上 下
12 / 12

最終話  空白の島と、ハザマダ ブンガクと、彼と私と。

しおりを挟む
 何度もカーブを曲がり、坂を上る。木々の影が不意に裂けた。光が白く、道の先から降り注いでいた。
 上り坂を抜け、山上を走る道路へと出たらしかった。その道の周辺は木々が途切れ、広く景色を見渡すことができた。切り立った谷、波のようになだらかな山すそ。その向こうに広がる、マッチ箱で作ったような町。

 空は青かった、海も。それらは遠く、同じ色をして溶け合っていた。おかげで、遠くの島は空に浮かんでいるようにさえ見えた。船もそうだった。雲が海に浮かんで見えることもあった。
 頭上を流れる雲は未だに不穏な色をしていたけれど、それは太陽の光を受けて、燃えるような金色に端から染まりつつあった。

 アクセルを緩める私に男がささやく。
「もう少し先へ、そう、もう少しだけ」

 景色に目をやりながらゆっくりと進む。と、景色ではなく、私の目を引くものがあった。
 辺りに木々の茂った急なカーブだった、ごく細い道だった。その道には黒く、急ブレーキをかけたようなタイヤの跡があった。辺りには細かく光る、ガラスの粒が散らばっていた。
 そして。カーブの内側、谷と言っていい斜面と道路を隔てる、細い手すりのようなガードレールは、根元から抜かれたような形で折れ曲がっていた。斜面に生えた草や細い木はどれも折れていた。その上を大きくて重い何かが滑り落ちていったように。

 私が何か考えるよりも早く男は言った。言ってくれた。
「事故だったのです、事故だったのですよ。無論貴女がいたとして、どうなるものでも一切なかった」
 思考が追いつくより早く、男は続けてくれた。その手の上にはなぜか、あの黒い本が開かれていた。
「免許を取ったのですよ、彼は。バイクのね、何度も不合格になっていましたが。どうにか受かった後、自分でバイクを買いましてね。練習に走り回っていたのですよ、島を。この辺りもね。……対向車でした、猛スピードの、見通しの利かない細道、どうしようもなく……ええ、もろとも。苦しまずに、彼は」

 私は車を停めていた。降りる。
 口が開いていた。体に力が入らなかった。へし折られたガードレールに近づくこともせず、ただ車の横で、その場所を見ていた。

 胸の中の言葉の渦は、ほどけかけて読み取れないまま、その動きを止めていた。目の前の光景に押し潰されたように。
 その塊からあぶくのように浮き上がった一つの言葉が、胸のあるべき場所へ、すとん、と収まった。

 死んだのだな、彼は。

 そう思った。悲しい、という言葉とは違っていた。

 目を閉じる。彼の姿が浮かぶ。子犬のように抱きついてくる彼。疲れて帰ったとき、部屋でご飯を作ってくれていた彼。私の肩に頭を預けて眠っていた彼。

 私は黙って、頭を下げた。ありがとう、今までありがとう。ただそう思った。

 男も車から降りていた。車体を挟んで反対側から私に声をかける。顔はガードレールの方を向いていた。
「不粋ではありますが。わたくしから申し上げておきましょうか。なにせ貴女は、頻繁に書店に立ち寄る方とは思えませんのでな」

 男は何かを誇るように、そしてそれを悟られまいとするように、薄く薄く笑っていた。黒い本を開いたまま。
「彼。口だけではございませんでしたよ。意外にもね。本にしていただけることが決まりまして」

 抑えきれないといった笑みを、男は私に向ける。
「そう文庫本に、新人賞で。いやいや、彼のは金賞きんでも銀賞ぎんでもなく、審査員奨励賞――見所無きにしも非ず、だとか、大きく欠けたれど大きく見所もあり、とかそういう賞ですな――でございましたがね。そう、あの作品を何度も書き直しまして。貴女をモデルとした、例の」

 あのときの。私の誕生日に、彼が持ってきた話。そう思うと、わけも分からず顔が熱くなる。
「あの話を?」
「ええ、あの話を」
「二年も書き直して?」
「審査期間もございますので、実質的には一年少々」
「人を勝手にモデルにして? ……ずっと?」
「ええ好き勝手に、ずっと好き放題に」

 何も考えられず、気がつくと。息がこぼれていた。笑うように、顔の筋肉が緩んでいた。
「キモい」
「まったくもって」
「ウザい」
「実にそのとおり」
「意味が分からない」
「そこについては一流でございますな、彼」
「本当に――」
 吹きこぼれそうな笑い声をこらえながら、私はうつむいていた。車体に手をついて、目をつむっていた。
「――バカバカしい、全然意味分からない……」

 気がつけばしゃがみ込んでいた。きつくつむったまぶたの間から、涙がにじんだ。

 彼は彼のままでいた、二年間。二年前のそのままでいてくれた。
 それとも、別の話を考えるのが面倒だっただけ? 免許を取ったのは?
 分からない。何も分からない、どう考えたらいいのかも。喜ぶべきか悲しむべきか、誇るべきか嘲るべきかも分からなかった。

 胸でわだかまっていた言葉の塊が、ほどけていく。端から端から、許されたようにほどけて、白く温かく溶けていく。

 胸の中には、何もなかった。そこには空白が満ちていた。言葉の塊とは違う、それ以上何も入らない空白が、胸いっぱいに満ちていた。
 その空白がただ、温かい。

「お顔を」
 近くで男の声が聞こえた。目元を拭って顔を上げると、男はそばにいた。
「もしも、そう、もしも。分かりたいとおっしゃるなら、彼のこと。方法は無きにしもあらず、でございます」

 言うと、手にしていた本を示す。タイトルのない、黒い革の装丁の本。真新しいその表紙には大きなかき傷がついている。
「人は誰しも、一冊の書物でしかない……のでございまして。無論彼も……でございまして。お望みならば読まれますかな。彼という名の、一冊の書物」

 ぱらぱらぱらと、男の手がページを繰る。その手が音を立てて本を閉じ、しゃがんだままの私へと差し出した。

 手にした本は、温かかった。体温のように。脈打つように震えたのは本だろうか、私の手だろうか。

 両手で握って、少し迷って。立ち上がって、男へ返した。
「もう、読みましたから。分からないところも込みで」

 男は口を開け、それから笑った。何度もうなずきながら。
「なるほど、なるほど。実に、実に」

 男は姿勢を正す。本を小脇に抱え、ゆっくりと左足を引く。ひざまずくような姿勢で右手を胸につけ、礼をした。かぶっていたシルクハットを、その手に持って。
「豊かなる行間、暖かな空白にございます。よき読み手を得られたようだ、彼は……ええ、もうお嘆きではございますまい」

 男は顔を上げて小さく笑う。
「正直申しまして、彼がうらやましゅうございますな。文学は常に、読み手によって完成させられるものでございますので」

 立ち上がり、シルクハットをかぶる。そして言った。
「さて。此度こたびの貴女の物語、これにて終いとなりましょう。こちらのお役もこれにて御免、しばしの別れとなりましょう。ただしゆめゆめ忘れぬように、この一章がしまいとて、先の一生まだ続く。わけても決して忘れぬように、人は誰しも一人とて、文学からは逃れ得ぬこと。それはまるで自身の影から、いやいやまさに自身から、決して逃れ得ぬように。えぇ、決して」

 私は尋ねた。何度も尋ねたことを。
「あなたは、何なの。本当に」
 答える気があるのか、空を見上げて男はつぶやく。
「いえ、ね。本当はないんでございますがね、こんなこと。今回限りは特別で」
 ンフフ、と笑って続ける。
「貴女が奇蹟を信じずとも。奇蹟の方で、貴女を信じてみたわけでして。文学でございます、わたくしはただの。人がどう呼ぶかはともかく。文学は人に読まれるものですので。たまには文学の方でも、人を読んでみたいと思うもので。――それより」

 突然顔を近づけ、口元に手を添えてささやいてくる。妙に力のこもった表情だった。
「そんなことより。悔しかったのでございますよ」
「え?」

 鼻から息をこぼして男は笑う。怒ったような固い顔で。
「二年前のお誕生日、あの作品。大胆に飛ばし読みして下さったお陰でね。会えず仕舞じまいでございましたよ」
「は?」
「何も、何もでございますね! よりによってわたくし初の出番の行、その直前で飛ばさなくてもよろしいじゃございませんか! その後も何の偶然だか、うまいことわたくしの場面だけお飛ばしになって! こう見えても重要な役目を持った人物なんですがねわたくしは!」

