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第11話 殺人する日の朝のこと
しおりを挟む次の朝早く、僕は目覚めた。カーテンを開ける。日はまだ上っておらず、外はまだ暗かった。けれど、空は夜の顔をしていなかった。藍色から青へ変わり始めていた。やがて東の空が白み出し、日が昇る。僕はその様子を、パジャマのままでベッドの上に座って見ていた。
顔を洗い、着替える。できるだけ動きやすいもの、それでいて気に入っているものを選んだ。とはいえ、夜にはそれも血に染まっているのだろうが。返り血の散ったシャツとジーンズを着た自分を想像すると、なんだか笑えた。
朝食を済ませ、部屋で準備運動のように体を動かす。入念に。そして、バッグに入れていた刀を取り出す。
刀を抜く。無理に研いでつけた刃が鞘の内側とこすれ合い、ざらりと音を立てた。部屋の明かりに鈍く輝くその刀身が、反射するその光が、愛おしくさえあった。軽く振るう。音もなく空を切るそれが、手に返す硬い重量感。今日はそこに加わるのだ、肉を裂く重さ、骨を断つ硬さが。
背筋が震えた。なんとも体が軽かった。今なら何でも斬れそうだ、人だろうが車だろうがビルだろうが、この刀さえあれば。
コートを羽織り、イヌイのところへ向かう。今日という朝、あいつはどんな顔をしているだろう。そう考えると僕は笑顔になった。
イヌイは、外に露の下りた基地の前で古タイヤに座り、タバコをふかしていた。口を半ば開けたまま、僕に気づいた様子もなく煙の行方を見ていた。手にしたタバコから灰が落ちる。朝食だろう、足元にはコンビニの袋があった。
「準備はできたかい」
僕が言うと、イヌイは弾かれたように首をこちらへ向けた。
「……おー。そりゃもーよ、っつか荷物とか昨日作ってっし。どーよ、眠れた?」
「ああ、最高によく眠れたよ。いい夢も見た気がする、覚えてないけど」
イヌイは指にタバコを挟んだまま両手で顔をこすった。
「あー……オレはイマイチ、だな」
僕は笑った。
「君んち寒そうだしね……ていうか、楽しみにしすぎた? 遠足前の小学生みたいにさ」
イヌイは目を落とし、タバコを地面ににじった。
「まー、な」
「それはいいけど。その格好で行くのか」
イヌイはセーターの上から厚いジャンパーを羽織っていた。下はだぶついたカーゴパンツ。あまり動きやすそうな服装ではなかった。
「いンだよ。寒ぃし」
イヌイはタバコをくわえ、オイルライターで火をつけた。ふたを開け閉めする金属音が響く。
「そんなの持ってたっけ」
イヌイはこちらを見ずに答える。
「もらった。誕生祝い」
「誕生日だったのか? そりゃおめでとう、いつ?」
「先月」
どうにもかみ合わない会話だったが、イヌイは気にした様子もなく煙を吐いた。いつもならツッコむよう言ってくるところだが。
まあいい。おかしくなっているんだろう、こいつも僕も。
笑って言う。
「行こうか。人殺しにさ」
「おー」
イヌイは笑わずにうなずいた。
リュックと刀のバッグを背負い、二人で歩く。
獲物をどこで探すか考えたが、あまり人の多い所はまずい。電車で移動し、離れたところの無人駅で降りた。狙いやすそうな獲物が来れば後をつけ、できるだけ人のいない所で殺すと決めた。
ホームには誰もいなかった。空は青く、白い雲が目に見える速さで流れていた。風が吹いていた。
僕らはホームのベンチに並んで座った。イヌイがタバコに火をつける。煙を吐き出した後言った。
「どう殺すんだ」
僕はなぜだかおかしくて笑った。
「どうって、君が以前言ったとおりさ。ズバッとやってザクッ、とね」
イヌイは向かいのホームの方を向いて、表情を変えずに言う。
「誰を殺るんだ」
永塚の顔が浮かんだが、すぐに打ち消す。
「そうだね……まずは子供、それが基本だろう。反撃されて手こずるような大人じゃあまずい。だいたいの無差別殺人者ってのは女子供を狙うものだよ」
「女は?」
「もちろんそれでもいい」
僕は笑って言った。
「だけど君、殺す前に楽しもうぜ、なんて言い出すんじゃないだろうね。言っておくけど、そういうのは却下だ。僕らは人斬りだ、強姦魔じゃない」
「そりゃいいけどよ。……何人殺す」
僕は一瞬答えに詰まる。
「……まあ、普通に一人だろう。それで足りなくて、そうする余裕があるなら一人一殺でもいい。実際にはそれも難しいだろうし、大量殺人なんて余計無理だ。なんでそんなこと聞く?」
イヌイは頭の後ろで手を組み、ベンチに深くもたれかかった。
「なんとなく、よ。一人殺したって、殺り足りねぇんじゃねーかと思ってよ」
僕は口を開けた。それから、顔を微笑みの形に歪ませた。
「かもね。きっとそうさ、何人殺っても殺り足りないよ」
イヌイは僕の顔を見上げ、表情を変えずに小さくうなずいた。また向かいのホームに顔を向ける。深くタバコを吸い、ゆっくりと煙を吐いた。
「……だな。何人殺っても足りねーだろうよ」
火のついたままのタバコを線路に投げ捨てた。
しばらくして、駅の近くを子供が通りかかる。小学校一、二年か、リュックを背負った男の子。光を受けて白い光沢を見せる黒髪、僕らの上着より明らかに温かそうなダウンジャケット。どことなく育ちのよさそうな子供だった。
あれなら間違いなく殺せる、抵抗したところで意味などない。その細い首をかっ斬るまでだ。この鈍い刃ではすぐには斬れないかも知れない、何度も振るうことになるかも知れない。それでだめなら、抱きかかえて無理やり地面に倒す。腹を踏みつけ、刀を喉に当て、鋸のように挽く。盛大な叫び声が上がるだろうが……おそらく、すぐに喉笛を裂けるだろう。それで呼吸はできなくなり、声は上がらなくなる、はずだ。そして、ぐじゅり、と裂ける肉。精液のように吹き出す血しぶき。
僕は唾を飲み込んだ。鼓動がわずかに高くなる。バッグごしに刀を握りしめ、立ち上がる。
「やるか」
イヌイはベンチにもたれたままだった。
「やめとけ。……ありゃたぶんいいとこの子だぜ。今日び、あーいうのは防犯ブザーとか持たされてンだよ、トドメ刺す前に逃げなきゃならなくなるぜ」
僕は一瞬、何と言っていいか、何を考えていいか分からなかった。止められるなんて思ってなかった。
「……なるほど? そうだな、あまり小さいと斬り応えもなさそうだしね」
僕は座り、息を吸う。残念だったというよりは安心した。心の準備と言うやつが完全ではないようだ。
またしばらく待つと、駅に向かって女の子が歩いてきた。小学校高学年くらいか。白い毛糸の帽子をかぶり、まるで顔をうずめるように、同じ色のぶ厚いマフラーを巻いていた。ジャンパーもサイズが大きく、服に着られている感じ。
あの服装は走るのに邪魔だろう、逃げられる心配はない。服がぶ厚い分斬るのは難しいだろうが、無理矢理突けば貫けるだろう。白いマフラーが赤く濡れる様、薄い胸を後ろから貫いた刀が突き出す様。女の子が呆然とそれを見る光景を、僕は想像した。きっと僕は少女を蹴倒し、背中から突きまくる。悲鳴を上げられても構わず。
息が荒くなるのを感じながら言う。
「行くか」
イヌイは何か考えるような顔で、首を横に振る。
「ロリコン呼ばわりされてーのか? あんなの殺ったらみんな思うぜ、また頭のおかしい幼児性愛者がやらかした、ってな。多いだろそーいうの」
「……なるほど、それはごめんだね」
僕は密かに息を整えながらそう言った。
女の子はホームに入ってきた。僕たちから離れたところで、ホームの後ろの金網にもたれて立っている。
イヌイはそちらを見て、口の端で小さく笑う。小声で言った。
「それによ、よく見りゃ結構カワイくね? 殺るのヤらないのとかそーいうのはよ、五年待って考えるべきだぜ」
僕はイヌイから目をそらし、鼻で息をついた。
「そりゃ結構だ」
やがて電車がきて、女の子はそれに乗る。降りた乗客は一人、二十代後半の女。パンツスーツの上からコートを羽織ったその人は、革靴の音を立てて足早に歩いていた。
僕はイヌイを見、女に向けてあごをしゃくった。後をつけよう、と。
イヌイは身を乗り出していたが、真剣な顔で僕を見、首を小さく横に振る。
「見ろよ」
言って、真剣な表情のまま女を親指で示した。ちょうど胸の辺りを。女の胸は、硬い足音が鳴るたび波のように柔らかく揺れていた。
イヌイは僕の目を見る。
「……な?」
「何が」
イヌイは目をつむる。肩をすくめるとゆっくりと首を横に振り、ため息をついた。
「分かってねぇな。いいか、こりゃ真剣な話だぜ? まず遺伝子ってもんがあるよな。で、あのオンナのはやっぱ『乳がデケェ遺伝子』だろ? つーコトは、あのオンナの子孫も乳がデケェってワケだろ? それがなくなっちまうってのは、どー考えても人類の損失だろ」
僕は大きく息を吸い込む。ゆっくりと鼻から吐いた。はっきりと顔をしかめる。
「馬鹿か」
イヌイは笑わずに僕を見る。
「基本的にバカだよ。っつかオマエもさ、やっぱ乳デカい方が好きだろ? それか微乳派? あーそうだ、そもそも胸と尻だったら――」
「やめろ」
眼鏡を指で押し上げ、イヌイをにらむ。
「いい加減にしろ。ふざけてんじゃあないぞ、真剣にやれ」
イヌイは肩をすくめて首を振る。
「オレは真剣だぜ、中学生にコレ以上大事な話があるかよ」
その顔を見て、片頬が引きつるのを感じた。なぜか喉の奥から笑い声が低く込み上げる。
「ふざけるな……ふざけるなよ?」
顔を固く歪ませ、笑ってみせる。
「ふざけてるんじゃないならそうか、怖いのか? 怖じ気づいたのか、今ごろ? 退屈だからブッ殺したいとか言ってたのは、ありゃあウソかい」
イヌイの目が動いた。僕の目を見ながらにらむように眉を寄せ、けれどすぐに視線をそらす。息をついた。
「……かも。だな」
僕は何も言えなかった。イヌイがこんな風に言うことなんてなかった。たとえ本当に恐れていたとしても、僕の前では無駄に強がってみせる、そういう奴だと思っていた。
イヌイは頭をかき、タバコをくわえた。火はつけずに口の端で転がす。
「どっちかっつーと。殺すのが、じゃなくてよ。その後が怖ぇ、っつーか」
胸の中で響き出した音を聞きながら、僕は言う。
「今さらだな。逃げるだけだろ、先のことなんか考えたくないんじゃなかったのか」
「や、そっちじゃなくてよ。誰か殺してもよ、殺し足りねーだろ。いくら殺っても殺りたりねーんだろ、じゃあよ。そもそもなんで殺すのかって、そもそも意味あンのか、ってよ。そー考えると、怖ぇだろ」
イヌイは横を向くと、タバコに火をつけた。息を吸い、煙を吐いてつぶやく。
「つーか……つまんね」
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