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きみの肖像
青い水筒と黒い液体
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ごおごおと風が鳴っていた。まるでぼくに来るなと言わんばかりに吹き荒れる風の中、ランタンの光を頼りにひたすらに走ってくると、少し開けたところに出た。
黒々とした太い幹を持った木にぐるっと取り囲まれた広場のような場所だ。足首にかかるくらいの草が吹き荒れる風に体を傾けている。葉擦れの音が森のささやき声のように鼓膜を打った。
そんな広場の真ん中に、両手を広げたくらいの幅の大きな切り株があった。そこに置かれた青い水筒と空のグラスはこの風に倒れることもなく、ぽつんと立っている。
水筒とグラスを見た瞬間、強烈な喉の渇きを覚えた。ランタンを得るために、喉を焼いたせいかもしれないし、ここまでずっと走り続けたせいかもしれない。
周りを見回すが人はいない。
誰かの忘れ物だろうか。
切り株に近づく。グラスの下に小さな白いメッセージカードが置いてあり、赤い文字で『よかったらどうぞ』と書いてある。
これ幸いと水筒に手を伸ばしたところで、水筒の下にもメッセージカードがあるのに気が付いた。グラスと同様、赤い文字でこう書かれている。
『これはただの水です。ただし、あなたが信じれば』
ハッとして息を呑んだが、喉がカラカラに乾いているからか、唾が喉をうまく通らず、気道に入ってしまった。ひどくむせる。額から汗がとめどなく落ちてくる。
――なんなんだ、これは。
なんのために用意されたものなのか。どうしてこんなふうに試すようなことをするのか。これを用意した人の意図が読めない。
飲むべきか。
飲まざるべきか。
飲んでみなければわからない中身。迂闊に手を出すべきでないだろう。
けれど喉は乾いている。水を飲まなければ、これ以上進むのは難しい。なのに飲むのが怖い。これが毒であったら、きみを探すこと自体を強制的に諦めなければならない。
迷ったまま立ち尽くしていたら背後で「飲まないのかね?」とカサカサと乾いた声がした。
急いで振り返ると、艶を失った真っ白いパサパサの髪をひとつに束ねたおばあさんが杖を支えにして立っていた。こちらをじっと見つめている。高い鼻にぎょろりとした目。しわくちゃの口。闇色のワンピースが足首まで隠してしまっていて、草の中からにょっきりと生えているみたいに見えた。
魔女という言葉がぴたりと当てはまるようなおばあさんは、もう一度「飲まないのかね?」とぼくに胡乱な目を向けながら尋ねた。
『飲めないです』と答えようとして、喉からひゅうっと風だけがこぼれた。そうだ。ぼくは声が出ないんだ。ランタンと交換してしまったから答えようにも答えられない。
王子様に質問されても答えられなかった人魚姫はさぞ苦しかったに違いない。
おとぎ話に出てくるかわいそうなお姫様みたいに横にも縦にも首を振れないでいると、おばあさんがスススッと音もなく近づいてきた。
ぼくの手からひったくるように水筒を取り上げて、空のコップにトクトクと水筒の中身を注ぐと、ぐいっと中身がこぼれてしまいそうなほど乱暴に差し出した。
真っ黒な液体がコップになみなみと注がれている。どこからどう見ても水には見えない。泥水というには粘り気がなさそうだ。黒い豆の煮汁なのかもしれない。ただ、どちらにしてもおそらく、ぼくがいつも飲んでいる濁りのない透明な水ではなさそうだ。
「おまえさんは私を信じられんかね?」
唐突な問いかけだった。咄嗟に首を横に振った。
おばあさんが気味悪く、疑わしく見えるのは事実だし、初対面の人を信じるのはとても勇気が要ることだと、声が出せればきちんと理由も言える。
だけど声を失ってしまっては、それを言葉として伝えることはできない。唯一できることは態度で示すことだけだ。
きみを見つけるまで、あとどれくらい走らねばいけないのか、今はわからない状態だ。
ここで水を飲まなければ、きっときみを見つける前に倒れてしまうだろう。次にどのタイミングで水が飲めるかだってわからない。なんの準備もせずにただ飛び出した自分を馬鹿だと罵ったところで、もう引き返せない。
ぼくは振り返って自分が走ってきた道を見た。おどろおどろしい闇が広がるばかりで、道はもう見えない。閉ざされたと言ってもいい。前に進むしかない。だって戻る道はもうないのだから。
おばあさんからコップを受け取った。恐々とコップの端に口をつける。
毒かもしれないと思うだけで、コップのふちに前歯がカチカチ当たった。ぎゅうっと目を瞑る。
たとえ毒でも飲まねば先に進めない。
――きみに会いたいよ!
きみだったらきっと躊躇せずに飲んだだろう。
きみはそういうやつだ。
人を疑えない優しい人だもの。
一気に液体を喉の奥に押し込んだ。
何の匂いもしない。味もしない。つかえることもなく、スルスルと食堂を滑っていくそれは見た目こそ恐ろしいものではあったが、まさしく水そのものだった。
喉の渇きが癒えて目を開けたとき、おばあさんも青い水筒も消えていた。風は止み、しいんと沈み込んだ静寂の中で、握っていたはずのコップは青い玉のついた指輪へと変わっていた。
ぼくは物の怪の類に化かされたのだろうか――まじまじと指輪を眺める。きれいな海の色をした青い玉。思わず見惚れていると、どこか遠くのほうからぼくの声が聞こえてくる。
『おめでとう。きみは信じる心を差し出した。代わりに勇気を手にした』と。
この声はどこから聞こえてくるのか。幻聴なのか。それさえもわからない。わからないことを考えても仕方なく、ぼくは前を見た。
ランタンの光がまた前を指していた。進め……ということなのだろう。
指輪を胸ポケットに押し込むと、ぼくはまた走り出した。
黒々とした太い幹を持った木にぐるっと取り囲まれた広場のような場所だ。足首にかかるくらいの草が吹き荒れる風に体を傾けている。葉擦れの音が森のささやき声のように鼓膜を打った。
そんな広場の真ん中に、両手を広げたくらいの幅の大きな切り株があった。そこに置かれた青い水筒と空のグラスはこの風に倒れることもなく、ぽつんと立っている。
水筒とグラスを見た瞬間、強烈な喉の渇きを覚えた。ランタンを得るために、喉を焼いたせいかもしれないし、ここまでずっと走り続けたせいかもしれない。
周りを見回すが人はいない。
誰かの忘れ物だろうか。
切り株に近づく。グラスの下に小さな白いメッセージカードが置いてあり、赤い文字で『よかったらどうぞ』と書いてある。
これ幸いと水筒に手を伸ばしたところで、水筒の下にもメッセージカードがあるのに気が付いた。グラスと同様、赤い文字でこう書かれている。
『これはただの水です。ただし、あなたが信じれば』
ハッとして息を呑んだが、喉がカラカラに乾いているからか、唾が喉をうまく通らず、気道に入ってしまった。ひどくむせる。額から汗がとめどなく落ちてくる。
――なんなんだ、これは。
なんのために用意されたものなのか。どうしてこんなふうに試すようなことをするのか。これを用意した人の意図が読めない。
飲むべきか。
飲まざるべきか。
飲んでみなければわからない中身。迂闊に手を出すべきでないだろう。
けれど喉は乾いている。水を飲まなければ、これ以上進むのは難しい。なのに飲むのが怖い。これが毒であったら、きみを探すこと自体を強制的に諦めなければならない。
迷ったまま立ち尽くしていたら背後で「飲まないのかね?」とカサカサと乾いた声がした。
急いで振り返ると、艶を失った真っ白いパサパサの髪をひとつに束ねたおばあさんが杖を支えにして立っていた。こちらをじっと見つめている。高い鼻にぎょろりとした目。しわくちゃの口。闇色のワンピースが足首まで隠してしまっていて、草の中からにょっきりと生えているみたいに見えた。
魔女という言葉がぴたりと当てはまるようなおばあさんは、もう一度「飲まないのかね?」とぼくに胡乱な目を向けながら尋ねた。
『飲めないです』と答えようとして、喉からひゅうっと風だけがこぼれた。そうだ。ぼくは声が出ないんだ。ランタンと交換してしまったから答えようにも答えられない。
王子様に質問されても答えられなかった人魚姫はさぞ苦しかったに違いない。
おとぎ話に出てくるかわいそうなお姫様みたいに横にも縦にも首を振れないでいると、おばあさんがスススッと音もなく近づいてきた。
ぼくの手からひったくるように水筒を取り上げて、空のコップにトクトクと水筒の中身を注ぐと、ぐいっと中身がこぼれてしまいそうなほど乱暴に差し出した。
真っ黒な液体がコップになみなみと注がれている。どこからどう見ても水には見えない。泥水というには粘り気がなさそうだ。黒い豆の煮汁なのかもしれない。ただ、どちらにしてもおそらく、ぼくがいつも飲んでいる濁りのない透明な水ではなさそうだ。
「おまえさんは私を信じられんかね?」
唐突な問いかけだった。咄嗟に首を横に振った。
おばあさんが気味悪く、疑わしく見えるのは事実だし、初対面の人を信じるのはとても勇気が要ることだと、声が出せればきちんと理由も言える。
だけど声を失ってしまっては、それを言葉として伝えることはできない。唯一できることは態度で示すことだけだ。
きみを見つけるまで、あとどれくらい走らねばいけないのか、今はわからない状態だ。
ここで水を飲まなければ、きっときみを見つける前に倒れてしまうだろう。次にどのタイミングで水が飲めるかだってわからない。なんの準備もせずにただ飛び出した自分を馬鹿だと罵ったところで、もう引き返せない。
ぼくは振り返って自分が走ってきた道を見た。おどろおどろしい闇が広がるばかりで、道はもう見えない。閉ざされたと言ってもいい。前に進むしかない。だって戻る道はもうないのだから。
おばあさんからコップを受け取った。恐々とコップの端に口をつける。
毒かもしれないと思うだけで、コップのふちに前歯がカチカチ当たった。ぎゅうっと目を瞑る。
たとえ毒でも飲まねば先に進めない。
――きみに会いたいよ!
きみだったらきっと躊躇せずに飲んだだろう。
きみはそういうやつだ。
人を疑えない優しい人だもの。
一気に液体を喉の奥に押し込んだ。
何の匂いもしない。味もしない。つかえることもなく、スルスルと食堂を滑っていくそれは見た目こそ恐ろしいものではあったが、まさしく水そのものだった。
喉の渇きが癒えて目を開けたとき、おばあさんも青い水筒も消えていた。風は止み、しいんと沈み込んだ静寂の中で、握っていたはずのコップは青い玉のついた指輪へと変わっていた。
ぼくは物の怪の類に化かされたのだろうか――まじまじと指輪を眺める。きれいな海の色をした青い玉。思わず見惚れていると、どこか遠くのほうからぼくの声が聞こえてくる。
『おめでとう。きみは信じる心を差し出した。代わりに勇気を手にした』と。
この声はどこから聞こえてくるのか。幻聴なのか。それさえもわからない。わからないことを考えても仕方なく、ぼくは前を見た。
ランタンの光がまた前を指していた。進め……ということなのだろう。
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