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親子の肖像
過去
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梶山一家はとても幸福だった。夫婦仲もよかったし、なにより千鶴子という嫁を梶山の両親たちはとても気に入っていて、すごく大切にしていた。むろん、それは千鶴子も同じで、ずっとそういう関係が続いていくものだと思っていた。三年前に、とある事件が起きるまでは――
その事件が起きる前のこと。梶山の父、千佳からすると祖父にあたる元二郎は特に、目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた。
彼は共働きの息子夫婦に替わってよく面倒を見ていた。元教員――高校の理科教師だった彼は、千佳にいろいろな本を与えたし、実際に見聞を広めると言っては千佳を外へ連れ出しもした。出掛ける先は市内に留まらず、県外に遠出をすることもよくあった。目的地は様々で、川であったり、山であったり、街中であったり。その都度、元二郎は千佳に多くの知識と経験を与えた。千佳もそんな祖父に非常に懐いていた――ように見えたと梶山は語った。
「いつも『じいじ。じいじ』と言って、傍にいましたよ。だから……父が亡くなったとき、まさかと思ったんです」
梶山は開いた膝の上に乗せた拳を握りしめるようにして、うつむき加減に訥々と話した。声が若干震えているように聞こえるのは気のせいではないだろう。それほどに、語ること自体、苦しくてたまらないというように感じられた。
「三年前の七月二十日に父は亡くなりました。突然死です。好酸球性髄膜炎という病気が原因でした」
瞬間的に息を飲んだ。
『好酸球性髄膜炎』
広東住血線虫という寄生虫に感染した結果、起こる病気だ。広東住血線虫の成虫はドブネズミなどの血管に寄生する体長二十ミリ程度の線虫の幼虫がネズミの体外に排出されたあと、ナメクジなどの中間宿主の中へ入る。中間宿主の体内で発育し、感染幼虫になった個体は人の体内に入り、寄生する。この寄生した虫によって引き起こされる様々な病気のひとつがこの髄膜炎なのである。
井田親子の隣人を訪ねた折に、下の階の老人が話したことが気になって、ナメクジを食べた場合のことを調べたから知っていた。その話をまた、聞くことになろうとは……
「でも、その病気はナメクジなどの中間宿主を食べたり、触ったりしなければ、かかることがないのではないですか? その手の知識は誰よりもあったはずでしょう?」
そう尋ねた瞬間、向かいのふたりの顔色がサッと変わった。真っ白に近いほど血の気が引いている。
梶山がごくりとつばを飲み込む音が聞こえた。彼は乾いた唇を濡らすかのようにお茶を含んだあと答えた。
「千佳が……父にナメクジを食べさせたからです」
「そんな……」
「事実です。横になっていた父の口に、何匹も、何匹も、あの子が入れていたと父自身が告白したんですから」
「横になっている間って、いくらなんでもそんなものを口に入れられたらわかるもんじゃないですか! それに大人が抵抗したら、小学校低学年の子供のおふざけも簡単に振り払えたでしょう? それに早めに医者に行けば大事には至らなかったんじゃないですか?」
その問いかけに梶山はふるふると力なく頭を振った。
「できなかったんです。その頃の父は脳梗塞の後遺症を患っていて、半身麻痺でした。自由に自分で動き回ることができなかったんです。歩くことができなくなって車いすを使用していました。不自由な父の面倒を家族で支えて看ていたんです。その父が亡くなってから出てきた家族への手紙で、千佳のしたことを知りました。父は……千佳を庇っていました。あの子は不自由になった自分を憐れんでしたんだと。『こんな体のまま生き続けるのがつらい。家族の負担になっているのが毎日つらいとこぼす自分を、早く楽にしてやりたいと思って、あの子が思いつくかぎりの方法でしたことだから、決して責めないでくれ』と。だから父は感染の初期症状の痙攣が出ても、家族には言わなかったし、嘔吐がひどくなっても病院へかかろうとはしなかった。それくらい、千佳のことを愛していたんです」
「でも……それなら尚更、家族の誰にもその事実を告白せずにおいたらよかったんじゃないですか?」
元二郎が秘密を墓場まで持っていけば、千佳のしたことは露呈しなかった。それをしたのはなぜか。
「私たちもそう思いました。父はどうして『わざわざ私たちに知らせた』のか。遅々の性格を考えた結果、あれは父なりの私たちへの警告だったのではないかと思い至ったんです」
「警告……」
