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貧乏子爵令嬢『がさつ姫』~氷の侯爵に溺愛される
しおりを挟む「レイ兄ちゃん、ボクの剣の先生になってよ」
街の広場で二十人近い子供を集めての剣術教室。
春も終わりに近づき、日が伸びた夕暮れ、生徒たちが帰って行く中、見慣れない上品そうな男の子が話しかけてきた。
訂正する気はもう失せているが、私は女、れっきとした子爵令嬢である。
我がスペンサー家は武人の血筋。父は剣術については一目置かれる存在だ。
十二歳の時、はやり病で母を失ったが父の愛情を十分に受けて育った。
そんな父の愛情表現は剣術の稽古。
普通の女の子が音楽や刺繍を学ぶ時間、ひたすら剣を学んでいた。
十九歳の今に至るまで、女性らしさを学ぶ機会もなく成長した。
ついたあだ名は『がさつ姫』。
「レイ兄ちゃん、さよーならー」
「レイ兄ちゃん、またねー」
もはや、姫ですらない……。
自称ではあるが、りりしい顔立ち、黒髪のショートヘアー、すくすくと上に向けてだけ育った長身のスレンダーな体格。稽古のため胸に布を巻き、シャツにズボンという服装。稽古姿を気に入られて見知らぬ女性から恋文をもらったことも何度かある……。
もう面倒なので放っている。まあ、剣術教室、男の先生の方が受けが良い、というのも事実である。
「レイ兄ちゃん、聞いてる?、ボクの剣の先生になってよ」
さっきの子が、いつの間にか私のズボンを引っ張っている。
カールしたくせ毛の金髪に青い目、汚れてはいるが上等そうなシルクの白いシャツ、衿にレースの飾りまでついている。かなり裕福な家の子供か。見たところ、五歳ぐらいだろう。
可愛い子だ。きっと、将来は美男子になるだろう。
「ぼうや、どっから来た?」
「あっち」
私がたずねると男の子は山の方を指差して答えた。
剣術教室の生徒は五歳から十二歳、貴族もいれば裕福な平民の子もいる。小さい子は親か使用人が送り迎えをするが、時々忘れられて生徒を送っていくことがある。
仕方ないので、手をつないで歩き始めた。
私には弟が二人いて、母が死んだ後、父と一生懸命育ててきた。
昔の可愛かった頃を思い出して微笑んでしまう。
今では声変わりして反抗期。かわいくもなんともない。
「レイ兄ちゃんって、強くて、かっこいいよね。先生になってよ」
「いいよー、お父さんお母さんと相談して、うちの教室に入ろうね」
商売、商売。この子を届けて、そのまま商談といこう。
平和な世の中、剣術の名家といえども、コネがなければ良い職はない。
まして女では、できるのは剣の先生ぐらい。父も文官になって苦労している。
小さな教室とは言え、家計の柱である。
歩きながら話すうちに、この子も母を亡くしていること、家族は父だけということがわかった。
しかし、もうだいぶ歩いている。あたりも暗くなってきた。
人家もどんどん少なくなっていく。そろそろ不安を感じ始めた。
「レイ兄ちゃん、今日、うちに泊まってよ」
「泊まる?、それは無理だなあ……」
「ええー、なんでダメなの?」
泊まって、泊まって、と何度か頼まれた。
父親との二人暮らし、友達も少なくて寂しいのだろうか。
そうこうするうちに、日が落ちて暗くなった。
まだ歩き続ける。いよいよ、人家もなくなった。
しかし、私が知る限りでは、この先にあるのは一軒だけ……。
「ぼうや、名前はなんていうの?」
「パット。パトリック・アッシュフィールドだよ」
当たった。この辺一帯の領主、侯爵家アッシュフィールド。
今の当主はたしか、パーシバル、何年も笑顔を見せたことがない、常に冷たい他者を寄せ付けない表情。
人呼んで『氷の侯爵』。ウワサは聞いたことがある。
「ねえ、いいでしょ、泊まってってよ。そんで、剣を教えてよ」
なんで侯爵家の子供が一人であんな遠くまで?、迷子か?
イヤな予感がする。さっさと、家の人に渡して引き上げよう。
「無理無理、ほら、お家が見えてきた、さっさと帰りな」
お家と言うよりは、お城が見えてきた、というのが正しい。
正門の門番が近付いてくる私たちに気づいて、大慌てで駆け寄って来た。
「パトリック様!」
「いたぞー!」
「お迎えが来たぞ、バイバイ、さっさと帰れよ」
私はパットの背を押して、来た道を戻り始めた。
その時、背後からパットの声が聞こえた。
「あのお兄ちゃんに連れて行かれたの!」
「はあっ!?」
驚いて振り返る私の目前に、二人の門番が怒りの表情で走って迫ってきた。
パットを見ると、ニヤッとズルそうな笑みを浮かべていた。
私は捕らえれた。
「金目当てか?」
パーシバル・アッシュフィールド侯爵が冷たい視線で縛られている私を見下ろした。
イスに座り脚を組んで肘をつく。感情を感じさせない氷のような冷たい表情。
『氷の侯爵』とはよく言ったものだ。
美しい金髪に海のような青い瞳。思ったよりも若い。三十手前ぐらいか。
こんな目で見つめられて微笑まれたら女性はたまらないだろう。
しかし、今の表情を見ていると、最後に笑ったのはいつかと考えたくなる。
「だから言っているではないですか、街で迷子になっていたのを送ってきただけだ」
侯爵はなにも言わず、こちらを観察するように、ジッと見ている。
人を信じないような目だ。
「私はスペンサー子爵の家のものだ、父を呼んでもらえればわかる。あやしいものではない」
こういうヤツラは人よりも肩書きを信じるだろう。
案の定、侯爵は傍らに立つ男に父を呼ぶように指示を出したようだった。
だいたい、嘘つきパットはどこに行った?、あいつが本当のことを言えばすむ話ではないか。
「なぜ、人さらいが連れ出した子供をまた連れてくる?、貴殿はおかしいとは思わないのですか?、パットに聞いてもらえればわかるだろう」
さすがに理屈に合わないと感じたのか、少し考えたあとで部屋にいた初老のメイドの方を見た。
「ベリンダ、パットは?」
「……まだ、お風呂でございます」
人をこんな目にあわせといて、自分はのんびり長風呂か。
まあいい。誤解が解けるのは時間の問題だろう。
せっかくなので、侯爵様の暮らしを観察することにした。
ここはリビングなのか、フカフカのじゅうたん。おかげでヒザが痛くない。
家具も調度品も高級そうだ。
天井にはシャンデリア、一つ一つにロウソクがともっている。
あちこちにメイドや使用人がいる。人手と手間ひま掛けて複雑に暮らす。
侯爵の暮らしというのも大変なものだ。
「レイ兄ちゃん!」
やっとフロから上がり、高級そうなシルクのパジャマを着たパットが駆け寄ってきて抱きつかれた。
しかし、侯爵の目つきが険しく変わったのがわかった。
「父さま、レイ兄ちゃんはすごい剣の先生なんだ。だから、うちでボクの先生になってもらおうと思って……」
パットはうれしそうに話し始めたが、怒りの表情で近寄ってくる侯爵の姿に、おびえ始めて言葉を止めた。
「お前は、ウソをついたのだな」
侯爵は右手を振りかぶった。
「ま、待て!」
私はとっさに侯爵とパットの間に割って入った。
パーン!、侯爵の手はわたしの頬をひっぱたき、乾いた音が響き渡った。
わたしの身体は吹っ飛んだ。
侯爵もアッと驚いて立ちすくんでいるようだが、もっと驚く人がいた。
「アッシュフィールド侯爵、これはいったい……」
駆けつけた父は部屋の入り口でぼう然とその光景を見ていた。
自分の娘が縛られたまま侯爵に平手打ちを食らって吹き飛ぶ姿を。
さすがの『氷の侯爵』も、ソファーに座る父と私に頭を下げている。
下げた頭が戻ってこない。
「大変申し訳ない。誤解とはいえ、こんなことをしでかしてしまい、詫びの言葉もない」
非を認める態度はいさぎよい。少しだけ見直した。
「ごめん、レイ兄ちゃん、ボクのせいで……」
パットはぶたれて腫れたわたしの頬にぬらしたた冷たいタオルをあててくれている。
優しい子だ。私は頭をなでてあげた。
「たいしたことないから大丈夫。ただ、どんなときでも、絶対にウソはダメだぞ」
「うん、もうしません……」
そんな私たちの様子をじっと見ている侯爵の視線に気づいた。
侯爵は視線をそらせて父に言った。
「スペンサー卿、どうだろう、ご子息に我が息子、パトリックの剣の先生、住み込みの教育係になってもらえないだろうか?」
えっ?、父も私も驚いた。
「この子は人見知りが激しくて、なかなか教育係が見つからない。やっと見つけて、うまくいっていた者が故郷に帰ってしまい、今日も街まで勝手に行って、その者を探していたようなのだ」
はあ……、父も私も唐突な申し出に反応は同じだった。
「パトリックはかなりご子息を気に入ったらしい。もちろん、報酬は支払う。今日の詫びも込めて最高の水準で考えたい」
父の目が輝いた。
「この子の剣の腕は、すでに私に匹敵しております。貴族としての礼儀作法も十分心得ております」
えっ、そうだったか?、まあ、男の子を教える分にはなんとかなるかも知れない。
女の子なら絶望的だったが……。
いや、一つ、大事なことを忘れていた。
「父上、私には剣術教室があります。ここで住み込みというわけには……」
「ああ、教室はワシがやるから問題ない」
今の仕事はどうするのですか、と聞く前に父はわたしの耳元でささやき始めた。
「実は、今日クビになってしまった。やはり、事務仕事はワシには合わんかった。すまんが、お前もしっかり稼いでくれ」
ああ、平和な世は我がスペンサー家になんと厳しいことか……。
「あと、くれぐれもバレないようにな。男の子の教育係、男の方がいいに決まっておる」
父はわたしの両肩を掴んで改めて侯爵の方を向かせた。
「我が息子レイ、必ずやご令息が立派な男に育つ助けとなりましょう」
早速、パットが抱きついてきた。
「やったー、レイ兄ちゃん、ご本読んで!、いっしょに寝よう!」
父上、たった今、ウソは絶対にダメだとパットに教えたところなのですが……。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
窓のカーテンを開けると、もう初夏の日差しと青い空が見える。
まるで今の私の気分だ。
突然始まった侯爵令息への教育係の仕事も早一ヶ月、極めて順調。
男として生活していると言うことを除けば……。
毎朝、全身が映る鏡を見ながら入念に準備する。
多少だがふくらみのある胸は布を巻いて押さえる。
少しはあるボディラインを目立たせない少しゆったり目の白いシャツとストレートの黒ズボン。
全身を鏡で映すと、自分でも見惚れてしまうできである。
若いメイド達で『レイ様ファンクラブ』ができたと耳に挟んだこともある。
使用人に偉ぶらない態度もステキ、だとか。
そもそも偉ぶり方を知らないだけなのだが。
小さい子供との付き合いは小さいときながら、弟二人で経験済み。
パットは育ちがいいからか素直な性格。ずる賢いのは賢さの表れ。
剣の筋もいい。全く手が掛からない。
侯爵がいないときは、パットと夕食を食べるが、まあ豪華な侯爵家メニュー。
当然、上げ膳据え膳。
弟二人にこき使われる我が家の暮らしに比べれば天国である。
めんどくさそうな侯爵との付き合いは全くない。
家にいるときは、たいてい、庭の花壇のそばに置かれたテーブルで、ワインを召し上がっておられる。
ほとんど毎日、真っ昼間から。
侯爵の生活とはなんと優雅なものか。
人に見せる無表情な顔は実は二日酔いなのではないかと疑ってしまう。
使用人はおろか、パットとの会話もほとんど無い。
まあ、わたしにしてみれば気が楽なのだが……。
「あれは、亡くなられたエメリア様……、奥様が愛された花壇なんです」
ある日、また飲んでるのか、とあきれて侯爵の姿を見ていると、メイドとしては古手のベリンダさんが教えてくれた。
奥様のエメリア様はもともと侯爵令嬢で幼なじみ、親同士が決めた結婚だったが相思相愛。
しかし、四年前、パットが一歳の時に病気で亡くなったと。
「それ以来、坊ちゃま、いえ、だんな様は笑わなくなりました」
ああ、人が氷になるのには理由があるのだ。
優雅に見えた侯爵の後ろ姿が寂しそうに見えてきた。
「これが、お母様なんだって」
パットが廊下に飾ってあるエミリア様の肖像画を見せてくれた。
『なんだって』、そういうパットには母親の記憶が全くない。
フワフワとカールした長い金髪に青い目。優しそうな笑顔。
自分の死後、愛した花壇をずっと見続けるほど愛し合っている夫、一歳の子供……。
二人を残して旅立った心を思うと、同じ女として胸が張り裂けそうになる。
侯爵はいったい、どんな顔で花壇を見ているのだろう。
そんな興味でいつもより、近くに寄ってしまった。
「誰だ?」
しまった、近付き過ぎた。
「レイか」
「侯爵、失礼した」
足早に歩き去ろうとしたのだが……。
「少し、話さぬか」
テーブルの空いていたイスを勧められた。
なんだろう……。
パットの剣は順調に上達している。
読み書きも五歳の子供としては悪くないレベルと思うのだが……。
小さな丸いスチールの白いテーブルにイスが二つ。
以前は、ここで侯爵とエメリア様が座って仲良く花壇を眺めていたのだろう。
花壇には初夏の花が咲き始めている。
きっと四年間、同じ花を同じ場所に植えて、同じ美しさを保っているに違いない。
そして侯爵は四年間、同じようにこうして花壇を眺めているのだろう。
エメリア様を思いながら……。
「美しい花壇ですね。奥様もお好きだったとか」
あっ、しまった。表情が陰った。
これだから『がさつ姫』などと呼ばれるのだ。
また沈黙が続いた。
「……パットから聞いたが、母親を亡くしているそうだな」
突然の意外な話題。
「ええ、もう七年も前ですが」
「どうやって忘れた?、やはり、時間が必要なものなのか?」
奥様を亡くされて四年も経ったが、まだ忘れられない。
それが苦しいのだろう……。気持ちは理解できる。
だけど、侯爵、違っています。
「忘れてなどいませんよ」
侯爵は驚いたように私を見た。
「愛する人が死んだからといって、忘れることは無理でしょう。そうではないですか?」
侯爵はうつむいた。
「では、どうすれば良いのだ?、お前はどうやって乗り越えたのだ?」
救いを求めるような目で見つめられた。その目には氷の冷たさはもうない。
十歳近く年下の小娘、いや、今は若造か、にまでアドバイスを求めるとは、よほど苦しいのだろう。
母が死んだ当時、誰かが教えてくれた方法がある。
愛する者の死にどう向き合うか。
十二歳の少女には効果があったが三十前の男性にも通用するかはわからない……。
「効果があるかはわかりませんが……」
「どうするのだ?」
私に教えられるのはこれしかない。
「まず、目を閉じて下さい」
「目を?、こうか?」
侯爵は不思議そうに、しかし、両目をしっかり閉じた。
「大きめのツボをイメージして下さい。栓ができるように口が小さいのがいいです」
「ツボ?、口の小さいツボ……」
「ツボに、奥様への思いを全部入れて下さい」
「難しいことを言うな……」
それでも侯爵は目を閉じて思案顔。イメージを作ろうとしているようだ。
わたしの言うことを一生懸命に頭の中で再現しようとしている侯爵、不謹慎ながら、とても可愛く思えてしまう。
「ツボに栓をして、心の一番奥に置いて下さい」
「栓をして、心の奥に……。うん、できたぞ」
「はい、目を開けて下さい」
侯爵は目を開けたが、キョトンとしている。
「これだけか?」
「はい。奥様を思い出したいときだけ、栓を開けて中から思いを取り出して下さい。終わったら、またツボに戻して、思い出すのをやめて下さい」
侯爵はキョトンとし続けている。
「思いを無理に忘れる必要はありません」
やはり、十二歳の子供用だっただろうか……。
助けになれなかったことに自分でもがっかりしてしまった。
ところが、侯爵の目からは涙がこぼれ始めた。
「無理に忘れる必要はないのだな……」
「ええ。思いは、ずっと心の中にあっていいんです」
侯爵の目からポロポロと涙が流れ続けた。
よかった、少しは効果があったのかもしれない。
愛する人を失う悲しみに年齢は関係ないのだろう。
そう思うと急に侯爵が子供のように見えてきてしまい、思わず、涙が流れる頬をハンカチでふいてあげてしまった。
「あんまり泣くと、エミリア様が心配しますよ」
気の利いた慰めのつもりだったが全くの逆効果。
涙の量が増え、泣きじゃくり始めた。『がさつ姫』本領発揮、慰めの言葉もうまく言えない。
ハンカチが涙で湿り始めた。
ちょっと待った!、ハッと気づいた。
二十歳前の若造が、泣きじゃくる侯爵の涙をハンカチで拭いている、そんな妙なシーンを作っているのに気づいた。
あわてて手を引こうとするが、その前に侯爵の手に握られてしまった。
「すまぬ……」
侯爵の手からぬくもりが伝わってくる。
顔が赤くなっていくのがわかる。
でも、そのまま、握られるままにした。
人は時に涙を流した方がいい、そういう理由を付けて……。
「レイの手は、ずいぶん華奢で柔らかいな」
ようやく落ち着いた侯爵に不思議そうに言われた。
ギクッ……。
身長見合いで女性としては大きい手だが、男性らしいゴツゴツした感じは全くない。
そもそも、設定に無理があるのだ。握られるような想定はしていない。
「ははは、よくそう言われます。だが、手の平はマメだらけ、ほら、カチカチですよ」
笑ってごまかそうと、手の平を開いて差し出して見せたのだが、何を思ったのか侯爵はその手を握り、しかも、優しく手の平をなで回し始めた。
こ、侯爵、なにをなさるのですか……。表面が硬くなったマメとは言え感覚は当然ある。
優しく撫でられる心地良い感触が伝わってくる。
顔にカーと血が上っていくのが感じられる。
「なるほど、さすがだ。よく鍛えているな。俺も剣を学んでいた頃は、こんな感じだったな」
そうそう、今の私は剣の先生の若造。動揺することはない。
ん?、侯爵も剣を学んでいたのか。
『がさつ姫』らしい励まし方を思いついた。
「どうですか、私と剣の立ち会い稽古をしてみませんか?、久しぶりでしょう」
稽古用の剣を構えて、私と侯爵は向き合った。構えを見るとわかるが、そこそこできると見た。
「手加減はしませんよ」
「ああ、そうしてくれ」
カチッ、と剣の先をぶつけて打ち合いが始まった。
カンカンカン、激しく剣がぶつかる。侯爵の剣は荒いが力強い。
しかし、時間が経つにつれ、侯爵の息が荒くなっていく。
ほぼ毎日、酒を飲むという不摂生の結果だろう。
疲れがスキを生み、そこを突いた私の打ち込みを防いだ際に、侯爵はバランスを崩して地面に倒れ込んだ。
「侯爵!」
あわてて手を差し伸べて立ち上がるのを助けた。
やりすぎたか……。
侯爵は私の手を取り、立ち上がった。
手を取られて気がついた。手を握られることへの抵抗がなくなっていた。
「久しぶりだが、身体を動かすのは気持ちが良いな」
「お酒を飲みたくなった時は代わりに身体を動かしましょう。いつでも付き合いますから」
「それはいい。頼むとしよう」
そう言って侯爵は笑った。初めて見る笑顔だった。
優しい笑顔。
おそらく、エメリア様もこの笑顔に魅せられたのだろう。女の私にはわかる。
それが若造に向けられた笑顔とわかっていながら、私は胸が高鳴るのを感じた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
太陽の日差しが強くなり、本格的な夏の訪れを感じる。
以前と変わらず順調な剣の先生暮らし。
変わったのは、エメリア様の花壇に夏の花が咲き誇っていること、
侯爵のほぼ毎日のワインが、ほぼ毎日の稽古に変わったこと。
「父さま、レイ兄ちゃんはボクの先生なんだぞ!」
侯爵と延々と打ち合いを続けていたら、パットが怒り始めた。
パットには悪いが、やはり、それなりの腕の者との稽古は楽しい。
それに、手加減はしないが、できるだけ長引かせて汗をかいてもらうようにしている。
四年間、身体にためたアルコールがやっと抜けつつあるようだ。
「悪いな、パット。夢中になりすぎた」
侯爵は額の汗をぬぐいながら、パットに笑いかけた。
この人はもう大丈夫だろう。そんな気持ちになる。
パットを見る目は愛情で包み込むような優しい父親の目つき、そんな目つきのまま私にも笑いかけてくる。
「二人とも、汗びっしょりだな」
笑顔の意味を考えてしまう。
親しい年下の友人か弟への笑顔、弟分、まあ、そんなところか。だって、侯爵、私の前でシャツを脱ぎ始めた……、えっ?
