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一ノ巻 誘う惑い路、地獄地蔵
第6話 広目天(こうもくてん)
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ゆっくり振り向くと目の前、手を伸ばせば触れてしまえそうな所に、地蔵はいた。
「ひ……」
反射的に後ずさった両足と背が、針山の腹にひやり、と触れる。
地蔵の顔は、頭二つほど上から見下ろすその顔はあくまでも柔和に、にたりにたりと笑って見えた。
「――娘御よ。哀れ、哀れよ。首尾良く逃げたつもりでも、逃げた先でもまた迷う。六道の世を巡り巡って、それでも迷うが人の業。さあ、今こそ償え己が罪」
「あの……ま、待って」
かすみは小さく手を突き出し――足は未だに後ずさろうとし、背はきつく針山の腹に押し付けられていた――、声を上げた。それしかできなかったし、そうするしかなかった。
「待って、待って下さい! 何でそんなこと……他の人たちだって、倒れてる人たちだって、何もしてないはずです!」
見下ろす地蔵の柔和な顔は、固く睨んでいるように見えた。
「ほう、何もしていない。何もしておらんとな」
かすみは必死に――指先と膝が震え、まともに地蔵の顔も見られないが――声を上げる。
「そうです、何もしてません! 償うとか何も――」
その言葉を断ち切るように錫杖を強く打ち鳴らし、地蔵が声を高く上げた。
「黙りおれ! 何もしておらぬだと? 咎人が何をぬかすか! たとえ貴様が知らずとも、犯した罪は罪よ! 裁きは既に下されておる。それを貴様に課すのが我が使命。さあ、黙して受けよかの裁き、黙して服せよこの刑罰!」
小さく息を漏らし、やや声を低めて続けた。
「ともあれ、知らずに犯した罪なれば、幾許かは斟酌もしてやろうぞ。どうした、礼の一つも言うてはどうだ」
かすみは口を開けはしたが、何と言うべきかは分からなかった。
そのとき、聞き覚えのある声が後ろから響く。
「では、僕の方から礼を言っておこうか。ありがとう……思惑通り出てきてくれて、ね」
振り向こうとしたかすみの顔の横を、風を切る音を立てて何かが通り過ぎる。強靭な背表紙を持つ、ハードカバーの本。それが乾いた音を立てて、地蔵の額にぶち当たった。
「が……!」
地蔵は唸り、額を押さえてよろめく。
革靴の音も高く――ごく普通の、アスファルトの上を歩く音だ――、百見はかすみたちの方へと歩いてきた。辺りにはびっしりと、大小様々な針の山が生えているにも関わらず。それらをよけて歩くでもなく、針の上を踏むのでもなく。針など存在しないかのように、本来地面がある場所を踏みしめていた。その光景はちょうど、昨日崇春が針の山を無造作に渡っていたのに似ていた。
違うのは、百見が何やら手を独特の形――両手の甲を向かい合わせにし、人差指のみを絡め合わせている。他の指は自然に開き、親指で中指の爪を押さえる――に組んでいることか。
手を崩さずに歩きながら、百見が言う。
「さて、怪仏・地蔵菩薩よ。見つけたからには逃がしはしない。ここで引導を渡してくれる」
地蔵は変わらぬ石の顔のまま、それでもうろたえたように後ずさった。
「な……あの男だけでなく、貴様もか! 何故、我が地獄道に迷わずにおれる!」
手の形を胸の前で保ったまま、百見は口の端を上げる。
「当然さ。お前のような怪仏ではない、全てを見通す我が守護仏のご加護があればね。――寺の子供をなめるなよ」
「おのれ、おのれおのれぇっ! 黙れ痴れ者、受けよ我が怪仏罰を!」
地蔵が錫杖を高く掲げ、貫くように地面を突いた。その先からまるで波のように、一直線に生え出る針山が百見へと向かう。
「百見さん――!」
危ない、とかすみが言おうとしたその時には。百見はすでに、その言葉を唱えていた。
「オン・ビロバキシャ・ナギャ・ジハタ・エイ・ソワカ。護法善神二十八部衆の一にして遍く四方を司りし四天王の一、結縁に拠りて来れ西方の守護者――帰命頂礼、『広目天』!」
組み合わせた百見の手が辺りに白く光を放つ。その光が収まったとき。百見の前に現れた大きな人影――百見より頭二つは大きい――が、迫り来る針山を受け止めていた。
がしりと肩幅の広いその人影は、ちょうど仁王像――教科書に載っている、運慶・快慶作のあれ――によく似ていた。だがその体は半裸ではなく、深い赤色をした古代中国風の鎧をまとっている。鎧と同じ色をした髪は頭の真上からやや後ろにまとめられ、丸く結われている。その姿は全体に淡く輝き、時折陽炎のように揺らめいて見えた。
手を組んだまま百見が言う。
「これが僕の守護仏、全てを見通す目を持つ者。四天王の一尊、『広目天』。彼の力があれば地獄の幻などに惑わされることはない、が」
広目天が針山を受け止めた手を離す。その掌から破片となった針がこぼれて地面に落ち、金属音を立てた。
「実体の針も生み出すことができるようだね……なるほど、地蔵菩薩の名はサンスクリット語――古代インド言語の一種――でクシティ・ガルバ――『大地の宝蔵』、あるいは『大地の母胎』――に由来する。作物などの恵みと鉱物のような資源を無尽蔵にもたらす大地の力、それを模したか」
地蔵が歯軋りの音を立てる。
「ふん、貴様も妙な力を使うようだが。それがどうした、我が司る大地の力、止められるか! 受けよ、【地獄道大針林】!」
地蔵が杖を地面に突くと、先ほどのように――いや、先ほどよりも遥かに多くの――針が地面を貫いて生え、辺り一面ごと飲み込むような波となって百見へと向かった。
かすみは思わず息を飲んだ、が。百見の表情は変わらない。
「へえ。それがどうした」
胸ポケットから万年筆を取り出すと、くるりと指で回し。キャップを開け、ペン先を針山へ向けて振るった。
「広目天、今こそ揮えその持物。【広目一筆】!」
百見の前に立つ広目天は、いつの間にかその右手に筆、左手に巻物を握っていた。百見の動きに合わせるようにその右手が動き、滴るほどに墨を含んだ筆を空間へと打ちつけるように揮う。
その筆が通り過ぎた空間、正にそこに。書道でいう楷書――漢字の書体として最も多く目にする、活字のような書体――のように、かっちりとした筆跡が走る。まるで大黒柱のような太さを持って。最初に強く筆を着ける起筆の墨痕も黒々と、そこから運ぶ送筆と、強く打ち止める収筆の跡も確かにそこに――空間それ自体に書かれたように――横一文字に、現れていた。
まるでそれが物理的な壁であるかのように。押し寄せた針山の波はその墨跡にぶち当たり、硬い音を立てて砕け散った。
得意げに、百見はくるりと万年筆を回す。
「世の中の、善きも悪しきも何事も、広目天の筆先一つ――。ヴィルーパークシャこと広目天、『異様なる目を持つ者』。その役割は全てを見通す目で人々の善行悪行を視認し、記録して上位の神仏へと報告すること。大事を担う神筆、地獄の針程度で折れやしないさ。さて……行くぞ!」
百見は――広目天は――、横一文字に筆を揮った。辺りに残る針山の上、百見と地蔵とを結ぶ直線上に、橋のように一の字が鮮やかに描かれる。その上に軽く跳び乗り、地蔵へと駆けた。
「さあ。添削しよう、お前の存在。受けよ、【広目一筆】!」
共に駆ける広目天が筆を振り上げた、そのとき。
「うおおおおおーーっ! 【スシュンキック】じゃああぁぁーっっ!」
かすみと百見の向こう、地蔵の背後から。霧の中を走り出た崇春が、突然地蔵の背へ、跳び蹴りを食らわせていた。
「な……」
「え……!?」
「があ……っ!?」
百見とかすみが声を詰まらせ、地蔵が前へと吹っ飛び。広目天の筆が宙を空振る。
地面へ擦れる音を立て、地蔵が倒れた後。崇春は腰に手を当てて高らかに笑う。
「がっはっは! ちぃと道に迷うたがのう、ギリギリセーフじゃ! やい怪仏よ、観念せい! このわしこと四天王が一角、南方の守護者。『増長天』の崇春が来たからにはのう!」
ぱく、と口を開けた後、何か言いたげに口を動かして。その後思い出したように、百見が声を上げる。
「君は……馬鹿かっ! 後ろから回り込めとは言ったが、何で今来た!」
崇春は困ったように目尻を下げ、眉を寄せる。
「むう? ちゅうても、わしゃあその、ちゃんと後ろから来たし、頑張ってじゃな……」
地面にうつ伏せで倒れていた、地蔵が震えながら身を起こす。
「ふ、ふふふ……。確かにぎりぎりといったところか、我にとってはな。さらばだ!」
こちらに背を向け、白く煙る霧の中へ。滑るような動きで地蔵は逃げてゆく。
「むう!? 卑怯な、待たんか!」
「ちぃ……!」
百見がペン先でその背を指し、広目天が筆を十文字に揮うが。空間に舞った墨痕も届かなかったか、地蔵の姿はそのまま見えなくなった。
崇春が追って駆け出したそのとき。全てが嘘だったかのように、辺りを覆っていた霧が消えていた。かすみの真横には木の電柱があり、古い蛍光灯が辺りを白々と照らしていた。もちろん、道の先にもどこにも、地蔵の姿などはなかった。
「……逃がしたか……」
つぶやいた、百見の拳は固く握られていた。
崇春は路地を駆け、その先で辺りを見回す。それでもやはり、地蔵の姿はなかったようだ。心なしか顔をうつむけ、ゆっくりとこちらへ振り向く。
「ぬ……むう、しまった……。どうやら、わしのせいじゃ」
「ああそうさ」
靴音も高く近づき、百見は崇春の胸倉をつかむ。
「もう一息、もう一息だったんだぞ! せっかくエサに食いついて、のこのこ出てきたというのに! それが……何をしてくれている!」
かすみは震える両手を開き、押さえるように百見に向けた。
「あの、すみません、その。そんなには、怒らなくても……」
「君は黙っていてくれ!」
百見が手を離し、かすみの方を向く。
そのとき、崇春が頭を下げた。真っ直ぐに、腰よりも低く。
「すまん」
百見が小さく口を開け、そちらを振り向く。
頭を下げたまま崇春は続けた。
「確かに、余計なことをしでかしたようじゃ。全てはわしの責。すまん」
小さく鼻を鳴らし、百見は言う。
「どうした、いやにしおらしいじゃないか」
「本当にすまなんだ。じゃが――」
顔を上げて百見の目を見る。
「じゃが、一つ聞かせてくれんか。百見よ、お主はさっきこう言わんかったか。『せっかくエサに食いついたのに』と」
百見がわずかに視線をそらす。
「……確かに、言ったね」
「そりゃあつまり、谷﨑を奴に襲わせるつもりで、囮に使うたっちゅうことか」
え、と口から出かけたが、かすみは黙ったまま二人の顔を見た。
崇春は百見の顔を見、百見は視線をそらせたままでいた。
「……そのとおりさ。一度狙われた谷﨑さんを同じ状況で一人にしておけば、敵はそれに食いついてくる。どこにいるか分からない人間を探すより、そちらの方が手っ取り早い」
「……そうか」
崇春はそれだけ言うと、かすみの方へ歩み寄った。
「すまん。百見も、悪気があったわけじゃあないはずじゃ。それよりもわしに責がある……守ると大見得切っておいて、出遅れるようではのう。すまん」
「いえ、別にその……」
百見は黙って顔を背けていたが。横目でじっと崇春と、かすみの方を見ていた。やがて小さくかぶりを振ると、小走りに近づく。同じく頭を下げた。
「……すまなかった。君を危険にさらしてしまった。こうするにしてもせめて事前に、説明をしておくべきだった。崇春ではなく、僕に非がある」
「いやそれは、いいんですけど……それより――」
押しとどめるように手を向け、二人を交互に見やりながら。かすみは二つのことが気にかかっていた。一つはもちろん、百見が使った不思議な力のこと。そして、もう一つは。
「――さっき、『どこにいるか分からない人間を探すより手っ取り早い』って、言いましたよね」
「ああ」
顔を上げた百見がうなずく。
「っていうことは……そもそも、人間、なんですか? さっきの、お地蔵さんって」
百見と顔を見合わせた後、崇春が言う。
「むう? そりゃそうじゃが……言うとらんかったかのう?」
百見も言った。
「言ってはなかったね」
何度か口を開け閉めした後、かすみは百見を指差した。
「でも、地蔵像に変化した跡がないか、調べるって……崇春さんに殴られた跡がないか、とか」
百見は眼鏡を指で押し上げる。
「仏教を由来とする言葉にこういうものがある。『嘘も方便』」
「嘘だったんですかーー!?」
百見は肩をすくめてみせる。
「仕方がないだろう。自然にエサ……いや、囮になってもらうために遅くまで連れ回そうと思ったが。他にいい理由がなくってね」