「ええ。千佳の狂気性に、父は誰より早く気づいていたはずです。なにせ、彼があの子を育てていたと言っても過言でないほど、長い時間を過ごしていたわけですから。それに、ナメクジやカエル、カタツムリが危険だということを教えたのも、父自身でした。父もまさか、自分が教えたことがそんな形で返ってくるとは思っていなかったでしょうが」
梶山の傍らで話を聞いていた咲子が声を詰まらせ、目元を抑えた。亡くなった夫のことを思い出したのだろう。膝に置いた握りこぶしがぶるぶると震えていた。
梶山はなおも話をつづけた。
「父の手紙を見つけたあと、私たちは千佳を注意深く観察しました。次は自分かもしれないと怯える母を説得して、千佳とふたりで買い物に出かけてもらいました。その間に千鶴子とともにあの子の部屋の中を調べました。そこで……見つけてしまったんです。決定的な証拠を……」
梶山は大きく息をついた。吐いた息を取り戻すように吸い込むと、また話を続けた。
「日記が出てきました。観察日記です。あの子はナメクジを野良猫などに無理やり食べさせて、どうなるかを毎日記録していたんです。そして、その観察日記の最後に、父の記録がありました。父が教えた通りの『実験』であり、『経過観察』だったんです。父の言うような『家族を思った行為』ではなかった。あの子に悪意はありません。それが私には怖かった。彼女は自分の好奇心の赴くままに動物たちを、父を殺したにすぎないからです。あの子に殺人という概念自体が欠落している以上、他に被害が及ぶ可能性が高いだろうと私たちは考えました。身内だけならまだしも、他人へ危害を加えることが出てくるかもしれない。それはどうしたって避けなければなりません。私は……千佳を殺して自分も死ぬ覚悟をしました。しかし、千鶴子は私にそんなことはさせられないと言いました。千佳と一緒に家を出る。離婚してくれと。千佳の狂気は自分が一生背負っていくからと……」
「だから離婚したということなんですね」
「はい」と梶山は肩を落として力なく答えた。
「千鶴子には私たちを亡くすことも、千佳を亡くすことも選択できなかったんです。当然ですよね、母親なんですから。私はそんな千鶴子を心から愛していましたし、今も彼女への気持ちは変わっていません。この先、二度と会えなくなっても、互いに生きていてくれさえすればいい。離婚届を出すとき、私は千鶴子に言いました。離婚の原因は私の暴力に耐えられなかったことにしろと。よそに女を作るような最低な父親にすればいいと。そうすれば、同情的に思ってもらえるはずだと。金の心配もしなくていいからとも言いました。今も月に十五万円入れています。そうすれば、彼女が無理して働く必要もないはずですから」
「あの……でも千鶴子さんは介護施設で夜勤の仕事をされていますよ? それだけお金をもらっていたら充分食べて行けるはずなのに、なぜ、千佳ちゃんを一人にするリスクを負ってまで、夜、家を出る必要があるんでしょうか?」
「もしものときのことを考えて、手をつけていないのだと思います。蓄えさえしておけば、将来的に私たちを頼るようなことにならなくて済むだろうからと」
訪問したときのことを思い出す。頑なに拒否した理由がここにあったのだと思った。千鶴子は周囲に危険が及ばないように、なるべく社会との接点を持たないようにしているのかもしれない。
――じゃあ、あの電話はなんだ?
自分が関わることになったそもそもの原因である『通報』電話。千佳の友達だという子供はもしかして千佳本人ではないのか。仮に千佳だったとしたら、千佳は社会への足掛かりのために行政を利用としようとしたのか。小学校四年生がそこまで考えて動くだろうか。
「片山さん?」
梶山に声を掛けられ、我に返る。恐ろしい考えが次から次にあふれ出してくる。それもそのはずだ。なぜなら、あの親子と実際に対面したことがないのだから。かろうじて知っているのは母親の声だけだ。あとはすべて謎。正体不明であることがこれほど恐ろしいものだと思い知らされる。
「あの……もしよければ、千鶴子さんと千佳ちゃんのお写真を借りられませんか? 恥ずかしい話、私自身、お二人とまだ面識がなくて」
梶山は「わかりました」と頷くと「少し待っていてください」と席を立ち、居間を出て行った。
咲子とふたり残される。彼女はうつむいたまま、固まって動かない。その頑なさが千佳への恐怖を物語っているような気がして、息苦しくなった。
互いに話すこともなく、じいっと固まったまましばらく待っていると、梶山が戻ってきた。彼は一枚の写真を差し出した。家族五人が映っている。家族の中心にいるのはおかっぱ頭のきれいな顔の少女だ。
朗らかな笑顔を湛えた少女を見て、心臓が止まりそうになった。脳裏に唄声が蘇る。
『からすといっしょにかえりましょう』
スキップをして帰る髪の長い少女。ガサガサと音を立てるビニール袋。赤いワンピースは汚れていなかったか? 袋を握る手は?
千佳だった。写真よりも大人びているものの、あの少女が千佳だったのだ。全身に震えが走った。脂汗が浮かぶ。この少女と香奈枝は接触したのだ。
そう思ったとき、ブルルッとスーツのポケットの中でスマホが振動した。急いで取り出してみて、心臓がずくんっと大きくうなった。そのまま本当に止まるかと思った。
『ごめん、佑くん。千佳ちゃんのお母さんがケガしたって。ちょっと行ってくるね』
香奈枝からだった。「すみません」と梶山たちに頭を下げて、急いで部屋の外へ出る。すぐに香奈枝に電話をかけた。
ワンコール。ツーコール。呼び出し音がもどかしい。四コール目。やっと香奈枝が出た。
「もしもし、香奈枝! 俺が行くまで行くな! 気になるなら、俺が一緒に行くから!」
早口に告げた。香奈枝は「え? え?」と声が裏返る。どうやら走っているらしく、息が切れている。
「いいかっ! 俺が……」
言いかけて、それ以上言葉を紡ぎだせなかった。
『おねえちゃん、はやく』
という少女の声が飛び込んできたからだ。
「待って、千佳ちゃん。ごめん、祐くん……またあとでか……」
彼女が言い終わらないうちに電話が切れた。
「くそっ! 香奈枝!」
我に返り、俺は何度も電話口で彼女の名前を呼んだ。通話は切れた。もう一度掛けなおすが、つながらない。また掛けなおす。電波が届かない。電源が切られたようだ。
その後、何度掛け直しても、香奈枝が出ることはなかった。
その事件が起きる前のこと。梶山の父、千佳からすると祖父にあたる元二郎は特に、目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた。
彼は共働きの息子夫婦に替わってよく面倒を見ていた。元教員――高校の理科教師だった彼は、千佳にいろいろな本を与えたし、実際に見聞を広めると言っては千佳を外へ連れ出しもした。出掛ける先は市内に留まらず、県外に遠出をすることもよくあった。目的地は様々で、川であったり、山であったり、街中であったり。その都度、元二郎は千佳に多くの知識と経験を与えた。千佳もそんな祖父に非常に懐いていた――ように見えたと梶山は語った。
「いつも『じいじ。じいじ』と言って、傍にいましたよ。だから……父が亡くなったとき、まさかと思ったんです」
梶山は開いた膝の上に乗せた拳を握りしめるようにして、うつむき加減に訥々と話した。声が若干震えているように聞こえるのは気のせいではないだろう。それほどに、語ること自体、苦しくてたまらないというように感じられた。
「三年前の七月二十日に父は亡くなりました。突然死です。好酸球性髄膜炎という病気が原因でした」
瞬間的に息を飲んだ。
『好酸球性髄膜炎』
広東住血線虫という寄生虫に感染した結果、起こる病気だ。広東住血線虫の成虫はドブネズミなどの血管に寄生する体長二十ミリ程度の線虫の幼虫がネズミの体外に排出されたあと、ナメクジなどの中間宿主の中へ入る。中間宿主の体内で発育し、感染幼虫になった個体は人の体内に入り、寄生する。この寄生した虫によって引き起こされる様々な病気のひとつがこの髄膜炎なのである。
井田親子の隣人を訪ねた折に、下の階の老人が話したことが気になって、ナメクジを食べた場合のことを調べたから知っていた。その話をまた、聞くことになろうとは……
「でも、その病気はナメクジなどの中間宿主を食べたり、触ったりしなければ、かかることがないのではないですか? その手の知識は誰よりもあったはずでしょう?」
そう尋ねた瞬間、向かいのふたりの顔色がサッと変わった。真っ白に近いほど血の気が引いている。
梶山がごくりとつばを飲み込む音が聞こえた。彼は乾いた唇を濡らすかのようにお茶を含んだあと答えた。
「千佳が……父にナメクジを食べさせたからです」
「そんな……」
「事実です。横になっていた父の口に、何匹も、何匹も、あの子が入れていたと父自身が告白したんですから」
「横になっている間って、いくらなんでもそんなものを口に入れられたらわかるもんじゃないですか! それに大人が抵抗したら、小学校低学年の子供のおふざけも簡単に振り払えたでしょう? それに早めに医者に行けば大事には至らなかったんじゃないですか?」
その問いかけに梶山はふるふると力なく頭を振った。
「できなかったんです。その頃の父は脳梗塞の後遺症を患っていて、半身麻痺でした。自由に自分で動き回ることができなかったんです。歩くことができなくなって車いすを使用していました。不自由な父の面倒を家族で支えて看ていたんです。その父が亡くなってから出てきた家族への手紙で、千佳のしたことを知りました。父は……千佳を庇っていました。あの子は不自由になった自分を憐れんでしたんだと。『こんな体のまま生き続けるのがつらい。家族の負担になっているのが毎日つらいとこぼす自分を、早く楽にしてやりたいと思って、あの子が思いつくかぎりの方法でしたことだから、決して責めないでくれ』と。だから父は感染の初期症状の痙攣が出ても、家族には言わなかったし、嘔吐がひどくなっても病院へかかろうとはしなかった。それくらい、千佳のことを愛していたんです」
「でも……それなら尚更、家族の誰にもその事実を告白せずにおいたらよかったんじゃないですか?」
元二郎が秘密を墓場まで持っていけば、千佳のしたことは露呈しなかった。それをしたのはなぜか。
「私たちもそう思いました。父はどうして『わざわざ私たちに知らせた』のか。遅々の性格を考えた結果、あれは父なりの私たちへの警告だったのではないかと思い至ったんです」
「警告……」
「ええ。千佳の狂気性に、父は誰より早く気づいていたはずです。なにせ、彼があの子を育てていたと言っても過言でないほど、長い時間を過ごしていたわけですから。それに、ナメクジやカエル、カタツムリが危険だということを教えたのも、父自身でした。父もまさか、自分が教えたことがそんな形で返ってくるとは思っていなかったでしょうが」
梶山の傍らで話を聞いていた咲子が声を詰まらせ、目元を抑えた。亡くなった夫のことを思い出したのだろう。膝に置いた握りこぶしがぶるぶると震えていた。
梶山はなおも話をつづけた。
「父の手紙を見つけたあと、私たちは千佳を注意深く観察しました。次は自分かもしれないと怯える母を説得して、千佳とふたりで買い物に出かけてもらいました。その間に千鶴子とともにあの子の部屋の中を調べました。そこで……見つけてしまったんです。決定的な証拠を……」
梶山は大きく息をついた。吐いた息を取り戻すように吸い込むと、また話を続けた。
「日記が出てきました。観察日記です。あの子はナメクジを野良猫などに無理やり食べさせて、どうなるかを毎日記録していたんです。そして、その観察日記の最後に、父の記録がありました。父が教えた通りの『実験』であり、『経過観察』だったんです。父の言うような『家族を思った行為』ではなかった。あの子に悪意はありません。それが私には怖かった。彼女は自分の好奇心の赴くままに動物たちを、父を殺したにすぎないからです。あの子に殺人という概念自体が欠落している以上、他に被害が及ぶ可能性が高いだろうと私たちは考えました。身内だけならまだしも、他人へ危害を加えることが出てくるかもしれない。それはどうしたって避けなければなりません。私は……千佳を殺して自分も死ぬ覚悟をしました。しかし、千鶴子は私にそんなことはさせられないと言いました。千佳と一緒に家を出る。離婚してくれと。千佳の狂気は自分が一生背負っていくからと……」
「だから離婚したということなんですね」
「はい」と梶山は肩を落として力なく答えた。
「千鶴子には私たちを亡くすことも、千佳を亡くすことも選択できなかったんです。当然ですよね、母親なんですから。私はそんな千鶴子を心から愛していましたし、今も彼女への気持ちは変わっていません。この先、二度と会えなくなっても、互いに生きていてくれさえすればいい。離婚届を出すとき、私は千鶴子に言いました。離婚の原因は私の暴力に耐えられなかったことにしろと。よそに女を作るような最低な父親にすればいいと。そうすれば、同情的に思ってもらえるはずだと。金の心配もしなくていいからとも言いました。今も月に十五万円入れています。そうすれば、彼女が無理して働く必要もないはずですから」
「あの……でも千鶴子さんは介護施設で夜勤の仕事をされていますよ? それだけお金をもらっていたら充分食べて行けるはずなのに、なぜ、千佳ちゃんを一人にするリスクを負ってまで、夜、家を出る必要があるんでしょうか?」
「もしものときのことを考えて、手をつけていないのだと思います。蓄えさえしておけば、将来的に私たちを頼るようなことにならなくて済むだろうからと」
訪問したときのことを思い出す。頑なに拒否した理由がここにあったのだと思った。千鶴子は周囲に危険が及ばないように、なるべく社会との接点を持たないようにしているのかもしれない。
――じゃあ、あの電話はなんだ?
