101 / 134
三ノ巻 たどる双路の怪仏探し
三ノ巻32話 迷うておるな
しおりを挟む迷うておるな――帝釈天のその言葉を聞いても、かすみの表情は変わらなかった。射抜くような目を帝釈天へ、その向こうでうずくまる鈴下へ向けていた。
帝釈天はその顔を見、苦く笑ってまたかぶりを振る。
「――迷いなどあらぬ、と言いたげだが。それこそが迷うておるのよ。迷うておることすら分からぬほどにな。……と、それにしてもだ」
縮れた鬚をしごきながら、毘沙門天の巨体を見上げる。
「――ようも汝のような娘御が、かような強き怪仏を喚べたものよ。……否、汝故にか、優しき娘御よ」
表情を変えずかすみは言う。
「……確かに、言ったはずです。次に会うときは敵同士と。あなたも、私も言ったはずです。……お喋りの続きを、するつもりはありません」
帝釈天は、ふ、と笑う。
「――やはり、優しい」
真っ直ぐに目を見て続けた。
「――言葉でなく、その行ない自体が優しいのだ。真に戦意、敵意あらば、言葉を交わす暇も惜しんで斬りかかろうに。……いや、汝にも戦意はあろうが。それをも越えて応えるほどに、汝は優しい」
かすみの指先が震えた。刀を握る毘沙門天の指も、かすかに。
帝釈天はさらに言う。
「――そして。その優しさ故に、汝ほど怖い者はない」
かすみが何か言うより先に、帝釈天は続けた。
「――本地を持たぬとはいえ、地・空、最速の二体が相手にもならぬとは思わなんだが。それにしても――」
足下の怪仏を示した。迦楼羅天と韋駄天、斬り裂かれて血だまりに転がり、呻くそれらを。
眉を上げ、おどけたように笑ってみせる。
「――なんとなんと、怖ろしい有様よ。怪仏なれば――生半に断ち切り難き業の化身なれば――こそ、こうして呻いてもおるが。ようもここまで切り刻んだものよ」
かすみの頬が震える。視線をわずかに落とし、それでも胸の内から言葉を押し出した。
「……これ以上、お喋りするつもりはありません。引いて下さい……あなたも、そうなりたくなければ」
帝釈天はうなずいてみせる。
「――そうよな。もしも我が引かねば、汝はそうするであろう。嘘でも冗談でもなくな。優しき者、誰より情愛深き娘御。それ故に何より怖く、強き娘御よ」
視線を遠く天に向ける。
「――例えるならば。もしも一人子の命が脅かされるとあらば、母親はためらうことなく牙を剥くであろう、誰を敵に回そうとも。もしもその者を殺さねば我が子が殺されるとなれば、喜んでその者を殺すであろう。……あるいは例えるならば、我が子一人と見知らぬ子一人が水中に沈まんとし、どちらかの命しか助けられぬのならば。母親は、迷わず我が子を選ぶであろう。つまりは、喜んで他の子を見捨てるであろう。それが例え、我が子一人と見知らぬ子二人であっても。三人であっても。喜んで他の子を殺すであろう」
かすみの目を見て続けた。
「――汝も、喜んで殺すであろうな。そこな友らや、崇春らを守るためであれば。怪仏らと我と、そして――」
その場から体をずらし、示した。倒れた二体の怪仏と。奥でただ震える、鈴下を。
「――かの者をも、殺すか」
弾かれたように、かすみは口を開いていた。
「それはっ……そんなことは、しません。殺……す、殺めるだなんて」
言ってすぐに目を伏せた。いや、目を背けた。
帝釈天は変わらず、悲しげに笑っていた。その視線を迦楼羅天らに向ける。
「――そうであれば良いがな。だが現に、怪仏を退けるにこれほどの力を以てした汝ぞ。怪仏の力を持ったかの者を捕らえるに、果たして加減などできようかな。否……」
目を見て続けた。
「――果たして、殺めずにおられるかな。汝の友を傷つけた、かの者を前にして。それを殺め得る力を手にして。何より、それほどの業深き怪仏。それを目覚めさせた業を、己の内に宿して」
「え……」
口を開けたかすみに、帝釈天は指を指した。
「――ゆめ、忘れることなかれ。怪仏と同じ業なくして、人は怪仏の本地とはなり得ぬ。……忘れるな。汝は、あれぞ」
かすみの顔を指していた指を上へと移す。かすみの前にそびえ立つ、毘沙門天へ。四つ並んだ異形の顔を歪め、歯を軋らせ。刃こぼれした刀を土に血に汚し、自らも血を流し。それでもなお吐息も荒く、震えるほどに武器を握り締める、刀八毘沙門天を。
その目を。横を向いた顔の一つ、涙を流すその目を見て。かすみは息を呑んでいた。
あの目は。見覚えがある、そうだ何度も見た、鏡で。あの目は。
――私だ。
「あ…………」
かすみが声を洩らす、それを待っていたかのように。帝釈天は口を開く。血だまりに沈む怪仏を示して。
「――そうだ、汝ぞ。これを為したは汝」
震えるばかりの鈴下を示す。
「――そしてまた、かの者を殺めるは汝。友らのため、喜んでそれを為すのは毘沙門天ではない。汝ぞ」
「ぁ……あ……」
かすみはただ、口を開けていた。
否定したかった、違う、と、そう言いたかった。なのに、言葉が出てこない。呼吸は荒く音を立て、肩を大きく上下させてさえいるのに。空気が、空気が足りない。まるで息を吐くばかりのように。水底に一人、沈んでしまったかのように。
喉はかすれる音を立て、なのに。空気が足りない。声が出ない。
帝釈天は目を伏せて、ゆっくりと大きくうなずく。
「――己を責むることはない。我も決して責めはせぬ……ただ事実を言うたまで」
それから黙った。誰も何も言わなかった。ただかすみの呼吸の音と、転がる怪仏が呻く声が時折聞こえた。
やがて、帝釈天は再び口を開く。
「――なれど。どうだ、我と来ぬか」
「……え」
顔を上げたかすみの目を見る。哀れむような目で。
「――それほどの業、抱えて歩むには重かろう。左様な危うき業、背負ったまま友と歩むにはのう」
言われてまた、かすみの胸が痛いほどに脈を打つ。
確かに、そうかもしれない。これほどの業を抱えて、この先――賀来や百見、崇春たちと。歩んでいけるのか?
帝釈天は言葉を重ねる。
「――なれば、ぞ。我と共に来るがよい、谷﨑かすみ。あの御方の下に。……あの御方は世を救おうとしておられる、二度と誰も悲しむことの無い世を創ろうとしておられる……それは無論、汝も、汝の友らも悲しまぬ世ぞ」
かすみの方へ手を差し伸べる。
「――そして、汝ならばそれができ得る。あの御方の力となり、世を救う礎となり得るのだ、汝の業が」
かすみの目を見据え、力強くうなずく。
「――案ずるな。我と共に来い、娘御よ」
立ち尽くしたまま、かすみの手がわずかに震える。
行って良いわけがない。良いわけがない、それは分かるが。
だが、行かないのならば。どうしたらいい? どうしたら?
その答えが出ないまま立ち尽くし。呼吸音だけが荒く、速くすらなって、かすみの内に響き続ける。
どうしたら――。
そのとき、不意に。
かすみの胸から頬に、駆け上がるように。わずかに細く傷が走る。
「痛……っ」
頬に触れると、かすかに血がにじんでいた。
なぜこんな傷が、誰も何も攻撃など――、そう思って辺りを見回す。
目が合った。倒れた賀来と斉藤の横にたたずむ、か細い花のような、吉祥天と。
吉祥天はまるで毒を吸い出すかのように、賀来の頬に――鈴下からの攻撃を受けた箇所に――唇を当てていた。【吉祥悔過】。その力を、使ってくれていた。
吉祥天は何も言わなかった。唇を引き結び、ただ首を横に振った。振り回すように何度も何度も。
それからまた、かすみの目を見る。見覚えのある目――かすみと、同じ目。
かすみは息を呑む。呼吸が止まる。全身の動きを止めてそのままで、何秒かいる。
帝釈天がいぶかしげに眉を寄せる、それにも構わず。
大きく、息をついた。石になったかのように固い体、呼吸にすら苦労するほどこわばった胸のままで、ともかく。呼吸をした。
それから、帝釈天に向き直る。
「お断り、します」
その声は固く、震え、かすれていたけれど。
確かに、言った。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
クラスメイトの美少女と無人島に流された件
桜井正宗
青春
修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。
高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。
どうやら、漂流して流されていたようだった。
帰ろうにも島は『無人島』。
しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。
男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!

最強無敗の少年は影を従え全てを制す
ユースケ
ファンタジー
不慮の事故により死んでしまった大学生のカズトは、異世界に転生した。
産まれ落ちた家は田舎に位置する辺境伯。
カズトもといリュートはその家系の長男として、日々貴族としての教養と常識を身に付けていく。
しかし彼の力は生まれながらにして最強。
そんな彼が巻き起こす騒動は、常識を越えたものばかりで……。
スライム10,000体討伐から始まるハーレム生活
昼寝部
ファンタジー
この世界は12歳になったら神からスキルを授かることができ、俺も12歳になった時にスキルを授かった。
しかし、俺のスキルは【@&¥#%】と正しく表記されず、役に立たないスキルということが判明した。
そんな中、両親を亡くした俺は妹に不自由のない生活を送ってもらうため、冒険者として活動を始める。
しかし、【@&¥#%】というスキルでは強いモンスターを討伐することができず、3年間冒険者をしてもスライムしか倒せなかった。
そんなある日、俺がスライムを10,000体討伐した瞬間、スキル【@&¥#%】がチートスキルへと変化して……。
これは、ある日突然、最強の冒険者となった主人公が、今まで『スライムしか倒せないゴミ』とバカにしてきた奴らに“ざまぁ”し、美少女たちと幸せな日々を過ごす物語。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる