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第12話 一歩違えば夫婦(めおと)の仲
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地の底への帰り道。鞘に納めた剣の先で、こつんこつんと壁を叩く。あるいは床に引きずって、床石の継ぎ目ごとに震動を感じる。隠し通路を探るわけではなく、アレシアを――壁に飲まれた、アシェル・アヴァンセンと名乗った女を――探しているわけでもなく。ただそうしていた、街の子供たちが棒切れで、石畳の道にそうするように。
ため息をつく。何なんだあれは、彼女は、あの壁は? あるいはこの迷宮は。どうすればいい? 分かっているのはただ一つ、帰ったら俺は呑むだろうということだけ。呑もう、という意気があるわけでもない、呑まなければやっていられない、というのでもない。ただ、だったら俺は呑むだろう。いつものように。
何を呑るか。不死鳥の唐黍酎や唐黍酎は俺の血のようなものだが――真っすぐに香り立つ、燃え上がるような血。俺とは大違いだ――、別のものもまたいい。
焦げ色をした褐色糖黍酎にするか、鼻の奥を甘く胃袋を渋く焦がしてくれる。糖黍酎漬けの干し葡萄がうらやましいなどと言う、冒険者も酒場にはいたものだ。馬鈴薯酎もたまにはいい。香りはないに等しいが、剣のような冷やかさで喉を通る。直後に走る、血のにじむような熱さまで刃物そっくりだ。
唾が湧くのを感じながら地下七百二十階を歩き、下層への階段――最下四層への――手前へ差し掛かったところで。ウォレスは足を止めていた。
音がした。こりり、こりり、とかじる音。魔物が骨でもかじっているのかと思ったが、もっと軽い音。まるで木の実でも頬張るような。しかし、地の底にそんな物があるはずもない。
音は続いた、こりこりと。こり、こりりこり、こりこ、こりこ、こり。頭蓋を内から引っかくような音が、耳障りに迷宮に響いた。辺りを見回しても何もない、積み石の壁が視界の果てまで続く迷宮に。
ウォレスは鞘ごと剣を提げた右手を垂らしたまま、左手を鞘に添えた。いつでも抜き打てる体勢。廊下の先に、階段の下に、闇の向こうに視線を巡らし、耳をそばだて、鼻を利かせる。
そうして気づいた、音の響いてくる先。下層への階段、そこから――下階ではなく階段の途中から――聞こえてくる。
構えを解いて階段の前まで歩き、ウォレスは言ってみる。
「何だ、君か? ……また、ずいぶんと気が早いな」
アレシア。彼女だろうとそう思った。他にこの階層を出歩ける者など――ディオンたちが部隊を組んでこない限り――いない。しかし先ほど壁に飲まれたばかり、新たな武器も抜いていないというのに。どういうことだ。
けれど響いてきた声は、絹のようなそれとは違った。
「……ほう。私が分かるか、英雄殿よ」
女の声、けれど低い。耳に引っかかる声だ、迷宮の積み石の間に挟んで、長年かけてすり潰したみたいな声音。しかし齢取っているというわけでもない。聞き覚えがある。確かに、ある。
こりり、と音を立てた後、くちゃくちゃとねぶるような音が続き、同じ声が後を受けた。
「しかし、君、とはご挨拶よな。それほど親しかったとも……いや、そうでもないか。なにせ一歩間違っておれば、私と汝とは夫婦の仲だ。なあ、婿殿よ」
ぱちん、と指を弾く音がして、階段上の空間が震えた。水面のような揺らぎが治まった後、何もなかったそこには女がいた。
薄闇の中、まずはっきりと見えたのは銀縁眼鏡。わずかな光を反射して、ぺかぺかと下品に輝いた。肩に下がる灰色の髪は荒く波打ち、何日も櫛を通していないのが――ウォレスが言うことでもないが――分かった。男ものか、大きなサイズの魔法衣、その下に見え隠れする首飾り。これはウォレスにも覚えがあった。首から下がる金の鎖、その先で金の型にはめ込まれた水晶玉。魔宝珠と呼ばれるそれからこぼれた青紫色の光が彼女の姿を照らす。手にした長い魔導杖も、もう片方の手に持った棒状の焼き菓子も。それを、こりり、とかじる、脂肪に膨れた頬も。
光を放つその首飾りは『王家の魔宝珠』。二十年ほど前に魔王が王宮から――王女と同時に――持ち去った秘宝。そして十三年ほど前、ウォレスたちが迷宮から――王女と同時に抱えて――奪い返した秘宝。
今、それを身につけているのは。かつてウォレスらが救出した王女。魔王を討伐した後、ウォレスと婚約を前提に、顔を見合わせた姫君。なるほど、あの顔に十一年ほどの歳月――それに脂肪――を詰め込んだならこうなるか。残酷にも。
ウォレスは口を開けていた。何を言えばいいか分からなかったが、とにかく口は動いていた。
「ああ、やあ、久しぶりで。姫……や、殿下、か」
喋ることもなしに顔は笑みの形を作り、口は動き続けていた。
「お元気そうで、何より。地上はどうです、変わりはありませ――」
「あるからこうして来ておるのさ。私ほどの者が直々にな」
へし折るようにそう言って、王女はさらに言葉を続けた。
「我が望みの宝珠は、手に入ってはおらんようだが。進展はあるか」
「……進展ってほどのもんはありませんがね。しかしそもそも、龍の宝珠ってのは――」
――いったい何だ。どんな物だ、何のためにある、王宮は何を知ってる? 失われて何が困る。それを使えば、いったいどうなる。それにあんた、どうやってここまで一人で――
口にしようとした言葉の先をかじるように、王女は白い歯を剥いた。そして言う。
「思い違うな。汝らに命じたのは、あくまで王宮による決定。私自身の意思は別だ。……汝らに、あれへ触れて欲しくはない」
ウォレスは眉を寄せた。
「触れるな、と? どういうことです、妙な話ですな。王宮にしろ何にしろ、探せと言ったのはそっち――」
「騒ぐな」
言い放った後、眼鏡を指で押し上げて王女は続けた。
「いいか? 私はあれを、汝らには触れさせん。汝らの出る幕もなく、私が全て終わらせる。……汝らは私が護ってやる、それが私の復讐よ」
復讐。されるいわれなどはないが、彼女がそうするだろう覚えならある。
何しろ言われたことがある、『許しはせぬ』と。ウォレスが婚約について、核心を切り出そうとしたそのときに。
ため息をつく。何なんだあれは、彼女は、あの壁は? あるいはこの迷宮は。どうすればいい? 分かっているのはただ一つ、帰ったら俺は呑むだろうということだけ。呑もう、という意気があるわけでもない、呑まなければやっていられない、というのでもない。ただ、だったら俺は呑むだろう。いつものように。
何を呑るか。不死鳥の唐黍酎や唐黍酎は俺の血のようなものだが――真っすぐに香り立つ、燃え上がるような血。俺とは大違いだ――、別のものもまたいい。
焦げ色をした褐色糖黍酎にするか、鼻の奥を甘く胃袋を渋く焦がしてくれる。糖黍酎漬けの干し葡萄がうらやましいなどと言う、冒険者も酒場にはいたものだ。馬鈴薯酎もたまにはいい。香りはないに等しいが、剣のような冷やかさで喉を通る。直後に走る、血のにじむような熱さまで刃物そっくりだ。
唾が湧くのを感じながら地下七百二十階を歩き、下層への階段――最下四層への――手前へ差し掛かったところで。ウォレスは足を止めていた。
音がした。こりり、こりり、とかじる音。魔物が骨でもかじっているのかと思ったが、もっと軽い音。まるで木の実でも頬張るような。しかし、地の底にそんな物があるはずもない。
音は続いた、こりこりと。こり、こりりこり、こりこ、こりこ、こり。頭蓋を内から引っかくような音が、耳障りに迷宮に響いた。辺りを見回しても何もない、積み石の壁が視界の果てまで続く迷宮に。
ウォレスは鞘ごと剣を提げた右手を垂らしたまま、左手を鞘に添えた。いつでも抜き打てる体勢。廊下の先に、階段の下に、闇の向こうに視線を巡らし、耳をそばだて、鼻を利かせる。
そうして気づいた、音の響いてくる先。下層への階段、そこから――下階ではなく階段の途中から――聞こえてくる。
構えを解いて階段の前まで歩き、ウォレスは言ってみる。
「何だ、君か? ……また、ずいぶんと気が早いな」
アレシア。彼女だろうとそう思った。他にこの階層を出歩ける者など――ディオンたちが部隊を組んでこない限り――いない。しかし先ほど壁に飲まれたばかり、新たな武器も抜いていないというのに。どういうことだ。
けれど響いてきた声は、絹のようなそれとは違った。
「……ほう。私が分かるか、英雄殿よ」
女の声、けれど低い。耳に引っかかる声だ、迷宮の積み石の間に挟んで、長年かけてすり潰したみたいな声音。しかし齢取っているというわけでもない。聞き覚えがある。確かに、ある。
こりり、と音を立てた後、くちゃくちゃとねぶるような音が続き、同じ声が後を受けた。
「しかし、君、とはご挨拶よな。それほど親しかったとも……いや、そうでもないか。なにせ一歩間違っておれば、私と汝とは夫婦の仲だ。なあ、婿殿よ」
ぱちん、と指を弾く音がして、階段上の空間が震えた。水面のような揺らぎが治まった後、何もなかったそこには女がいた。
薄闇の中、まずはっきりと見えたのは銀縁眼鏡。わずかな光を反射して、ぺかぺかと下品に輝いた。肩に下がる灰色の髪は荒く波打ち、何日も櫛を通していないのが――ウォレスが言うことでもないが――分かった。男ものか、大きなサイズの魔法衣、その下に見え隠れする首飾り。これはウォレスにも覚えがあった。首から下がる金の鎖、その先で金の型にはめ込まれた水晶玉。魔宝珠と呼ばれるそれからこぼれた青紫色の光が彼女の姿を照らす。手にした長い魔導杖も、もう片方の手に持った棒状の焼き菓子も。それを、こりり、とかじる、脂肪に膨れた頬も。
光を放つその首飾りは『王家の魔宝珠』。二十年ほど前に魔王が王宮から――王女と同時に――持ち去った秘宝。そして十三年ほど前、ウォレスたちが迷宮から――王女と同時に抱えて――奪い返した秘宝。
今、それを身につけているのは。かつてウォレスらが救出した王女。魔王を討伐した後、ウォレスと婚約を前提に、顔を見合わせた姫君。なるほど、あの顔に十一年ほどの歳月――それに脂肪――を詰め込んだならこうなるか。残酷にも。
ウォレスは口を開けていた。何を言えばいいか分からなかったが、とにかく口は動いていた。
「ああ、やあ、久しぶりで。姫……や、殿下、か」
喋ることもなしに顔は笑みの形を作り、口は動き続けていた。
「お元気そうで、何より。地上はどうです、変わりはありませ――」
「あるからこうして来ておるのさ。私ほどの者が直々にな」
へし折るようにそう言って、王女はさらに言葉を続けた。
「我が望みの宝珠は、手に入ってはおらんようだが。進展はあるか」
「……進展ってほどのもんはありませんがね。しかしそもそも、龍の宝珠ってのは――」
――いったい何だ。どんな物だ、何のためにある、王宮は何を知ってる? 失われて何が困る。それを使えば、いったいどうなる。それにあんた、どうやってここまで一人で――
口にしようとした言葉の先をかじるように、王女は白い歯を剥いた。そして言う。
「思い違うな。汝らに命じたのは、あくまで王宮による決定。私自身の意思は別だ。……汝らに、あれへ触れて欲しくはない」
ウォレスは眉を寄せた。
「触れるな、と? どういうことです、妙な話ですな。王宮にしろ何にしろ、探せと言ったのはそっち――」
「騒ぐな」
言い放った後、眼鏡を指で押し上げて王女は続けた。
「いいか? 私はあれを、汝らには触れさせん。汝らの出る幕もなく、私が全て終わらせる。……汝らは私が護ってやる、それが私の復讐よ」
復讐。されるいわれなどはないが、彼女がそうするだろう覚えならある。
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