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第5話 覇王樹亭(サルーン・カクタス)
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「お久し振りで、先生。お珍しい、ずいぶんかわいらしい方をお連れで」
そう言ったのだ、何度も転移した先、地下五十二階、『覇王樹亭』の店主は。スキンヘッドを――まだ若いのに――てからせて。カウンターの向こうで、飾り気のない石壁を背にして。
なるほど、吊るされたカンテラの明かりの下、カウンターにかけたウォレスの横には。確かにアレシアがいた。息も切らさず、ずっと前からその席にいたような顔で。加えて言えば、訳知りの常連のような顔で。
応えず、ウォレスは言う。
「麦酒をくれ。『濃いの』……いや、『軽いの』を」
すぐに注文の麦酒と、濡れたタオルが出された。それでウォレスは顔も洗っていないことに気づく。髭をこする音を立てて顔を拭いた。息をついて顔を上げると、アレシアの前にも同じ麦酒が置かれていた。
ウォレスは肩を落とし、息をつく。かぶりを振った。
「人か魔か……とは言うが。人ではないだろ。何だ、君は。俺も知らない魔物が迷宮にいるとはな」
アレシアは応えず陶のジョッキを取った。こくこくと音を立てて日に焼けた喉を動かし、その髪の色にも似た麦酒を半分ほど一息に飲む。下品に息を吐き出しはせず、満足げに薄く笑った。唇は濡れて紅い。
ウォレスは口を開いたが、それから声をかけあぐねた。口をつぐんで、目をそらせて、それでもまた見てしまう。
なんてこった。まるきり同じだ、十六の頃と俺は。あるいはアレシアの顔をしたこれも。
ウォレスはジョッキを口につけた。雲のような泡は含んだ端から柑橘の皮に似た香りを漂わせる。呑みつけた匂い、それでいてあの日の麦酒とは違う匂い。快い苦味。
喉の奥へと爽やかな香りを染みつけ、息をついた。ジョッキを置く。カウンターに肘をつき、指を組んでから言った。
「細かい話はいい、大事なことからいこう。何をしに来た」
アレシアは喉を鳴らし、ころころと笑う。
「ごあいさつ。ずいぶんなごあいさつだね、ぼく。大切なのはそう、まずは始めのごあいさつ。お久し振り、とそう言うの」
「やめろ」
さえぎるように言って、ウォレスは続けた。
「……やめろ。あの人みたいな口をきくな」
「これじゃあね。不幸ってもんだね、礼儀のなってない後輩を持つと」
アレシアが鼻で息をつき、膨れっつらで頬杖をつく。黒の魔法衣、ゆったりとしたサイズのそれから胸元が見えそうになり、けれど見えなかった。これだけはあのときとは違う、あのときははだけた胸元が見えた。そうだった、よく覚えている。
「そう、あのときもそうだったね、そういうもの欲しそうな目で。簡単そうなぼくだったこと」
言われて、ウォレスの鼻に匂った。あの店の埃と脂と、樹脂の匂い。
その間にアレシアは喋った。耳に滑り込んで鼓膜をくすぐる、絹のような感触の声。
「帰って来れる。帰って来れるの、昔のままに。今はほんの少しだけど」
「……あ?」
「帰って来れるの、喪失迷宮から。今のわたしみたいにね。続けられるの」
アレシアが身を乗り出す。襟元が揺れる。そこからも目を離しがたいが、かといってその唇や、目からも同様だ。そしてこの声。
「ウォレス・ヴォータック……で、合ってたよね? 名字とか。まあいいや、迷宮を知り尽くした君がね、知らない所へ行って欲しいの。この迷宮の中で」
片手でウォレスの手を取り、もう片方の手を――細い指だ、ちぎり捨ててしまえそうなほど――そこへ被せる。掌で口づけるように。
その手が離れて、取り残されたウォレスの手の上に、何か白い欠片が残されていた。白く、わずかに丸みを帯びた陶器の破片のような。片側は石のようにざらつき、裏はすべすべとしている。
「わたしがあげられる唯一のもの、失くさないで。地下七十四階南西の隅、そこへそれを触れさせるの。鍵のように、鍵のようにね」
アレシアは手にしたジョッキを垂直にあおり、残りの麦酒を一息に呑む。席を立った。
「奥にあるんだ、君の知らないもの。手に入れて、そうしていけば解放される。地下に囚われていたものが。手に入れて、そしたら取りに行く。また会えるよ……ぼく」
忙しく言ってアレシアは駆けた。飛び立つ小鳥のようだった。もちろん無理やりにその手をつかむことも、ウォレスなら容易にできたはずだが。そうしようとは考えつかなかった。夢のようだと思っていたし、実際に悪い夢なのだと考えていた。アレシアに起こされた夢を見ながら、まだ眠っているのだと。
けれど、掌の上で欠片は冷たい。
それを眺めていると、店主が皿を運んできた。その上で半切りのパンに挟まれているのはここが迷宮であることを疑いたくなるほど、みずみずしさの張り詰めた葉菜と薄切りの甘タマネギ。あえて漬け過ぎたピクルスは歯応えのあるだろう厚切り。表面に硬く焦げ目をつけた分厚いハムの上では、薄いチーズがとろけて原型を失いつつある。別の客のために奥で焼かせていたのを、こちらへよこしてくれたのだろう。
店主はウォレスの前に皿を置き、同じものをもう一つ手にしたまま辺りを見回す。
溶けたチーズがソースと肉汁に混ざるのを見ながら――酒精に荒れ果てた胃がわずかに鳴るのを聞きながら――ウォレスは言った。
「……帰ったよ、連れじゃあない。今は手ぶらなんだ、二人前つけといてくれ」
まともなものが食べたくなったときや別の酒が欲しくなったときはここに来て、迷宮の品と交換に呑み食いしたり酒を持ち帰っている。つけで買うのは初めてだった。
「それと聞きたいんだが。見たことあるかい、さっきの」
店主は肩をすくめる。
「さて、どうでしたか」
『覇王樹亭』は情報屋ではない。少なくとも、人間の所在に関して洩らすことは絶対になかった。どんな悪党でも立ち寄れる酒場であること、それがこの店を守っていた。砂地に生える覇王樹の棘のように。
「じゃあそうだな……何だ、さっきの奴、強いかい? あんたの目で見て」
店主は苦笑した。短く刈り込んだ顎鬚をなでて言う。
「ご冗談を。素人でしょう、たとえ魔導師にしたって無防備過ぎる。店の中とはいえ、武器を手放していられるなんてね。地下五十二階を歩くには向きませんよ」
ウォレスは笑いそうになってこらえた。似たようなもんだ、この辺だって地上と。生息する魔物の質は下層と比べものにならないし、そもそも軽いのだ、空気が。地上くさい。乾いた風、昼夜の気温の移り変わり、雨の日の重い湿り気。大気の気配があり、変化がある。
地の底は違う。湿り気を帯びた冷たさに満ちているようでいて、慣れればはらわたの中にもぐり込んだみたいに生温い空気。それだけだ。そこに変化はなく、戦闘と探索と蒐集以外――つまり迷宮以外――の何もない。ウォレスが必要なもの以外の何も。
「ああそうだ、まったくだな」
麦酒をあおってごまかし、もっともらしい顔でうなずく。
とはいえ、店主の意見ももっともではあった。この辺にしたってウォレス以外の人間が住む最下層に近い。店の類としては少なくとも一番下だ――だからこそ用があればここに来る。地下五十階より上は数年行っていない――。地上にいられない事情がある者でもなければこんな場所に居つきはしない。
この店主からして素手で人の首をもぎ捨てられる類の人間だし、おそらくそうしてきたのだろう。大体、その店主ですら迷宮の半分も自由に歩けるわけではなかった。何年前か忘れたが、地下三百階辺りで巨大な蜥蜴に喰われかけていたのを助けたことがある。そのときからのつき合いだ――名前は覚えていないが。
しかし、とウォレスは考えた。あの女がアレシアのはずはない。だが、だったら何なのだ。魔物か何かが化けたにせよ、なぜ彼女を知っている。彼女と出会ったときのことを知っている。それにどうやって――泥酔していたとはいえ――ウォレスに気取られずに部屋へ入ったのだ、最下層の。
頭をかきむしり、麦酒をあおった。
「何なんだ、あれは」
夢でなければ何なのだ。
そう言ったのだ、何度も転移した先、地下五十二階、『覇王樹亭』の店主は。スキンヘッドを――まだ若いのに――てからせて。カウンターの向こうで、飾り気のない石壁を背にして。
なるほど、吊るされたカンテラの明かりの下、カウンターにかけたウォレスの横には。確かにアレシアがいた。息も切らさず、ずっと前からその席にいたような顔で。加えて言えば、訳知りの常連のような顔で。
応えず、ウォレスは言う。
「麦酒をくれ。『濃いの』……いや、『軽いの』を」
すぐに注文の麦酒と、濡れたタオルが出された。それでウォレスは顔も洗っていないことに気づく。髭をこする音を立てて顔を拭いた。息をついて顔を上げると、アレシアの前にも同じ麦酒が置かれていた。
ウォレスは肩を落とし、息をつく。かぶりを振った。
「人か魔か……とは言うが。人ではないだろ。何だ、君は。俺も知らない魔物が迷宮にいるとはな」
アレシアは応えず陶のジョッキを取った。こくこくと音を立てて日に焼けた喉を動かし、その髪の色にも似た麦酒を半分ほど一息に飲む。下品に息を吐き出しはせず、満足げに薄く笑った。唇は濡れて紅い。
ウォレスは口を開いたが、それから声をかけあぐねた。口をつぐんで、目をそらせて、それでもまた見てしまう。
なんてこった。まるきり同じだ、十六の頃と俺は。あるいはアレシアの顔をしたこれも。
ウォレスはジョッキを口につけた。雲のような泡は含んだ端から柑橘の皮に似た香りを漂わせる。呑みつけた匂い、それでいてあの日の麦酒とは違う匂い。快い苦味。
喉の奥へと爽やかな香りを染みつけ、息をついた。ジョッキを置く。カウンターに肘をつき、指を組んでから言った。
「細かい話はいい、大事なことからいこう。何をしに来た」
アレシアは喉を鳴らし、ころころと笑う。
「ごあいさつ。ずいぶんなごあいさつだね、ぼく。大切なのはそう、まずは始めのごあいさつ。お久し振り、とそう言うの」
「やめろ」
さえぎるように言って、ウォレスは続けた。
「……やめろ。あの人みたいな口をきくな」
「これじゃあね。不幸ってもんだね、礼儀のなってない後輩を持つと」
アレシアが鼻で息をつき、膨れっつらで頬杖をつく。黒の魔法衣、ゆったりとしたサイズのそれから胸元が見えそうになり、けれど見えなかった。これだけはあのときとは違う、あのときははだけた胸元が見えた。そうだった、よく覚えている。
「そう、あのときもそうだったね、そういうもの欲しそうな目で。簡単そうなぼくだったこと」
言われて、ウォレスの鼻に匂った。あの店の埃と脂と、樹脂の匂い。
その間にアレシアは喋った。耳に滑り込んで鼓膜をくすぐる、絹のような感触の声。
「帰って来れる。帰って来れるの、昔のままに。今はほんの少しだけど」
「……あ?」
「帰って来れるの、喪失迷宮から。今のわたしみたいにね。続けられるの」
アレシアが身を乗り出す。襟元が揺れる。そこからも目を離しがたいが、かといってその唇や、目からも同様だ。そしてこの声。
「ウォレス・ヴォータック……で、合ってたよね? 名字とか。まあいいや、迷宮を知り尽くした君がね、知らない所へ行って欲しいの。この迷宮の中で」
片手でウォレスの手を取り、もう片方の手を――細い指だ、ちぎり捨ててしまえそうなほど――そこへ被せる。掌で口づけるように。
その手が離れて、取り残されたウォレスの手の上に、何か白い欠片が残されていた。白く、わずかに丸みを帯びた陶器の破片のような。片側は石のようにざらつき、裏はすべすべとしている。
「わたしがあげられる唯一のもの、失くさないで。地下七十四階南西の隅、そこへそれを触れさせるの。鍵のように、鍵のようにね」
アレシアは手にしたジョッキを垂直にあおり、残りの麦酒を一息に呑む。席を立った。
「奥にあるんだ、君の知らないもの。手に入れて、そうしていけば解放される。地下に囚われていたものが。手に入れて、そしたら取りに行く。また会えるよ……ぼく」
忙しく言ってアレシアは駆けた。飛び立つ小鳥のようだった。もちろん無理やりにその手をつかむことも、ウォレスなら容易にできたはずだが。そうしようとは考えつかなかった。夢のようだと思っていたし、実際に悪い夢なのだと考えていた。アレシアに起こされた夢を見ながら、まだ眠っているのだと。
けれど、掌の上で欠片は冷たい。
それを眺めていると、店主が皿を運んできた。その上で半切りのパンに挟まれているのはここが迷宮であることを疑いたくなるほど、みずみずしさの張り詰めた葉菜と薄切りの甘タマネギ。あえて漬け過ぎたピクルスは歯応えのあるだろう厚切り。表面に硬く焦げ目をつけた分厚いハムの上では、薄いチーズがとろけて原型を失いつつある。別の客のために奥で焼かせていたのを、こちらへよこしてくれたのだろう。
店主はウォレスの前に皿を置き、同じものをもう一つ手にしたまま辺りを見回す。
溶けたチーズがソースと肉汁に混ざるのを見ながら――酒精に荒れ果てた胃がわずかに鳴るのを聞きながら――ウォレスは言った。
「……帰ったよ、連れじゃあない。今は手ぶらなんだ、二人前つけといてくれ」
まともなものが食べたくなったときや別の酒が欲しくなったときはここに来て、迷宮の品と交換に呑み食いしたり酒を持ち帰っている。つけで買うのは初めてだった。
「それと聞きたいんだが。見たことあるかい、さっきの」
店主は肩をすくめる。
「さて、どうでしたか」
『覇王樹亭』は情報屋ではない。少なくとも、人間の所在に関して洩らすことは絶対になかった。どんな悪党でも立ち寄れる酒場であること、それがこの店を守っていた。砂地に生える覇王樹の棘のように。
「じゃあそうだな……何だ、さっきの奴、強いかい? あんたの目で見て」
店主は苦笑した。短く刈り込んだ顎鬚をなでて言う。
「ご冗談を。素人でしょう、たとえ魔導師にしたって無防備過ぎる。店の中とはいえ、武器を手放していられるなんてね。地下五十二階を歩くには向きませんよ」
ウォレスは笑いそうになってこらえた。似たようなもんだ、この辺だって地上と。生息する魔物の質は下層と比べものにならないし、そもそも軽いのだ、空気が。地上くさい。乾いた風、昼夜の気温の移り変わり、雨の日の重い湿り気。大気の気配があり、変化がある。
地の底は違う。湿り気を帯びた冷たさに満ちているようでいて、慣れればはらわたの中にもぐり込んだみたいに生温い空気。それだけだ。そこに変化はなく、戦闘と探索と蒐集以外――つまり迷宮以外――の何もない。ウォレスが必要なもの以外の何も。
「ああそうだ、まったくだな」
麦酒をあおってごまかし、もっともらしい顔でうなずく。
とはいえ、店主の意見ももっともではあった。この辺にしたってウォレス以外の人間が住む最下層に近い。店の類としては少なくとも一番下だ――だからこそ用があればここに来る。地下五十階より上は数年行っていない――。地上にいられない事情がある者でもなければこんな場所に居つきはしない。
この店主からして素手で人の首をもぎ捨てられる類の人間だし、おそらくそうしてきたのだろう。大体、その店主ですら迷宮の半分も自由に歩けるわけではなかった。何年前か忘れたが、地下三百階辺りで巨大な蜥蜴に喰われかけていたのを助けたことがある。そのときからのつき合いだ――名前は覚えていないが。
しかし、とウォレスは考えた。あの女がアレシアのはずはない。だが、だったら何なのだ。魔物か何かが化けたにせよ、なぜ彼女を知っている。彼女と出会ったときのことを知っている。それにどうやって――泥酔していたとはいえ――ウォレスに気取られずに部屋へ入ったのだ、最下層の。
頭をかきむしり、麦酒をあおった。
「何なんだ、あれは」
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