喪失迷宮の続きを

木下望太郎

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第10話  帰ってきた者

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 それから後は当てもなく、宝珠を奪った者の痕跡を探した。転移魔法を繰り返した後、とりあえず地下四百五十一階から歩き回る。

 北西隅、上階からの階段を始点に南へ十六歩、そこで角を東へ曲がった。もし真っすぐ行っていたなら転移魔法の仕掛けられた床だ、東端の通路に飛ばされることになっていた。もちろん飛ばされたなら飛ばされたで道順は分かっているし、最終的にこの階はそういった床を利用しないと、下階への階段にはたどり着けない。
 とはいえウォレスなら、転移の呪文を使いさえすれば瞬間的に移動もできたし――迷宮の構造を把握しない者が使えば、うっかり石壁や地面の中に実体化してそれらと混ざり合ったまま絶命するだろう――、そうする以前に足が覚えている、間違いようがない。現にサンダルを引きずりながら通路を進み、出会った魔物を斬り捨てたり壁に頭を押しつけて潰したり素手で腹を引き裂いたりしながらも、足は自然と特定の石畳――踏めば作動する罠のスイッチ――を避けていた。

 部屋から部屋、通路から通路。巡りながら考えていた、狩りながら考えていた。これまでの毎日と変わらぬ行為を繰り返しながら、それでも今日は考えていた。ディオンに言われたからではなく、ジェイナスと比べたからでもないが――いや、悔しいが実際はそうだ――、なぜ九年間もこうしているのだろう? なぜ? 

 そこに迷宮があるからだ、そう言えば格好もつくか。だがそれは実際、事実とは遠い。ならなぜ? 宝物を漁る物欲か? 魔物を屠る戦闘欲か? それらがないわけではないが、それらがあるからではない。あったところで全ての宝は見飽きたし、全ての魔物は殺し飽きた。ならばなぜ続けている。

 足を止め、深く息をつき、頬の返り血を拭う。目の前には分かれ道を備えた通路が遠く、寝ぼけたような薄闇の中へ融け落ちている。

 ずっと見てきた景色だった。この九年間、だけではなく。その前の九年間、初めて迷宮に入った十六の頃から、仲間と――別れた仲間、逃げた仲間、喪失された仲間、怒ってウォレスを追い出した仲間、かつての仲間、色々だ――共に戦った。この迷宮、時には魔王の配下が陣取る他の迷宮。様々な場所で戦って、それでもやはり同じだった。いつも迷宮がそこにあった。
 ウォレスは迷宮を駆けた、今のウォレスは。九年前のウォレスも。十年前のウォレスも、十一年前のウォレスも。十二年前も、十三年前、十四年前、十五年前十六年十七と十八年前のウォレスも。駆けた。幾多の罠を越え、行く手の魔物を屠りながら駆けた。

 ずっとそうだった。ずっとそうだったのだ。立ち止まれないほどに駆けてきたのだ。やめてしまえばそれが、終わってしまう。嘘になってしまう。

 きっとウォレスがここにいるのは、そこに迷宮しかないからだ。他の何もないからだ。



 ウォレスがジェイナスに気づいたのはほどなく、地下四百五十三階のことだった。
 出くわしたのはたまたまだ。足音ではなく、誰かと話す声が近くまで来て聞こえた。比較的深い階層ではあるが、彼がいること自体はさほど珍しくない。おそらく人間としては、ウォレスの次かその次に強いのが彼だった。

 珍しいのは、ジェイナス以外の話し声がここでしたことだ。ウォレスの次かその次に強いもう一人は、話にならない類の人間だ――戦士サリッサ、彼女は恋人を殺した竜|《ドラゴン》を追っている。彼女が言う特徴のドラゴンをウォレスはかつて探し出し、一緒に倒してやった。彼女はそれからも、恋人を殺したドラゴンを追っている。出会った生き物を見境なく、仇と思って殺しながら――。

 聖騎士ジェイナスが慈悲深いとはいえ、サリッサを説得しようとは思うまい。第一、向こうが斬りかかってくるのに話も何もない。ということは、一緒にいるのは彼女以外。そしてその二人とウォレス以外、この階層をうろつくことができるのは、まず一番にアミタだった。彼女なら――よほど下層はどうか知らないが――迷宮のどこでいても魔物に襲われることはない。話だって、向こうの機嫌が特別によければできなくもない。

 足音を忍ばせて声の方へ近づき、しかしそうするうちに落胆した。はっきりと聞こえ出したもう一人の声は男のものだ。それと重なるように聞こえるジェイナスの声は興奮した様子で大きく、そして、咆えるような泣き声に変わった。

「……ええ?」
 思わずつぶやいてウォレスは駆けた。何があった? それに、相手は誰だ。迷宮では聞き覚えのない声だった。

 角を曲がったそこで見たのは。ウォレスより頭一つ大きなジェイナスが、さらに頭一つ大きな男に、抱きついて泣く姿だった。
「……えええ?」

 ウォレスのつぶやきにジェイナスは顔を上げる。上げた面頬の下で顔は赤く、豊かな白髭は涙と鼻水に濡れそぼっていた。
「おお、ウォレス、おお! 喜べ、喜んでくれ!」
 ウォレスへ飛びつき、肩を抱き締める。小手に覆われた手が妙に生温かかった。
「奇跡だ、まさに奇跡なのだぞ! ああ失敬、取り乱した――」
 取り出したハンカチで顔中を拭い、盛大な音を立てて鼻をかむ。相手の男を示して言った。
「紹介しよう。彼こそ我が敬愛する仲間、信頼する我が友! 迷宮の闇を断ち割る我らが斧!  戦士バルタザール!」
「……え?」
 戦士バルタザール。その名には聞き覚えがあった、無論ジェイナスの名ほどではないが。彼の仲間として高名な戦士。すでに喪失された戦士。

 紹介された肩幅の広い男は、面映げに浅黒い頬を緩めた。武具の類は身に着けていなかったが、はち切れそうな筋肉が簡素なシャツの上から見て取れた。
「勘弁してくれ、何だよその大層な言い方。あー……どうも、バルタザールだ」
 ウォレスの顔から爪先までを何度か見て、バルタザールは納得したようにうなずいた。
「ウォレスって、ああ。魔剣士ウォレスか。何度かは会ったな、その様子じゃずいぶん経ってるみたいだが……何年ぶりってことになるんだ?」

 ウォレスの中でようやく、おぼろげながら記憶が像を結ぶ。戦士バルタザール、そうだ、姫の救出のため協力し合ったときの、屈強な大斧使い。それから後に酒場で出会って、挨拶あいさつがてら軽く呑んだこともあった。だが、しかし。

 ウォレスが何も言えずにいると、ジェイナスが友の肩を叩きながら声を上げた。
「十年だ! 十年ぶりだぞ友よ、剣の柄に誓って申すが! お前たちが喪失されてから!」
 うなずきかけてウォレスの動きが止まる。今何と言った、この人は? 喪失と? 

 そんなになるか、とバルタザールとうなずきあった後。ジェイナスは振り返り、寂しげに笑った。
「どうしたかな、ウォレス。……拙者とて分かっていたわ、彼らが喪失されたことは」
 目をつむり、うつむく。それから言葉を続けた。
「分かっていた。分かってなど、いたくはなかっただけのことよ。忘れていた、忘れたことにしていたのだ。あるいは本当に忘れていた、だがその度に思い出してしまう、彼らの喪失を、その度に忘れその度に……」
 長く長く息をこぼし、バルタザールへ向けて顔を上げた。
「友よ。残念ながら、そして喜ぶべきことに。魔王は既にこの、暗闇の果てにもいや増し輝く希望の光、英雄ウォレスとその仲間たちが討ち取ったのだが。それより、我らが他の仲間は」

 バルタザールは視線をうつむけ、かぶりを振る。
「どうやら、俺だけらしいな。こうして出てこれたのは。よく分からんのだが、封印が解かれただか何だか……」
 ウォレスは顔を上げ、バルタザールの顔を見た。だが、戦士はジェイナスの顔を見ている。
「それに俺も、長くこうしていられるもんでもないらしい。残念ながらな」
 ウォレスが口を開くより、先にジェイナスが声を上げた。
「なんと、まことか友よ! ならば、ならばせめて共に呑もうぞ! 任せよ、上の階に葡萄酒を隠してある。そうだ、ウォレスよ。お主も祝杯を上げてくれぬか」
 口を開けたままでいた後、ウォレスは首を横に振った。
「……いや、邪魔しちゃ悪いや。どうぞ、お二人で」
「そうか。そうさせてもらうか、ではこれにて」

 肩を組んで遠ざかっていく二人の男を見ながら、ウォレスは口を開けていた。やがて気づけば、膝が震えていた。
 帰ってきた? 喪失された人間が? アレシア以外にも? 
 震えはやがて手に伝染した。その指先がズボンに当たり、ポケットの中で音が鳴る。欠片のこすれる音。アレシアに渡された欠片。
 封印とやらを解いたから? 帰ってきた? さらに封印を解いたなら? 

「……バカバカしい」
 息を一つつく。それでも足は歩み出し、やがて小走りになる。駆け出し、舌打ちして転移の呪文を唱えた。

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