21 / 28
piece6 深い傷跡
予感めいた強い不安
しおりを挟む
「……ありがとうございます」
剛士は小さな声でお礼を言うと、高木に向かって頭を下げた。
「俺、何もできなくて……情けないです」
「はは、タクシーアプリか? こんなん、年の功なだけだよ」
剛士に負い目を感じさせたくなくて、高木は敢えて、軽い笑い声を立てる。
そうして彼の隣りに腰掛け、優しく肩を叩いた。
「……よく我慢したよ、お前」
カンナに向かっていく剛士を止めたときの、激しい怒りと力を思い返し、高木は彼の悔しさ、やるせなさを慮る。
剛士は、悲しい声で呟いた。
「……殴れなかった」
「……うん」
「殴りたかった……」
「うん……」
「高木さんみたいに、好きな子を傷つけた奴を、せめて自分の手で、ぶん殴りたかった」
「……バッカだなあ、お前」
高木は手を伸ばし、俯く剛士の髪をグシャグシャと撫でた。
「殴るより我慢する方が、よっぽど強いんだよ」
自分の方が、剛士より上背があり、体格も良い。
それでも、全力で彼を羽交締めにしなければ、止められなかった。
あれだけの衝動を、ギリギリの状態ではあったが、剛士は抑えた。
それこそ彼の優しさであり、強さだと、高木は思った。
「……お前、あの子の泣き声が聴こえたから、殴らなかったんだろ? あの子のこと、怖がらせたくなかったんだろ?」
自分の衝動よりも、好きな子の気持ちを思い遣る。
好きな子を守るために、どんなに自分が辛くとも、欲求を制御する。
剛士は優しくて――強い男だ。
高木は優しく、力強く剛士の肩を叩き、彼の理性を讃えた。
「お前は、自分の怒りをぶち撒けることより、彼女の気持ちを守ることを選んだんだ。……すげぇよ、お前は」
剛士は、力なく首を左右に振り、うな垂れる。
「……でも、怖がってた」
腿の上で固く組まれた剛士の手が震えていることに気がつき、高木は言葉を失う。
剛士の胸に焼き付いてしまった、痛々しい悠里の姿。
脅えて、泣いて、それでも自分を守ろうと必死に抗う、小さな身体。
力を振り絞って、剛士の手を振り払い、睨みつけた。
悲しい、悲しい、大きな瞳――
『いやっいや! 怖い! 怖いよぉっ』
『いやああっやめてっ……もう、いや……やめ、て……っ』
悠里の悲痛な叫び声が、頭の中で反響する。
呼吸が乱れ、涙を零しながら苦しげに喘ぐ彼女の顔が、瞼に浮かぶ。
何度も何度も繰り返し、剛士の胸に突き刺さる――
「俺……」
剛士は、掠れた声で呟いた。
「悠里を怖がらせた……」
「バ、バカ、何言ってんだよ。あれは……混乱してたんだよ。お前を、怖がったわけじゃないって!」
大切な女の子の、心と身体を無惨に踏み躙られ、悲しみに沈む彼の心。
高木は、必死に引っ張り上げようとする。
「あの子だって、落ち着けばきっと、大丈夫だから……な?」
高木の言う通りではある。
カンナと、ユタカたち3人に、取り囲まれて。
たったひとりで、逃げる場も、なす術もなく。
暴力と恐怖に晒された彼女が、普段と同じ思考でいられるはずがない。
背中に触れたのが剛士だと、悠里は認識できていなかったのかも知れない。
恐怖に塗り潰された彼女の心は、降りかかる全ての感覚が、自分を傷つけるものだとしか、捉えられなかっただろう。
無理もない。
それだけの絶望を、悠里はあの部屋で感じさせられたのだ。
悠里を、助けなくては。
深い傷を負った彼女の心を、何とか支えなくては。
何とかしなくては。
自分が、しっかりしなくては……
そう思えば思うほど、剛士の思考は纏まらない。
ただただ、脳裏に焼き付いた悠里の痛々しい姿が、鮮烈に蘇る。
自分に向かい、『いや』、『やめて』、『怖い』と、泣き叫んだ悠里の悲しい声が、頭に響き渡る。
苦しさに耐えかねて、剛士は再び、額を手で覆った。
「……剛士」
高木は、小さな声で問いかけた。
「明日の昼過ぎさ。俺たち、会う予定だったけど。お前、午前中は?」
「……部活です」
そう。本当なら明日、部活の朝練習を済ませた後、エリカと高木に会うはずだった。
2人と会って、昔のことを話して、許して、笑い合って。
そうして、夕方には悠里に会いに行き、気持ちを通じ合わせるはずだった。
