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第8話 死と死人と
しおりを挟む余分の代金を払い、ジョサイアは店を後にした。町を出て街道を歩き、やがて道を外れる。草むらへ分け入った。しばらく行った崖の辺りは平地になっており、ここ数日はそこで鍛錬をしていた。
夜風に汗が引いていく。空を見上げた。曇りのない銀色に光る満月が、夜空を妙に白っぽく照らしていた。美しいと思ったが、すぐに地面へ目を落とした。
美しい景色、美味い飯、珍しい見世物、面白い風聞。そうしたものの一切を、ジョサイアは意識の外へ遠ざけていた。鍛錬の邪魔になる、と考えてのことではない。辛いからだ。
楽しい思い、良い思いをするたびに思う。今、サリアがいれば喜んだだろうか、何と言っただろうかと。俺はそれに何と応えただろうかと。それはどれほど楽しいだろうか、と。
そして、サリアはいない。
ジョサイアはここ五年間幸福を遠ざけ、激しい鍛錬に身を投じてきた。鍛錬ならいくらでも耐えられた。そうしている間と、疲れきって気絶するように眠っている間だけは、思い出したくないことを忘れられたからだ。けれど幸福と、思い出にだけは耐えられなかった。サリアのこと、仲間のことを思い出すたび、それを失ったことをも思い出してしまう。
仲間やサリアの墓には一度も行っていない。これからも行くことはない。
サリアを忘れてしまいたいとさえ思った。顔も声もなめらかな肌も、懐かしい匂いのする髪も。あの日のことを忘れてしまいたいと思った。ゆっくりと吹き出す血の動き、匂い、温かさ。どこをも見ていない目、力のない体。
リバーロを斬る。ジョサイアの意味は、今やそれだけだった。もはやそれは仇討ちではなかった。仇討ちと考えれば、その瞬間にサリアを思い出す。胸が痛み、剣が鈍る。それでは、斬れない。
息を深く吸い込み、ゆっくりと吐いた。奴を斬る、ただそれだけ。それがすべて。そう自らに言い聞かせた。
だから。草むらを抜けた先にいた男を見ても、鼓動の速さは変わらなかった。
「よゥ。いい月夜だな」
リバーロ・クライン。月を背に、死神がそこで笑っていた。
ジョサイアは音を立てて土を踏みしめる。深く息を吸い、大きく吐く。ゆっくりと剣を抜いた。
「ようやく会えた」
リバーロは手をあごに当て、指先で頬をかく。太刀を抜かないまま苦笑いした。
「ああ、ようやく。会いたかったっちゃァ会いたかったぜ。会いたくねェっちゃそうだがよ。生きてろ、って言ったはずだぜ。なんでまた死ににくる」
リバーロは両手を肩の辺りに上げ、手の平を上に向けてみせる。
「仇討ちか? 何の意味もないのに? やっても死人は戻らねェのに? 仇も討ち手も、死人がもしも生きてたとしても。遅かれ早かれ、みんな死ぬのに?」
ジョサイアはゆっくりと首を横に振る。胃の底に熱さを、腕に堅い力を感じた。
「違うさ。……斬りたい、お前を。俺のいる意味はそれだけだ」
リバーロは、ぬたり、と笑う。
「かまわんがなァ。できればいいンだがなァ。俺は死だ、死は斬れんさ」
ジョサイアは表情を消した。鼓動にも呼吸にも乱れはない。
「斬る」
リバーロは眉を上げ、嬉しげに笑う。
「ほゥ? 死を斬るお前は何者なのかね」
目の前の男は確かに死だ。ジョサイア・ロンドはあのときに死んだ。
心臓の辺りにうずきかけた痛みを、意識して抑えた。笑うように鼻で息をつき、リバーロの目を見すえて剣を構える。
「俺は死人だ。いかに死といえ、死人は殺せん」
リバーロが歯を見せ、目尻にしわを寄せて微笑む。その目はぬらりと輝いて見えた。滑るような音を立てて太刀を抜く。刃が月明かりを映し、蛇の鱗のような濡れた輝きを放つ。
ジョサイアは踏み込み、剣を振るった。白い軌跡を描いて剣がリバーロへ向かう。
同時、リバーロも太刀を振るっていた。剣とかち合い、甲高い音を立てて火花が散る。
「ぬ……!」
よろめいたのはリバーロだった。
太刀よりもジョサイアの剣は厚く、重い。与える衝撃も刀身の耐久性も勝る。それを太刀ほどに速く振るうため、ジョサイアは鍛錬を重ねてきた。
再び剣を振るう。リバーロは太刀を掲げてそれを防ぐ。大きく跳び退いて距離を開けた。構え直して、ぬたり、と笑う。
「やるねェ……」
ジョサイアは唇の端をわずかに吊り上げた。
「当然だ」
距離を詰め、さらに踏み込む。突きを繰り出そうとするも、リバーロはそれより早く動作を起こしていた。片手で突き出される太刀が、間合いの外からジョサイアの肩に突き刺さった。しびれるような痛みに歯を食いしばる。深い傷ではない、と同時に判断した。
いったん身を引く。空を斬る音を立て、目の前を銀色の流れがかすめる。左下、右から、左上から右上から、次々に太刀が繰り出される。剣を構えてどうにか防いだ。
ジョサイアは大きく飛び退きつつ、剣を下段に下ろした。リバーロが斬り下ろしてくるところへ振り上げる。太刀の横腹をすり上げるように、斜めに払う。刀身がこすれ合う音を立て、柄に軽く手応えが響いた。
太刀は軌道を大きく変えられ、ジョサイアの手元で空を切った。
対する剣は、ちょうど斜め上へ振り上げた形。そこから一気に叩きつける。
リバーロの防御は間に合わなかった。ちぎれ飛んだ前髪が宙を舞う。切っ先に手応えがあった。顔面を血で染めながら、リバーロは大きく後ずさる。構えは崩れておらず、斬り込む隙はなかった。
ジョサイアは構え直しながら舌打ちする。いったん飛び退いた後の攻撃だったため、完全には踏み込めていなかった。体重も乗せられていない。手応えは浅く、切っ先のごく先の方にあったのみだった。
額から鼻の横を伝って流れる血をそのままに、リバーロは笑う。
「いいねェ。こんだけ斬り結べたのはあんたが初めてさ」
息をつき、太刀の背で自分の肩を叩いた。そして言う。
「さてと。もう、やめといた方がよかァねェか」
ジョサイアは構えを崩さない。
「傷一つで怖気づくか」
リバーロは首を横に振る。
「そうじゃねェ。あんたほどの奴になら、俺の命なんざくれてやっていンだけどよ。したらあんた、困ンだろ」
リバーロは深く息をつく。笑ってはいなかった。哀れむような目をしていた。
「俺を斬るのがあんたの意味だ。ならよォ、俺を斬ったらあんたどうする。あんたの意味はどこにある」
ジョサイアの口がわずかに開いていた。
考えたこともないことだった。いや、考えまいとしていたことか。ジョサイアはもう、幸せに耐えることができない。だが、目的もなく苦難に耐えられるか。幸福だった頃には戻れない、だがリバーロを斬れば、苦難の今にすら戻れなくなる。その先に何がある?
顔を歪め、歯を食いしばった。叫んでいた。
「知るものか!」
そう、そんなことはどうでもいい。今この時、奴を斬る。それだけが意味。
全力で剣を振り下ろす、そうしたつもりだったが。ほんの一瞬、しかし確実に、力を込めるのが遅れた。
「そうかい」
リバーロから表情が消えていた。暴風のような音を上げて太刀が振るわれる。頭を狙うように横殴り。
ジョサイアの剣がリバーロの頭を叩き斬る、はずだった。それよりも先に、太刀はジョサイアの頭を打っていた。
斬るのではなく、打つ。リバーロは刀の向きを変え、刃のない方で打ちかかっていた。いわゆる峰打ち。だが、その目的は斬らないことではなかった。
刀は刀身が後ろへ反り返っている。その分、切っ先が相手に当たるまでの距離が直剣よりも長くなる。リバーロはそれを逆手に取った。峰打ちで振るうなら、切っ先は『相手に向かって』反っていることになる。当然、その分相手までの距離は短く、早く当たる。
こめかみを横から打たれ、ジョサイアの視界が斜めに傾く。硬い衝撃は頭蓋の中で響き、でたらめに脳を駆け巡る。視界がぼやけ、揺れた。振り下ろした剣は的を外れ、肩口を浅く斬り裂くに留まっていた。
「な……」
ジョサイアは混濁した意識のまま、それでも突進した。体ごとぶつかり、鍔ぜり合いに持ち込む。
その体勢から、リバーロは足を踏みつけてきた。ジョサイアが動きを止めたところへ、身を乗り出しての頭突きが飛ぶ。揺れていた意識がまたしても、わずかな時間どこかに吹き飛ぶ。
その隙に、リバーロは下がりながら太刀を跳ね上げてきた。剣はすくい上げられるように弾かれ、しびれる衝撃を指に残して手から離れた。音を立てて地面に刺さる。
気づけば、目の前に太刀が突きつけられていた。
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