猫被り姫

野原 冬子

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4、ロングギャラリー、再び

ムカデな蠱毒 vs. スライムの床(前)

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 グリンガルド古来の敷地の北の端、木立の中に埋もれるように建つ石塔の、重たい扉の外側にかけられた関貫はすでに抜かれていた。




 無造作に背中に垂らした枯れ尾花の穂のような質感の髪が、入り口から吹き込んだ風に嬲られてふわりと踊る。

「さて、これは、どうしたことでしょうな」

 辺境修道院の司祭エイドリアンは、柘榴色の目を眇め、もぬけの殻となっている室内に視線を巡らせた。

 皺の刻まれた細面、糸のような細い目に筋の通った鼻立ちの優しげな風貌をしているが、表情には苛立ちが滲み出ていた。


 気を病み当主継承の資格を失った先妻の娘を、己の修道院に引き取るための来訪、ということになっている。ここで処置を済ませ、魂を抜いた物言わぬ身体を伴って主棟に戻るだけの簡単な仕事だったはずなのだが。


 干し草を積み上げただけの寝床、壁際の小さな書き物机、錆びた甲冑。中央には大きめの作業台があって、空のバケツと盥が置いてあった。

 1塔1室の吹き抜けの広間は、かなり古い時代の様式であったはずだ。エイドリアンは室内をざっと観察し終え、そう認識した。



「申し訳ございません司祭様、何か手違いがあったようですっ」

周囲の様子を見に走った従僕の一人が、息を切らせて戻ってくる。

「キッチンガーデンにいた庭師が、普段通りにメイドが灰色のお仕着せの娘を迎えに来て主棟の方へ連れて行くのを遠目で見たと」

「そうですか」

エイドリアンは息を吐いて自身の苛立ちを宥めつつ、心がけて鷹揚に頷く。
あっさり室内への興味を手放し石塔を出ると、従僕の先導に従って来た道を戻り始めた。

「おそらく、ロングギャラリーにいると思われます。先に確認して参りましょう」

もう一人の従僕が、主屋に向かって駆け出した。





 こちらも古い時代の建築だった。
かつて主従ごった混ぜで日常を過ごしたはずの吹き抜けの大広間を改装して仕立てられたロングギャラリーは、かなり広い長方形の空間だ。


 エイドリアンは、ギャラリーの、窓を背にした右手に屈み込んで床を磨いている灰色のお仕着せ姿の娘の背中を見て、細い目をさらに細めた。そして、ふと、娘の一番近くにあった肖像画に目を止めて、眉間に深い皺を刻んだ。


エイドリアンにとって、宿敵と言える。
元は黒く艶やかであったこの髪から色を奪った男。

因縁の深いオーウェン・グリンガルドの、あの冷たい翡翠色の目が、床を磨く孫娘を見守っているような構図に、胸の内でどす黒い感情が蠢いた。



「クリスティアナ・グリンガルドかね?」

エドリアンは努めて穏和な表情を作らねばならなかった。
声音も、司祭らしく、誠実で優しげに聞こえるように、少しの魅惑の呪を含ませ調節した。

微かにさっと足元に空気が流れた気配を感じる。
これだけ広い空間だ。室内に乗じる温度差で空気が揺れることもあるだろう。



それよりも、クリスティアナ・グリンガルドだ。
あの冷酷無比な男が溺愛し育てた、掌中の珠であったはずの。

ジョエル卿の奥方と御令嬢は、祖父と前妻の不義を疑っているようだが、あの憎き宰相は、そんな血の迷いを起こすような生易しい男ではなかった。その点は、血を分けた子息ジョエル卿も同意見であった。


卿は、名を呼ぶのさえ厭わしげなあの娘が実子であることを疑っていない。


 灰色のお仕着せに、洗いざらしの黄ばんだ白エプロンと頭には同じ布の三角巾。髪は団子にまとめ、その三角巾のうちに納めている。血色の悪い青ざめた肌に、目の下にはうっすらとクマが浮かんでいた。

 声をかけると、びくっと背を震わせて、怯えた色を含んだ群青色の目を上げる。

 くたびれ果てた令嬢は、妙に仕立ての良さそうなレースの群青色の長手袋を嵌めた右手を床に置いたまま、素手で布巾を握って床を擦っていた左手の動きを止めた。


 前当主が生きていた頃の持ち物なのだろう。品がよく上質そうなレースの長手袋だ。片方が失われている様子には、憐憫を誘われる。

 昨日18歳になり、次期侯爵継承の資格を失ったという認識はあるのだろう。良き時代の、おそらく祖父との思い出の品を持ち出して、心の拠り所にしようとしているのかもしれない。


 なんと、気弱な。


 無様に片方だけ残された品を身につけ、怯えた目でこちらをおずおずと見ながら立ち上がる。その猫背気味の細い身体からは、かつてエイドリアンがクリンガルドの所領で盗み見た、溌剌として凛々しく美しかった少女の輝きが消え失せていた。