鍛えられた腹筋と胸の筋肉、四年間の怠惰な暮らしの影響を感じさせない。
元々、かなり鍛えていたのだろう。
男の広い肩と背中。
エメリア様を抱きしめていた広い胸と腕……。
ハッとして、あわてて後ろを向いた。
「どうした、レイ?、お前も脱いだらどうだ。冷えたらカゼひくぞ。別に遠慮することはない」
「い、いや、実は背中に大きな傷があって、人前では服を脱がないんだ」
ヘラヘラと笑いながら、混乱した頭は口からデタラメな言い訳をひねり出した。
「へー、そうなのか。どれ、どんな傷か見せてみろ」
いたずらっぽく笑う侯爵にシャツの後ろの裾を掴まれ、めくり上げられた。
ひんやりとした風が露出した腰に当たるのがわかった。
逆に顔は真っ赤、カーと、ほてって熱くなるのがわかる。
侯爵!、いけません、おやめください!、これセクハラです!
……いや、そんなつもりがないのはわかってます、今の私は男ですから。
しかし、思いは伝わったのか、侯爵の手はシャツを離してくれたようだ。このスキに走り去る。
「部屋で着替えてきます!」
いけない、侯爵との距離が近くなればなるほど、心がかき乱されることが増えていく。
心がかき乱される?、だって、侯爵にとっては弟分でも、私は女だから……。
こんなこと、長く続けられるわけがない。泣き出しそうな気持ちで走り続けた。
食事も、侯爵とパット、そして私と必ず三人でするようになった。
侯爵が家で食事をする機会が以前よりもずっと増えている。
テーブルをはさんで座るパットが、その日に習ったことをうれしそうに話すと、優しい微笑みをパットに向ける。
そして、そのまま視線を横に動かし、私にも同じ微笑みを向けてくる。
どう反応していいかわからず、気づかないフリをして、ナイフとフォークで一生懸命、肉を切ることに集中する。
本当なら親子三人の幸福な食卓。
私はエメリア様の代わりではない、だって男だから……。
では、その微笑みはなんなのですか、侯爵……。
「よおー、パット、お父ちゃんいるかー?」
「あっ、エドガーおじちゃん!」
パットに稽古を付けていたある日、エメリア様の兄が侯爵を訪ねてきた。
侯爵とは同い年。子供の頃から三人でよく遊んでいたらしい。
くせ毛の金髪。この家の血筋なのだろう。父親がまだ現役なので、侯爵令息だそうだ。
侯爵が不在だったのでしばらくお相手をすることになった。
「パーシー、だいぶ元気になったらしいな」
パーシー?、誰?、そうか、パーシバルだからパーシーか。
可愛い呼び名に微笑んでしまった。
パーシー……、自分で小声で言ってみる。音も可愛い。
きっとエメリア様がささやくと、優しい響きになるのだろう。
「相当できるそうだが手合わせ願えないか。俺は現役の騎士団員だぞ」
これは面白い。早速、打ち合い稽古を始めた。
さすがは現役騎士団員、延々と打ち合いを続けたが簡単に勝負がつかない。
「わかった、わかった、この辺にしておこう」
結局、決着はつかず打ち切られた。
「若いのにたいしたもんだ。見栄えもいいし、良ければ近衛騎士団に推薦してやろうか?、きっと一発で合格だろう」
近衛騎士団、剣の腕だけでなく見栄え、外観も重要なエリート集団。
あっ、侯爵が帰ってきた。うわ……、どうしたんだろう。
こっちに向かってくるが機嫌がものすごく悪そうだ。
何かあったんだろうか、なんか怒ってる……。
「エドガー、なんの用だ。レイ、こいつとしゃべるとチャラいのが移るぞ。離れておけ」
「なんだよ、いきなり……。今、レイを近衛騎士団に誘っていたところだ」
「近衛騎士団だと……?」
あっ、侯爵、なんかムッとした。
「父さま、今ね、二人で打ち合ってたんだけど、すごかったよ。ぶちのめされた父さまとは全然ちがってた」
バカ、パット、そういうことは言うな。ほら見ろ、悪い機嫌がさらに悪くなった。
ジロッとものすごい形相でにらまれたパットがおびえて私の陰に隠れた。
「ありがたいですが、興味ありませんね。私はこうして、パットの先生をやっているのが性に合ってます」
実は、近衛騎士団の入団試験を受けたことがある。剣の腕、見栄え・外観とも合格、しかし女とわかった瞬間に落とされた。募集条件を読まなかったのか、とメチャメチャ怒られた。
あれ?、侯爵がホッとしたような顔をしている。少し機嫌も直ったようだ。
「そうだ。近衛騎士団など堅苦しいだけで、レイにはあっていないぞ」
侯爵、なんか嬉しそう……。なんでだろう?
