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親子の肖像
千鶴子
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香奈枝から連絡があったのは午後三時を回る頃だった。
『今から行ってみるよ』というメッセージに『気をつけろよ。ヤバいと思ったらすぐ引き返せ』と返した。すぐに既読になり『了解』というかわいいウサギのキャラクタースタンプが返ってきた。
一緒に行くべきだったろうか――そんなふうにやきもきしながら、件の親子の情報を集めるために千鶴子が勤める介護施設へ電話を入れてみた。
施設長の森保と名乗る年配の男が愛想よく出た。「井田千鶴子さんのことでお話を伺いたい」と切り出すと途端に森保の声は目に見えるように曇った。
「うちは無関係ですよ」
と、のっけから森保は意味不明なことを口にする。
「あの……それはどういう……」
「私どもが彼女に暴力を振るって無理やり働かせているとでも通報されたんでしょ? でもね、そういう事実は一切ないですから。むしろ、こっちのほうが彼女のことを心配して気にかけているんだから」
「いったい、なんの話なんですか?」
「なにって、パワハラとか、そういうことを調べてるんでしょ?」
「その……パワハラは労働局ですね。うちはそれ、管轄外なんで」
説明を遮るように森保は「あっ」と声を上げた。役所からの電話だということで気が動転していたのだろう。「ああ、そうか」「どうしたもんかな」と電話口でアワアワしている。
「よければその……井田さんのこと、詳しく教えていただけませんか? 通報されるなんて勘違いなさるようなことがあったんですか?」
そう言うと森保は、電話口で大きく息を吐いた。
「彼女、体のあちこちに痣があるんですよ」
「痣?」
「ええ」と森保は頷く。
「それも見えにくいところに。日勤帯でお風呂介助をしてもらうときに、一緒に入った他の従業員がね、見たんですよ。どうしたんだって聞いても、井田さんはちょっと転んだって言うだけで。でもねえ、うちはこういう仕事だから。転んだものか、そうでないものかの見分けはつく人間が多いわけでね」
「じゃあ、誰かに暴力を受けているってことですか?」
「わかりません。受けているんじゃないだろうかってだけで、誰なのかはさっぱり。大丈夫だからの一点張りなんで。ただね、彼女が元旦那からひどい暴力受けて、片目の視力が落ちていたり、顎関節症になっていたりっていうのは知っているから。元旦那が金を無心しに来ているんじゃないかって心配していたんです。ここ数日は休みたいって言って、有給取ってますし。それにねえ、こういうことって本人からの訴えがないとなかなか踏み込めないじゃないですか? うちも人が足りなくて、ずいぶん無理言っちゃってるし。噂好きの利用者から話が広がって、通報されたのかと思いましてね」
すみませんと森保は付け加えた。
「あの……井田さんの働きぶりといいますか、人となりはどんな感じなんですか? その……すごく感情に起伏があって、激昂しやすいとか」
その質問に森保は即時に「そんなこと、まったくありませんよ」と答えた。
「井田さんはすごく温厚で、利用者さんにも人気がありますよ。細かいところまで気遣いができるし、仕事も丁寧で。他の人が嫌がるような頑固な利用者さんの相手も進んでやってくれますしねえ。なんであんな優しい人にひどいことができるのか、私はそっちのほうが信じられませんよ」
「はあ、そうですか。じゃあ、子育てで悩んでいるとかは?」
「そういえば、特になにも聞かないなあ」
「でも、夜勤に入ってらっしゃいますよね?」
「ええ、月に四度かそこらで」
「預け先のこととか、なにか聞いてませんか?」
「ああ。なんでも隣に住んでいる方がよくしてくれるとかで、夜勤のときはそちらに頼んでるって」
「同僚の方で仲良くされている方はいますか?」
「残念ながらいません。職場で話す程度で、連絡先の交換をしている人もないようです」
「そうですか。長々とありがとうございました」
礼を言って電話を切ると、走り書きしたメモに視線を落とす。
子供を預けられるくらい信用している隣人がいる。仲のいい同僚は特にいない――となれば、その隣人に話を聞く他ないだろう。むしろ、そのほうが虐待の有無を確認しやすい。なにも本人たちを直撃しなくても、十分に話は聞きだせるだろう。隣の物音が聞こえるくらいには壁の薄そうな建物だったのだから。それでなにもないようならば、これでこの話は終了にすればいい。香奈枝にも関わるなと釘を刺すこともできるだろう――
はあ……とため息をひとつこぼすと、パソコンの画面に向き合った。電話の情報を入力し終わる頃に香奈枝からの連絡が入った。
『千佳ちゃんに会えたよ。今夜、ゆっくり話すね』
という内容だった。
『了解』
片山が好きなロボットアニメのスタンプを送信する。それに既読がつくのを確認したら、倒れるように机に突っ伏した。
体が微かに震えていた。額がじっとりと汗ばんでいる。
無事でよかった――心底安心した。そう思うと共に、こんなに自分が緊張していたとは思わなかった。
――これ以上は踏み込ませないようにしよう。
先ほどよりも深く大きなため息をつくと、ゆっくりと上体を起こした。
『今から行ってみるよ』というメッセージに『気をつけろよ。ヤバいと思ったらすぐ引き返せ』と返した。すぐに既読になり『了解』というかわいいウサギのキャラクタースタンプが返ってきた。
一緒に行くべきだったろうか――そんなふうにやきもきしながら、件の親子の情報を集めるために千鶴子が勤める介護施設へ電話を入れてみた。
施設長の森保と名乗る年配の男が愛想よく出た。「井田千鶴子さんのことでお話を伺いたい」と切り出すと途端に森保の声は目に見えるように曇った。
「うちは無関係ですよ」
と、のっけから森保は意味不明なことを口にする。
「あの……それはどういう……」
「私どもが彼女に暴力を振るって無理やり働かせているとでも通報されたんでしょ? でもね、そういう事実は一切ないですから。むしろ、こっちのほうが彼女のことを心配して気にかけているんだから」
「いったい、なんの話なんですか?」
「なにって、パワハラとか、そういうことを調べてるんでしょ?」
「その……パワハラは労働局ですね。うちはそれ、管轄外なんで」
説明を遮るように森保は「あっ」と声を上げた。役所からの電話だということで気が動転していたのだろう。「ああ、そうか」「どうしたもんかな」と電話口でアワアワしている。
「よければその……井田さんのこと、詳しく教えていただけませんか? 通報されるなんて勘違いなさるようなことがあったんですか?」
そう言うと森保は、電話口で大きく息を吐いた。
「彼女、体のあちこちに痣があるんですよ」
「痣?」
「ええ」と森保は頷く。
「それも見えにくいところに。日勤帯でお風呂介助をしてもらうときに、一緒に入った他の従業員がね、見たんですよ。どうしたんだって聞いても、井田さんはちょっと転んだって言うだけで。でもねえ、うちはこういう仕事だから。転んだものか、そうでないものかの見分けはつく人間が多いわけでね」
「じゃあ、誰かに暴力を受けているってことですか?」
「わかりません。受けているんじゃないだろうかってだけで、誰なのかはさっぱり。大丈夫だからの一点張りなんで。ただね、彼女が元旦那からひどい暴力受けて、片目の視力が落ちていたり、顎関節症になっていたりっていうのは知っているから。元旦那が金を無心しに来ているんじゃないかって心配していたんです。ここ数日は休みたいって言って、有給取ってますし。それにねえ、こういうことって本人からの訴えがないとなかなか踏み込めないじゃないですか? うちも人が足りなくて、ずいぶん無理言っちゃってるし。噂好きの利用者から話が広がって、通報されたのかと思いましてね」
すみませんと森保は付け加えた。
「あの……井田さんの働きぶりといいますか、人となりはどんな感じなんですか? その……すごく感情に起伏があって、激昂しやすいとか」
その質問に森保は即時に「そんなこと、まったくありませんよ」と答えた。
「井田さんはすごく温厚で、利用者さんにも人気がありますよ。細かいところまで気遣いができるし、仕事も丁寧で。他の人が嫌がるような頑固な利用者さんの相手も進んでやってくれますしねえ。なんであんな優しい人にひどいことができるのか、私はそっちのほうが信じられませんよ」
「はあ、そうですか。じゃあ、子育てで悩んでいるとかは?」
「そういえば、特になにも聞かないなあ」
「でも、夜勤に入ってらっしゃいますよね?」
「ええ、月に四度かそこらで」
「預け先のこととか、なにか聞いてませんか?」
「ああ。なんでも隣に住んでいる方がよくしてくれるとかで、夜勤のときはそちらに頼んでるって」
「同僚の方で仲良くされている方はいますか?」
「残念ながらいません。職場で話す程度で、連絡先の交換をしている人もないようです」
「そうですか。長々とありがとうございました」
礼を言って電話を切ると、走り書きしたメモに視線を落とす。
子供を預けられるくらい信用している隣人がいる。仲のいい同僚は特にいない――となれば、その隣人に話を聞く他ないだろう。むしろ、そのほうが虐待の有無を確認しやすい。なにも本人たちを直撃しなくても、十分に話は聞きだせるだろう。隣の物音が聞こえるくらいには壁の薄そうな建物だったのだから。それでなにもないようならば、これでこの話は終了にすればいい。香奈枝にも関わるなと釘を刺すこともできるだろう――
はあ……とため息をひとつこぼすと、パソコンの画面に向き合った。電話の情報を入力し終わる頃に香奈枝からの連絡が入った。
『千佳ちゃんに会えたよ。今夜、ゆっくり話すね』
という内容だった。
『了解』
片山が好きなロボットアニメのスタンプを送信する。それに既読がつくのを確認したら、倒れるように机に突っ伏した。
体が微かに震えていた。額がじっとりと汗ばんでいる。
無事でよかった――心底安心した。そう思うと共に、こんなに自分が緊張していたとは思わなかった。
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