悠里に、好きだと。俺と付き合って欲しいと。
やっと、言えるはずだった。
それが、どうしていま、こんなことになっているんだろう――
剛士は、ぼんやりと思った。
高木は、彼の様子を気遣いながら言う。
「……お前、明日の部活は、休んだ方がいいんじゃないか?」
剛士は一瞬の沈黙の後、かぶりを振った。
「いえ。行きます」
行かなければ。
今回の一件に、部員が関わっていたのだ。
恐らくあの3人以外に、カンナに加担した人間はいないだろう。
しかし、話がどこから漏れるかわからない。
噂話というのは本当に、どこからともなく沸いてくるのだ。
キャプテンである自分が、普段と違う行動や態度を見せれば、その危険が高くなる。
自分はとにかく、表向きはいつも通りに。
やるべきことを、遂行していなければ。
万に一つも、悠里が好奇の目や誹謗中傷に、晒されることがないように。
これ以上、悠里を傷つけないように……
「剛士……」
「……大丈夫です」
剛士は、低い声で応じた。
「今日は、力を貸してくれて……ありがとうございました」
高木は真剣な目で、彼の腕を掴んだ。
「……剛士。明日も、予定通り会おう。な?」
剛士は、硬い表情で眉を顰めた。
しかし、切れ長の瞳が悲痛に揺れているのを、高木は見逃さなかった。
『今日は、ありがとうございました』
明日以降に繋がらないように、『過去形』で礼を述べた剛士。
彼は、高木とエリカを、これ以上巻き込むまいと考えている。
そうしてひとりで、この痛みに耐え、立ち向かおうとしている。
剛士は、そういう男だ。しかし。
高木は、剛士から目を逸らさなかった。
「お前ひとりで背負うな。ひとりで、戦おうとすんな。俺たちにお前のこと、支えさせてくれよ。……今度こそ」
高木とエリカが罪を犯したあのとき。
剛士ひとりに、バスケ部への贖罪をさせてしまった。
剛士ひとりで、戦わせてしまった。
今更、その償いができるわけもない。
が、それでもいま、傷ついた剛士を孤独にしたくなかった。
高木は、優しく彼の腕に触れたまま、言い募った。
「みんなで、考えよう。お前の大事なあの子と、お前のために。俺たちにできること、何でもするから」
何とか剛士に寄り添おうとする高木の言葉は、彼の心を幾分、慰めてはくれた。
けれど剛士のなかでは、予感めいた強い不安が、頭をもたげ始めていた。
自分はもう、悠里の傍にいられなくなってしまうかも知れない。
このまま悠里を、失うかも知れない――
振り払っても振り払っても、胸の奥から湧き出てくる強い懸念。
それは殆ど、恐怖にも似た感情だった。
剛士は小さな声でお礼を言うと、高木に向かって頭を下げた。
「俺、何もできなくて……情けないです」
「はは、タクシーアプリか? こんなん、年の功なだけだよ」
剛士に負い目を感じさせたくなくて、高木は敢えて、軽い笑い声を立てる。
そうして彼の隣りに腰掛け、優しく肩を叩いた。
「……よく我慢したよ、お前」
カンナに向かっていく剛士を止めたときの、激しい怒りと力を思い返し、高木は彼の悔しさ、やるせなさを慮る。
剛士は、悲しい声で呟いた。
「……殴れなかった」
「……うん」
「殴りたかった……」
「うん……」
「高木さんみたいに、好きな子を傷つけた奴を、せめて自分の手で、ぶん殴りたかった」
「……バッカだなあ、お前」
高木は手を伸ばし、俯く剛士の髪をグシャグシャと撫でた。
「殴るより我慢する方が、よっぽど強いんだよ」
自分の方が、剛士より上背があり、体格も良い。
それでも、全力で彼を羽交締めにしなければ、止められなかった。
あれだけの衝動を、ギリギリの状態ではあったが、剛士は抑えた。
それこそ彼の優しさであり、強さだと、高木は思った。
「……お前、あの子の泣き声が聴こえたから、殴らなかったんだろ? あの子のこと、怖がらせたくなかったんだろ?」
自分の衝動よりも、好きな子の気持ちを思い遣る。
好きな子を守るために、どんなに自分が辛くとも、欲求を制御する。
剛士は優しくて――強い男だ。
高木は優しく、力強く剛士の肩を叩き、彼の理性を讃えた。
「お前は、自分の怒りをぶち撒けることより、彼女の気持ちを守ることを選んだんだ。……すげぇよ、お前は」
剛士は、力なく首を左右に振り、うな垂れる。
