に圧倒されるように首肯した。梶山の手が離れると同時に外へ飛び出す。
地面に降り立った瞬間、蒸せるような暑さにぐんにゃりと視界が揺らいだ。立ち眩みだった。焦がされたアスファルトから、ゆらゆらと白い靄が上がっている。ギラギラと照りつける太陽に焚きつけられるように走り出した。十代のころはもっと軽やかだったはずの足は鉛のように重たい。思っているよりも前へ進めないのに、汗だけは噴き出してくる。
それでもなんとか半分近くまでやってくると、渋滞の原因である事故現場が見えてきた。乗用車とトラックが追突していた。死亡事故にはなっていないようだが、救急車は来ている。現場の脇の歩道は事故の様子を撮影する野次馬たちが餌にたかる蟻のように群れができている。
「すみません」「通してください」と叫びながら群れの間を分け入るようにして突き進んだ。鬱陶しそうに顔をしかめて睨んだり、チッとあからさまに舌打ちしされたりしたが、そんなことに構っている余裕はなかった。なんなら蹴り倒したかったし、突き飛ばしたかった。そうして倒れた背中を踏み進んでいきたかった。香奈枝の身に危険が差し迫っている。もう一秒だって猶予はないのだ。
ようやく野次馬の群れを抜け、件のアパートが見えたときは安堵さえ覚えた。大した距離を走ってきたわけでもないのに、たどり着けないのではないかと思った。
門前までたどり着いたときには、猛暑の中を全力疾走したせいもあり、喉が焼けるようにひりついていた。全身の血が肉を溶かすほど沸騰し、高熱を噴き上げている。
ぜいぜいと喘鳴する呼吸を整える。ふと、違和感が襲った。地面に映っていたはずの影が闇に取り込まれて消えた。
顔を上げると、辺りは急激に暗くなっていた。あんなに晴れ渡っていたはずの空は黒とも見まがうほど暗い灰色になった。見渡す限りの風景から、ごっそりと色が抜け落ちたのだ。グレースカラーになった風景の中で、アパートは黒々とした陰になって、奇妙な生き物に変化して見えた。
風もないのにカタカタとガラスを揺らす窓。地震でもないのにキシキシと揺れて軋む支柱。パンクして、膨らんだ壁がぱつんっ、ぱつんっと音を立てて割れていた。古い皮膚が剥がれるようにボロボロと崩れ落ちる壁。その隙間から、ガサガサと黒い小さな虫が這いだしてくる。そして『ここだよ……ここだよ……』と誘うようにパタン、パタンと開いたり閉まったりを繰り返す『二〇三』号室のドア……
――なんなんだ、これは。
ドロドロとヘドロのような黒い泥が表面を覆う階段へ歩み寄る。卵が腐った臭いがする。鼻がひん曲がりそうだ。
階段に足をかける。ぬちゃと革靴が泥に埋まり、ずるりと滑る。焦りのあまり掴んだ手摺のぬるっとした感触に、ひゅうっと口から悲鳴にならない声が漏れ、思わず手をひっこめた。
ズボンに擦り付けて手の平の汚れを拭い、慎重に階段を上がる。一段上がるごとにぬちゃ、ぬちゃっという陰湿な音が耳を打った。それは廊下にまで及んでいた。廊下どころか、その泥の出所は井田親子の部屋なのだ。
開閉する扉は、それ自体が汚物を吐き出す口になっていて、ドロドロのヘドロが一定の間隔を置きながら、ぴしゃん、ぴしゃんと廊下に飛び散っている。
しかし扉の前までやってくると、バタンッと派手な音を立てて扉がしまった。それきり口を開こうとしない。サッと扉の前に手を出してみる。反応はない。これなら行けるか。いや、もう少し警戒すべきか。
扉に耳をつけてみる。
カサカサ……カサカサ……
中でなにかが動き回っているような音がする。
けけけけ……けけけけけ……
笑い声? きっと笑い声だ。高いとも低いとも言い難い笑い声。それが近くにあったのに、遠のいていく。
肺の中の息をすべて吐き出し、一度呼吸を止め、もう一度大きく吸い込んだ。そっとドアノブに手を掛けて、ゆっくりと回してみる。鍵はかかっていない。わずかに引いてみると扉にすき間ができた。
――一、二の……三!
思いきって扉を開けた。先ほどみたいに閉まるかと思いきや、扉はそのまま力なく開いたままだった。吐瀉物も出てくる気配はない。
扉の端からそっと中を覗き込む。薄暗い。ここからではよくわからない。ただ、すぐそばに人がいる気配はない。
――中に入って確かめるしかない!
そろり……忍び足で三和土にあがる。蒸し暑い。サウナにいるみたいだ。奥のほうからブウン、ブウンと扇風機の羽根が回る音が聞こえる。
――やはり誰かいるのか?
足を止め、ズボンのポケットからスマホを取り出した。懐中電灯のアプリを起動する。にわかに明るくなり、部屋の様相が露になる。刹那、あまりの薄気味の悪さにギョッと目を剥いた。
床はびっしりと黒い汚物にまみれている……だけではない。台所なのか。冷蔵庫や食器棚といった家財道具も汚物にまみれている。ひどい悪臭だ。以前訪問したときにも嗅いだ臭い。外の臭いよりもずっと濃厚で、下水道の中にいると言ってもいいほどだった。
空いているほうの手で鼻と口を覆いながら、ゆっくりと奥へ進む。居間と台所を隔てる引き戸がある。擦りガラスになっていて、ここからでは奥の状況はわからない。
――行くしかない!
引き戸には汚泥はついていなかった。取っ手の部分にも特に異常は見られない。静かに、刻むように扉を開けた。中に入ろうとして足を止めた。
六畳ほどの居間のようだ。雨戸に閉ざされた窓の傍に背の低い古い扇風機が置いてあり、ブウン、ブウンと回っている。
「香奈枝……? いるのか……?」
扇風機の風に揺れるようにちらちらと赤い色の細い糸のようなものが張り巡らされている。
――蜘蛛の……巣?
光を当ててよく見てみた瞬間、ぎゅうっと激しく縮こまった。赤い糸ではない。足元のほうは薄いピンク。それは床に近づくほど白い部分が残っているのだ。
足元から舐めるようにして顔を天井に向けた。糸は天井に向かうほど色濃くなっている。糸を伝って見た先でそれを見つけた。
顔……がある。
女の顔がある。
頭部が陥没した女性の首が赤い糸にくっついて宙に浮いている。血に濡れて固まった黒髪がべったりと顔にへばりついている。その合間から覗く濁りきった白濁した目がこちらを向いていたのだ。それに加え、おそらく彼女のものと思われるバラバラに切断された手足が、首を支える添え木のように交差した状態でくっついている。糸を赤く染めていたのは首や腕から流れた血だったのだ。
「うわあああああっ」
喉が張り裂けんばかりの絶叫がほとばしり、その場に尻もちをついた。そのとき、部屋の隅のほうでカサカサ……と闇が蠢いた。
うふふふふ……うふふふふ……
カサカサカサ……カサカサカサ……
うふふふふ……うふふふふ……
「だ、誰だ! 誰かいるのか!」
闇に向かって叫ぶ声が恐怖でうわずり、裏返る。
うん、いるよ。いるよ、おにいちゃん……
声が徐々に明瞭になり、尻もちをついた足の合間の闇がずわりっと盛り上がる。
ぱっくりと禍々しい闇が裂け、にまあっと少女の白い顔がぽっかりと浮かび上がった。
声は出なかった。出せなかった。
「いらっしゃい、おにいちゃん」
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