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四ノ巻 胸中語るは大暗黒天
四ノ巻13話 鈴下紡は死にはしない
しおりを挟む――その少し前、かすみと百見が鈴下紡と対峙していたとき。
かすみの目の前で、シバヅキと呼ばれた男が放ったナイフ。それは確かに、鈴下の背に突き立っていた。その男が刃を抜き取ると同時、栓を抜いたように血が吹き出ていた。
男はすでに去り、突然のことに、かすみと百見が立ち尽くす中。
鈴下は横向きに倒れていた。その眼鏡はずり落ち、視線はどこを見ているか分からなかった。その間にも音もなく、背から血が溢れていく。
身じろぎもできないまま、どうしていいか分からないまま。かすみはどうにか、つぶやくような声を出せた。
「だ……大丈夫、です、か……」
いや違う、そんなことを言ってる場合じゃない、だいたい大丈夫なわけはないあの大きな刃物が刺さったんだ今だって血が流れ続けているし顔色はもう青白い――
そこまで考えたとき、やっと気づいた。【吉祥悔過】、その力なら鈴下を救える。かすみも傷を負うことになるが仕方ない、鈴下のあの傷は。
放っておけば、おそらくは。死ぬ。
駆け寄り、吉祥天の印を思い出しながら手を組み合わせたとき。
鈴下が、震えながら片手を上げた。虚ろな目のまま。
「いい、んだ……やめて、おきたまえ」
かすみは組み上げた印を崩さず、首を素早く横に振る。震えながらも。
「だめ、です、だめですそのままじゃ……!」
聞いていないかのように鈴下は言う。
「いいから、ほんっと、いいから……それより、荷物を……取ってくれないか」
震えるその手は、木の陰に置かれていたスポーツバッグを指していた。
かすみがともかくそれを差し出すと、鈴下は横たわったまま受け取る。震えながらジッパーを開け、中からタオルを取り出した。
「いやー……参った参った」
かすれた声でそう言うと、突然身を起こした。死人のような顔色のまま両手でタオルを持つと、それを背にあてがって血を拭った。まるで風呂場で背中を洗うように。
百見が遅れて駆け寄った。
「待て、無茶を!」
混乱したように、しきりに目を瞬かせながら言う。
「ええい、とにかく横に、そのタオルで圧迫止血を、谷﨑さんにはすまないが……吉祥天の力を、最低限でいい――」
「だーかーら。いいって、そーいうの」
虚ろな目のまま――いや、だんだんと焦点を取り戻しているように見えた――そう言い、鈴下は制服のボタンを外し始めた。ブレザーも、ブラウスも。
そうして服の裾に手をかけ。豪快に脱ぎ捨てた、シャツもブラウスもブレザーも一まとめに。その後で、スポーツタイプのブラジャーも。
かすみと百見が口を開けたまま、何も言えずにいるうちに。鈴下は再び、背中を洗うようにして血を拭う。
タオルが拭った下、その薄い背中、白い肌には確かに傷口が赤く開いていたが。
それが見る間に、閉じる。時間を巻き戻したかのように、ジッパーを閉めていくみたいに。
今さら思い出したように、控え目な胸を押さえる。背中越しに笑ってみせた。
「いやん」
顔は未だ青白かったが、わずかに赤味が戻っていた。その鼻先で、セルフレームの眼鏡は今にもずり落ちそうだった。
かすみも百見も、未だ何も言えずにいるうちに。鈴下は手早く服を身に着け、荷物を持って立ち上がった。
眼鏡をかけ直し、顔を歪めて言う。
「シバヅキ、あんの野郎……!」
そして駆け出す。シバヅキと呼んだ男の駆け去った方、おそらくは紫苑らのいる方へと。
「…………」
「…………」
二人とも何も言えず、ただそれを見送っていたが。
とにかく後を追い、駆け出した。もう相当に距離を離されてはいたが。
「何で」
走りながらかすみはそうつぶやいた。
「何で。……無事なんです、あの人」
「さて、ね……」
百見は隣でつぶやくように応えたが。眼鏡を押し上げ、気を取り直したように言った。
「彼女の怪仏による何らかの力なのだろうけれど。しかし、弁才天にそんな力が……? 生命の源たる水の神としての力? あるいは、弁才天は日本において人頭蛇体の水神・宇賀神と習合している……脱皮する蛇が不死と再生の象徴とされる事例は世界中の神話で見られる、その辺りに依拠するものか……」
その声もだんだんと小さくなり、視線がうつむいていく。
かすみは大きく息をつく。
「とにかく。……なんだか、どっと疲れました」
「それは同感だね……だが、それよりも。失態だ、むざむざ向こうに行かせてしまうとは。崇春たちの方に行かれて良い事はなさそうだ、彼女もシバヅキと呼ばれた男も……急ごう」
かすみはうなずき、無理に脚へ力を込める。
――そして、息を切らして駆けてきて、ようやく崇春らに合流できた今。
かすみが見たものは、鈴下が水流を放ち、シバヅキと呼ばれた男を吹き飛ばす光景。
倒れたシバヅキがナイフを拾い、東条紫苑の背へ投げつけた光景。
そして。膝をつきながらもナイフを抜いた紫苑の傷口が、見る間に塞がっていく光景だった。
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