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第27話 冒険の日に
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どれほどの時間が経ったかは分からない。迷宮には昼も夜もなかった、湿った空気が淀むばかりだった。
その中でウォレスは足音をひそめて歩み、広間を小走りに駆け、兜の下でしきりに汗を拭っていた。
アレシアは何も言わなかった。ウォレスも同じだった。足音に――それがうっかりと立てた自分たちのものでも――身をすくませ、立ち止まり、息を殺す。壁を背にして通路の先を探り、気配が無いのを確かめ、あるいは足音が遠ざかるのを待ってから歩を進めた。
それでも階を上がっていくうち、戦闘は何度かあった。魔法の巻物を叩きつけ、炎や吹雪が上がっているうちに曲刀を振り回し、アレシアの手を取って逃げた。敵をまともに斬り倒したことはなく、手傷ばかりが増えた。魔法の物音に感づいた他の敵に追われることもあれば、逆に物音で逃げ去る魔物も見た。
そうして今、大きな傷はなかったが、魔法薬もすでになくなっていた。アレシアの魔力もほぼ尽きて、魔法の巻物も一巻を残すのみ。
「やめときゃよかった」
歩きながら、アレシアが不意にそう言った。
ウォレスも考えまいとしていたことだった。あのときはもう帰ろうとしていたはずだ、宝箱になど手を出さなければよかった。
「やめときゃよかった。あんたたちなんかと、話さなきゃよかった」
ウォレスの足が止まる。
それでもアレシアは歩き、追い越した。震える声が先を行く。
「やめときゃよかった。酒なんか呑まなきゃよかった、そしたらあんたたちなんかと話す気分にもならなかった。――こんなとこ、来なきゃよかった」
ウォレスの足は止まったままで、アレシアは歩き続ける。
「迷宮になんか。出ていかなきゃよかった、家|《うち》にいたらよかった。父さんの小言ぐらい、ずっと聞いてりゃよかった。――冒険なんか、しなきゃよかった」
ウォレスの提げた曲刀の先が震え、それから、だらりと地面を向いた。
――どういうことだ。どういうことだよ。そりゃ俺だって帰りたい、生きて帰りたいよ。だが俺は言ったんだ、冒険をしたいって。君もそうだと言ったんだ。なのに? ――
握りしめた、曲刀の先が強く上を向く。
そのとき、アレシアが濁った声を上げた。一瞬の、溺れるような声。
胸を斜めに大きく裂かれ、血を噴き出していた。膝をついて崩れ落ちる。近くの地面には爪を血で濡らしたあの獣がいた。
ウォレスは駆けた。叫び声を上げながら曲刀を振り回し、何度も振り回し、どうにか斬り裂いた。幸い獣は一匹だけだった。
滴る汗が口に流れ落ち、肺がちぎれそうなほど呼吸を繰り返しながら、アレシアの方を振り向いた。
「セ・アイント……セ・アイント・ネスツ・エト・レ……ト、エン・ノーマ――【治……癒】」
横たわり、力なく唱えた呪文にアレシアの手が弱く輝いた。遠い星のように瞬くその光が胸の上を撫で、盛り上がっていく肉と皮が傷口を塞いだが。
張り裂けるように再び血が溢れ出す。
アレシアは血にまみれた自分の手と、胸の傷をじっと見ていた。上下する肩の動きが、呼吸が速まり、速まり。やがて小さく、途切れ途切れにさえなっていった。
その間にも同じ呪文をつぶやき、つぶやき、光はなく、声はかすれ、やがて唇の動きだけでつぶやく。
ウォレスはただ立っていた。アレシアを見下ろして立っていた。それ以外なにも思いつきはせず、何か思いつく必要があるとすら、考えられはしなかった。
ただ、口から言葉だけがこぼれる。
「だいじょう、ぶ?」
聞いて、アレシアの瞳孔が広がる。頭を床に横たえたまま、動かし続けていた唇が、別の形に歪んだ。
「……出られ、なきゃ……いい……あ、たも、出な、けりゃ……」
それだけ言って黙り、ウォレスを見上げ続けた。
やがて流れ落ちる血がわずかになり、肩の動きは止まっていた。唇も。それでもアレシアの目はウォレスを見上げていた。
流れ落ちた血はすでに飲まれていた。やがて始まった、かぎ裂かれた魔法衣はほつれ崩れて、床へ沈むように消えていった。日に焼けた肌があらわになって、その黒いところも白いところも、色を失って薄れていった。花びらのように開いた傷口の肉がまずとろけるように消え、床に接した面から皮が、肉が、啜られるように消えていった。融けていくロウソクのように、内臓がどろりとこぼれ落ちた。端から端からそれが喰われるように沈んでいき、引っ張られた肋が床に触れて小さく音を立てる。その上で胸はやわらかく、辛子色の脂肪をのぞかせていた。
そしてアレシアはウォレスを見上げている。
目を離せなかった。彼女から。見ていられなかった。彼女を。
ウォレスは無意識にポケットをまさぐっていた。手に触れたものをつかみ出し、叩きつける。最後に残った、魔法の巻物。
噴き上がった爆炎がアレシアを包み、ウォレスを後方へ弾き飛ばした。金色に燃え盛る炎に一帯が包まれ、その物音に姿を見せる魔物もあれば、逃げ惑う魔物の声もした。ウォレスも走った。どう走ったかは覚えておらず、階段を上がった気もした。
気づけば炎も喧騒もなく、目の前に悪友の顔があった。五人と、武装した他の冒険者ら。アレシアのことを尋ねる五人に、首を横に振って。何も言わず、帰り道を共にした。
明くる日もウォレスは迷宮へ潜った。アレシアが生きていてそれを探しに行くと思ったのか、悪友たちもついてきた。明くる日もウォレスは潜った。明くる日も。明くる日も。
誰もついてはこなくなった。それでもウォレスは潜った。行き倒れかけ、別の冒険者に拾われ、彼らの一員となり。彼らに遜色ない実力となった頃、幾人かが喪失されて解散し。それでもまた、ウォレスは迷宮に潜っていた。
終わらせたくなかった、アレシアとの冒険を。ウォレスだけは続けていた、その日を。
今にして思えば、それほど下層ではなかったはずだ。おそらく地下五十階、それより少し上。だからこそ生きて帰れた。
今にして思えば、それほど珍しい話でもない。初心者が死んだりはぐれたり。仲間を目の前で失ったり。当時からしてよく聞く話で、悲劇の方の冒険譚。
だが、そこには嘘も何もない。アレシアはウォレスを見上げていたし、ウォレスがアレシアを殺したのだ。例え誰のせいとも言えなくとも、すでに命を失って、喪失されていたとしても。
だからどうしたと言う気はない。そういう事実があっただけで、そのせいで迷宮にいるわけでもない。ただそうしているうちに、迷宮にいる方が当たり前になってしまった。それだけだ。酒を手放せない以上に、迷宮を手放せないだけだ。
迷宮の天井を見上げ、それから床を見る。アレシアが、幾多の冒険者が喰われた迷宮を。おかしくなって、それで笑った。
――ばかだな、アレシア。あんな風に言わなくてもよかったんだ。だって、どの道出ていったなら。きっと同じことを言う羽目になる。やめときゃよかった、って――。
今、ウォレスは息をつく。地上に出るかどうかはまだしも、そこで暮らすことは決してない。それでも、何にせよ。仕事を終わらせよう、そして。
もう一度殺そう。アレシアを、その顔をした者を。
なぜなら彼女はもう死んだ。俺はずっと冒険を続け、友は終え、そしてアレシアは確かに死んだ。あの日に。
たとえ喪失から還ってきたとして、アレシアが俺のもとに来るわけがない。彼女を殺したのは俺で、それに俺は。
君を恋してはいない、ましてや愛も。ただ、あの日に焦がれているんだ。ずっと。
その中でウォレスは足音をひそめて歩み、広間を小走りに駆け、兜の下でしきりに汗を拭っていた。
アレシアは何も言わなかった。ウォレスも同じだった。足音に――それがうっかりと立てた自分たちのものでも――身をすくませ、立ち止まり、息を殺す。壁を背にして通路の先を探り、気配が無いのを確かめ、あるいは足音が遠ざかるのを待ってから歩を進めた。
それでも階を上がっていくうち、戦闘は何度かあった。魔法の巻物を叩きつけ、炎や吹雪が上がっているうちに曲刀を振り回し、アレシアの手を取って逃げた。敵をまともに斬り倒したことはなく、手傷ばかりが増えた。魔法の物音に感づいた他の敵に追われることもあれば、逆に物音で逃げ去る魔物も見た。
そうして今、大きな傷はなかったが、魔法薬もすでになくなっていた。アレシアの魔力もほぼ尽きて、魔法の巻物も一巻を残すのみ。
「やめときゃよかった」
歩きながら、アレシアが不意にそう言った。
ウォレスも考えまいとしていたことだった。あのときはもう帰ろうとしていたはずだ、宝箱になど手を出さなければよかった。
「やめときゃよかった。あんたたちなんかと、話さなきゃよかった」
ウォレスの足が止まる。
それでもアレシアは歩き、追い越した。震える声が先を行く。
「やめときゃよかった。酒なんか呑まなきゃよかった、そしたらあんたたちなんかと話す気分にもならなかった。――こんなとこ、来なきゃよかった」
ウォレスの足は止まったままで、アレシアは歩き続ける。
「迷宮になんか。出ていかなきゃよかった、家|《うち》にいたらよかった。父さんの小言ぐらい、ずっと聞いてりゃよかった。――冒険なんか、しなきゃよかった」
ウォレスの提げた曲刀の先が震え、それから、だらりと地面を向いた。
――どういうことだ。どういうことだよ。そりゃ俺だって帰りたい、生きて帰りたいよ。だが俺は言ったんだ、冒険をしたいって。君もそうだと言ったんだ。なのに? ――
握りしめた、曲刀の先が強く上を向く。
そのとき、アレシアが濁った声を上げた。一瞬の、溺れるような声。
胸を斜めに大きく裂かれ、血を噴き出していた。膝をついて崩れ落ちる。近くの地面には爪を血で濡らしたあの獣がいた。
ウォレスは駆けた。叫び声を上げながら曲刀を振り回し、何度も振り回し、どうにか斬り裂いた。幸い獣は一匹だけだった。
滴る汗が口に流れ落ち、肺がちぎれそうなほど呼吸を繰り返しながら、アレシアの方を振り向いた。
「セ・アイント……セ・アイント・ネスツ・エト・レ……ト、エン・ノーマ――【治……癒】」
横たわり、力なく唱えた呪文にアレシアの手が弱く輝いた。遠い星のように瞬くその光が胸の上を撫で、盛り上がっていく肉と皮が傷口を塞いだが。
張り裂けるように再び血が溢れ出す。
アレシアは血にまみれた自分の手と、胸の傷をじっと見ていた。上下する肩の動きが、呼吸が速まり、速まり。やがて小さく、途切れ途切れにさえなっていった。
その間にも同じ呪文をつぶやき、つぶやき、光はなく、声はかすれ、やがて唇の動きだけでつぶやく。
ウォレスはただ立っていた。アレシアを見下ろして立っていた。それ以外なにも思いつきはせず、何か思いつく必要があるとすら、考えられはしなかった。
ただ、口から言葉だけがこぼれる。
「だいじょう、ぶ?」
聞いて、アレシアの瞳孔が広がる。頭を床に横たえたまま、動かし続けていた唇が、別の形に歪んだ。
「……出られ、なきゃ……いい……あ、たも、出な、けりゃ……」
それだけ言って黙り、ウォレスを見上げ続けた。
やがて流れ落ちる血がわずかになり、肩の動きは止まっていた。唇も。それでもアレシアの目はウォレスを見上げていた。
流れ落ちた血はすでに飲まれていた。やがて始まった、かぎ裂かれた魔法衣はほつれ崩れて、床へ沈むように消えていった。日に焼けた肌があらわになって、その黒いところも白いところも、色を失って薄れていった。花びらのように開いた傷口の肉がまずとろけるように消え、床に接した面から皮が、肉が、啜られるように消えていった。融けていくロウソクのように、内臓がどろりとこぼれ落ちた。端から端からそれが喰われるように沈んでいき、引っ張られた肋が床に触れて小さく音を立てる。その上で胸はやわらかく、辛子色の脂肪をのぞかせていた。
そしてアレシアはウォレスを見上げている。
目を離せなかった。彼女から。見ていられなかった。彼女を。
ウォレスは無意識にポケットをまさぐっていた。手に触れたものをつかみ出し、叩きつける。最後に残った、魔法の巻物。
噴き上がった爆炎がアレシアを包み、ウォレスを後方へ弾き飛ばした。金色に燃え盛る炎に一帯が包まれ、その物音に姿を見せる魔物もあれば、逃げ惑う魔物の声もした。ウォレスも走った。どう走ったかは覚えておらず、階段を上がった気もした。
気づけば炎も喧騒もなく、目の前に悪友の顔があった。五人と、武装した他の冒険者ら。アレシアのことを尋ねる五人に、首を横に振って。何も言わず、帰り道を共にした。
明くる日もウォレスは迷宮へ潜った。アレシアが生きていてそれを探しに行くと思ったのか、悪友たちもついてきた。明くる日もウォレスは潜った。明くる日も。明くる日も。
誰もついてはこなくなった。それでもウォレスは潜った。行き倒れかけ、別の冒険者に拾われ、彼らの一員となり。彼らに遜色ない実力となった頃、幾人かが喪失されて解散し。それでもまた、ウォレスは迷宮に潜っていた。
終わらせたくなかった、アレシアとの冒険を。ウォレスだけは続けていた、その日を。
今にして思えば、それほど下層ではなかったはずだ。おそらく地下五十階、それより少し上。だからこそ生きて帰れた。
今にして思えば、それほど珍しい話でもない。初心者が死んだりはぐれたり。仲間を目の前で失ったり。当時からしてよく聞く話で、悲劇の方の冒険譚。
だが、そこには嘘も何もない。アレシアはウォレスを見上げていたし、ウォレスがアレシアを殺したのだ。例え誰のせいとも言えなくとも、すでに命を失って、喪失されていたとしても。
だからどうしたと言う気はない。そういう事実があっただけで、そのせいで迷宮にいるわけでもない。ただそうしているうちに、迷宮にいる方が当たり前になってしまった。それだけだ。酒を手放せない以上に、迷宮を手放せないだけだ。
迷宮の天井を見上げ、それから床を見る。アレシアが、幾多の冒険者が喰われた迷宮を。おかしくなって、それで笑った。
――ばかだな、アレシア。あんな風に言わなくてもよかったんだ。だって、どの道出ていったなら。きっと同じことを言う羽目になる。やめときゃよかった、って――。
今、ウォレスは息をつく。地上に出るかどうかはまだしも、そこで暮らすことは決してない。それでも、何にせよ。仕事を終わらせよう、そして。
もう一度殺そう。アレシアを、その顔をした者を。
なぜなら彼女はもう死んだ。俺はずっと冒険を続け、友は終え、そしてアレシアは確かに死んだ。あの日に。
たとえ喪失から還ってきたとして、アレシアが俺のもとに来るわけがない。彼女を殺したのは俺で、それに俺は。
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