私たち三人は、花壇の前のテーブルに場所を移して、おしゃべりを続けた。
「あいかわらず、きれいな花壇だけど、そろそろ潰して、さっぱり忘れた方がいいぞ」
うわー、これがエメリア様のお兄様か。
世の中には確かにいるのだ、気持ちの切り替えができる、こういう性格の人が。
そして、侯爵のような人を苦しめる。
「忘れる必要はない。心の奥のツボに大切に入れておくのだ。なあ、レイ?」
目配せする侯爵に私は笑顔でうなずいた。侯爵はもう大丈夫だ。
「なに言ってんだ、お前……?」
エドガー殿は不思議そうにキョトンとしている。
まあ、わからないだろうし、わかる必要も無いだろう。
「……とにかく、元気になったのはいいことだ。今度、俺の嫁探し舞踏会をやるから、お前も出てこい。エメリアの兄の俺が認めてるんだから、早く、いい子を見つけて再婚してパットにお母さんを作ってやれ」
さすがに、すぐそこまでの気持ちの切り替えはできないだろう。
ほら、侯爵はぶ然としている。
「そうだ、レイ、お前も来いよ。きっと、モテモテだぞ」
舞踏会……。最後に行ったのは母に連れられていった時、子供の頃だ。
憧れる気持ちはある。しかし、そもそも、令嬢たちにモテても仕方ない……。
「いやー、着ていく服もありませんし……」
やんわり、お断り。
「そういう子のためには、服の手配をこっちでするんだ。真実の愛は貧乏令嬢との間に生まれるかもしれないだろ?、男物も頼んどいてやるよ」
プッ、思わず吹き出してしまった。
「発想は面白いですが、くだらない恋愛小説の読み過ぎではないですか、エドガー殿」
おや?、侯爵がピクッとなにかに反応した。
「レイは、そんなとこに行かなくていい!」
侯爵の大声とキツイ言い方にエドガー殿と私はびっくりした。
侯爵自身も自分の声に驚いたように言葉を続けていく。
「ま、まだ十九だし、そんな色恋沙汰よりもっと大切なことがいろいろあるだろう」
「なにも、そんなに怒らなくてもいいじゃないか……」
エドガー殿はブツブツ言いながら黙ってしまった。
「……ところで、レイ」
「なんでしょうか、侯爵?」
「いや、……その、なんだ、そろそろ名前で呼んでくれないか、侯爵ではなく」
そうか、私がエドガー殿と呼んだから、自分もそうしてもらいたいのか。親友同士、ライバル意識が高いようだ。
「では、パーシバル殿、でよろしいか?」
「……パーシー、で良い」
パーシー……、エメリア様もそう呼んでいたのだろう。
同じように呼んでいいとは嬉しい。でも、呼び捨てというわけにはいかない。
「では、今後は、パーシー殿、と呼ばせていただきましょう」
「レイはよっぽど、気に入られてるんだなあ。こいつ、めったにパーシーとは呼ばせないんだぜ。だって……、だって、ぷっ、なんか頭悪そうな呼び名だから」
エドガー殿は自分で言って自分で吹き出して腹を抱えて笑い出した。
パーシー殿は……、いや、せめて心の中でだけはパーシーと呼ぼう。パーシーは真っ赤になって怒っている。
パーシー……、音にするだけで優しくなれるような口の動き。
私は好きですよ、エドガー殿。
「これを、私にですか?」
突然、侯爵、いえ、パーシーが剣をプレゼントしてくれた。
握る部分の上に大きな赤い宝石がはめ込まれている。
たぶんルビーだろう、一目で高価な物とわかる。
金属の鞘にも丁寧な模様が刻まれている。鞘から抜いてみると美しい刀身が現れる。
いったい、いくらするのだろう……。
「う、うむ、街の武具屋でたまたま見かけて、レイに似合うのではないかと思ってな」
こんな高そうな物は受け取れないと言ったものの、気持ちだ、と押しつけられてしまった。
パーシーの初めてのプレゼントは花でもネックレスでもなく、剣。
ステキなプレゼントだが、剣。
とても気に入ったが、剣。
これが二人の関係。剣を胸に抱きながら、ため息が出た。
「レイ兄ちゃん、お休みなさい。ハグして」
「はいはい、お休み、パット」
パットがどこで覚えてきたのか、寝る前に、膝立ちの私に抱きつくことをねだるようになった。
「父親の私には、ハグしてくれないのか?」
そばで二人の様子を見ていたパーシーが愉快そうに言った。
「だって、父さまの身体はゴツゴツして硬いんだもん。レイ兄ちゃんは柔らかくて気持ちいいんだ」
五歳といえども男は男か……。思わず顔が赤くなる。
「ほら」
立ち上がろうとしたところをパットに押された。パーシーに向かって……。
身体はバランスを崩してパーシーに抱きついてしまった。
胸と胸は重なり、とっさに背中に回した腕で抱きしめてしまう。
パーシーの腕も私を受けとめるため、背中に回されて私を抱きしめる。
広くがっしりした胸が感じられる。
まずい。もう寝るだけと思い、油断して胸に布を巻いておらず、直接、感触が伝わってくる。
驚いて顔を上げると、やはり驚いた顔で私を見ているパーシーと目が合った。
二人とも頬が真っ赤に染まっていく。時間が止まったかのように長く感じられる。
胸が高鳴る。自分の鼓動だけでなく、パーシーの鼓動も伝わってくる。
目を見つめ合う。
「あっ、ごめんね、じゃ、おやすみー」
自分の部屋に去って行くパットの声で初めてハッと我に返った。あわてて身体を離した。
お互い、引きつった笑いを浮かべている。
