肖像

恵喜 どうこ

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親子の肖像

裕福な家庭

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 翌朝、バス停で香奈枝と別れると、そのまま駅に向かうバスに乗った。駅からは電車に乗り、目的地へ向かう。通勤時間帯の電車は人で溢れ、窮屈そのものだったが、気持ちの窮屈さに比べたら大したことではないように思えた。
 結局、香奈枝にはなにも言えなかった。隣の住人がいなくなったという事実すら、彼女に伝えなかった。それでよかったのか……よかったに決まっている。そう思うのに、喉の奥に小骨が刺さったみたいな気持ち悪さが少しずつ、少しずつ黒いタールのように腹の底に溜まっていく。

――しっかりしろ、裕典。

 己を叱咤激励した。千佳の父親に会おうとしているのは、白黒ハッキリさせるためだ。答えがどうあれ、ハッキリしたことがわかれば香奈枝に全部話すことができる。井田親子に係る前の自分たちに戻れるのだ。
 でも……と窓の外に目を向ける。あれほど込み合っていた車内も終着駅に近づいた頃には人がまばらになっていて、容易に外を眺めることができた。
速度に合わせて移り変わる風景はすでに見慣れたものと変わっていて、照り付ける太陽の光に田園の緑が鮮やかに映った。冴えわたる青い空。濁りのない真っ白い雲。扉が開くたびに入って来る熱風を思い出し、瞼を伏せた。

 果たして、運よく父親に会えて話が聞けたところで、鬼が出るか蛇が出るか――

 電車のアナウンスが終着駅を告げるのを聞きながら、背負っていたリュックを正した。
 そこからバスを乗り継ぎ、親子が以前住んでいた住所地を探すためにGoogleを開いた。住所地を入力して検索すると、簡単に目的の住所は見つかった。示された住所地には、家の画像がついていた。一軒家だった。
 航空画面に切り替え、道に沿って画像を切り替える。通りに面したそのお宅は車が三台は停められる庭つきの立派な二世帯住宅のようだった。

 これが井田千鶴子の前夫の住まいなのか。親子の住む裏びれたアパートに比べると、あまりにも立派すぎる。この家から追い出されたのか。それとも逃げたのか。
 示された道に沿って向かうと、写真と同じ家を見つけることができた。オフホワイト色のサイディング外壁の住宅の玄関口には『梶山』という表札があり、いくつもプランターが置かれていた。どれもよく手入れされている。駐車場に停められた軽乗用車も洗車したばかりなのか、きれいなものだ。荒んでいる印象は外からではわからない。
 青い芝生の向こうに大きな窓が見えた。開いている。誰かいるのだ。
 これ幸いと思い切ってインターホンを押した。しばらくすると「はい」という高い老女の声が返ってきた。

「あの……私、○○市役所福祉課の片山と申しますが、井田千鶴子さんと千佳ちゃんが以前、こちらに住んでいたとお聞きまして……」

と言った途端、インターホンの向こう側で息を呑む音が聞こえた。インターホンはまだ生きているのに、沈黙が続く。つまり、この先にいる人物は井田親子のことを知っているということだ。

「二人のことでお伺いしたいことがあるんですが、お時間いただけませんか?」

 相手は沈黙を守っている。迷っているのだろうか。それとも訝しんでいるのか。それはそうかと思い直す。見知らぬ男がひとりやってきて、役所の人間だと語り、知っている人間の話を聞かせてくれと言っている。質の悪い詐欺も横行しているのだから、そう易々と対応してくれるはずがない。
 そう考えて、すぐに名刺を取り出した。インターホンのカメラにわかるように名刺を近づける。

「あの……本当にここに勤めています。ご心配でしたら連絡してくださって結構です。上司の名前は国木と言います。私は今日、有給を取ってこちらに来ました。国木に片山はいるかと訊けば、休みだと言うと思います」

 早口で伝える。インターホンのマイクが途切れたようだ。言われたように連絡をとっているのかもしれない。
 時計を見た。午前九時二十分を過ぎたところだ。
 玄関に視線を投げる。人が出てくる気配はない。
 それでも待つことにした。ここまで二時間かけて来た。五分、十分くらい待ったところで大した時間ではない。インターホンを気にしながら、玄関のほうへ顔を向けて待つ。ようやく扉が開き、伺うように七十歳くらいの老女が顔を出した。その老女に向かって、会釈をしてみせると、老女はキョロキョロと周辺を確認した後で急ぎ足にやってきた。
 上品な身なりの老女はささやくような小声で言った。