 歯をむき出し、唾を飛ばして男は言い、その後大きく息をついた。歯を見せて笑う。
「ま。その辺も含めて、今日は愉快でございました。ああ、彼の本ですがね、来月辺り書店で探すとよろしいでしょう、彼の名を。小さな書店には多分ありませんがな。ま、その時にまた、ということで。今は、しばしの――」
 男は右手を掲げる。
「ちょっと、待って、あなたは――」
「――お別れを」
 男の手が指を鳴らす。その音がなぜだか耳鳴りのように響き、頭の中で何度も鋭く跳ね返り、私は思わず目をつむる。

 目を開けたとき、男の姿はどこにもなかった。
 風が吹いた。
なぜだか笑った。
 空を見上げる。金色の雲と光に満ちた空の間で、何かが光るのが見えた。それは天から降る美少女だったのかも知れないし、空を駆ける竜だったのかも知れない。ブンガクと名乗る男だったのかも知れないし、私に似た誰かだったのかも知れない。
 きっと幻には違いなくて、けれど、彼の見ていた世界だったのだと思う。

 私は息をついて、車にもたれて空を見ていた。
 携帯を取り出す。彼の家に立ち寄るため、家族から場所を聞くため、彼の携帯へ電話をかけた。


(了)

しおりを挟む

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

妻がヌードモデルになる日

矢木羽研
大衆娯楽
男性画家のヌードモデルになりたい。妻にそう切り出された夫の動揺と受容を書いてみました。

幼なじみとセックスごっこを始めて、10年がたった。

スタジオ.T
青春
 幼なじみの鞠川春姫(まりかわはるひめ)は、学校内でも屈指の美少女だ。  そんな春姫と俺は、毎週水曜日にセックスごっこをする約束をしている。    ゆるいイチャラブ、そしてエッチなラブストーリー。

マリンフェアリー

國灯闇一
青春
家族共々とある離島に移住してきた藍原希央(あいはらきお)は、順風満帆な離島ライフを送っていた。ところが、同級生の折谷菜音歌(おりたになのか)に嫌われていた。 心当たりはなくモヤモヤしていると、折谷がどこかへ向かっているところを見かけた。 折谷が部活以外に何かやっているという話がよぎり、興味が湧いていた藍原は折谷を尾行する。 その後、彼女が島の保護活動に関わっていることを知り、藍原は保護活動の団員であるオジサンに勧誘される。 保護活動団の話を聞くことになり、オジサンに案内された。 部屋の壁にはこの島で噂される海の伝説、『マリンフェアリー』の写真が飾られていた。 海の伝説にまつわる青春の1ページ。 ―――今、忘れられない夏がはじまる。 ※こちらの作品はカクヨム、pixiv、エブリスタ、nolaノベルにも掲載しております。

【R18完結】エリートビジネスマンの裏の顔

白波瀬 綾音
恋愛
御社のエース、危険人物すぎます​─​──​。 私、高瀬緋莉(27)は、思いを寄せていた業界最大手の同業他社勤務のエリート営業マン檜垣瑤太(30)に執着され、軟禁されてしまう。 同じチームの後輩、石橋蓮(25)が異変に気付くが…… この生活に果たして救いはあるのか。 ※サムネにAI生成画像を使用しています

完結【R―18】様々な情事 短編集

秋刀魚妹子
恋愛
 本作品は、過度な性的描写が有ります。 というか、性的描写しか有りません。  タイトルのお品書きにて、シチュエーションとジャンルが分かります。  好みで無いシチュエーションやジャンルを踏まないようご注意下さい。  基本的に、短編集なので登場人物やストーリーは繋がっておりません。  同じ名前、同じ容姿でも関係無い場合があります。  ※ このキャラの情事が読みたいと要望の感想を頂いた場合は、同じキャラが登場する可能性があります。  ※ 更新は不定期です。  それでは、楽しんで頂けたら幸いです。

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

13歳女子は男友達のためヌードモデルになる

矢木羽研
青春
写真が趣味の男の子への「プレゼント」として、自らを被写体にする女の子の決意。「脱ぐ」までの過程の描写に力を入れました。裸体描写を含むのでR15にしましたが、性的な接触はありません。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

処理中です...