16 / 38
第16話 来なかった
しおりを挟む来なかった。
待ってもアレシアは来なかった。最下層の部屋でまんじりともせず寝転がり、起き上がって膝を抱え、やけになって呑んだくれ――不死鳥の唐黍酎と交換した葡萄酒や焼葡萄酎、唐黍酎に褐色糖黍酎、それに馬鈴薯酎――、干し肉と干し鮭をやたらに噛む。
一晩だったか一日か、あるいは数日、それは分からない。何度も小便はしたし一度は大便もした、それらがすぐに喪失するのも見た。そうしている間中、寝転がっている間中、呑んだくれている間中、ずっと槍と短剣を抱えていた。それでも待つしかできなかった。
やがて、よろめく脚を槍で支えながら立ち上がる。ろれつの怪しい舌で転移の呪文を唱えようとして、最下四層では使えないことを思い出した。
「お、おお女とよぉ、猫はよぉ、なあマスター、呼んでも来ねえっつうけど呼ばなくたって来ねぇ! 待っても来ねぇ! 来ねぇんだよなぁおい、だよなぁマスター? な?」
「ええ先生、まったくで」
表情一つ変えずにそう応えてくれた。覇王樹亭の店主は、カウンターの向こうで。
同じ話をもう何度もしていることはウォレス自身も分かっている。それでも気がつけば言ってしまっている、言う必要がある気がしている。伝える使命があるとさえ思っている、この発見を。大真面目に。
そんな自分を、カウンターを叩いて大笑いする。床とカウンター台の脚の下、敷かれた銅板に音が響く。抱えたままの槍の穂先も、床に擦れて耳障りに鳴った。
「バカバカしい、ろくでもねぇやな酔っ払いってのはな、なぁマスター? あぁダメだ、みみ、水と、口直しだ、麦酒(エール)を……『黒いの』をくれ」
黒いのはさほど好みというわけではないが、中休みには悪くない。濃く舌に溜まる味で、がぶ呑みしようという気にはならない。腹にも溜まって、呑み過ぎていることを教えてくれる。もちろん、呑むのをやめるという考えはない。
ジョッキで出された水を半分まで一息に飲み、黒いのも同じだけ一息に呑む。盛大な音を立てて胃袋の奥から息をついた。慣れない甘ったるさが気に入らず、もう半分も呑み干す。別の麦酒を注文した。
運ばれてきた『中口の』を一口呑み、息をつく。琥珀色をした麦酒は程よく苦く程よく軽く、佳く香る。舌の上に後味を残しながらもなめらかに喉を滑った。
変わらない。これだけだ、変わらないのは。あの頃に呑んでいたのと同じ、酒の味、酔いの味。だからこそウォレスは呑むのかもしれない。
変わらない――だからこそ、ウォレスは迷宮にいるのかもしれない。迷宮もまた――酒以外で唯一――変わらない。そこにある。酒が呑まれるのを待つように、それまでは決して出しゃばらないように、迷宮もじっと待っている。待てないのはウォレスの方で、それで迷宮に生きている。呑んだくれて。
頬と耳たぶの脂ぎった火照りと、こめかみに速く打つ脈を感じながらまた一口。そして、ジョッキの上から酒をのぞき込む。自然に微笑んでいた、手を掲げていた。巨蜥蜴に喰われた冒険者にしたのと同じ、挨拶だった。
手にしたジョッキが揺れ、綿のように分厚い泡の層に切れ目が見えた。琥珀色の液面に細かな泡が一つ一つ上がっては消えていく。
同じだと思った。迷宮に挑んでいく自分たちと。そして、迷宮とも。そこには常に、魔物がいて、戦いが在って死が在って、宝が在る。いつもいつもそうだった。これからだって。
ジョッキの中で揺れる泡|《あぶく》を見ながら、同じく揺れる頭で思う。同じだ、生きて、昇って、生きて、揺れて、深いジョッキの、迷宮の中で。そうして死んで、呑まれる。
「同じさ、同じ。酒も……俺も」
きっと俺も、いつか呑まれる。
「なんてなぁ! なぁおい、おい――」
カウンターを叩いて笑い、立ち上がろうとして。ぐるんぐるんと酒場が回った。店主の顔が三つに揺らぐ。カウンターが不意に起き上がり、仕返しとばかりに顔面へとぶっ飛んできた。叩かれて燃えるように熱い頬と耳たぶと、痛いほどに血の巡るこめかみ。薄情にも椅子は勝手に避けて、そのせいでウォレスは地べたに倒れた。
「さ、いい? 聞いて。今から行くのは別世界、君らのとことは全然別もの。そこの主は君らじゃなくて、そこに住まう魔物じゃなくて。迷宮そのもの、そんな世界。それでも行くかい、準備はいいかい? ――それじゃあ行くよ、初心者くんたち」
迷宮の入口前で、注目を集めるように二度手を叩いて。唄うようにそう言って、六人の目を順に見たものだ、アレシアは。あの日のアレシア。日差しは強かった、まともには日を見上げられないぐらいに。
あの日のウォレスは笑った、半分は無理に、こわばった顔で。もう半分は湧き出るように、心の底から。あるいは後の五人も同様に。
悪友は皆で六人だった――六人、それが最良の人数だとは常々聞いていたことだった。直接戦闘をする前衛が三人、魔法や長柄武器、飛び道具で援護する後衛が三人。迷宮内の面積ではそれを越えた数はまともに機能しない。加えて言えば、両脇に壁があり、曲がりくねった迷宮内では長柄や飛び道具は地上でのような効力を発揮しない。闇の中でも即座に振るえる剣や手斧こそが最大の武器だった――。
それでもアレシアはついてきた。正直ありがたかった、六人に魔法を使える者などいない。三人が剣や手斧、もう三人が槍や長柄斧を持つばかり。魔導と療術の両方を使える、何より迷宮の経験がある先輩。彼女が必要に応じて魔法を使い、指示を出してくれるという。
入口前の詰所でいる、番兵はうさんくさげな眼差しを投げかけていたが。気にした風もなく、アレシアは笑っていた。
「返事はどうした、初心者|《はじめて》くんたち? さ、いい、行くよ!」
おう、と、まばらに声が上がる。
おおげさにアレシアはかぶりを振る。
「死んだね、これじゃあ、全滅だよ。決定、全滅、墓地直行! そうじゃないだろ、声小さい! も一度行くよ。さ、いい、行くよ!」
「おう!」
声が揃い、アレシアは駆けた。眩むような日差しの中、積み重なる岩の間、角のように突き出た石柱の間。真っ黒に口を開けた、迷宮の出入口へと。
ウォレスたちも後を追い、途中でアレシアに背をはたかれる。
「魔法屋が先行ってどうすんの! しっかりやれよ、戦士くんたち!」
余計に勢いづいたままなだれ込む。競走のようになり、肺が裂けそうになりながらもウォレスが競り勝つ。肩で胸の前で革鎧が躍り、腰では剣が待ち切れぬように鞘から飛び出しかける。
入口手前に差しかかったところで足元が土から石畳へと変わる。そこで自然、足並が緩まり、六人が並ぶこととなった。
歩く足の下、石畳は硬く。目の前に見えるのは闇ばかりで。そこから漂い来る空気は冷たく、背中の産毛が緩やかに逆立つ。六人の足が申し合わせたように止まっていた。
「ディ・イフ・エーベ・サニス・エンレブラ・レイト――【灯光】」
後ろからアレシアの声が――今までの唄うようなそれとは違う、低く謡うような声が――響くと同時。目の前の闇が照らされていた。
振り向けばアレシアの頭の後ろ、少し上に。白い光を淡く放つ――太陽の端をちぎって一月ほど放っておいた後みたいな――ものが漂っていた。
「ま、最初はそうだよね。暗いしさ、よっぽど慣れれば別らしいけど……でもまっ、だいじょうぶ。この呪文があればさ。さ、行こう」
光の中、にんまりと笑う彼女を見て。六人が六人、うなずいた。そして光の中、揺らぐ自分たちの影を見ながら。一歩、足を踏み入れる。足音の響きが壁を、天井を駆け、背後の地上へと昇っていくのを聞きながら、階段を下りる。
「アレシア」
そう言った、今のウォレスは。かつてのウォレスは口に出したりできなかった。
何より。アレシアが今、目の前にいた。
「なに、ぼく」
にんまりとは笑わずに、薄く微笑むアレシアが見下ろす。
そう、見下ろしている。ウォレスは背に後頭部に、壁へもたれている感触を感じ。それからようやく、自分が立っているのではなく、地べたに横たわっていることを理解した。立っているだけの力などないことも。
首を起こして見回せば、見慣れた棚や酒樽がある。自分の部屋。それが分かったところで軋むようにこめかみの内側が痛み、頭を床へ下ろした。
それより何より、いる。アレシアがここにいる。
「アレシア、なあアレシア」
「大丈夫。大丈夫だよ、ぼく」
アレシアはそれだけ言って、傍らの床から何かを取り上げた。槍。ウォレスが抱えていた槍、それに以前引き抜いた短剣。
おかしいな、それは確かにたのまれていたけど。あのアレシアにたのまれたものだ、どうしてこのアレシアが持つのだろう。
「アレシア、ねえ、アレシア」
アレシアは槍を抱え上げ、青く文字の描かれた穂先を見つめる。次に短剣のそれを。
「たしかに、ね。行ってくれたね、封印の場所。ありがとありがと、ほんとうに」
さえずるアレシアの唇が、赤くひらめくのを見つめながら。ウォレスは何度も瞬きした。
ちがう、ちがうよアレシア。まちがえている、きみはそっちじゃあないよ。あのアレシアじゃないんだよ、そんなこと言わなくていいんだよ。
アレシアはかがみ込むと、脂ぎったウォレスの頭を優しく撫でた。
「ね、ほんとうにありがとう。次がね、最後のその二つ。お願いね」
ウォレスと重ね合わせた手に、覚えのある欠片の感触が二つ載せられる。
「地下六百十四階、北東の隅。それに七百二十一階、北側端の壁、西の方。探して、君ならできるからさ」
ちがう! ちがうよ、きみはそんなこと言わないよ。きみのことなど、ほんのひとつも知らないけれど。それだけはきっとまちがいない。それに、それに、ねえ――
「アレシ……」
ア、と言おうとして、言葉以上に喉の奥から込み上げて、胃袋の中身を盛大に吐いた。
苦酸っぱいにおいに顔をしかめもせずアレシアは――いや多分、今のアレシアだ――言った。
「もうすぐ出られる、また出られる。狭い地中なんかじゃなくて、地上|《うえ》に、自由に」
そう言った後、もう一度次の場所を繰り返す。背を向け、薄闇に融けた。
荒い呼吸の中、ウォレスは震える手を伸ばした。何にも触れず、反吐の上に落ちた。唇だけが彼女の名を呼ぶ。
――アレシア。冒険に。俺と冒険に行こうよ、アレシア――
ひとしきり、おこりのように震えがあって、やがて収まる。呼吸も深く長くなる。
――ああそうだ、どうかしていた。アレシアだ、あれは。あの頃のではなく。そうだ、何をやっているんだ俺は。武器だの何だの、問い詰めるはずだったのに。もっと、話すつもりだったのに。
そうだな、そうだ――そうだ。呑む約束もすればよかった。
そう考えたところで、また吐いた。
0
お気に入りに追加
6
あなたにおすすめの小説
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
貧乏冒険者で底辺配信者の生きる希望もないおっさんバズる~庭のFランク(実際はSSSランク)ダンジョンで活動すること15年、最強になりました~
喰寝丸太
ファンタジー
おっさんは経済的に、そして冒険者としても底辺だった。
庭にダンジョンができたが最初のザコがスライムということでFランクダンジョン認定された。
そして18年。
おっさんの実力が白日の下に。
FランクダンジョンはSSSランクだった。
最初のザコ敵はアイアンスライム。
特徴は大量の経験値を持っていて硬い、そして逃げる。
追い詰められると不壊と言われるダンジョンの壁すら溶かす酸を出す。
そんなダンジョンでの15年の月日はおっさんを最強にさせた。
世間から隠されていた最強の化け物がいま世に出る。
愛しのお姉様(悪役令嬢)を守る為、ぽっちゃり双子は暗躍する
清澄 セイ
ファンタジー
エトワナ公爵家に生を受けたぽっちゃり双子のケイティベルとルシフォードは、八つ歳の離れた姉・リリアンナのことが大嫌い、というよりも怖くて仕方がなかった。悪役令嬢と言われ、両親からも周囲からも愛情をもらえず、彼女は常にひとりぼっち。溢れんばかりの愛情に包まれて育った双子とは、天と地の差があった。
たった十歳でその生を終えることとなった二人は、死の直前リリアンナが自分達を助けようと命を投げ出した瞬間を目にする。
神の気まぐれにより時を逆行した二人は、今度は姉を好きになり協力して三人で生き残ろうと決意する。
悪役令嬢で嫌われ者のリリアンナを人気者にすべく、愛らしいぽっちゃりボディを武器に、二人で力を合わせて暗躍するのだった。
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
転移先は勇者と呼ばれた男のもとだった。
桜花龍炎舞
ファンタジー
人魔戦争。
それは魔人と人族の戦争。
その規模は計り知れず、2年の時を経て終戦。
勝敗は人族に旗が上がったものの、人族にも魔人にも深い心の傷を残した。
それを良しとせず立ち上がったのは魔王を打ち果たした勇者である。
勇者は終戦後、すぐに国を建国。
そして見事、平和協定条約を結びつけ、法をつくる事で世界を平和へと導いた。
それから25年後。
1人の子供が異世界に降り立つ。
狼の子 ~教えてもらった常識はかなり古い!?~
一片
ファンタジー
バイト帰りに何かに引っ張られた俺は、次の瞬間突然山の中に放り出された。
しかも体をピクリとも動かせない様な瀕死の状態でだ。
流石に諦めかけていたのだけど、そんな俺を白い狼が救ってくれた。
その狼は天狼という神獣で、今俺がいるのは今までいた世界とは異なる世界だという。
右も左も分からないどころか、右も左も向けなかった俺は天狼さんに魔法で癒され、ついでに色々な知識を教えてもらう。
この世界の事、生き延び方、戦う術、そして魔法。
数年後、俺は天狼さんの庇護下から離れ新しい世界へと飛び出した。
元の世界に戻ることは無理かもしれない……でも両親に連絡くらいはしておきたい。
根拠は特にないけど、魔法がある世界なんだし……連絡くらいは出来るよね?
そんな些細な目標と、天狼さん以外の神獣様へとお使いを頼まれた俺はこの世界を東奔西走することになる。
色々な仲間に出会い、ダンジョンや遺跡を探索したり、何故か謎の組織の陰謀を防いだり……。
……これは、現代では失われた強大な魔法を使い、小さな目標とお使いの為に大陸をまたにかける小市民の冒険譚!
私のお父様とパパ様
棗
ファンタジー
非常に過保護で愛情深い二人の父親から愛される娘メアリー。
婚約者の皇太子と毎月あるお茶会で顔を合わせるも、彼の隣には幼馴染の女性がいて。
大好きなお父様とパパ様がいれば、皇太子との婚約は白紙になっても何も問題はない。
※箱入り娘な主人公と娘溺愛過保護な父親コンビのとある日のお話。
追記(2021/10/7)
お茶会の後を追加します。
更に追記(2022/3/9)
連載として再開します。
【書籍化進行中、完結】私だけが知らない
綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
ファンタジー
書籍化進行中です。詳細はしばらくお待ちください(o´-ω-)o)ペコッ
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。
優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。
やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。
記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。
【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ
2024/12/26……書籍化確定、公表
2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位
2023/12/19……番外編完結
2023/12/11……本編完結(番外編、12/12)
2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位
2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」
2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位
2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位
2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位
2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位
2023/08/14……連載開始
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる