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二ノ巻 闇に響くは修羅天剣
二ノ巻7話(後編) 崇春が道着に着替えたら
しおりを挟む平坂の去った方に目を向けたまま、崇春が言う。
「むう……。良かったんかのう、あれで」
渦生は荒く息をつく。
「なに、あんなもんで傷つくタマじゃねえ。――さ、大丈夫か黒田、ちっと休んでろ。谷﨑、賀来も、悪いが見てやっててくれるか」
部員らを見回して声を上げた。
「他の奴は練習だ、連続技いくぞ!」
わずかな間の後、部員らから快い返事が上がる。
かすみは小走りに剣道場へ行き、黒田の方に向かった。
黒田は身を起こしていたが、未だ座り込んだままだった。呼吸のたびに肩が上下する他、体のどこにも動きはなかった。面をつけているせいで表情はうかがい知れないが、呆然と口を開けているのではないか。そんな風にかすみは感じた。
「大丈夫ですか、黒田さん」
かすみが声をかけたが反応はない。
賀来も遅れてやってきた。重たげに体を揺らしながら、大きな救急箱――剣道部、あるいは柔道部の備品だろう――を両手で抱えている。
「その、大丈夫か。何か使うか」
中からコールドスプレーや湿布を取り出すが、黒田はそちらを見ていなかった。
「大丈夫ですか、どこか痛めたりとか――」
かすみがさらに声をかけると、ようやく黒田の声が聞こえた。
「――無い」
「ケガはない、ですか? 良かっ――」
「不甲斐無い」
「え?」
かすみが目を瞬かせる間にも、黒田の言葉は続いていた。
「不甲斐無い、不甲斐無い不甲斐無い不甲斐無い!」
言いながら放り捨てるように小手を脱ぎ、むしり取るように面と手拭いを外し。まるで土下座するみたいに、床に頭を叩きつけた。
「ちょ、ええ!? 大丈夫ですか、その……」
声をかけるも、黒田は呻くように同じ言葉を繰り返す。額を床にこすりつけるように、首を何度も横に振りながら。
剣道部員らは練習の手を止めることもなく、横目にそちらを見る。
「またやってるな」
「ああ、黒田の不甲斐無い音頭か」
音頭ってなんだ。そうかすみは思ったが、黒田は未だに呻き続け、小さく頭を持ち上げては床に打ちつけていた。
「だから、やめましょうってば! ええと、もう顔を上げて……」
かすみは押し留めるように両手を向けたが、黒田はまだ続けている。
崇春が黒田の傍に寄り、片ひざをついて声をかけた。
「黒田さん。能う戦うた。能う戦うたではないか、お主もわしも、平坂さんも。……それだけよ」
黒田の動きは一瞬止まったが。それでも顔を上げはしなかった。床についた拳を、震えるほどに握り締める。
「すまない……君とも、不甲斐無い試合しかできなかった……その上円次にも手も足も出ず……我ながら不甲斐無い……っ!」
今度は崇春に向かい、頭を下げるように額を打ちつけた。
かすみは両手を突き出したまま、それ以上声をかけあぐねた。どうしたらいいかと思い、ふと賀来の方を見ると。
賀来はコールドスプレーの大きな缶を、しゃかしゃかと音を立てて振っていた。そしてふたを開けたかと思うと。
無言で黒田の頭へ吹きつけた。その頭皮へ直接流し込むような距離で、長々と。
「不甲斐無冷っ……熱っつぁああああ!?」
頭を両手で押さえ、床へ転がる黒田へ。賀来は見下ろしながら言い放った。
「頭は冷えたようだな」
片手で頭を押さえたまま、黒田は顔を上げた。
「ああ、うん……はい」
賀来は片手を腰に当て、鼻で長く息をついた。
「誰しもそういうときはあるもの――我もまあ、最近やったな――だが。いつまでもやっているものではあるまい。さ、休憩したらどうだ」
黒田は目を瞬かせていたが。やがて息をつくと、立ち上がって頭を下げた。
「すみません、どうも……ご迷惑を。不甲斐無い僕で――」
かすみは慌てて、道場の端を手で示す。
「もういいですから! それよりほら、休憩しましょう、ね?」
黒田はあいまいにうなずき、置いていた竹刀と防具を取る。歩き出して、抱え切れていなかった面と、片方の小手が転がり落ちた。
かすみの方に落ちたそれを拾い――汗で湿っているのが正直気にはなったが――、黒田へと差し出す。
「どうぞ――ん?」
ふと目についた。面にも小手にもその端に、同じマークが小さく描かれていた。防具の意匠などではなく、マジックで自分で描いたものだろう。
それは∞――無限大――の記号に似ていたが。二つの輪が重なり合って、真ん中に小さくもう一つの輪が作られていた。それらを全体にやや縦長にした、そんな形。
「これは……?」
かすみがつぶやくと、照れたように黒田が笑った。
「あ……気づかれちゃいましたか、武蔵マークはその、御守りっていうか……」
「武蔵マーク?」
黒田があいまいに笑っていると、百見が近くへ来て言う。
「ふむ……宮本武蔵でその形といえば、何だったか……『海鼠透かし鍔』、で合っていましたか」
黒田が細い目を見開いて笑う。
「そうです、よく知ってますね! 武蔵先生、かの大剣豪宮本武蔵先生が考案されたという鍔の形で、大胆に肉抜きされた軽量さと太く形作られた堅牢さ、そして曲線的な美……それらを兼ね備えた実戦的かつ――」
そこまで言って言葉を止め、照れたようにまた笑う。
「や、すみません何か急に……とにかく、御守り代わりに自分で描いてるんです。僕の剣道具には全部」
小手と面を受け取ると、黒田は姿勢を正した。機械が蒸気を吐き出すみたいな強い息をついてかすみたちを見、それから頭を下げた。
「すみません、本当に……それに、うちの円次もご迷惑を」
「いえいえそんな! 顔を上げて下さい」
かすみは思わずそう応えた。
百見が口を開く。
「その平坂さんのことですが。どういう人なんです、普段からあんな感じで?」
黒田は肩を小さく震わせたが。わずかな間を置き、苦笑して言った。
「いえ、今日は何か特別怒ってたていうか……たまに荒れたりはありましたけど、あんなむちゃくちゃはしないですよ」
「ふむ……なるほど。何か特別に荒れる理由だとか、心当たりは?」
黒田の視線がうつむく。
「いえ……でも、円次からすれば、怒りたくもなるのかもしれない。うちの部じゃ誰も、あいつのレベルに追いつけない……どんなに努力したって、あいつの視界にすら――」
防具を抱える手が震えた。
「――不甲斐無い」
そのまま全員が黙っていたが。
賀来が、視線を他へ向けながら口を開いた。
「あー、その……もう一度、使った方がいいのか? 我が司りし氷獄の吹雪の力を」
しゃか、と音を立ててコールドスプレーを振る。
黒田が頬を引きつらせる。それから、笑った。
「勘弁してほしいですね。……それより、どうも。もう練習に戻ります」
一礼し、その場で防具を身につける。また小さく一礼して、他の部員たちの方に駆けていった。
「ふむ……」
腕を組んで百見がつぶやく。何か考えるように片手の指をあごに当てた。
「ふぅむ……」
賀来もまた腕を組んでつぶやいた。スマートフォンを取り出し、何やら操作した後、真剣な顔でかすみを見る。
「【絶望の雪崩】と【熱き吹雪】、どちらが良いであろうかな」
かすみは眉を寄せる。
「……何が?」
賀来は変わらぬ表情で、コールドスプレーの缶をかかげてみせる。
「さっきの、我の氷結魔術の名だが」
「そんなこと悩んでたんですかー!?」
かすみの声と共に。剣道部の振るう竹刀の音が、道場にこだました。
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