「あなたの職場に電話し手確認しました。おっしゃる通りでした。疑ってごめんなさいね」
「いえ、こちらこそ突然の訪問、申し訳ありません」

 しっかりと腰を折って頭を下げると、老女は困惑したように「ここではなんですから」と言った。

「中へどうぞ」

 老女に案内されて家の中へ入った。居間へ通される。勧められるまま三人掛けの革張りのソファに腰を下ろすと、老女は「ここでしばらくお待ちください」と言った。

「息子もすぐに帰ってくるので」
「え?」

思わず声が裏返った。

「わざわざ連絡してくださったんですか?」
「はい。あの子ら二人のことなら、息子に話をさせるのが一番でしょうから」

 老女は「お茶をお持ちしますね」と軽く会釈をして出て行った。
 ひとりになって、改めて部屋を見回した。
 二十畳近いリビング。黒檀のテーブルに置かれた白い花器に、ヒマワリが美しく活けられている。大きなテレビに、二対の縦型スピーカー。モデルルームのようにディスプレイされた車の雑誌たち。塵ひとつ落ちていない家具類。磨き上げられた床に敷かれたカーペットも毛足が長く、ふかふかとして柔らかい。出されたスリッパも高級そうだった。

 裕福な家庭だ。こんなに恵まれている家庭を出ていかねばならなかった母子にはどんな事情があったのか。こういう家庭だったからこそ、出ていきたかったのか。裕福でわがままな息子。上品だがプライドも高い姑。精神的、肉体的な虐待に耐えられなくなって逃げだしたのか――

 コンコンと控えめなノックの音に続いて、居間の扉がゆっくりと開いた。居住まいを正している間に老女がお茶の盆を持って入ってきた。その後ろからスーツ姿の大柄な中年男性が息を整えながらやってきた。老女がお茶を出している脇をすり抜け、男は片山の向かいに立った。

「すみません、遅くなりました。千鶴子の元夫で、千佳の父親の梶山博之と申します」

 梶山は頭のてっぺんが見えるほど、深く頭を下げた。慌てて立ち上がり、名刺を取り出して自己紹介をする。梶山はその名刺をまじまじ見つめてから「どうぞ、おかけになってください」と慇懃に言った。お茶を出し終えた老女が傍らに座るのを待って、梶山は「母の咲子です」と老女を紹介すると、老女も深々と頭を下げた。

「福祉課の方がわざわざお見えになったということは、千鶴子たちになにかあったということでしょうか?」

 梶山は神妙な面持ちで切り出した。咲子も不安げに見つめている。どう説明したものかと悩みつつも、包み隠すことなく、ここに至る経緯を話すことにした。
 話す間、梶山も咲子もなにひとつ口を挟まなかった。前かがみの姿勢で、食い入るように話を聞く親子の姿は非常に真摯に映って見えた。来ているスーツも上質なものに思える。管理職の雰囲気もある。想像していた父親像とはまるでかけ離れている。この姿から、妻や子に暴力を振るうようには決して見えない。それこそ香奈枝に『世間体を気にする人ほどストレスを溜めていて、身近な人にぶつけるものだ』と言われてしまいそうだが、少なくとも第一印象は悪くなかった。

 話を聞き終えた梶山は、胸の中の息をすべて吐ききるような深いため息をこぼしながら「そうですか」と苦い声で言った。

「ひとつハッキリ言えるのは、千鶴子が千佳を虐待しているということは絶対にないです」

 梶山の隣で咲子も力強く頷く。

「どうして私たちがそう言えるのか、不思議でしょうね。少しばかり長くなりますが、私たち家族の話を聞いていただけますか? そうすれば片山さんにも千鶴子がどんな女なのかをわかっていただけると思います。そして千佳のことも……」

 梶山の目はとても真っすぐだった。力強さを内包したその目に気圧されるように頷いた。
 梶山はホッとしたように頬を緩ませたが、すぐに真顔に戻った。

「千鶴子は……彼女は、私たちを守るためにこの家を出たんです」

 梶山はそう切り出した後、一呼吸おいてから、慎重に言葉を選ぶようにゆっくりと語り始めた。

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