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piece2 鮮やかな記憶
眠れるかな……
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***
自室に戻り、悠里は丁寧にジャケットの埃を落とし、アイロンをかけていく。
何度も抱き締め、着たまま眠ったジャケットには、細かな皺がたくさん付いていた。
本当は、クリーニングに出してから返すのが、礼儀だと思う。
しかし明日、悠人が勇誠学園に行く。
この機会を、逃すわけにはいかなかった。
アイロンのスチームを当て、悠里は少しずつ、当て布をしたジャケットの皺を伸ばしていく。
怖くて、悲しくて、苦しくて堪らなかった夜。
このジャケットを抱き、ときには身に纏って。
何とか悪夢から自分を守った。
彼の温もりと匂いが感じられて、救われた。
怖い夢と記憶に囚われぬよう、悠里の身体を包み込んでくれた。
大きくて、暖かい、彼のジャケット――
アイロンをかけ終わり、綺麗になったジャケットを、手のひらで撫でる。
何度も何度も。その感覚を、心に刻みつけるように。
ああ、アイロンをかけてしまう前に。
せめてもう一度、抱き締めれば良かった。
最後の我が儘で、もう一度、袖を通してしまえば良かった。
身を切られるほどの名残惜しさを堪えながら、悠里はジャケットのボタンを留める。
そうして、皺が寄らないように、丁寧に畳んでいった。
ちょうどいい大きさの紙袋を見つけ、中に入れる。
一緒にメッセージカードを入れようと、悠里は机に向かった。
机上の物入れには、シャーペンやボールペン、ハサミなどの、よく使う道具。
その中から、書きやすくて気に入っているペンを取り出したところで、はたと悠里の手が止まる。
――何を書けば、いいのだろう。
『ありがとうございました』?
『ごめんなさい』?
どちらも、今さらな言葉だ。
今さらそれを伝えたところで、一体、何の罪滅ぼしになるというのか。
むしろ、カードなんか入れない方がいいかも知れない。
そんな手段で、自分の痕跡を残そうとするなんて。
まるで彼の気持ちを、無理に惹きつけようとするようで。
悠里は独り、苦笑した。
「ずるいよね……」
だったらはじめから、彼のメッセージに、返事をすれば良かったのだ。
3日にわたって、彼の気持ちを無視して。
友だちへの事情説明も、悲しみも、全部、彼に背負わせて。
彩奈の、やるせない怒りの捌け口までも、彼ひとりに押し付けてしまった。
そんな狡くて汚い自分が、連絡を取ることなどできない。
今さら声を上げる勇気など、持てやしない……
自分への嫌悪の感情ばかりが、膨らんでいく。
悠里は首を横に振り、溜め息をついた。
重い腰を上げ、ジャケットを入れた紙袋を持つ。
そうして部屋を出て、隣りの弟の部屋に向かった。
「じゃあ、悠人。よろしくお願いします」
「うん、了解」
悠里は無理やりに作った微笑を浮かべ、弟に紙袋を差し出した。
悠人はもう何も言わず、優しい笑顔で受け取ってくれた。
「明日は、朝から勇誠学園に行くから、いつもより集合時間も早いんだ。だから姉ちゃんは、寝てていいからね?」
その方が、いいかも知れない。
心を取り繕うのも、もう疲れてしまった。
「……うん。ありがとね」
「じゃあ姉ちゃん、おやすみね」
「うん。おやすみ」
***
自室に戻った悠里は、へなへなとドアにもたれかかる。
ドアの冷たさを背に感じながら、悠里はその場に崩れ落ちた。
胸が、苦しい。うまく息が、吸い込めない。
入り口が、塞がれてしまったかのようだ。
悠里は、震える声で、独りごちる。
「もう……終わりなのかな」
ジャケットを、手放した。
残されていた唯一の、彼との繋がりを。
怖い夜から守ってくれた、彼のジャケットを。
彼の温もりと匂いを感じられる、御守りを。
強い孤独感、そして冷たい絶望が、悠里の全身を覆う。
カタカタと、手脚が震え始めた。
「怖いよ……」
素直な感情が、唇から零れ落ちる。
怖い。
悪夢を見る夜が。
彼と、離れ離れになることが。
これで、終わってしまうことが――
けれど、いつまでも彼のジャケットに、しがみついていい筈もない。
明日、悠人が勇誠学園に行くのも、何か、運命のようなものだろう。
悠里が、ジャケットを手放すための。
――諦めるための。
「これで、良かったんだ……」
自分に言い聞かせるために、悠里は口に出して呟いた。
悠里は、部屋の端にあるベッドに目を向ける。
眠らなくては。
今夜からはもう、悠里を包んで、守ってくれるジャケットは無い。
これからの現実に、慣れなくては。
あの温もりと匂いを、忘れなくては――