 哀れなものよ。偉大だった祖父の庇護を失えば、あの光り輝く少女もこのように見窄らしくなるか。


 エイドリアンは胸に去来した失望に、つい軽く目を眇めてしまった。

「そのご様子ですと、ご自身が今どのような境遇に置かれているか、ご自覚はおありのようですな、クリスティアナ・グリンガルド侯爵令嬢」

 ジョエル子飼いの2人の従僕を背中に従え、広間中央まで足を進めると、気を取り直して穏やかな笑みを口元に浮かべる。

 内情は、オーウェンの肖像の前から動こうとしないクリスティアナに苛立ちを募らせていたのだが。それを表に出すのは得策ではないだろう。


「・・・いいえ」
クリスティアナは顔を伏せ、ゆっくりと首を横に振った。
溢れた高くも低くもない声音は掠れ、弱々しかった。


頑迷な。


エイドリアンは失望を噛み殺す。

「貴方は、昨日18歳となりました。数刻前、王家発行の次期侯爵指名誓約書を火にかけてみたところ、あっさり燃え落ちまして。この意味はわかりますかな?」

 司祭らしく、慈悲深く、穏やかな声音になるように心がける。


「・・・私の誓約が、効力を失ったため、でしょうか?」
クリスティアナは手袋をした右の手首を、素手の左手でキュッと握り締めた。
それは、なんとか自身を励まそうとしているかのような、頼りなげな仕草だ。


「その通りです、御令嬢」

エイドリアンは、手を伸ばせば届きそうな位置まで間合いをつめた。
首を傾げるようにして、クリスティアナの伏せられた顔を、優しく覗き込む。

「誓約の効力は失われました。近々、貴方のお父君、ジョエル卿が侯爵位を継承なさる。貴方は誓約の内容を果たせなかった科で、グリンガルドの籍を失い、私の修道院に引き取られることになったのです」

「・・・・・」
クリスティアナはびくんと背中を震わせ、エイドリアンから顔を背けつつ、さらに深く顔を伏せた。

微かに漂う抵抗は、擦り切れた次期侯爵指名者の矜持だろう。
そう思えば、嬲りがいがないわけではない。

輝きは失われたが、顔立ちが大きく変わったわけではない。
相変わらず端正に整って、怜悧で、前当主の面差しを残している。


「本日、私は、貴方を我が修道院にお迎えする準備をさせていただくために伺ったのですよ」


 魂を身体から分離して仕舞えば、意のままに従えることのできる物言わぬ傀儡となる。丁寧に磨けば美しい人形となり、この身の無聊を慰める役目を十分に果たしてくれるであろう。

鳩尾あたりにぞくぞくするようなざわめきを感じ、エイドリアンはニンマリと乾いた口角を持ち上げた。


 チラリと背後に目配せをすると、打ち合わせ通りに二人の従者がクリスティアナの両脇に移動し、腕を掴んで肩を抑え込み、床に跪かせた。

令嬢は、いやいやと首を振り、抵抗する素振りを見せる。
「なっ 何をするのです。 このような無体、誓約に抵触いたしますよ」

「はっ 無様なものですな。クリスティアナ・グリンガルドともあろう貴方が。失われた効力に縋るなど、笑止千万ですぞ」


エイドリアンは笑みに仄暗さを滲ませ、ゆっくりと、懐から小瓶を取り出した。

彼の手の動きにつられたように顔を上げたクリスティアナが、その中身を見て、大きく群青色の目を見張る。



瓶の中で、

どす黒い魔ムカデが、不気味に蠢いている。




床の付近の空気が、微かにざわめいて、すんと鎮まった。



 クリスティアナは、目を見開きムカデを凝視したまま、ピッタリと動きを止めている。驚愕と恐怖に声を上げて叫び出さないところは、さすがの胆力といえようか。

エイドリアンは低く、くつくつと嗤う。

令嬢の肩を押さえる両脇の従者の方が、ビンの中身を見て顔を引き攣らせ目を背けているではないか。



 令嬢の態度に気持ちが昂る。

エイドリアンは口の中で蠱毒の呪を暗唱しながら、ゆっくりとビンの蓋を開け、己の手のひらにどす黒いムカデを落とした。



空き瓶を懐にしまうと、術が利いて大人しくしているムカデを摘み上げて。

そして、完全にフリーズしている令嬢の、形の良い額にそれを、そっと乗せた。

せっかく時間をかけて用意した活ける呪具を落とさぬよう、手を伸ばし、枯れ枝のような指でクリスティアナの細い顎を掴んでしっかり固定すると。




ぷすり。

魔ムカデが身を震わせ、クリスティアナの額に頭を沈めた。




もぞり。

白くまろやかな額の上で、どす黒い生きた呪いがさらに深く潜り込もうと、身をくねらせた。



———その時




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