「……でも、怖がってた」
腿の上で固く組まれた剛士の手が震えていることに気がつき、高木は言葉を失う。
剛士の胸に焼き付いてしまった、痛々しい悠里の姿。
脅えて、泣いて、それでも自分を守ろうと必死に抗う、小さな身体。
力を振り絞って、剛士の手を振り払い、睨みつけた。
悲しい、悲しい、大きな瞳――
『いやっいや! 怖い! 怖いよぉっ』
『いやああっやめてっ……もう、いや……やめ、て……っ』
悠里の悲痛な叫び声が、頭の中で反響する。
呼吸が乱れ、涙を零しながら苦しげに喘ぐ彼女の顔が、瞼に浮かぶ。
何度も何度も繰り返し、剛士の胸に突き刺さる――
「俺……」
剛士は、掠れた声で呟いた。
「悠里を怖がらせた……」
「バ、バカ、何言ってんだよ。あれは……混乱してたんだよ。お前を、怖がったわけじゃないって!」
大切な女の子の、心と身体を無惨に踏み躙られ、悲しみに沈む彼の心。
高木は、必死に引っ張り上げようとする。
「あの子だって、落ち着けばきっと、大丈夫だから……な?」
高木の言う通りではある。
カンナと、ユタカたち3人に、取り囲まれて。
たったひとりで、逃げる場も、なす術もなく。
暴力と恐怖に晒された彼女が、普段と同じ思考でいられるはずがない。
背中に触れたのが剛士だと、悠里は認識できていなかったのかも知れない。
恐怖に塗り潰された彼女の心は、降りかかる全ての感覚が、自分を傷つけるものだとしか、捉えられなかっただろう。
無理もない。
それだけの絶望を、悠里はあの部屋で感じさせられたのだ。
悠里を、助けなくては。
深い傷を負った彼女の心を、何とか支えなくては。
何とかしなくては。
自分が、しっかりしなくては……
そう思えば思うほど、剛士の思考は纏まらない。
ただただ、脳裏に焼き付いた悠里の痛々しい姿が、鮮烈に蘇る。
自分に向かい、『いや』、『やめて』、『怖い』と、泣き叫んだ悠里の悲しい声が、頭に響き渡る。
苦しさに耐えかねて、剛士は再び、額を手で覆った。
「……剛士」
高木は、小さな声で問いかけた。
「明日の昼過ぎさ。俺たち、会う予定だったけど。お前、午前中は?」
「……部活です」
そう。本当なら明日、部活の朝練習を済ませた後、エリカと高木に会うはずだった。
2人と会って、昔のことを話して、許して、笑い合って。
そうして、夕方には悠里に会いに行き、気持ちを通じ合わせるはずだった。
悠里に、好きだと。俺と付き合って欲しいと。
やっと、言えるはずだった。
それが、どうしていま、こんなことになっているんだろう――
剛士は、ぼんやりと思った。
高木は、彼の様子を気遣いながら言う。
「……お前、明日の部活は、休んだ方がいいんじゃないか?」
剛士は一瞬の沈黙の後、かぶりを振った。
「いえ。行きます」
行かなければ。
今回の一件に、部員が関わっていたのだ。
恐らくあの3人以外に、カンナに加担した人間はいないだろう。
しかし、話がどこから漏れるかわからない。
噂話というのは本当に、どこからともなく沸いてくるのだ。
キャプテンである自分が、普段と違う行動や態度を見せれば、その危険が高くなる。
自分はとにかく、表向きはいつも通りに。
やるべきことを、遂行していなければ。
万に一つも、悠里が好奇の目や誹謗中傷に、晒されることがないように。
これ以上、悠里を傷つけないように……
「剛士……」
「……大丈夫です」
剛士は、低い声で応じた。
「今日は、力を貸してくれて……ありがとうございました」
高木は真剣な目で、彼の腕を掴んだ。
「……剛士。明日も、予定通り会おう。な?」
剛士は、硬い表情で眉を顰めた。
しかし、切れ長の瞳が悲痛に揺れているのを、高木は見逃さなかった。
『今日は、ありがとうございました』
明日以降に繋がらないように、『過去形』で礼を述べた剛士。
彼は、高木とエリカを、これ以上巻き込むまいと考えている。
そうしてひとりで、この痛みに耐え、立ち向かおうとしている。
剛士は、そういう男だ。しかし。
高木は、剛士から目を逸らさなかった。
「お前ひとりで背負うな。ひとりで、戦おうとすんな。俺たちにお前のこと、支えさせてくれよ。……今度こそ」
高木とエリカが罪を犯したあのとき。
