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piece7 早く元気に。
悠人のお粥
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剛士と親友たちが会って、話をしていることなど、知る由もない――
気怠い眠りに身を任せていた悠里は、ふっと目を開けた。
締め切ったカーテンから、薄っすらと差し込むのは、夕暮れの青紫。
……ああ、眠れたんだ。
悠里は、ぼんやりと思う。
夢を見ずに、ゆっくりと眠れたのは、このことがあってから初めてだ。
下腹部が、くぅ、と鳴き、頼りなく存在を示す。
「お腹、空いちゃったな……」
何か、食べたい。食べた方がいいだろう。
けれどまた、猛烈な吐き気に襲われたら。
また、あんな苦しい思いをすることになってしまったら。
そう思うと怖くて、悠里はキッチンに降りていく勇気が持てなかった。
せめて、水分だけでも摂ろうと、サイドテーブルにあったスポーツドリンクに手を伸ばそうとしたときだった。
コンコン、と小さなノックが聞こえた。
「……姉ちゃん、起きてる?」
「あ……うん」
弟の声に、悠里は半身を起こしながら答えた。
カチャリ、とやや遠慮がちにドアが開き、悠人が顔を覗かせた。
悠里を見た弟が、ホッと表情を和らげる。
「良かった。眠れたみたいだね」
彼から見ても、悠里の顔色や表情が良くなっていたのだろう。
「具合、どう?」
「あ、うん。だいぶ良くなったよ」
「そっか」
悠人が、照れ混じりの笑みを浮かべ、問う。
「姉ちゃん、お腹空いてない?」
「あ……うん、ちょっと」
「そっか、じゃあ……」
悠人が部屋に入って来た。
その手には、小型の鍋と茶碗の乗った盆。
鍋の蓋からは、温かそうな湯気と、ほんのり良い香りが漂ってきた。
「これ。食べてよ」
悠人は、サイドテーブルに盆を置き、蓋を開けた。
悠里は、目を丸くする。
「……悠人が、作ってくれたの?」
「あ、うん」
鍋に入っていたのは、お粥だった。
卵とネギが散らされていて、とても美味しそうだ。
悠里は、じっと、ほかほかと優しい湯気を立てる鍋の中を見つめた。
日頃、料理なんてしないのに。
弟が自分のために、作ってくれた。
胸が暖かくなり、じわりと泣きそうになってしまう。
「ちょ。そんな見ないでよ。変なもんは入れてないよ?」
恥ずかしくなってしまったのか、悠人が急かすように言った。
思わず、悠里は吹き出す。
「ふふっ。悠人がお粥作れるなんて、初めて知った」
「こんなもん、ちょっとレシピ調べりゃできるでしょ」
悠里は、パチパチと瞬きをして涙を押し込むと、弟に笑いかけた。
「ありがとう悠人。ホントは、すごいお腹空いてたの」
「はは、じゃ早く食べな?」
悠人も、緊張の解けた優しい笑みを浮かべる。
「じゃあ、ありがたく」
悠里は、いそいそと茶碗を手に取り、お粥をよそう。
鍋の隣には梅干しまで添えてあり、弟のきめ細やかな心遣いが感じ取れる。
悠里はもう一度、ベッドの脇に立つ悠人に笑いかけ、手を合わせた。
「いただきます」
ひと匙すくって、頬張る。
「あつっ……」
「ちょ、大丈夫?」
「うん……ふふっ」
熱くて、優しい、悠人のお粥。
少しずつ食べるうちに、力を分けて貰える心地がする。
「ふふ……おいしい」
「ホント? うまい?」
「ちょっと、しょっぱい」
「どっちよ!」
だし入れ過ぎたかなあ、と首を捻る悠人を見て、悠里はまた笑ってしまう。
姉が、あまりにも楽しそうに笑うので、悠人も笑顔になった。
彼は、悠里の机の椅子に座り、微笑ましく姉を見守る。
「ま、ゆっくり食べな?」
「うん!」
それから2人は、取り留めのない話をして笑い、ひと時の穏やかな空気を共有した。
日頃はプライバシーの尊重のために、互いの部屋に入ることは、ほとんど無い。
話すときは、リビングのソファか、ダイニングテーブルを囲むのが普通だった。
それだけ弟が自分のことを心配して、傍に来てくれたんだなあ、と悠里は胸がいっぱいになる。
家族の温もりを肌で感じると、しっかりしなきゃと、心に力が湧いてきた。