自分が関わることになったそもそもの原因である『通報』電話。千佳の友達だという子供はもしかして千佳本人ではないのか。仮に千佳だったとしたら、千佳は社会への足掛かりのために行政を利用としようとしたのか。小学校四年生がそこまで考えて動くだろうか。
「片山さん?」
梶山に声を掛けられ、我に返る。恐ろしい考えが次から次にあふれ出してくる。それもそのはずだ。なぜなら、あの親子と実際に対面したことがないのだから。かろうじて知っているのは母親の声だけだ。あとはすべて謎。正体不明であることがこれほど恐ろしいものだと思い知らされる。
「あの……もしよければ、千鶴子さんと千佳ちゃんのお写真を借りられませんか? 恥ずかしい話、私自身、お二人とまだ面識がなくて」
梶山は「わかりました」と頷くと「少し待っていてください」と席を立ち、居間を出て行った。
咲子とふたり残される。彼女はうつむいたまま、固まって動かない。その頑なさが千佳への恐怖を物語っているような気がして、息苦しくなった。
互いに話すこともなく、じいっと固まったまましばらく待っていると、梶山が戻ってきた。彼は一枚の写真を差し出した。家族五人が映っている。家族の中心にいるのはおかっぱ頭のきれいな顔の少女だ。
朗らかな笑顔を湛えた少女を見て、心臓が止まりそうになった。脳裏に唄声が蘇る。
『からすといっしょにかえりましょう』
スキップをして帰る髪の長い少女。ガサガサと音を立てるビニール袋。赤いワンピースは汚れていなかったか? 袋を握る手は?
千佳だった。写真よりも大人びているものの、あの少女が千佳だったのだ。全身に震えが走った。脂汗が浮かぶ。この少女と香奈枝は接触したのだ。
そう思ったとき、ブルルッとスーツのポケットの中でスマホが振動した。急いで取り出してみて、心臓がずくんっと大きくうなった。そのまま本当に止まるかと思った。
『ごめん、佑くん。千佳ちゃんのお母さんがケガしたって。ちょっと行ってくるね』
香奈枝からだった。「すみません」と梶山たちに頭を下げて、急いで部屋の外へ出る。すぐに香奈枝に電話をかけた。
ワンコール。ツーコール。呼び出し音がもどかしい。四コール目。やっと香奈枝が出た。
「もしもし、香奈枝! 俺が行くまで行くな! 気になるなら、俺が一緒に行くから!」
早口に告げた。香奈枝は「え? え?」と声が裏返る。どうやら走っているらしく、息が切れている。
「いいかっ! 俺が……」
言いかけて、それ以上言葉を紡ぎだせなかった。
『おねえちゃん、はやく』
という少女の声が飛び込んできたからだ。
「待って、千佳ちゃん。ごめん、祐くん……またあとでか……」
彼女が言い終わらないうちに電話が切れた。
「くそっ! 香奈枝!」
我に返り、俺は何度も電話口で彼女の名前を呼んだ。通話は切れた。もう一度掛けなおすが、つながらない。また掛けなおす。電波が届かない。電源が切られたようだ。
その後、何度掛け直しても、香奈枝が出ることはなかった。
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