「子供というのは困ったものですね」
「ホントにそうだな」
パーシーも赤い顔をしているが、特に私の胸に気づいたという風ではない。
それはそれで悲しいが……。
眠れない。胸がまだドキドキしている。
どんな形であれ、男性に抱きしめられたことはない。
『がさつ姫』にはそんな機会があろうはずがなかった。
でも、パーシーにとっては、倒れ込んできた弟分を受けとめただけ。
その割には顔が赤かった気もするが……。
気持ちを落ち着かせようと、夜の庭に散歩に出た。
チー、チーと寂しそうな虫の声だけが聞こえてくる。
部屋の明かりは全て消え、月明かりだけのはずなのに、エメリア様の花壇のそばにロウソクのような明かりがともっている。
「また飲んでおられるのですか、パーシー殿」
私はわざと非難の口調を込めてワイングラスを傾けるパーシーに言った。
すでにボトルが半分空いている。
おや?、空のワイングラスが一つ、テーブルの上にあることに気づいた。
「どうだ、一緒にやらないか。なんとなく、レイが来る気がしたんだ」
その言葉に驚きながらも、素直にイスに座った。
グラスに注いでもらった赤ワインを口にする。口の中に広がるフワッとした香り。
時々、父に付き合って飲む安物とは格が違う。
パーシーが私の口元を見ている気がする。
ワインが気に入るかどうか気にしているのだろうか。
高鳴っていた胸も落ち着いてきて、気分も和らぐ。
お酒にも良い点があるのは確かだ。
頬がほんのりと染まっていくのがわかる。
「今、心のツボを開けていたんだ。エメリアに相談したいことがあった……」
パーシーは少し酔っているようだ。顔も赤い。
「人を好きになるということについて」
そう言って私の目をジッと見つめてくる。
どう反応して良いかわからず、ワイングラスに目を落とし、一口飲んで気を落ち着かせる。
「それで、エメリア様はどうおっしゃられましたか?」
「『あなたが幸せになるようになさって下さい』、と」
そう、それが先立ったものの願い。残されたものの幸せを必ず願って……、えっ、パーシーの顔がどんどん近付いてくる。下あごが指で支えられた。
ちょっ、ちょっと待って、今、私は男だったのでは……。
でも、両目は閉じた。パーシーの唇が私の唇に重なった。
腕が背中に回り引き寄せられる。私も腕を背中に回して引き寄せる。
二人の胸が重なった。
一瞬の時間のはずだがとても長く感じられる。
「いかん!、こんなことはダメだ!」
パーシーが叫んだ。
私は突き放されて身体を離された。
「すまぬ!」
そう言ってパーシーは走り去っていった。
ぼう然と見送る私の目からは涙が流れた。
もうやめる、こんな茶番はもうやめる。やってられない!
明日、全部話して謝る。
それでクビになるなら構わない。
私は決意した。
しかし、その機会は来なかった。
翌日、朝一番で私はクビになった。パーシーに会える機会もないままに……。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
なんてことをしてしまったんだ!
俺は走ってレイから離れながら後悔した。
「思いを無理に忘れる必要はありません」
レイのこの一言でどれだけ気が楽になったことか。
周囲の人間は言う、早く忘れろ、早く吹っ切れ、と。
だが、それができない人間もいるのだ、俺のように。
この四年間、時間があるとエメリアの愛した花壇を見ながら、酒を飲んでいる。
身体に悪いとは思いながら、気がつくと花壇の前でグラスを傾けている。
まるでアル中だ。
そんな悪い習慣もレイが変えてくれた。
俺より十歳近くも若いのに、剣は俺よりはるかに強い。
元々、俺は負けず嫌いだから、少しでも追いつきたくて毎日稽古に励んで汗をかいた。
酒も欲しくなくなった。
子爵令息なのだが、気取らないはっきりとした物言い。
多少がさつな気もしないではないが、話していても気楽だ。
レイがいると、パットとの会話も増えて、会話も弾む。
だが、まず思い出すのは涙を拭いてくれた柔らかく華奢なその手。
そして、たわむれでシャツをめくって見てしまった、白い腰と背中、その滑らかな肌。思わず息を飲んでしまった……。
どうかしている。俺はどうなってしまったんだ?
レイを愛おしく感じてしまっている。
エドガーと親しげに話しているのを見て猛烈な嫉妬を感じたり、ガラにもなく、特注で似合いそうな剣を作ってプレゼントしたりもした。
まるで、恋する男のように……。
今夜、パットに押されたレイを抱きしめてしまった。
細い、柔らかな身体。普通でない感情が沸き起こった。
心を落ち着かせようと久しぶりに花壇を見ながら飲むことにした。
もしかしたら、レイが来るかも知れないと期待して、わざわざグラスを二つ用意して……。
エメリアなら、こんな滑稽な俺を見てなんと言うだろうと考えてみた。
きっと、笑いながら『あなたが幸せになるようになさって下さい』、そう言うだろう……。
カンが当たってレイが来た。
やはり、酒を飲んだことを怒られた。
つい、ワイングラスに当たる柔らかそうな唇を目で追ってしまう。
その唇に引き込まれるようにキスをして、抱きしめてしまった。
だが、レイは拒まなかった……。
いかん、こんなことはダメだ!
未来の世界では違うのかも知れないが、今は許されない。
こんなことをしては、二人とも大変なことになってしまう。
なぜ、お前は女に生まれてこなかったのだ……。
決別……、お互い離れよう。手遅れにならないうちに。
レイをクビにして、俺は領地の視察と言うことでしばらく旅に出よう。
そして、全てを忘れるのだ。
それが二人のために一番いいのだから……。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
クビになって自分の家に戻ってからは、なにもヤル気が起きない。
何日もベッドの上でゴロゴロと過ごした。
パーシーからもらった剣を大事に抱きしめながら。
金属の鞘は初めはひんやりとしているが、抱いているうちに体温で暖まっていく。
そのぬくもりを感じると心が安らぐ。もともと、自分の熱なのだが。
はめ込まれた宝石が実は魔法の石で、思いが届くとか、パーシーのいるところへ連れて行ってくれるとか、奇跡が起きないかと願ったが、起こるわけもない。
こちらから出向いて、実は私は女です、と言うことも考えてはみたが、それほどの勇気は無い。
以前のような氷の視線で「それで?」とか言われたりしたら……。
そもそも、遠ざけられたのだから、こちらから押しかけていくのはとても怖い。
身分差というのもあるし……。
この思いも、心のツボに入れてしまい込んでしまおう。そうすることにした。
そんなとき、父の再就職が決まった。
騎士団の剣術指南役という大変ありがたい仕事だ。
騎士団とつながりのある貴族の方が推薦してくれたということらしい。
もしかしたら、我が家を心配して、パーシーが推薦してくれたのかもと思ってしまうが、そうではないらしい。
父の仕事が決まったので、私は街の剣術教室の先生に復帰した。
全ては以前の暮らしに戻った。
「ロビンズ侯爵の舞踏会に出てくれ」
ある日、父から突然言われた。この侯爵は父を騎士団の剣術指南役に推薦してくれた方だそうで、できるだけ多くの貴族令嬢を集めた舞踏会をやりたがっている、ということだそうだ。
私のような貧乏令嬢には服の準備を手伝ってくれるのだと。
あれ?、どっかで聞いた話だ……。
父の恩人ということでは断るわけにも行かず、気晴らしもかねて参加することにした。
事前にサイズを合わせて服を選んでもらい、当日、控え室で着付けをしてもらうという段取りだった。
会場のロビンズ侯爵の城に着いて室内に入っていくと、見たことがある人に気づいた。
エドガー殿だった。
ようやく気づいた。この舞踏会は以前言ってたエドガー殿の花嫁捜しの舞踏会のことだと。
あわてて身を隠した。
彼がいるということは、もしかしたら、パーシーも来ているのかも。
期待と不安で胸が高鳴った。
でも、興味なさそうな顔をしてたから、たぶん来ない可能性の方が高いか……。
「お嬢様のように、背丈が高いと非常に見栄えがしますね」
着替えを手伝ってくれた女性に言われた。
お嬢様、と呼ばれたのはいったい何年ぶりだろう。
髪の毛の色に合わせて、黒をアクセントにした赤主体のドレス。
少し派手な気もするが、私がフワフワのピンクのドレスを着ても似合わないだろう。
私の剣の強さを表しているような力強い色使いだと一人微笑んでしまう。
本職の意見はやはり、聞くものだと納得する。
胸など出っ張りの足りない部分は詰め物で補正したり、ショートヘアーは付け毛でロング風に見せるとか、いろいろと技術を屈指してくれたおかげで、父が見ても私とわからないほどの美人子爵令嬢ができあがった。
でも、こんなに変わったら、パーシーが見てもわからない……。
逆にガッカリしてしまった。
ともかく会場に移動し、特に親しい知り合いもいないので、お菓子などをつまんで雰囲気を味わう。
長身に派手な色使いのドレス。結構注目されているのか、視線を感じる。キレイ、ステキ、どこの方……、そんな声も聞こえてくる。
髪を伸ばし始めようかな、そんな気も起こってしまった。
誰か王子様とか貴族のご令息でも声を掛けてくれないかな、と待っていても特になにも起こらない。義理は果たしたし、そろそろ帰ろうか……。
と思っていたら、キョロキョロしながら誰かを探しているような人に目がとまった。
パーシーを見つけた。
心臓が口から飛び出るほど驚いた。
あっ、視線が合った。
不思議そうな顔をしながらこっちに歩いてくる。
胸が高鳴る。どうしよう、どうしよう……。
考えているうちに私の前まで来たパーシーにたずねられた。
「どこかで、お目に掛かったことがありますか?」
どうしよう……、言う、言わない。名乗る、名乗らない……、なんて言おう……。
とっさのことで判断ができない。考える時間が欲しい。
「ちょっと、お手洗いに……」
いったんその場を離れて考えようとパーシーに背を向けた。
「待って!」
後ろから右手を握られた。そして、手の平のマメをなでる感触が伝わってくる。
手がマメだらけの貴族令嬢など、そういるものではない。
「……レイなんだな?」
私は観念して、うつむき気味にパーシーの方を向いてうなずいた。
頭のてっぺんからスカートの裾までジロジロと観察された。
「どっちのレイが正しいんだ?」
「こっち……、です」
私は恥ずかしさに顔を赤くしながら答えた。
パーシーはフフフと笑い出した。
「参加者名簿に名前があったから探していたが、男の中ではみつからなかったわけだ。……やはり、そうだったのだな」
そして、いきなり私の手はパーシーの両手に握られ、目を見つめられた。
「俺の心の中にはエメリアがいる。忘れることはたぶんできない」
そう、それでいいんです。そう教えましたよね。
「だけど、お前が好きだ。もう、隠さない」
驚きに私の目は見開かれた。時間が止まった。
目が潤み始めるのがわかる。
言葉が思うように出てこない。
「愛する人を忘れられるような人なら、好きになったりしません」
そう言うのが精一杯だった。
パーシーはそんな私を強く抱きしめてくれた。
完
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