――忘れよう。
そう思った。
起こってしまったことは、もう、仕方がない。
考えていても、囚われていても、どうにもできないのだ。
時間は、戻せない。
忘れてしまえばいい、あの日のことなんて。
――何も、何も無かった。
私は、大丈夫。
何ともない。
心にしっかり、蓋をする。
これ以上、弟に、家族に心配をかけないように。
悠里は、茶碗にお粥のおかわりをよそう。
「お、食欲出てきた?」
嬉しそうな弟に向かい、悠里は微笑んだ。
「悠人が作ってくれたんだもん。全部食べる」
「ちょ、ムリしないでよ?」
「あはは、うん!」
少し照れつつも笑ってくれる弟に、悠里は大きく頷いた。
***
食後に熱を測ってみると、もう微熱程度にまで下がってきていた。
「姉ちゃんって基本、丈夫だよね。熱出すのも、1年に一回あるかないかだし、出ても大体1日で下がっちゃうもんね」
悠人が、笑いながら揶揄ってくる。
「ふふ、そうだよ? 姉ちゃんは強いんだから」
悠里は、明るく元気に答えてみせる。
悠人がまた笑い、食べ終わった食器と鍋を乗せた盆を持ち、立ち上がる。
「じゃあ、ゆっくり寝なよ」
当然のごとく言い聞かせてくる弟に、悠里は少し躊躇いがちに答える。
「……あ、あの。シャワー、浴びたいな」
「ええ~? まだ熱あるんだし、やめとけば?昨日、ちゃんと洗ってんでしょ?」
「んー、汗かいちゃったし。気持ち悪いの……」
何度洗っても洗っても、内側から汚れが滲み出てくるような。
こびりついた汚れが、落ち切っていないような。
不安と強迫観念が、悠里の心に巣食っていた。
悠里は、上目遣いに弟を窺う。
悠人は、困ったように姉の瞳を見つめると、はぁーっと溜め息をついた。
「しょうがないなあ。オレ、風呂沸かしてくるよ」
「え? いいよ、シャワーで」
「ダメでしょ。また風邪ぶり返すよ」
悠人が、盆を片手にドアへと向かう。
「風呂沸いたら呼びにきてあげるから。待ってな?」
「うん……ありがとう、悠人」
今日はお世話になりっぱなしだなあ、と悠里は苦笑する。
熱が下がったら、悠人の好きなものをたくさん作ってあげたい。
そのためにも、早く元気になろうと悠里は決意を新たにした。
気怠い眠りに身を任せていた悠里は、ふっと目を開けた。
締め切ったカーテンから、薄っすらと差し込むのは、夕暮れの青紫。
……ああ、眠れたんだ。
悠里は、ぼんやりと思う。
夢を見ずに、ゆっくりと眠れたのは、このことがあってから初めてだ。
下腹部が、くぅ、と鳴き、頼りなく存在を示す。
「お腹、空いちゃったな……」
何か、食べたい。食べた方がいいだろう。
けれどまた、猛烈な吐き気に襲われたら。
また、あんな苦しい思いをすることになってしまったら。
そう思うと怖くて、悠里はキッチンに降りていく勇気が持てなかった。
せめて、水分だけでも摂ろうと、サイドテーブルにあったスポーツドリンクに手を伸ばそうとしたときだった。
コンコン、と小さなノックが聞こえた。
「……姉ちゃん、起きてる?」
「あ……うん」
弟の声に、悠里は半身を起こしながら答えた。
カチャリ、とやや遠慮がちにドアが開き、悠人が顔を覗かせた。
悠里を見た弟が、ホッと表情を和らげる。
「良かった。眠れたみたいだね」
彼から見ても、悠里の顔色や表情が良くなっていたのだろう。
「具合、どう?」
「あ、うん。だいぶ良くなったよ」
「そっか」
悠人が、照れ混じりの笑みを浮かべ、問う。
「姉ちゃん、お腹空いてない?」
「あ……うん、ちょっと」
「そっか、じゃあ……」
悠人が部屋に入って来た。
その手には、小型の鍋と茶碗の乗った盆。
鍋の蓋からは、温かそうな湯気と、ほんのり良い香りが漂ってきた。
「これ。食べてよ」
悠人は、サイドテーブルに盆を置き、蓋を開けた。
悠里は、目を丸くする。
「……悠人が、作ってくれたの?」
「あ、うん」
鍋に入っていたのは、お粥だった。
卵とネギが散らされていて、とても美味しそうだ。
悠里は、じっと、ほかほかと優しい湯気を立てる鍋の中を見つめた。
日頃、料理なんてしないのに。
弟が自分のために、作ってくれた。