剛士ひとりに、バスケ部への贖罪をさせてしまった。
剛士ひとりで、戦わせてしまった。
今更、その償いができるわけもない。
が、それでもいま、傷ついた剛士を孤独にしたくなかった。
高木は、優しく彼の腕に触れたまま、言い募った。
「みんなで、考えよう。お前の大事なあの子と、お前のために。俺たちにできること、何でもするから」
何とか剛士に寄り添おうとする高木の言葉は、彼の心を幾分、慰めてはくれた。
けれど剛士のなかでは、予感めいた強い不安が、頭をもたげ始めていた。
自分はもう、悠里の傍にいられなくなってしまうかも知れない。
このまま悠里を、失うかも知れない――
振り払っても振り払っても、胸の奥から湧き出てくる強い懸念。
それは殆ど、恐怖にも似た感情だった。
1
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
#秒恋7 それぞれの翌日――壊れた日常を取り戻すために
ReN
恋愛
#秒恋7 それぞれの翌日――壊れた日常を取り戻すために
悠里と剛士を襲った悲しい大事件の翌日と翌々日を描いた今作。
それぞれの家族や、剛士の部活、そして2人の親友を巻き込み、悲しみが膨れ上がっていきます。
壊れてしまった幸せな日常を、傷つき閉ざされてしまった悠里の心を、剛士は取り戻すことはできるのでしょうか。
過去に登場した悠里の弟や、これまで登場したことのなかった剛士の家族。
そして、剛士のバスケ部のメンバー。
何より、親友の彩奈と拓真。
周りの人々に助けられながら、壊れた日常を取り戻そうと足掻いていきます。
やはりあの日の大事件のショックは大きくて、簡単にハッピーエンドとはいかないようです……
それでも、2人がもう一度、手を取り合って、抱き合って。
心から笑い合える未来を掴むために、剛士くんも悠里ちゃんもがんばっていきます。
心の傷。トラウマ。
少しずつ、乗り越えていきます。
ぜひ見守ってあげてください!
保健室の秘密...
とんすけ
大衆娯楽
僕のクラスには、保健室に登校している「吉田さん」という女の子がいた。
吉田さんは目が大きくてとても可愛らしく、いつも艶々な髪をなびかせていた。
吉田さんはクラスにあまりなじめておらず、朝のHRが終わると帰りの時間まで保健室で過ごしていた。
僕は吉田さんと話したことはなかったけれど、大人っぽさと綺麗な容姿を持つ吉田さんに密かに惹かれていた。
そんな吉田さんには、ある噂があった。
「授業中に保健室に行けば、性処理をしてくれる子がいる」
それが吉田さんだと、男子の間で噂になっていた。
鬼上官と、深夜のオフィス
99
恋愛
「このままでは女としての潤いがないまま、生涯を終えてしまうのではないか。」
間もなく30歳となる私は、そんな焦燥感に駆られて婚活アプリを使ってデートの約束を取り付けた。
けれどある日の残業中、アプリを操作しているところを会社の同僚の「鬼上官」こと佐久間君に見られてしまい……?
「婚活アプリで相手を探すくらいだったら、俺を相手にすりゃいい話じゃないですか。」
鬼上官な同僚に翻弄される、深夜のオフィスでの出来事。
※性的な事柄をモチーフとしていますが
その描写は薄いです。
Promise Ring
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
浅井夕海、OL。
下請け会社の社長、多賀谷さんを社長室に案内する際、ふたりっきりのエレベーターで突然、うなじにキスされました。
若くして独立し、業績も上々。
しかも独身でイケメン、そんな多賀谷社長が地味で無表情な私なんか相手にするはずなくて。
なのに次きたとき、やっぱりふたりっきりのエレベーターで……。
男性向け(女声)シチュエーションボイス台本
しましまのしっぽ
恋愛
男性向け(女声)シチュエーションボイス台本です。
関西弁彼女の台本を標準語に変えたものもあります。ご了承ください
ご自由にお使いください。
イラストはノーコピーライトガールさんからお借りしました
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる