21 / 28
親子の肖像
不安
しおりを挟む
帰庁する道中も、頭の中を老人の言葉が行ったり来たりを繰り返した。
――いったい、どういう意味なのか。
身動きが取れなくなると老人は言った。だから深く関わるなと。それほどまでにあの親子には問題があるのだろうか。身動きが取れなくなるとはどういうことか。老人はなにかあの親子に弱みでも握られているのか。判然としないにしても、前回よりもずいぶんと老人は話をしてくれたとは思う。
しかし、これ以上あのアパートに通い詰めたとして、今回以上に話をしてくれるとは考えにくい。彼がどうして重い口を開いたのか。おそらく警告を与えるためだ。それゆえに情報をくれたのだ。物言いは粗野だが、決して悪人ではない。その証拠に、地域猫を保護する活動をしている。むごい遺体も丁寧に埋葬している。彼の精一杯の親切を無駄にすることもない。
――わかってるさ。
ここで引くのが一番いいことくらいよくよく理解している。できるなら手を引きたい。そうできないのは、自分が『一番大切な人』を巻き込んでいるせいだ。根拠がほしい。香奈枝を千佳から引き離す材料がほしい。老人の話だけでは足りない。事実、彼女は自分の目を信じるだろう。耳を信じるだろう。キャリアを信じるだろう。それを覆すには、彼女が納得しうる根拠を提示してやることだ。
だが、どうする?
――最も身近だった人間に話を聞くまでだ。
千鶴子の元夫。千佳が小学二年生までは一緒に暮らしていたはずだ。その夫なら、誰よりも詳しく母子の話をしてくれるに違いない。離婚に至ったのも、夫の暴力だけだったのかもいささか疑わしい。
そうなると、どうやって接触すればいいのか。千佳の戸籍を追えれば、父親の名前を知ることはできる。戸籍課に頼むか。個人情報の取扱いに厳しくなっている状況で、そんなことが可能なのか。支援に必要だからと言っても、千鶴子の承諾なしには無理だと言われるだろう。だいたい、後で露呈したら面倒なことになりかねない。それは避けたい。やはり父親には接触はむずかしいか。
――いや、手はある。
千鶴子は元夫にひどい暴力を受けていたという。視力が落ちていたり、顎関節症になっていたりと、体に相当なケガを負っている。そんなひどい状況下で怒号や悲鳴が近所に轟かなかったか。警察の介入がなかったのか。親子が以前住んでいた近所に聞いてみるだけの価値はあるような気がした。
千鶴子の住民票から従前住所を調べると、市外から転居してきたことがわかった。急いで翌日の有給を取った。相当慌てて見えたらしく、班長から「ついに親御さんへ挨拶か」と揶揄された。
「そのほうがよっぽどよかったですよ」
吐き捨てるようにこぼした言葉に班長は驚いて勘ぐるように見てきたが、それ以上なにか言われることはなかった。
その日の仕事は早々に切り上げて帰宅した。午後七時前であったため、香奈枝はまだ来ていなかった。夕食はどうするかとメッセージを入れたが既読にならなかった。
仕事が忙しいのか。いろいろと困難ケースを抱えているとは言っていた。保健師の仕事も多岐にわたるし、七時頃くらいまでの残業はざらにある。打合せ中であれば、スマホを簡単に見られないのは自分も同じはずではないか。
――どうして既読にならないんだよ?
いつまでも既読がつかないスマホを握りしめる手が汗ばんだ。不安がせり上がる。高い砂の山の上に立っている気分だ。大丈夫と思っている傍から、周囲の砂を削られる感覚。見る見る足場がなくなって、今にも奈落の底に落ちていくような――
「あっれえ? 祐くん、もう帰ってたんだ?」
居間のソファに、膝に顔をうずめて座っていた自身の耳に、そんな明るい香奈枝の声が飛び込んできた。反射的に顔を上げ、声の下ほうを見る。よいしょっと肩から掛けたバッグを揺すって香奈枝が入ってきた。彼女の動きに合わせて、黒々としたカラスの羽根がくるんと揺れた。
途端に体中から力が抜けた。ぐったりとソファにもたれかかる。香奈枝はそんな姿に驚き、すぐに「ごめんね」と謝った。
「メッセージ入ったのはわかってたんだけど、既読つけなかったんだ。もう、近所まで来てたからさ」
「そっか……それならいい」
無事ならよかったという言葉は飲み込んだが、言わなくても伝わったのだろう。香奈枝は困ったように眉を八の字にさせ、隣にちょこんと腰を下ろした。そのまま片山の肩に香奈枝は頭を預けた。しばらく沈黙が流れた。片山にも何を切り出していいかわからなかった。ただじっとしていると、おずおずと香奈枝が切り出した。
「あのさ、祐くん」
「ん?」
「そんなに心配?」
心配? たしかに心配している。
でも、この不安はそれだけなのか。
――俺は……怯えている? 会ったこともないのに? 千佳の顔も知らないのに? 小学四年生の少女に? まさか……
流れる沈黙が答えになった。香奈枝は「じゃあ」と言った。
「あの親子に係るのはもうやめる。祐くんにそんな顔させてまで、ボランティアでするようなことじゃないから。ごめんね。私が出しゃばりすぎたせいで」
香奈枝を見た。目に涙を浮かべていた。その涙を隠してほほ笑んでいる。自分を気遣って、無理やり笑顔を作ったのだ。それがわかって慌てた。
「ごめん。ちがうんだ。香奈枝は悪くない。俺が悪かったんだ、ごめん」
そっと香奈枝を抱き寄せて、口づけした。そのままソファに押し倒す。
彼女の甘い香りに、堰を切るように不安な気持ちがあふれ出た。貪るように唇を奪った。自分でも止められなかった。勢いづき、荒々しく抱いても、香奈枝は抵抗しなかった。むしろ包み込むように受け入れてくれた。
香奈枝は心底、自分を思ってくれている。それなのにひどく身勝手なことをしている。彼女を気持ちの掃き溜めにした己に対する嫌悪感はもちろんあった。
けれどそれ以上に正直に打ち上げることができなかったことが後ろめたい。
『明日、井田親子が以前住んでいた町に行ってみる』
どうしても言えない一言を飲み込むように強く香奈枝を抱きしめた。
――いったい、どういう意味なのか。
身動きが取れなくなると老人は言った。だから深く関わるなと。それほどまでにあの親子には問題があるのだろうか。身動きが取れなくなるとはどういうことか。老人はなにかあの親子に弱みでも握られているのか。判然としないにしても、前回よりもずいぶんと老人は話をしてくれたとは思う。
しかし、これ以上あのアパートに通い詰めたとして、今回以上に話をしてくれるとは考えにくい。彼がどうして重い口を開いたのか。おそらく警告を与えるためだ。それゆえに情報をくれたのだ。物言いは粗野だが、決して悪人ではない。その証拠に、地域猫を保護する活動をしている。むごい遺体も丁寧に埋葬している。彼の精一杯の親切を無駄にすることもない。
――わかってるさ。
ここで引くのが一番いいことくらいよくよく理解している。できるなら手を引きたい。そうできないのは、自分が『一番大切な人』を巻き込んでいるせいだ。根拠がほしい。香奈枝を千佳から引き離す材料がほしい。老人の話だけでは足りない。事実、彼女は自分の目を信じるだろう。耳を信じるだろう。キャリアを信じるだろう。それを覆すには、彼女が納得しうる根拠を提示してやることだ。
だが、どうする?