胸が暖かくなり、じわりと泣きそうになってしまう。
「ちょ。そんな見ないでよ。変なもんは入れてないよ?」
恥ずかしくなってしまったのか、悠人が急かすように言った。
思わず、悠里は吹き出す。
「ふふっ。悠人がお粥作れるなんて、初めて知った」
「こんなもん、ちょっとレシピ調べりゃできるでしょ」
悠里は、パチパチと瞬きをして涙を押し込むと、弟に笑いかけた。
「ありがとう悠人。ホントは、すごいお腹空いてたの」
「はは、じゃ早く食べな?」
悠人も、緊張の解けた優しい笑みを浮かべる。
「じゃあ、ありがたく」
悠里は、いそいそと茶碗を手に取り、お粥をよそう。
鍋の隣には梅干しまで添えてあり、弟のきめ細やかな心遣いが感じ取れる。
悠里はもう一度、ベッドの脇に立つ悠人に笑いかけ、手を合わせた。
「いただきます」
ひと匙すくって、頬張る。
「あつっ……」
「ちょ、大丈夫?」
「うん……ふふっ」
熱くて、優しい、悠人のお粥。
少しずつ食べるうちに、力を分けて貰える心地がする。
「ふふ……おいしい」
「ホント? うまい?」
「ちょっと、しょっぱい」
「どっちよ!」
だし入れ過ぎたかなあ、と首を捻る悠人を見て、悠里はまた笑ってしまう。
姉が、あまりにも楽しそうに笑うので、悠人も笑顔になった。
彼は、悠里の机の椅子に座り、微笑ましく姉を見守る。
「ま、ゆっくり食べな?」
「うん!」
それから2人は、取り留めのない話をして笑い、ひと時の穏やかな空気を共有した。
日頃はプライバシーの尊重のために、互いの部屋に入ることは、ほとんど無い。
話すときは、リビングのソファか、ダイニングテーブルを囲むのが普通だった。
それだけ弟が自分のことを心配して、傍に来てくれたんだなあ、と悠里は胸がいっぱいになる。
家族の温もりを肌で感じると、しっかりしなきゃと、心に力が湧いてきた。
――忘れよう。
そう思った。
起こってしまったことは、もう、仕方がない。
考えていても、囚われていても、どうにもできないのだ。
時間は、戻せない。
忘れてしまえばいい、あの日のことなんて。
――何も、何も無かった。
私は、大丈夫。
何ともない。
心にしっかり、蓋をする。
これ以上、弟に、家族に心配をかけないように。
悠里は、茶碗にお粥のおかわりをよそう。
「お、食欲出てきた?」
嬉しそうな弟に向かい、悠里は微笑んだ。
「悠人が作ってくれたんだもん。全部食べる」
「ちょ、ムリしないでよ?」
「あはは、うん!」
少し照れつつも笑ってくれる弟に、悠里は大きく頷いた。
***
食後に熱を測ってみると、もう微熱程度にまで下がってきていた。
「姉ちゃんって基本、丈夫だよね。熱出すのも、1年に一回あるかないかだし、出ても大体1日で下がっちゃうもんね」
悠人が、笑いながら揶揄ってくる。
「ふふ、そうだよ? 姉ちゃんは強いんだから」
悠里は、明るく元気に答えてみせる。
悠人がまた笑い、食べ終わった食器と鍋を乗せた盆を持ち、立ち上がる。
「じゃあ、ゆっくり寝なよ」
当然のごとく言い聞かせてくる弟に、悠里は少し躊躇いがちに答える。
「……あ、あの。シャワー、浴びたいな」
「ええ~? まだ熱あるんだし、やめとけば?昨日、ちゃんと洗ってんでしょ?」
「んー、汗かいちゃったし。気持ち悪いの……」
何度洗っても洗っても、内側から汚れが滲み出てくるような。
こびりついた汚れが、落ち切っていないような。
不安と強迫観念が、悠里の心に巣食っていた。
悠里は、上目遣いに弟を窺う。
悠人は、困ったように姉の瞳を見つめると、はぁーっと溜め息をついた。
「しょうがないなあ。オレ、風呂沸かしてくるよ」
「え? いいよ、シャワーで」
「ダメでしょ。また風邪ぶり返すよ」
悠人が、盆を片手にドアへと向かう。
「風呂沸いたら呼びにきてあげるから。待ってな?」
「うん……ありがとう、悠人」
今日はお世話になりっぱなしだなあ、と悠里は苦笑する。
熱が下がったら、悠人の好きなものをたくさん作ってあげたい。
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