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第6話 聖騎士ジェイナス
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「鍵のように、鍵のように、ね」
地下七十四階。店主からつけで買った剣――いつも使っているのと似た、何の変哲もないもの――を提げて、ウォレスは一人歩いていた。
ばかばかしいとは思っている。この迷宮に隠し通路だとか隠し区域などは無い。少なくとも今のウォレスにとっては。なにせ、調べたことがある。全ての階の床と壁を。石畳を叩き、壁の音を聞き、透視魔法を逐一使った。階の構造にもよるが、一階につき一日二日で済んだ――もちろんウォレスでなければ、それが済む遥か前に魔力が尽きるだろう。戦闘も帰還もできないほどに――。二年以上かかった計算だが、終わったときには本当に残念だった。成果というほどの成果はなかったが、それ以上に。終わってしまったことが。
南西側へと向かう前に、知った足音を一つ聞いて。ウォレスは先に声を上げた。
「旦那、久しぶりですな」
行進でもしているかのような規則正しい足音が、鎧をがちゃつかせる音と共にいくつかの角を曲がって近づいてくる。鎧兜に身を包んだ騎士。迷宮の中でも浮かび上がるようであったろう白銀色の武具は埃にまみれ、闇の中でぼやけていた。
その男は厚い胸板の奥から張りのある声を上げる。
「久方ぶりだな、息災であったか」
背筋を伸ばした男は兜の面頬――顔面を守る装甲部――を持ち上げ、顔を見せる礼を取る。藻にも似た白髭が滑り落ち、胸の前で柔らかに垂れた。
ウォレスは微笑む。
「ええ旦那、おかげさんで――」
無事ですよ、そう言いかけたときに男の目は見開かれた。染みの散った白目を剥き出し、小手に覆われた手でウォレスの手を取る。
「ウォレス、ウォレスどうした! 他の五人は、それに武具は! おお、おお、いったい――」
叫ぶ男の顔へ、切りつけるように皺が走る。口の動きに合わせ皺は刻まれ、たるみ、また深く彫り込まれ、にじんだ汗がそこを流れる。握り締めてくる小手はいよいよ冷たく震えていた。
「――お主ほどの強者がどうしてしまったのだ! 何にやられた、罠か、竜か、そうか悪魔がよほどの群れで出たか? あああ他の五人は、どこだ、まさか、そ、迷宮に、そう――」
溝を思わせるにおいの唾を浴びながら、ウォレスはゆっくりと男の指をはがした。意識して微笑んだまま、努めて優しく語りかける。
「旦那、大丈夫ですよジェイナスの旦那。なに、今日はちょっと修行でね、あえて一人で来てるんです。他のは地上で高い宿取って、今はごろごろしてますよ」
「その格好は」
羽織ったローブの端をつまみ、ウォレスはゆっくり喋ってやった。
「防具に、頼らない修行ですよ。ぼちぼちしたら切り上げますんで、ご心配なく。先輩」
ジェイナスは長くそのままの顔でいて、やがて、ほう、と息をついた、長く。息を吐きながら身を曲げ、腰を折り、そのまましゃがみ込んでしまいそうだった。
「よかった……。いやはや、安心したわい」
身を起こす。顔を上げたジェイナスの顔は汗の玉こそ浮かんでいたものの、皺はわずかな跡だけを残して消えていた。
「いやはや、よかった。さようであろうな。剣の柄に誓って申すが、お主がそうそう不覚を取るはずもない。これはしたり、拙者の方の不覚であったわい」
ウォレスは同じ表情を作ってうなずく。聖騎士ジェイナスは大先輩だ、二度ほど命を救われたこともある。同じ一団に属したことこそないが、姫を救出した際には彼の指揮下で共闘したものだ。
彼らが護衛の竜と戦ううちに、ウォレスらが雑魚を斬り倒して姫君をさらった――いや、救った。彼女がどう感じたかはともかくとして――。何にせよ彼に、今さら無礼はしたくなかった。それに喪失などとは、言わせるにしのびなかった。
敵には強く勇敢で、人を蹴落とすことはなく、弱者へ進んで手を差し伸べ。仲間をただの一人とて、喪失させたことはない。それが彼の評判であったし、実際であったし、誇りであるのだろう。
ジェイナスは再び息をつき、兜を脱いだ。胸元からハンカチを引っ張り出し、はたくように顔中の汗を拭う。
「いやはやまったく、失敬した。さて、そろそろ拙者は行かねばならぬ。今日はもう少し下で探してみるつもりだ。……やれやれ」
穏やかに笑ってかぶりを振る。兜を脇に抱えたまま、背を向けて歩き出した。
「お主の方は良いが、拙者の方の仲間はどこで迷っておるのか。もう少し、もう少しで、魔王めの首に手が届くというに」
姫を救出してから後、ウォレスが魔王を倒すより前、ジェイナスの仲間は喪失された。彼自身も死んでいた。間違いない、ウォレスもたまたまその場に出くわしたのだから。
黒光りする蝙蝠のような翼を広げた悪魔の群れの中、見覚えのある装備五人分が散らばり、わずかに残った骨が融けるように床へ沈んでいた。残ったジェイナスは兜を跳ね飛ばされた頭から血を流し、裂かれた腹の隙間から膨れた紐のような中身をのぞかせ、横たわり動かなかった。慌ててウォレスが不死鳥の唐黍酎をねじ込んだため、ジェイナスの喪失は免れた。
そして今。闇の中、くすんだ灰色の影が遠ざかっていく。鎧と抱えた兜と、後頭部の頭蓋骨。死んでいたときに床についていたそこは彼の仲間と共に喪失されて髪も肌もなく、今も茶色味を帯びた灰色の骨をさらしている。あの霊酒を呑ませた以上、その傷も治っていてしかるべきではあったが。そこだけが仲間を追ったように喪失されたままだった。今はもう皮と薄い肉が頭蓋の縁で腫れたように盛り上がり、くっついてしまっていた。
遠ざかる影にウォレスは声をかけた。
「旦那、ご武運を」
「うむ、そして互いの仲間にも」
やがて足音は下り階段へと向かい、沈むように消えていった。
ウォレスは長く息をついた。音を立てて首を鳴らす。
「さて」
ようやく人に見とがめられる心配はなくなった。足音も隠さず南西の方へと向かう。
地下七十四階。店主からつけで買った剣――いつも使っているのと似た、何の変哲もないもの――を提げて、ウォレスは一人歩いていた。
ばかばかしいとは思っている。この迷宮に隠し通路だとか隠し区域などは無い。少なくとも今のウォレスにとっては。なにせ、調べたことがある。全ての階の床と壁を。石畳を叩き、壁の音を聞き、透視魔法を逐一使った。階の構造にもよるが、一階につき一日二日で済んだ――もちろんウォレスでなければ、それが済む遥か前に魔力が尽きるだろう。戦闘も帰還もできないほどに――。二年以上かかった計算だが、終わったときには本当に残念だった。成果というほどの成果はなかったが、それ以上に。終わってしまったことが。
南西側へと向かう前に、知った足音を一つ聞いて。ウォレスは先に声を上げた。
「旦那、久しぶりですな」
行進でもしているかのような規則正しい足音が、鎧をがちゃつかせる音と共にいくつかの角を曲がって近づいてくる。鎧兜に身を包んだ騎士。迷宮の中でも浮かび上がるようであったろう白銀色の武具は埃にまみれ、闇の中でぼやけていた。
その男は厚い胸板の奥から張りのある声を上げる。
「久方ぶりだな、息災であったか」
背筋を伸ばした男は兜の面頬――顔面を守る装甲部――を持ち上げ、顔を見せる礼を取る。藻にも似た白髭が滑り落ち、胸の前で柔らかに垂れた。
ウォレスは微笑む。
「ええ旦那、おかげさんで――」
無事ですよ、そう言いかけたときに男の目は見開かれた。染みの散った白目を剥き出し、小手に覆われた手でウォレスの手を取る。
「ウォレス、ウォレスどうした! 他の五人は、それに武具は! おお、おお、いったい――」
叫ぶ男の顔へ、切りつけるように皺が走る。口の動きに合わせ皺は刻まれ、たるみ、また深く彫り込まれ、にじんだ汗がそこを流れる。握り締めてくる小手はいよいよ冷たく震えていた。
「――お主ほどの強者がどうしてしまったのだ! 何にやられた、罠か、竜か、そうか悪魔がよほどの群れで出たか? あああ他の五人は、どこだ、まさか、そ、迷宮に、そう――」
溝を思わせるにおいの唾を浴びながら、ウォレスはゆっくりと男の指をはがした。意識して微笑んだまま、努めて優しく語りかける。
「旦那、大丈夫ですよジェイナスの旦那。なに、今日はちょっと修行でね、あえて一人で来てるんです。他のは地上で高い宿取って、今はごろごろしてますよ」
「その格好は」
羽織ったローブの端をつまみ、ウォレスはゆっくり喋ってやった。
「防具に、頼らない修行ですよ。ぼちぼちしたら切り上げますんで、ご心配なく。先輩」
ジェイナスは長くそのままの顔でいて、やがて、ほう、と息をついた、長く。息を吐きながら身を曲げ、腰を折り、そのまましゃがみ込んでしまいそうだった。
「よかった……。いやはや、安心したわい」
身を起こす。顔を上げたジェイナスの顔は汗の玉こそ浮かんでいたものの、皺はわずかな跡だけを残して消えていた。
「いやはや、よかった。さようであろうな。剣の柄に誓って申すが、お主がそうそう不覚を取るはずもない。これはしたり、拙者の方の不覚であったわい」
ウォレスは同じ表情を作ってうなずく。聖騎士ジェイナスは大先輩だ、二度ほど命を救われたこともある。同じ一団に属したことこそないが、姫を救出した際には彼の指揮下で共闘したものだ。
彼らが護衛の竜と戦ううちに、ウォレスらが雑魚を斬り倒して姫君をさらった――いや、救った。彼女がどう感じたかはともかくとして――。何にせよ彼に、今さら無礼はしたくなかった。それに喪失などとは、言わせるにしのびなかった。
敵には強く勇敢で、人を蹴落とすことはなく、弱者へ進んで手を差し伸べ。仲間をただの一人とて、喪失させたことはない。それが彼の評判であったし、実際であったし、誇りであるのだろう。
ジェイナスは再び息をつき、兜を脱いだ。胸元からハンカチを引っ張り出し、はたくように顔中の汗を拭う。
「いやはやまったく、失敬した。さて、そろそろ拙者は行かねばならぬ。今日はもう少し下で探してみるつもりだ。……やれやれ」
穏やかに笑ってかぶりを振る。兜を脇に抱えたまま、背を向けて歩き出した。
「お主の方は良いが、拙者の方の仲間はどこで迷っておるのか。もう少し、もう少しで、魔王めの首に手が届くというに」
姫を救出してから後、ウォレスが魔王を倒すより前、ジェイナスの仲間は喪失された。彼自身も死んでいた。間違いない、ウォレスもたまたまその場に出くわしたのだから。
黒光りする蝙蝠のような翼を広げた悪魔の群れの中、見覚えのある装備五人分が散らばり、わずかに残った骨が融けるように床へ沈んでいた。残ったジェイナスは兜を跳ね飛ばされた頭から血を流し、裂かれた腹の隙間から膨れた紐のような中身をのぞかせ、横たわり動かなかった。慌ててウォレスが不死鳥の唐黍酎をねじ込んだため、ジェイナスの喪失は免れた。
そして今。闇の中、くすんだ灰色の影が遠ざかっていく。鎧と抱えた兜と、後頭部の頭蓋骨。死んでいたときに床についていたそこは彼の仲間と共に喪失されて髪も肌もなく、今も茶色味を帯びた灰色の骨をさらしている。あの霊酒を呑ませた以上、その傷も治っていてしかるべきではあったが。そこだけが仲間を追ったように喪失されたままだった。今はもう皮と薄い肉が頭蓋の縁で腫れたように盛り上がり、くっついてしまっていた。
遠ざかる影にウォレスは声をかけた。
「旦那、ご武運を」
「うむ、そして互いの仲間にも」
やがて足音は下り階段へと向かい、沈むように消えていった。
ウォレスは長く息をついた。音を立てて首を鳴らす。
「さて」
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