かすみは顔を引きつらせて百見を見た後、崇春に顔を向けた。
「うむ、わしも何でまた地蔵像を調べるのか、不思議じゃったんじゃがのう。何ぞ考えがあるようじゃったんで、何も言わんかったんじゃが」
引きつったかすみの頬が――そして筋肉痛の脚が、ひざが――ぴくぴくと震える。
何だったんだ、今日あれだけ歩き回ったのは。そして地蔵なんか、何で一生懸命に見てたんだ。
「しかし、今日は多くの地蔵様に参れて興味深かったのう。がっはっはっは!」
笑う崇春の顔を見る。思わず肩の力が抜けて、へたり込みそうになりながら言った。
「いいですよ、もう……。それよりどうするんですか? その……人を探すのって」
真顔になって崇春が言う。
「むう、そのことなんじゃが。ずいぶん危険な目に遭わせてしもうたからのう、谷﨑はもうかかわらん方がええじゃろう。わしと百見だけで――」
百見が遮るように手を上げた。
「いや、残念ながらそうもいかなくなった。――谷﨑さん。君を今日囮としたことには、もう一つ理由がある。それは『君が狙われているかどうか確認する』こと。もっと言えば、敵が何らかの理由で君を狙うのか、それとも無差別に狙っただけで、他の誰でもいいのか。それを知る必要があった」
かすみの表情は固まっていた。まるで波が引いていくように、顔から血の気が引いていく感触。
「……それって、つまり……」
「残念ながら前者のようだね。敵の狙いは――少なくとも今は――、君だ」
かすみが何か言うより早く――手が体が、震え出すよりも早く――、崇春が一つ大きく手を叩いた。
「よぅし! そうと分かりゃあ早速、谷﨑を徹底ガードじゃい!」
百見も強くうなずく。
「ああ、朝から晩まで徹底的にね」
「え」
かすみは口を開けていた。
かすみを気にしたそぶりも見せず、百見は崇春に言う。
「帰り道はこのまま送っていくとして、問題は夜だね」
「うむ、そういうことなら任せんかい! 漢崇春、今夜は野宿パーティーじゃい!」
かすみは同じ表情で、また口を開けていた。
「え」
片手の指をあごに当て、百見は何度かうなずいていた。
「それしかないな。よし、必要な物は僕が用意しよう。君は谷﨑さんを送った後そのまま近くで野宿だ。すぐ助けに行けるよう、できるだけ家の近くで――」
二人の間に手を入れ、引き離すように押し広げて。かすみはどうにか声を上げた。
「ちょ、ちょっと待って下さい! 何がどうなって野宿なんですかー!?」
百見は表情を変えずに言う。
「心配はいらない、君は家で普通に生活してくれればいいんだ。ただ、万が一に寝込みを狙われてもいけないからね。すぐに助けに行けるよう、できるだけ近くでガードにつく必要がある――そういうわけで、君の家の近くで野宿する。崇春が」
「……え」
言葉を失うかすみに、百見は微笑んだ。
「気にする必要はないさ。回峯行のように、夜に山野を巡る修験道系の修行は仏教にもある。彼なら大丈夫だ」
「うむ、この町に来るまでも野宿続きじゃったしのう」
「えーと、あの……」
そういう心配ではなく。友人とはいえ昨日今日知り合ったばかりの人が、家の近くで野宿するって。気持ちの良いものではない――というか、だいぶ嫌だ。
その気持ちを察したように百見が言う。
「言いたいことは分かる。突然だし、確かに気分のいいものではないだろう。だが、狙われているというのもまた現実だ。確実に守るのに、他に方法はないんじゃないかな」
「うぅ……まあ、それは、そうかも……」
百見が一つ手を叩く。
「よし崇春! 谷﨑さんの許可が下りたぞ! 早速野宿パーティーの準備だ!」
「ちょ、待――」
「ようし! では行くかのう!」
「だから待っ、待って下さいってばーー!」
崇春に手を引かれ、百見に背を押されて駆け出す。
走りながらふと思う。結局、百見の不思議な力――仏? 四天王? を、呼び出した?――は、何なのか。同じく四天王とか名乗っていた崇春にも、同じ力があるのか。
が、その疑問はすぐに消えた。と言うより――
「さあ急げ、急がんか谷﨑! さっきの奴が戻ってきたらどうするんじゃ!」
「そうだぞ谷﨑さん、君のためだ! さあ早く!」
「ちょ待、本当、待っ、助け、誰かーー!」
疑問を抱く余裕、ましてや質問する暇も無く。かすみはまたも、中距離走の自己記録を更新することとなった。筋肉痛の脚で。
「ひ……」
反射的に後ずさった両足と背が、針山の腹にひやり、と触れる。
地蔵の顔は、頭二つほど上から見下ろすその顔はあくまでも柔和に、にたりにたりと笑って見えた。
「――娘御よ。哀れ、哀れよ。首尾良く逃げたつもりでも、逃げた先でもまた迷う。六道の世を巡り巡って、それでも迷うが人の業。さあ、今こそ償え己が罪」
「あの……ま、待って」
かすみは小さく手を突き出し――足は未だに後ずさろうとし、背はきつく針山の腹に押し付けられていた――、声を上げた。それしかできなかったし、そうするしかなかった。
「待って、待って下さい! 何でそんなこと……他の人たちだって、倒れてる人たちだって、何もしてないはずです!」
見下ろす地蔵の柔和な顔は、固く睨んでいるように見えた。
「ほう、何もしていない。何もしておらんとな」
かすみは必死に――指先と膝が震え、まともに地蔵の顔も見られないが――声を上げる。
「そうです、何もしてません! 償うとか何も――」
その言葉を断ち切るように錫杖を強く打ち鳴らし、地蔵が声を高く上げた。
「黙りおれ! 何もしておらぬだと? 咎人が何をぬかすか! たとえ貴様が知らずとも、犯した罪は罪よ! 裁きは既に下されておる。それを貴様に課すのが我が使命。さあ、黙して受けよかの裁き、黙して服せよこの刑罰!」
小さく息を漏らし、やや声を低めて続けた。
「ともあれ、知らずに犯した罪なれば、幾許かは斟酌もしてやろうぞ。どうした、礼の一つも言うてはどうだ」
かすみは口を開けはしたが、何と言うべきかは分からなかった。
そのとき、聞き覚えのある声が後ろから響く。
「では、僕の方から礼を言っておこうか。ありがとう……思惑通り出てきてくれて、ね」
振り向こうとしたかすみの顔の横を、風を切る音を立てて何かが通り過ぎる。強靭な背表紙を持つ、ハードカバーの本。それが乾いた音を立てて、地蔵の額にぶち当たった。
「が……!」
地蔵は唸り、額を押さえてよろめく。
革靴の音も高く――ごく普通の、アスファルトの上を歩く音だ――、百見はかすみたちの方へと歩いてきた。辺りにはびっしりと、大小様々な針の山が生えているにも関わらず。それらをよけて歩くでもなく、針の上を踏むのでもなく。針など存在しないかのように、本来地面がある場所を踏みしめていた。その光景はちょうど、昨日崇春が針の山を無造作に渡っていたのに似ていた。
違うのは、百見が何やら手を独特の形――両手の甲を向かい合わせにし、人差指のみを絡め合わせている。他の指は自然に開き、親指で中指の爪を押さえる――に組んでいることか。
手を崩さずに歩きながら、百見が言う。
「さて、怪仏・地蔵菩薩よ。見つけたからには逃がしはしない。ここで引導を渡してくれる」
地蔵は変わらぬ石の顔のまま、それでもうろたえたように後ずさった。
「な……あの男だけでなく、貴様もか! 何故、我が地獄道に迷わずにおれる!」
手の形を胸の前で保ったまま、百見は口の端を上げる。
「当然さ。お前のような怪仏ではない、全てを見通す我が守護仏のご加護があればね。――寺の子供をなめるなよ」
「おのれ、おのれおのれぇっ! 黙れ痴れ者、受けよ我が怪仏罰を!」
地蔵が錫杖を高く掲げ、貫くように地面を突いた。その先からまるで波のように、一直線に生え出る針山が百見へと向かう。
「百見さん――!」
危ない、とかすみが言おうとしたその時には。百見はすでに、その言葉を唱えていた。
「オン・ビロバキシャ・ナギャ・ジハタ・エイ・ソワカ。護法善神二十八部衆の一にして遍く四方を司りし四天王の一、結縁に拠りて来れ西方の守護者――帰命頂礼、『広目天』!」
組み合わせた百見の手が辺りに白く光を放つ。その光が収まったとき。百見の前に現れた大きな人影――百見より頭二つは大きい――が、迫り来る針山を受け止めていた。
がしりと肩幅の広いその人影は、ちょうど仁王像――教科書に載っている、運慶・快慶作のあれ――によく似ていた。だがその体は半裸ではなく、深い赤色をした古代中国風の鎧をまとっている。鎧と同じ色をした髪は頭の真上からやや後ろにまとめられ、丸く結われている。その姿は全体に淡く輝き、時折陽炎のように揺らめいて見えた。