――最も身近だった人間に話を聞くまでだ。
千鶴子の元夫。千佳が小学二年生までは一緒に暮らしていたはずだ。その夫なら、誰よりも詳しく母子の話をしてくれるに違いない。離婚に至ったのも、夫の暴力だけだったのかもいささか疑わしい。
そうなると、どうやって接触すればいいのか。千佳の戸籍を追えれば、父親の名前を知ることはできる。戸籍課に頼むか。個人情報の取扱いに厳しくなっている状況で、そんなことが可能なのか。支援に必要だからと言っても、千鶴子の承諾なしには無理だと言われるだろう。だいたい、後で露呈したら面倒なことになりかねない。それは避けたい。やはり父親には接触はむずかしいか。
――いや、手はある。
千鶴子は元夫にひどい暴力を受けていたという。視力が落ちていたり、顎関節症になっていたりと、体に相当なケガを負っている。そんなひどい状況下で怒号や悲鳴が近所に轟かなかったか。警察の介入がなかったのか。親子が以前住んでいた近所に聞いてみるだけの価値はあるような気がした。
千鶴子の住民票から従前住所を調べると、市外から転居してきたことがわかった。急いで翌日の有給を取った。相当慌てて見えたらしく、班長から「ついに親御さんへ挨拶か」と揶揄された。
「そのほうがよっぽどよかったですよ」
吐き捨てるようにこぼした言葉に班長は驚いて勘ぐるように見てきたが、それ以上なにか言われることはなかった。
その日の仕事は早々に切り上げて帰宅した。午後七時前であったため、香奈枝はまだ来ていなかった。夕食はどうするかとメッセージを入れたが既読にならなかった。
仕事が忙しいのか。いろいろと困難ケースを抱えているとは言っていた。保健師の仕事も多岐にわたるし、七時頃くらいまでの残業はざらにある。打合せ中であれば、スマホを簡単に見られないのは自分も同じはずではないか。
――どうして既読にならないんだよ?
いつまでも既読がつかないスマホを握りしめる手が汗ばんだ。不安がせり上がる。高い砂の山の上に立っている気分だ。大丈夫と思っている傍から、周囲の砂を削られる感覚。見る見る足場がなくなって、今にも奈落の底に落ちていくような――
「あっれえ? 祐くん、もう帰ってたんだ?」
居間のソファに、膝に顔をうずめて座っていた自身の耳に、そんな明るい香奈枝の声が飛び込んできた。反射的に顔を上げ、声の下ほうを見る。よいしょっと肩から掛けたバッグを揺すって香奈枝が入ってきた。彼女の動きに合わせて、黒々としたカラスの羽根がくるんと揺れた。
途端に体中から力が抜けた。ぐったりとソファにもたれかかる。香奈枝はそんな姿に驚き、すぐに「ごめんね」と謝った。
「メッセージ入ったのはわかってたんだけど、既読つけなかったんだ。もう、近所まで来てたからさ」
「そっか……それならいい」
無事ならよかったという言葉は飲み込んだが、言わなくても伝わったのだろう。香奈枝は困ったように眉を八の字にさせ、隣にちょこんと腰を下ろした。そのまま片山の肩に香奈枝は頭を預けた。しばらく沈黙が流れた。片山にも何を切り出していいかわからなかった。ただじっとしていると、おずおずと香奈枝が切り出した。
「あのさ、祐くん」
「ん?」
「そんなに心配?」
心配? たしかに心配している。
でも、この不安はそれだけなのか。
――俺は……怯えている? 会ったこともないのに? 千佳の顔も知らないのに? 小学四年生の少女に? まさか……
流れる沈黙が答えになった。香奈枝は「じゃあ」と言った。
「あの親子に係るのはもうやめる。祐くんにそんな顔させてまで、ボランティアでするようなことじゃないから。ごめんね。私が出しゃばりすぎたせいで」
香奈枝を見た。目に涙を浮かべていた。その涙を隠してほほ笑んでいる。自分を気遣って、無理やり笑顔を作ったのだ。それがわかって慌てた。
「ごめん。ちがうんだ。香奈枝は悪くない。俺が悪かったんだ、ごめん」
そっと香奈枝を抱き寄せて、口づけした。そのままソファに押し倒す。
彼女の甘い香りに、堰を切るように不安な気持ちがあふれ出た。貪るように唇を奪った。自分でも止められなかった。勢いづき、荒々しく抱いても、香奈枝は抵抗しなかった。むしろ包み込むように受け入れてくれた。
香奈枝は心底、自分を思ってくれている。それなのにひどく身勝手なことをしている。彼女を気持ちの掃き溜めにした己に対する嫌悪感はもちろんあった。
けれどそれ以上に正直に打ち上げることができなかったことが後ろめたい。
『明日、井田親子が以前住んでいた町に行ってみる』
どうしても言えない一言を飲み込むように強く香奈枝を抱きしめた。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
赤い部屋
山根利広
ホラー
YouTubeの動画広告の中に、「決してスキップしてはいけない」広告があるという。
真っ赤な背景に「あなたは好きですか?」と書かれたその広告をスキップすると、死ぬと言われている。
東京都内のある高校でも、「赤い部屋」の噂がひとり歩きしていた。
そんな中、2年生の天根凛花は「赤い部屋」の内容が自分のみた夢の内容そっくりであることに気づく。
が、クラスメイトの黒河内莉子は、噂話を一蹴し、誰かの作り話だと言う。
だが、「呪い」は実在した。
「赤い部屋」の手によって残酷な死に方をする犠牲者が、続々現れる。
凛花と莉子は、死の連鎖に歯止めをかけるため、「解決策」を見出そうとする。
そんな中、凛花のスマートフォンにも「あなたは好きですか?」という広告が表示されてしまう。
「赤い部屋」から逃れる方法はあるのか?
誰がこの「呪い」を生み出したのか?
そして彼らはなぜ、呪われたのか?
徐々に明かされる「赤い部屋」の真相。
その先にふたりが見たものは——。
【完結済】ダークサイドストーリー〜4つの物語〜
野花マリオ
ホラー
この4つの物語は4つの連なる視点があるホラーストーリーです。
内容は不条理モノですがオムニバス形式でありどの物語から読んでも大丈夫です。この物語が読むと読者が取り憑かれて繰り返し読んでいる恐怖を導かれるように……
百物語 厄災
嵐山ノキ
ホラー
怪談の百物語です。一話一話は長くありませんのでお好きなときにお読みください。渾身の仕掛けも盛り込んでおり、最後まで読むと驚くべき何かが提示されます。
小説家になろう、エブリスタにも投稿しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
それなりに怖い話。
只野誠
ホラー
これは創作です。
実際に起きた出来事はございません。創作です。事実ではございません。創作です創作です創作です。
本当に、実際に起きた話ではございません。
なので、安心して読むことができます。
オムニバス形式なので、どの章から読んでも問題ありません。
不定期に章を追加していきます。
2025/3/13:『かゆみ』の章を追加。2025/3/20の朝4時頃より公開開始予定。
2025/3/12:『あくむをみるへや』の章を追加。2025/3/19の朝4時頃より公開開始予定。
2025/3/11:『まぐかっぷ』の章を追加。2025/3/18の朝4時頃より公開開始予定。
2025/3/10:『ころがるゆび』の章を追加。2025/3/17の朝4時頃より公開開始予定。
2025/3/9:『かおのなるき』の章を追加。2025/3/16の朝8時頃より公開開始予定。
2025/3/8:『いま』の章を追加。2025/3/15の朝8時頃より公開開始予定。
2025/3/7:『しんれいしゃしん』の章を追加。2025/3/14の朝4時頃より公開開始予定。
【完結】大量焼死体遺棄事件まとめサイト/裏サイド
まみ夜
ホラー
ここは、2008年2月09日朝に報道された、全国十ケ所総数六十体以上の「大量焼死体遺棄事件」のまとめサイトです。
事件の上澄みでしかない、ニュース報道とネット情報が序章であり終章。
一年以上も前に、偶然「写本」のネット検索から、オカルトな事件に巻き込まれた女性のブログ。
その家族が、彼女を探すことで、日常を踏み越える恐怖を、誰かに相談したかったブログまでが第一章。
そして、事件の、悪意の裏側が第二章です。
ホラーもミステリーと同じで、ラストがないと評価しづらいため、短編集でない長編はweb掲載には向かないジャンルです。
そのため、第一章にて、表向きのラストを用意しました。
第二章では、その裏側が明らかになり、予想を裏切れれば、とも思いますので、お付き合いください。
表紙イラストは、lllust ACより、乾大和様の「お嬢さん」を使用させていただいております。
二人称・短編ホラー小説集 『あなた』
シルヴァ・レイシオン
ホラー
普通の小説に読み飽きたそこの『あなた』
そんな『あなた』にオススメします、二人称と言う「没入感」+ホラーの旋律にて、是非、戦慄してみて下さい・・・・・・
※このシリーズ、短編ホラー・二人称小説『あなた』は、色んな"視点"のホラーを書きます。
様々な「死」「痛み」「苦しみ」「悲しみ」「因果」などを描きますので本当に苦手な方、なんらかのトラウマ、偏見などがある人はご遠慮下さい。
小説としては珍しい「二人称」視点をベースにしていきますので、例えば洗脳されやすいような方もご観覧注意、願います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる