喪失迷宮の続きを

木下望太郎

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第4話  十六の日と、あの女(ひと)と

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 夏の日だった――ただの思い出話だ、構わないだろう? なにせ暇だけはここでも喪失されないのだ――蒸し暑い、日差しがいやに白んで見えた日、街路樹に茂った葉は半ば透き通るような緑で。何より、ウォレス・ヴォータックは十六だった。走っていた、何しろ十六なのだから。それだけで息せき切って走るに値した――当時のウォレスからしても、今のウォレスから見ても。

 分厚い革の鎧――よれた跡とかき傷の残る中古だ――をまとって、同じく中古の剣を腰でがちゃがちゃ鳴らしながら――鍔元が緩んで走る度に揺らぐ――、ウォレスはそこへたどり着いた。親友たち――名前ももう出てこない、元気にしているだろうか――との待ち合わせ場所。迷宮に挑む冒険者御用達との、噂の店の一つ。山獅子亭クーガーズ・タヴァーンの、少し離れた先。

 憧れていた、憧れだったのだ、男の子、一端の男を気取らずにはいられない彼らには、冒険者が。だから集った、悪友たちと。迷宮入りの許可が出る十六歳――王宮に反逆し地下に潜った魔導の達人、魔王こと魔導王。その討伐に、広く人材が求められていた――、それに六人全員がなる日に。

 顔を見合わせて、笑って。もじもじと譲り合いながら、流れでウォレスが先頭になり、店へ入る。

 店主と女将の他、ほとんど人はいなかった。外の日差しの中妙に薄暗くて、それだけで大人の香りがした――実際には染みついた脂と埃の匂い――。靴音の軽く響く板張りの床には、どんなに拭いても取れないほど土埃が染みついている――迷宮の土埃が――。壁は丸木造りでそれなりの値がしたものと思われたが、隙間から外の日が洩れ入っている。丸木の所々には樹脂やにが丸く吹き出たまま琥珀色をして固まり、まぶされたように埃をかぶっていた。頭の上を高くめぐる梁と板作りの天井は灯火に長年煤けたのか、黒味がかった飴色をしている。
 縦に割った丸木で誂えられたテーブルにつく。年齢も聞かず注文を取る女将に、震える声で麦酒エールを頼む。

「『濃いのブラウン』? 『軽いのペール』?」

 問われて分からないままブラウンと応え、他の全員が「同じのを」と繰り返す。
 ほどなく乱雑に置かれた麦酒エールは焦がした砂糖のような色をして匂いは香ばしく、そのくせやたらと苦く。それでも全員が全員、美味そうにうなずいてみせた。ああ、これだよ。かあっ、たまんねえな。

 他愛もないそんなやり取りの中、割り込むような笑い声があった。別のテーブル、一人きりの客。六人が六人、目にも留めていないふりをしながら盗み見ていたその人。

 もちろん女だった、当然美人だった。少なくともそう覚えている。いくつか分からないが年上、日にさらした麦の穂みたいな薄い金色の長い髪、太ももまで分かれ目の入った、魔術的な紋様の黒衣――何よりもそこから見える、ほどよく焼けた肌。ついでに言えばテーブルに立てかけた魔導杖。

「ぼくたち、初めて? こっちおいで」
 歯も見せず笑ってそう言ったのだ、アレシアは。抗えるはずがあるか? 




 ー―想い出に浸るうち、そのまま寝ていたらしい、今のウォレスは。当然酔って。最後に覚えているのは、酒瓶の転がる音。部屋のそこかしこで――空き瓶はそこら中に転がっていた――それどころか頭の中や、部屋の外でさえ転がる音さえ聞いた気がする。ああそうだ、確かに聞いた、ころころころと。

 そうして、目を開ければアレシアがいた。今にして見ればずいぶん小娘だ。十九か二十、その辺か。

 ご丁寧な夢だ、そう思った。アレシアのことを思い出して寝たからって、律儀に出てこないでもいいのに。しかも手の込んだことに、今のこの部屋にアレシアがいる夢。
 再び目を閉じる。

「起きなさい、ぼく」
 夢はそう言って、ウォレスの鼻をつまんだ。
「ん……ぶはあっ!」
 盛大に息を詰まらせてウォレスは跳ね起き、荒く何度も息を吸った。その後で、薄く笑うアレシアと目が合う。
「起きた?」

 起きてはいないようだった。床についた手にも下着ごしの尻にも石畳の感触は確かにあったし、目に入るのは朝とも夜ともつかないおぼろげな闇――天井や床、壁石自体が常に有るか無しかの光を帯びている、寝ぼけたみたいに――。確かにいつもの喪失迷宮。

 アレシアは笑っていた。ウォレスは何も言えず、不精髭をこする。水を入れた瓶を取り、口をゆすいで吐き出す。それが喪失するのを眺めながら、何口か水を飲む。気つけに不死鳥の唐黍酎フェニリクスをあおった。

 あり得るはずのない話だった、再会するなんてだとか歳をくっていないだとかそれ以前に。誰であろうと、酔っていようと、ウォレスが足音に気づかず真横にまで接近を許すなんて。殊に、転移魔法の類が厳重に封じられた最下四層で。

 鼻息をついた。立ち上がり、下着を下げて小便をした。全く、なんてこった。あの霊酒さえ呑んでいれば、病も餓死もないと思ったが。酒は酒、酒精アルコールの中毒は起こるのかも知れない。怖ろしいものだ、こんなはっきりとした幻覚があるなんて。

 小便が喪失するのを見届け、ローブだけ羽織ってサンダルをつっかけ、部屋を出る。走った。幻覚ならそのうちに消えるだろう。幻覚でなければウォレスの疾走についてこれるはずもないし、何より最下四層を、生きて帰れるわけがない。


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