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四ノ巻 胸中語るは大暗黒天
四ノ巻4話 摩訶羅、アオサギの一種、もしくは慕何(ばか)
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それからかすみは語った。
昨日の肉パーティ、崇春の態度に怒った賀来がその場を去り、かすみも追っていった後。帝釈天に出会っていたこと。まさに探し求めていた、黒幕についての情報源に、偶然とはいえ。
そして――情報自体はほとんど引き出せなかったが――、罠をしかけたこと。賀来が帝釈天に悩みを相談することで、黒幕を――悩みがある者の相談に乗り、それを利用して怪仏を憑ける、斑野高校の男子を――おびき寄せる作戦を実行したこと。崇春たちには秘密で、勝手に二人で。
そしてそれがおそらく、昨日の件につながった。黒幕の仲間らしき鈴下が動き、かすみと賀来が怪仏の力を得てしまうこととなった。
頭を下げたまま――顔を上げるよう時々促してくる百見の声が、だんだんとこわばったものになっていったが――かすみはあらましを話し終えた。
賀来がかかわっていることは伏せようかとも思ったが、もう包み隠さず話すべきだと判断した。
「……。…………谷﨑さん。どうか、顔を上げてほしい」
長い沈黙の後、百見は穏やかにそう言った。
その声色は優しく、今まで百見の口から聞いたことがないほど優しく。それでかすみは、背筋を震わせた。油の切れた歯車のような動きで顔を、体を上げていく。
かすみの顔が正面を向く前に、百見の声が飛んだ。
「君は馬鹿かっっ!! いや、君らは馬鹿かっっ! いや馬鹿だ、馬鹿、馬《ば》ーーっ鹿!!」
その声に叩かれたみたいに、思わず顔をそむけてしまう――いや、言われるのも当然だ――。
声量だけを低めてその勢いのまま、熱の込もった念仏のように早口で百見の声が続く。
「そう、そもそも馬鹿という言葉の語源は一説に拠れば仏教、『老年』『無知』を指す梵語『マハッラカ』、日本語の発音で『摩訶羅』であるといわれ、あるいは同じく梵語で鳥のアオサギの一種を示す『バカ』ともいわれて『バカ・ムールカ』――アオサギのような愚者――という語の例もあるようだ、もしくは痴――愚かさ、迷妄――を指す『モーハ』、その語源は『ムフ』すなわち『迷う』という意味なのだが、それが『慕何』と日本では発音され僧侶が愚人を指す隠語をして用いたもの、それがバカの語源だろうといわれているんだこれが一番有力な説かな、ああもちろん仏教に関係ない他の説もあるわけだがだがしかしこの場合もちろんそんなことなど一切関係なく――」
目を見開くと同時、突き刺すようにかすみを指差す。
「慕何っっ!! 慕ーーっっ何!! 慕何もう慕何本当に慕何、この麁食者、北轅者っ!」
最後の方の意味は分からなかったが――分かりたくもないが罵られていることだけは伝わってくる――、再び、頭を下げた。
「……すみませんでした」
「すまないで済んだら地獄なんか要るか! 慕何っっ!! あーーーもーー! あーもぅあーもぅ、それが分かってたら! 分かってたらもっとやりようもあったじゃないか!」
百見は大の字に寝そべり、頭を抱えた。だだっ子のように足をばたつかせる。
「作戦自体はまあいい、まあいいとしても! 一言言ってくれればフォローできただろ! 言ってくれさえすれば――」
畳を鳴らす足が、ぴたりと止まった。両手で顔を覆い、押し潰されたような、呻くような声でつぶやく。
「……そうすれば。君たちを、危険な目に遭わせることなんてなかった」
かすみの全身の動きも止まっていた。心臓をわしづかみにされたみたいに――責める言葉にではなく、その気づかいと、おそらくかすみ以上の後悔に――。
もう、何も言えなかった。ただ、頭を下げていた。
長い時間が経って、崇春が言う
「……二人とも。もう、顔を上げたらどうじゃ」
寝そべったままの百見に顔を向ける。
「のう。すまんで済むか、とは言うが。済まぬものをすまんで済ます、それもまた仏教ではないか」
百見が顔を覆っていた手をずらし、崇春に目を向ける。
「諸行無常……全てのものは永遠ならず。常に移り変わり、あるいは絶え、あるいは生まれる。……目に映る物だけにあらず、人も、心も、状況も。その教えは仏法の根底も根底、わしでも覚えちょることよ」
崇春はそこで言葉を切り、また続けた。
「お主の憤りももっともじゃが、その感情も永遠ではあるまい。谷﨑らの危機は確かにあったが、その状況も幸い過ぎ去ったわ。そして、状況はさらに移りゆこう……黒幕が作り出す、新たな状況はのう」
それからかすみに向き直り、言う。
「谷﨑もそうじゃ。こたびのことを胸に刻むのもよいが、それが地獄を造り出すようではならぬ。お主の内に地獄をのう」
かすみが目を瞬かせていると、崇春は続けた。
「仏なぞこの世のどこにも無く、仏なぞこの世のどこにでも在り。即身成仏、即身即仏。地獄もまた同じよ、どこにも無くどこにでも在り。即ち、己の内にのう。……そこにわざわざ、落ちることはあるまい」
かすみは顔を上げたけれど。それでも、崇春の顔をまともに見ることはできなかった。その言葉を、そのまま受け入れることも。
「すみません……けど――」
崇春は腕組みをし、鼻から長く息を吹き出す。
「とはいえ。その作戦、谷﨑にしちゃあなかなか目立っちょるが。それにしてもこれはいかん、目立ちは目立ちでも悪目立ちぞ」
大真面目な顔で重くうなずき、続けた。
「確かに目立つことは第一というてもええが、決して悪であってはならん……そこを今回ははき違えちょったようじゃな」
「は、はあ……」
歯切れの悪いかすみの返事を気にした様子もなく、崇春は何度もうなずく。
「それこそが真の目立ち道……お主もその道を歩む者として、それだけは肝に銘じておくがええ。精進せいよ」
何度か目を瞬かせた後、つぶやくようにかすみは言った。
「や、……歩んでませんから、そんな道」
「……む?」
崇春が目を瞬かせ、かすみの目を見る。
かすみも目を瞬かせ、崇春の目を見ていた。
しばらく黙った後、二人同時に口を開く。
「しかしそれを抜きにすればなかなか目立って――」
「もう一回言いますけど別に目立とうとは――」
お互い、そのままの姿勢で固まった後。
崇春が首をかしげる。
「……むぅ?」
そしてまた、黙った。
そのとき。畳に転がったままの百見が震え出す。
「ふ……くく、ふふ……くくくはは――」
息を吹き出し、にやけながら身を起こす。
「バカらしい……いや実に、慕何らしい。君たちは実に。それに、僕もだ」
かぶりを振り、眼鏡を外した。胸ポケットから出した布で拭き、かけ直す。
「まったく。こんなことをしている場合じゃあない、次の手を考えなければ。まったく――」
言うなり、百見は畳に手をついた。がば、と衣ずれの音を立て、かすみに向かって頭を下げる。
「すまない。事情はどうあれ、今回の件。敵の陽動に踊らされ、君への防護がおろそかになっていたのが事実。その責は、指揮をした僕にある」
「いえ、そんな……」
押さえるように手を出しかけたかすみに対し。
顔を上げ、百見は笑ってみせる。
「つまり。おあいこってことさ。傷を突っつき合うのはもうやめよう、百害あって一利なし……賢い者のすることじゃあない。僕や君のような、ね」
眼鏡を押し上げ、かすみの目を見据える。逃す気も、逃れる気も無いかのように。
「考えよう。次の手を」
かすみは唾を飲み込んでうなずく。
「……はい!」
崇春は腕組みをし、満足げに何度もうなずいた。
「うむ、うむっ! 頑張るがええ、二人とも!」
かすみの頬が引きつった。
「いや、他人事ですか!?」
百見はしかし、表情を変えずにうなずいた。
「いや、確かに崇春の意見なら無い方がマシだ。それを彼は分かっている……自分がバカだと。つまり古代ギリシャ哲学においてソクラテスが言うところの『無知の知』――」
崇春の目を見てうなずく。
「さすがは崇春、僕の見込んだ男だ。実に賢いバカだね」
崇春は背を反らせ、顔を上げて高らかに笑う。
「がっはっは! そうじゃろうそうじゃろう!」
「いや、割とバカにされてますからーー!」
かすみがそう叫んだとき。
不意に、部屋の引き戸が音を立てて開けられた。
「よお、気がついたみたいだが。青春してんなーお前ら」
警官の制服の上からジャージを羽織った、伝法渦生と。
「どうやらお元気の様子……拙僧の助けが間に合ったようで良うございました。恐縮です」
頭巾を柔らかくかぶった、山伏姿の優男。至寂と名乗った僧が、茶を載せた盆を手にそこにいた。
昨日の肉パーティ、崇春の態度に怒った賀来がその場を去り、かすみも追っていった後。帝釈天に出会っていたこと。まさに探し求めていた、黒幕についての情報源に、偶然とはいえ。
そして――情報自体はほとんど引き出せなかったが――、罠をしかけたこと。賀来が帝釈天に悩みを相談することで、黒幕を――悩みがある者の相談に乗り、それを利用して怪仏を憑ける、斑野高校の男子を――おびき寄せる作戦を実行したこと。崇春たちには秘密で、勝手に二人で。
そしてそれがおそらく、昨日の件につながった。黒幕の仲間らしき鈴下が動き、かすみと賀来が怪仏の力を得てしまうこととなった。
頭を下げたまま――顔を上げるよう時々促してくる百見の声が、だんだんとこわばったものになっていったが――かすみはあらましを話し終えた。
賀来がかかわっていることは伏せようかとも思ったが、もう包み隠さず話すべきだと判断した。
「……。…………谷﨑さん。どうか、顔を上げてほしい」
長い沈黙の後、百見は穏やかにそう言った。
その声色は優しく、今まで百見の口から聞いたことがないほど優しく。それでかすみは、背筋を震わせた。油の切れた歯車のような動きで顔を、体を上げていく。
かすみの顔が正面を向く前に、百見の声が飛んだ。
「君は馬鹿かっっ!! いや、君らは馬鹿かっっ! いや馬鹿だ、馬鹿、馬《ば》ーーっ鹿!!」
その声に叩かれたみたいに、思わず顔をそむけてしまう――いや、言われるのも当然だ――。
声量だけを低めてその勢いのまま、熱の込もった念仏のように早口で百見の声が続く。
「そう、そもそも馬鹿という言葉の語源は一説に拠れば仏教、『老年』『無知』を指す梵語『マハッラカ』、日本語の発音で『摩訶羅』であるといわれ、あるいは同じく梵語で鳥のアオサギの一種を示す『バカ』ともいわれて『バカ・ムールカ』――アオサギのような愚者――という語の例もあるようだ、もしくは痴――愚かさ、迷妄――を指す『モーハ』、その語源は『ムフ』すなわち『迷う』という意味なのだが、それが『慕何』と日本では発音され僧侶が愚人を指す隠語をして用いたもの、それがバカの語源だろうといわれているんだこれが一番有力な説かな、ああもちろん仏教に関係ない他の説もあるわけだがだがしかしこの場合もちろんそんなことなど一切関係なく――」
目を見開くと同時、突き刺すようにかすみを指差す。
「慕何っっ!! 慕ーーっっ何!! 慕何もう慕何本当に慕何、この麁食者、北轅者っ!」
最後の方の意味は分からなかったが――分かりたくもないが罵られていることだけは伝わってくる――、再び、頭を下げた。
「……すみませんでした」
「すまないで済んだら地獄なんか要るか! 慕何っっ!! あーーーもーー! あーもぅあーもぅ、それが分かってたら! 分かってたらもっとやりようもあったじゃないか!」
百見は大の字に寝そべり、頭を抱えた。だだっ子のように足をばたつかせる。
「作戦自体はまあいい、まあいいとしても! 一言言ってくれればフォローできただろ! 言ってくれさえすれば――」
畳を鳴らす足が、ぴたりと止まった。両手で顔を覆い、押し潰されたような、呻くような声でつぶやく。
「……そうすれば。君たちを、危険な目に遭わせることなんてなかった」
かすみの全身の動きも止まっていた。心臓をわしづかみにされたみたいに――責める言葉にではなく、その気づかいと、おそらくかすみ以上の後悔に――。
もう、何も言えなかった。ただ、頭を下げていた。
長い時間が経って、崇春が言う
「……二人とも。もう、顔を上げたらどうじゃ」
寝そべったままの百見に顔を向ける。
「のう。すまんで済むか、とは言うが。済まぬものをすまんで済ます、それもまた仏教ではないか」
百見が顔を覆っていた手をずらし、崇春に目を向ける。
「諸行無常……全てのものは永遠ならず。常に移り変わり、あるいは絶え、あるいは生まれる。……目に映る物だけにあらず、人も、心も、状況も。その教えは仏法の根底も根底、わしでも覚えちょることよ」
崇春はそこで言葉を切り、また続けた。
「お主の憤りももっともじゃが、その感情も永遠ではあるまい。谷﨑らの危機は確かにあったが、その状況も幸い過ぎ去ったわ。そして、状況はさらに移りゆこう……黒幕が作り出す、新たな状況はのう」
それからかすみに向き直り、言う。
「谷﨑もそうじゃ。こたびのことを胸に刻むのもよいが、それが地獄を造り出すようではならぬ。お主の内に地獄をのう」
かすみが目を瞬かせていると、崇春は続けた。
「仏なぞこの世のどこにも無く、仏なぞこの世のどこにでも在り。即身成仏、即身即仏。地獄もまた同じよ、どこにも無くどこにでも在り。即ち、己の内にのう。……そこにわざわざ、落ちることはあるまい」
かすみは顔を上げたけれど。それでも、崇春の顔をまともに見ることはできなかった。その言葉を、そのまま受け入れることも。
「すみません……けど――」
崇春は腕組みをし、鼻から長く息を吹き出す。
「とはいえ。その作戦、谷﨑にしちゃあなかなか目立っちょるが。それにしてもこれはいかん、目立ちは目立ちでも悪目立ちぞ」
大真面目な顔で重くうなずき、続けた。
「確かに目立つことは第一というてもええが、決して悪であってはならん……そこを今回ははき違えちょったようじゃな」
「は、はあ……」
歯切れの悪いかすみの返事を気にした様子もなく、崇春は何度もうなずく。
「それこそが真の目立ち道……お主もその道を歩む者として、それだけは肝に銘じておくがええ。精進せいよ」
何度か目を瞬かせた後、つぶやくようにかすみは言った。
「や、……歩んでませんから、そんな道」
「……む?」
崇春が目を瞬かせ、かすみの目を見る。
かすみも目を瞬かせ、崇春の目を見ていた。
しばらく黙った後、二人同時に口を開く。
「しかしそれを抜きにすればなかなか目立って――」
「もう一回言いますけど別に目立とうとは――」
お互い、そのままの姿勢で固まった後。
崇春が首をかしげる。
「……むぅ?」
そしてまた、黙った。
そのとき。畳に転がったままの百見が震え出す。
「ふ……くく、ふふ……くくくはは――」
息を吹き出し、にやけながら身を起こす。
「バカらしい……いや実に、慕何らしい。君たちは実に。それに、僕もだ」
かぶりを振り、眼鏡を外した。胸ポケットから出した布で拭き、かけ直す。
「まったく。こんなことをしている場合じゃあない、次の手を考えなければ。まったく――」
言うなり、百見は畳に手をついた。がば、と衣ずれの音を立て、かすみに向かって頭を下げる。
「すまない。事情はどうあれ、今回の件。敵の陽動に踊らされ、君への防護がおろそかになっていたのが事実。その責は、指揮をした僕にある」
「いえ、そんな……」
押さえるように手を出しかけたかすみに対し。
顔を上げ、百見は笑ってみせる。
「つまり。おあいこってことさ。傷を突っつき合うのはもうやめよう、百害あって一利なし……賢い者のすることじゃあない。僕や君のような、ね」
眼鏡を押し上げ、かすみの目を見据える。逃す気も、逃れる気も無いかのように。
「考えよう。次の手を」
かすみは唾を飲み込んでうなずく。
「……はい!」
崇春は腕組みをし、満足げに何度もうなずいた。
「うむ、うむっ! 頑張るがええ、二人とも!」
かすみの頬が引きつった。
「いや、他人事ですか!?」
百見はしかし、表情を変えずにうなずいた。
「いや、確かに崇春の意見なら無い方がマシだ。それを彼は分かっている……自分がバカだと。つまり古代ギリシャ哲学においてソクラテスが言うところの『無知の知』――」
崇春の目を見てうなずく。
「さすがは崇春、僕の見込んだ男だ。実に賢いバカだね」
崇春は背を反らせ、顔を上げて高らかに笑う。
「がっはっは! そうじゃろうそうじゃろう!」
「いや、割とバカにされてますからーー!」
かすみがそう叫んだとき。
不意に、部屋の引き戸が音を立てて開けられた。
「よお、気がついたみたいだが。青春してんなーお前ら」
警官の制服の上からジャージを羽織った、伝法渦生と。
「どうやらお元気の様子……拙僧の助けが間に合ったようで良うございました。恐縮です」
頭巾を柔らかくかぶった、山伏姿の優男。至寂と名乗った僧が、茶を載せた盆を手にそこにいた。
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