悠里は、暗い笑みを浮かべた。
「眠れるかな……」
その答えは、わかっていた。
自室に戻り、悠里は丁寧にジャケットの埃を落とし、アイロンをかけていく。
何度も抱き締め、着たまま眠ったジャケットには、細かな皺がたくさん付いていた。
本当は、クリーニングに出してから返すのが、礼儀だと思う。
しかし明日、悠人が勇誠学園に行く。
この機会を、逃すわけにはいかなかった。
アイロンのスチームを当て、悠里は少しずつ、当て布をしたジャケットの皺を伸ばしていく。
怖くて、悲しくて、苦しくて堪らなかった夜。
このジャケットを抱き、ときには身に纏って。
何とか悪夢から自分を守った。
彼の温もりと匂いが感じられて、救われた。
怖い夢と記憶に囚われぬよう、悠里の身体を包み込んでくれた。
大きくて、暖かい、彼のジャケット――
アイロンをかけ終わり、綺麗になったジャケットを、手のひらで撫でる。
何度も何度も。その感覚を、心に刻みつけるように。
ああ、アイロンをかけてしまう前に。
せめてもう一度、抱き締めれば良かった。
最後の我が儘で、もう一度、袖を通してしまえば良かった。
身を切られるほどの名残惜しさを堪えながら、悠里はジャケットのボタンを留める。
そうして、皺が寄らないように、丁寧に畳んでいった。
ちょうどいい大きさの紙袋を見つけ、中に入れる。
一緒にメッセージカードを入れようと、悠里は机に向かった。
机上の物入れには、シャーペンやボールペン、ハサミなどの、よく使う道具。
その中から、書きやすくて気に入っているペンを取り出したところで、はたと悠里の手が止まる。
――何を書けば、いいのだろう。
『ありがとうございました』?
『ごめんなさい』?
どちらも、今さらな言葉だ。
今さらそれを伝えたところで、一体、何の罪滅ぼしになるというのか。
むしろ、カードなんか入れない方がいいかも知れない。
そんな手段で、自分の痕跡を残そうとするなんて。
まるで彼の気持ちを、無理に惹きつけようとするようで。
悠里は独り、苦笑した。
「ずるいよね……」
だったらはじめから、彼のメッセージに、返事をすれば良かったのだ。
3日にわたって、彼の気持ちを無視して。
友だちへの事情説明も、悲しみも、全部、彼に背負わせて。
彩奈の、やるせない怒りの捌け口までも、彼ひとりに押し付けてしまった。
そんな狡くて汚い自分が、連絡を取ることなどできない。
今さら声を上げる勇気など、持てやしない……
自分への嫌悪の感情ばかりが、膨らんでいく。
悠里は首を横に振り、溜め息をついた。
重い腰を上げ、ジャケットを入れた紙袋を持つ。
そうして部屋を出て、隣りの弟の部屋に向かった。
「じゃあ、悠人。よろしくお願いします」
「うん、了解」
悠里は無理やりに作った微笑を浮かべ、弟に紙袋を差し出した。
悠人はもう何も言わず、優しい笑顔で受け取ってくれた。
「明日は、朝から勇誠学園に行くから、いつもより集合時間も早いんだ。だから姉ちゃんは、寝てていいからね?」
その方が、いいかも知れない。
心を取り繕うのも、もう疲れてしまった。
「……うん。ありがとね」
「じゃあ姉ちゃん、おやすみね」
「うん。おやすみ」
***
自室に戻った悠里は、へなへなとドアにもたれかかる。
ドアの冷たさを背に感じながら、悠里はその場に崩れ落ちた。
胸が、苦しい。うまく息が、吸い込めない。
入り口が、塞がれてしまったかのようだ。
悠里は、震える声で、独りごちる。
「もう……終わりなのかな」
ジャケットを、手放した。
残されていた唯一の、彼との繋がりを。
怖い夜から守ってくれた、彼のジャケットを。
彼の温もりと匂いを感じられる、御守りを。
強い孤独感、そして冷たい絶望が、悠里の全身を覆う。
カタカタと、手脚が震え始めた。
「怖いよ……」
素直な感情が、唇から零れ落ちる。
怖い。
悪夢を見る夜が。
彼と、離れ離れになることが。
これで、終わってしまうことが――
けれど、いつまでも彼のジャケットに、しがみついていい筈もない。
明日、悠人が勇誠学園に行くのも、何か、運命のようなものだろう。
悠里が、ジャケットを手放すための。
――諦めるための。
「これで、良かったんだ……」
自分に言い聞かせるために、悠里は口に出して呟いた。
悠里は、部屋の端にあるベッドに目を向ける。
眠らなくては。
今夜からはもう、悠里を包んで、守ってくれるジャケットは無い。
これからの現実に、慣れなくては。
あの温もりと匂いを、忘れなくては――
悠里は、暗い笑みを浮かべた。
「眠れるかな……」
その答えは、わかっていた。
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