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piece6 深い傷跡

予感めいた強い不安

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「……ありがとうございます」
剛士は小さな声でお礼を言うと、高木に向かって頭を下げた。
「俺、何もできなくて……情けないです」
「はは、タクシーアプリか? こんなん、年の功なだけだよ」

剛士に負い目を感じさせたくなくて、高木は敢えて、軽い笑い声を立てる。
そうして彼の隣りに腰掛け、優しく肩を叩いた。

「……よく我慢したよ、お前」
カンナに向かっていく剛士を止めたときの、激しい怒りと力を思い返し、高木は彼の悔しさ、やるせなさを慮る。


剛士は、悲しい声で呟いた。
「……殴れなかった」
「……うん」
「殴りたかった……」
「うん……」
「高木さんみたいに、好きな子を傷つけた奴を、せめて自分の手で、ぶん殴りたかった」

「……バッカだなあ、お前」
高木は手を伸ばし、俯く剛士の髪をグシャグシャと撫でた。
「殴るより我慢する方が、よっぽど強いんだよ」

自分の方が、剛士より上背があり、体格も良い。
それでも、全力で彼を羽交締めにしなければ、止められなかった。
あれだけの衝動を、ギリギリの状態ではあったが、剛士は抑えた。
それこそ彼の優しさであり、強さだと、高木は思った。


「……お前、あの子の泣き声が聴こえたから、殴らなかったんだろ? あの子のこと、怖がらせたくなかったんだろ?」

自分の衝動よりも、好きな子の気持ちを思い遣る。
好きな子を守るために、どんなに自分が辛くとも、欲求を制御する。
剛士は優しくて――強い男だ。

高木は優しく、力強く剛士の肩を叩き、彼の理性を讃えた。
「お前は、自分の怒りをぶち撒けることより、彼女の気持ちを守ることを選んだんだ。……すげぇよ、お前は」


剛士は、力なく首を左右に振り、うな垂れる。
「……でも、怖がってた」

腿の上で固く組まれた剛士の手が震えていることに気がつき、高木は言葉を失う。


剛士の胸に焼き付いてしまった、痛々しい悠里の姿。
脅えて、泣いて、それでも自分を守ろうと必死に抗う、小さな身体。
力を振り絞って、剛士の手を振り払い、睨みつけた。
悲しい、悲しい、大きな瞳――


『いやっいや! 怖い! 怖いよぉっ』

『いやああっやめてっ……もう、いや……やめ、て……っ』


悠里の悲痛な叫び声が、頭の中で反響する。
呼吸が乱れ、涙を零しながら苦しげに喘ぐ彼女の顔が、瞼に浮かぶ。
何度も何度も繰り返し、剛士の胸に突き刺さる――


「俺……」
剛士は、掠れた声で呟いた。
「悠里を怖がらせた……」

「バ、バカ、何言ってんだよ。あれは……混乱してたんだよ。お前を、怖がったわけじゃないって!」

大切な女の子の、心と身体を無惨に踏み躙られ、悲しみに沈む彼の心。
高木は、必死に引っ張り上げようとする。
「あの子だって、落ち着けばきっと、大丈夫だから……な?」


高木の言う通りではある。
カンナと、ユタカたち3人に、取り囲まれて。
たったひとりで、逃げる場も、なす術もなく。
暴力と恐怖に晒された彼女が、普段と同じ思考でいられるはずがない。

背中に触れたのが剛士だと、悠里は認識できていなかったのかも知れない。
恐怖に塗り潰された彼女の心は、降りかかる全ての感覚が、自分を傷つけるものだとしか、捉えられなかっただろう。

無理もない。
それだけの絶望を、悠里はあの部屋で感じさせられたのだ。


悠里を、助けなくては。
深い傷を負った彼女の心を、何とか支えなくては。
何とかしなくては。

自分が、しっかりしなくては……


そう思えば思うほど、剛士の思考は纏まらない。
ただただ、脳裏に焼き付いた悠里の痛々しい姿が、鮮烈に蘇る。

自分に向かい、『いや』、『やめて』、『怖い』と、泣き叫んだ悠里の悲しい声が、頭に響き渡る。
苦しさに耐えかねて、剛士は再び、額を手で覆った。


「……剛士」
高木は、小さな声で問いかけた。
「明日の昼過ぎさ。俺たち、会う予定だったけど。お前、午前中は?」
「……部活です」


そう。本当なら明日、部活の朝練習を済ませた後、エリカと高木に会うはずだった。
2人と会って、昔のことを話して、許して、笑い合って。
そうして、夕方には悠里に会いに行き、気持ちを通じ合わせるはずだった。
悠里に、好きだと。俺と付き合って欲しいと。
やっと、言えるはずだった。


それが、どうしていま、こんなことになっているんだろう――

剛士は、ぼんやりと思った。


高木は、彼の様子を気遣いながら言う。
「……お前、明日の部活は、休んだ方がいいんじゃないか?」
剛士は一瞬の沈黙の後、かぶりを振った。
「いえ。行きます」

行かなければ。
今回の一件に、部員が関わっていたのだ。
恐らくあの3人以外に、カンナに加担した人間はいないだろう。
しかし、話がどこから漏れるかわからない。
噂話というのは本当に、どこからともなく沸いてくるのだ。

キャプテンである自分が、普段と違う行動や態度を見せれば、その危険が高くなる。
自分はとにかく、表向きはいつも通りに。
やるべきことを、遂行していなければ。

万に一つも、悠里が好奇の目や誹謗中傷に、晒されることがないように。
これ以上、悠里を傷つけないように……


「剛士……」
「……大丈夫です」
剛士は、低い声で応じた。
「今日は、力を貸してくれて……ありがとうございました」


高木は真剣な目で、彼の腕を掴んだ。
「……剛士。明日も、予定通り会おう。な?」

剛士は、硬い表情で眉を顰めた。
しかし、切れ長の瞳が悲痛に揺れているのを、高木は見逃さなかった。


『今日は、ありがとうございました』

明日以降に繋がらないように、『過去形』で礼を述べた剛士。
彼は、高木とエリカを、これ以上巻き込むまいと考えている。
そうしてひとりで、この痛みに耐え、立ち向かおうとしている。

剛士は、そういう男だ。しかし。


高木は、剛士から目を逸らさなかった。
「お前ひとりで背負うな。ひとりで、戦おうとすんな。俺たちにお前のこと、支えさせてくれよ。……今度こそ」


高木とエリカが罪を犯したあのとき。
剛士ひとりに、バスケ部への贖罪をさせてしまった。
剛士ひとりで、戦わせてしまった。

今更、その償いができるわけもない。
が、それでもいま、傷ついた剛士を孤独にしたくなかった。

高木は、優しく彼の腕に触れたまま、言い募った。
「みんなで、考えよう。お前の大事なあの子と、お前のために。俺たちにできること、何でもするから」


何とか剛士に寄り添おうとする高木の言葉は、彼の心を幾分、慰めてはくれた。
けれど剛士のなかでは、予感めいた強い不安が、頭をもたげ始めていた。


自分はもう、悠里の傍にいられなくなってしまうかも知れない。

このまま悠里を、失うかも知れない――


振り払っても振り払っても、胸の奥から湧き出てくる強い懸念。
それは殆ど、恐怖にも似た感情だった。

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