手を組んだまま百見が言う。
「これが僕の守護仏、全てを見通す目を持つ者。四天王の一尊、『広目天』。彼の力があれば地獄の幻などに惑わされることはない、が」
広目天が針山を受け止めた手を離す。その掌から破片となった針がこぼれて地面に落ち、金属音を立てた。
「実体の針も生み出すことができるようだね……なるほど、地蔵菩薩の名はサンスクリット語――古代インド言語の一種――でクシティ・ガルバ――『大地の宝蔵』、あるいは『大地の母胎』――に由来する。作物などの恵みと鉱物のような資源を無尽蔵にもたらす大地の力、それを模したか」
地蔵が歯軋りの音を立てる。
「ふん、貴様も妙な力を使うようだが。それがどうした、我が司る大地の力、止められるか! 受けよ、【地獄道大針林】!」
地蔵が杖を地面に突くと、先ほどのように――いや、先ほどよりも遥かに多くの――針が地面を貫いて生え、辺り一面ごと飲み込むような波となって百見へと向かった。
かすみは思わず息を飲んだ、が。百見の表情は変わらない。
「へえ。それがどうした」
胸ポケットから万年筆を取り出すと、くるりと指で回し。キャップを開け、ペン先を針山へ向けて振るった。
「広目天、今こそ揮えその持物。【広目一筆】!」
百見の前に立つ広目天は、いつの間にかその右手に筆、左手に巻物を握っていた。百見の動きに合わせるようにその右手が動き、滴るほどに墨を含んだ筆を空間へと打ちつけるように揮う。
その筆が通り過ぎた空間、正にそこに。書道でいう楷書――漢字の書体として最も多く目にする、活字のような書体――のように、かっちりとした筆跡が走る。まるで大黒柱のような太さを持って。最初に強く筆を着ける起筆の墨痕も黒々と、そこから運ぶ送筆と、強く打ち止める収筆の跡も確かにそこに――空間それ自体に書かれたように――横一文字に、現れていた。
まるでそれが物理的な壁であるかのように。押し寄せた針山の波はその墨跡にぶち当たり、硬い音を立てて砕け散った。
得意げに、百見はくるりと万年筆を回す。
「世の中の、善きも悪しきも何事も、広目天の筆先一つ――。ヴィルーパークシャこと広目天、『異様なる目を持つ者』。その役割は全てを見通す目で人々の善行悪行を視認し、記録して上位の神仏へと報告すること。大事を担う神筆、地獄の針程度で折れやしないさ。さて……行くぞ!」
百見は――広目天は――、横一文字に筆を揮った。辺りに残る針山の上、百見と地蔵とを結ぶ直線上に、橋のように一の字が鮮やかに描かれる。その上に軽く跳び乗り、地蔵へと駆けた。
「さあ。添削しよう、お前の存在。受けよ、【広目一筆】!」
共に駆ける広目天が筆を振り上げた、そのとき。
「うおおおおおーーっ! 【スシュンキック】じゃああぁぁーっっ!」
かすみと百見の向こう、地蔵の背後から。霧の中を走り出た崇春が、突然地蔵の背へ、跳び蹴りを食らわせていた。
「な……」
「え……!?」
「があ……っ!?」
百見とかすみが声を詰まらせ、地蔵が前へと吹っ飛び。広目天の筆が宙を空振る。
地面へ擦れる音を立て、地蔵が倒れた後。崇春は腰に手を当てて高らかに笑う。
「がっはっは! ちぃと道に迷うたがのう、ギリギリセーフじゃ! やい怪仏よ、観念せい! このわしこと四天王が一角、南方の守護者。『増長天』の崇春が来たからにはのう!」
ぱく、と口を開けた後、何か言いたげに口を動かして。その後思い出したように、百見が声を上げる。
「君は……馬鹿かっ! 後ろから回り込めとは言ったが、何で今来た!」
崇春は困ったように目尻を下げ、眉を寄せる。
「むう? ちゅうても、わしゃあその、ちゃんと後ろから来たし、頑張ってじゃな……」
地面にうつ伏せで倒れていた、地蔵が震えながら身を起こす。
「ふ、ふふふ……。確かにぎりぎりといったところか、我にとってはな。さらばだ!」
こちらに背を向け、白く煙る霧の中へ。滑るような動きで地蔵は逃げてゆく。
「むう!? 卑怯な、待たんか!」
「ちぃ……!」
百見がペン先でその背を指し、広目天が筆を十文字に揮うが。空間に舞った墨痕も届かなかったか、地蔵の姿はそのまま見えなくなった。
崇春が追って駆け出したそのとき。全てが嘘だったかのように、辺りを覆っていた霧が消えていた。かすみの真横には木の電柱があり、古い蛍光灯が辺りを白々と照らしていた。もちろん、道の先にもどこにも、地蔵の姿などはなかった。
「……逃がしたか……」
つぶやいた、百見の拳は固く握られていた。
崇春は路地を駆け、その先で辺りを見回す。それでもやはり、地蔵の姿はなかったようだ。心なしか顔をうつむけ、ゆっくりとこちらへ振り向く。
「ぬ……むう、しまった……。どうやら、わしのせいじゃ」
「ああそうさ」
靴音も高く近づき、百見は崇春の胸倉をつかむ。
「もう一息、もう一息だったんだぞ! せっかくエサに食いついて、のこのこ出てきたというのに! それが……何をしてくれている!」
かすみは震える両手を開き、押さえるように百見に向けた。
「あの、すみません、その。そんなには、怒らなくても……」
「君は黙っていてくれ!」
百見が手を離し、かすみの方を向く。
そのとき、崇春が頭を下げた。真っ直ぐに、腰よりも低く。
「すまん」
百見が小さく口を開け、そちらを振り向く。
頭を下げたまま崇春は続けた。
「確かに、余計なことをしでかしたようじゃ。全てはわしの責。すまん」
小さく鼻を鳴らし、百見は言う。
「どうした、いやにしおらしいじゃないか」
「本当にすまなんだ。じゃが――」
顔を上げて百見の目を見る。
「じゃが、一つ聞かせてくれんか。百見よ、お主はさっきこう言わんかったか。『せっかくエサに食いついたのに』と」
百見がわずかに視線をそらす。
「……確かに、言ったね」
「そりゃあつまり、谷﨑を奴に襲わせるつもりで、囮に使うたっちゅうことか」
え、と口から出かけたが、かすみは黙ったまま二人の顔を見た。
崇春は百見の顔を見、百見は視線をそらせたままでいた。
「……そのとおりさ。一度狙われた谷﨑さんを同じ状況で一人にしておけば、敵はそれに食いついてくる。どこにいるか分からない人間を探すより、そちらの方が手っ取り早い」
「……そうか」
崇春はそれだけ言うと、かすみの方へ歩み寄った。
「すまん。百見も、悪気があったわけじゃあないはずじゃ。それよりもわしに責がある……守ると大見得切っておいて、出遅れるようではのう。すまん」
「いえ、別にその……」
百見は黙って顔を背けていたが。横目でじっと崇春と、かすみの方を見ていた。やがて小さくかぶりを振ると、小走りに近づく。同じく頭を下げた。
「……すまなかった。君を危険にさらしてしまった。こうするにしてもせめて事前に、説明をしておくべきだった。崇春ではなく、僕に非がある」
「いやそれは、いいんですけど……それより――」
押しとどめるように手を向け、二人を交互に見やりながら。かすみは二つのことが気にかかっていた。一つはもちろん、百見が使った不思議な力のこと。そして、もう一つは。
「――さっき、『どこにいるか分からない人間を探すより手っ取り早い』って、言いましたよね」
「ああ」
顔を上げた百見がうなずく。
「っていうことは……そもそも、人間、なんですか? さっきの、お地蔵さんって」
百見と顔を見合わせた後、崇春が言う。
「むう? そりゃそうじゃが……言うとらんかったかのう?」
百見も言った。
「言ってはなかったね」
何度か口を開け閉めした後、かすみは百見を指差した。
「でも、地蔵像に変化した跡がないか、調べるって……崇春さんに殴られた跡がないか、とか」
百見は眼鏡を指で押し上げる。
「仏教を由来とする言葉にこういうものがある。『嘘も方便』」
「嘘だったんですかーー!?」
百見は肩をすくめてみせる。
「仕方がないだろう。自然にエサ……いや、囮になってもらうために遅くまで連れ回そうと思ったが。他にいい理由がなくってね」
かすみは顔を引きつらせて百見を見た後、崇春に顔を向けた。
「うむ、わしも何でまた地蔵像を調べるのか、不思議じゃったんじゃがのう。何ぞ考えがあるようじゃったんで、何も言わんかったんじゃが」
引きつったかすみの頬が――そして筋肉痛の脚が、ひざが――ぴくぴくと震える。
何だったんだ、今日あれだけ歩き回ったのは。そして地蔵なんか、何で一生懸命に見てたんだ。
「しかし、今日は多くの地蔵様に参れて興味深かったのう。がっはっはっは!」
笑う崇春の顔を見る。思わず肩の力が抜けて、へたり込みそうになりながら言った。
「いいですよ、もう……。それよりどうするんですか? その……人を探すのって」
真顔になって崇春が言う。
「むう、そのことなんじゃが。ずいぶん危険な目に遭わせてしもうたからのう、谷﨑はもうかかわらん方がええじゃろう。わしと百見だけで――」
百見が遮るように手を上げた。
「いや、残念ながらそうもいかなくなった。――谷﨑さん。君を今日囮としたことには、もう一つ理由がある。それは『君が狙われているかどうか確認する』こと。もっと言えば、敵が何らかの理由で君を狙うのか、それとも無差別に狙っただけで、他の誰でもいいのか。それを知る必要があった」
かすみの表情は固まっていた。まるで波が引いていくように、顔から血の気が引いていく感触。
「……それって、つまり……」
「残念ながら前者のようだね。敵の狙いは――少なくとも今は――、君だ」
かすみが何か言うより早く――手が体が、震え出すよりも早く――、崇春が一つ大きく手を叩いた。
「よぅし! そうと分かりゃあ早速、谷﨑を徹底ガードじゃい!」
百見も強くうなずく。
「ああ、朝から晩まで徹底的にね」
「え」
かすみは口を開けていた。
かすみを気にしたそぶりも見せず、百見は崇春に言う。
「帰り道はこのまま送っていくとして、問題は夜だね」
「うむ、そういうことなら任せんかい! 漢崇春、今夜は野宿パーティーじゃい!」
かすみは同じ表情で、また口を開けていた。
「え」
片手の指をあごに当て、百見は何度かうなずいていた。
「それしかないな。よし、必要な物は僕が用意しよう。君は谷﨑さんを送った後そのまま近くで野宿だ。すぐ助けに行けるよう、できるだけ家の近くで――」
二人の間に手を入れ、引き離すように押し広げて。かすみはどうにか声を上げた。
「ちょ、ちょっと待って下さい! 何がどうなって野宿なんですかー!?」
百見は表情を変えずに言う。
「心配はいらない、君は家で普通に生活してくれればいいんだ。ただ、万が一に寝込みを狙われてもいけないからね。すぐに助けに行けるよう、できるだけ近くでガードにつく必要がある――そういうわけで、君の家の近くで野宿する。崇春が」
「……え」
言葉を失うかすみに、百見は微笑んだ。
「気にする必要はないさ。回峯行のように、夜に山野を巡る修験道系の修行は仏教にもある。彼なら大丈夫だ」
「うむ、この町に来るまでも野宿続きじゃったしのう」
「えーと、あの……」
そういう心配ではなく。友人とはいえ昨日今日知り合ったばかりの人が、家の近くで野宿するって。気持ちの良いものではない――というか、だいぶ嫌だ。
その気持ちを察したように百見が言う。
「言いたいことは分かる。突然だし、確かに気分のいいものではないだろう。だが、狙われているというのもまた現実だ。確実に守るのに、他に方法はないんじゃないかな」
「うぅ……まあ、それは、そうかも……」
百見が一つ手を叩く。
「よし崇春! 谷﨑さんの許可が下りたぞ! 早速野宿パーティーの準備だ!」
「ちょ、待――」
「ようし! では行くかのう!」
「だから待っ、待って下さいってばーー!」
崇春に手を引かれ、百見に背を押されて駆け出す。
走りながらふと思う。結局、百見の不思議な力――仏? 四天王? を、呼び出した?――は、何なのか。同じく四天王とか名乗っていた崇春にも、同じ力があるのか。
が、その疑問はすぐに消えた。と言うより――
「さあ急げ、急がんか谷﨑! さっきの奴が戻ってきたらどうするんじゃ!」
「そうだぞ谷﨑さん、君のためだ! さあ早く!」
「ちょ待、本当、待っ、助け、誰かーー!」
疑問を抱く余裕、ましてや質問する暇も無く。かすみはまたも、中距離走の自己記録を更新することとなった。筋肉痛の脚で。
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