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一ノ巻  誘う惑い路、地獄地蔵

第6話  広目天(こうもくてん)

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 ゆっくり振り向くと目の前、手を伸ばせば触れてしまえそうな所に、地蔵はいた。
「ひ……」

 反射的に後ずさった両足と背が、針山の腹にひやり、と触れる。

 地蔵の顔は、頭二つほど上から見下ろすその顔はあくまでも柔和に、にたりにたりと笑って見えた。

「――娘御よ。哀れ、哀れよ。首尾しゅび良く逃げたつもりでも、逃げた先でもまた迷う。六道りくどうの世を巡り巡って、それでも迷うが人のごう。さあ、今こそ償え己が罪」

「あの……ま、待って」
 かすみは小さく手を突き出し――足は未だに後ずさろうとし、背はきつく針山の腹に押し付けられていた――、声を上げた。それしかできなかったし、そうするしかなかった。
「待って、待って下さい! 何でそんなこと……他の人たちだって、倒れてる人たちだって、何もしてないはずです!」

 見下ろす地蔵の柔和な顔は、固くにらんでいるように見えた。
「ほう、何もしていない。何もしておらんとな」

 かすみは必死に――指先と膝が震え、まともに地蔵の顔も見られないが――声を上げる。
「そうです、何もしてません! 償うとか何も――」

 その言葉を断ち切るように錫杖を強く打ち鳴らし、地蔵が声を高く上げた。
「黙りおれ! 何もしておらぬだと? 咎人とがびとが何をぬかすか! たとえ貴様が知らずとも、犯した罪は罪よ! 裁きは既に下されておる。それを貴様に課すのが我が使命。さあ、黙して受けよかの裁き、黙して服せよこの刑罰!」

 小さく息を漏らし、やや声を低めて続けた。
「ともあれ、知らずに犯した罪なれば、幾許いくばくかは斟酌しんしゃくもしてやろうぞ。どうした、礼の一つも言うてはどうだ」

 かすみは口を開けはしたが、何と言うべきかは分からなかった。

 そのとき、聞き覚えのある声が後ろから響く。
「では、僕の方から礼を言っておこうか。ありがとう……思惑通り出てきてくれて、ね」

 振り向こうとしたかすみの顔の横を、風を切る音を立てて何かが通り過ぎる。強靭きょうじんな背表紙を持つ、ハードカバーの本。それが乾いた音を立てて、地蔵の額にぶち当たった。

「が……!」
 地蔵はうなり、額を押さえてよろめく。

 革靴の音も高く――ごく普通の、アスファルトの上を歩く音だ――、百見はかすみたちの方へと歩いてきた。辺りにはびっしりと、大小様々な針の山が生えているにも関わらず。それらをよけて歩くでもなく、針の上を踏むのでもなく。針など存在しないかのように、本来地面がある場所を踏みしめていた。その光景はちょうど、昨日崇春が針の山を無造作に渡っていたのに似ていた。
 
 違うのは、百見が何やら手を独特の形――両手の甲を向かい合わせにし、人差指のみを絡め合わせている。他の指は自然に開き、親指で中指の爪を押さえる――に組んでいることか。

手を崩さずに歩きながら、百見が言う。
「さて、怪仏・地蔵菩薩よ。見つけたからには逃がしはしない。ここで引導を渡してくれる」

 地蔵は変わらぬ石の顔のまま、それでもうろたえたように後ずさった。
「な……あの男だけでなく、貴様もか! 何故、我が地獄道に迷わずにおれる!」

 手の形を胸の前で保ったまま、百見は口の端を上げる。
「当然さ。お前のような怪仏ではない、全てを見通す我が守護仏のご加護があればね。――寺の子供をなめるなよ」
「おのれ、おのれおのれぇっ! 黙れれ者、受けよ我が怪仏罰ぶつばつを!」

 地蔵が錫杖を高く掲げ、貫くように地面を突いた。その先からまるで波のように、一直線に生え出る針山が百見へと向かう。

「百見さん――!」
 危ない、とかすみが言おうとしたその時には。百見はすでに、その言葉を唱えていた。

「オン・ビロバキシャ・ナギャ・ジハタ・エイ・ソワカ。護法善神二十八部衆の一にしてあまね四方よもつかさどりし四天王の一、結縁けちえんりてきたれ西方の守護者――帰命頂礼きみょうちょうらい、『広目天こうもくてん』!」

 組み合わせた百見の手が辺りに白く光を放つ。その光が収まったとき。百見の前に現れた大きな人影――百見より頭二つは大きい――が、迫り来る針山を受け止めていた。
 がしりと肩幅の広いその人影は、ちょうど仁王像――教科書に載っている、運慶・快慶作のあれ――によく似ていた。だがその体は半裸ではなく、深い赤色をした古代中国風の鎧をまとっている。鎧と同じ色をした髪は頭の真上からやや後ろにまとめられ、丸く結われている。その姿は全体に淡く輝き、時折陽炎かげろうのように揺らめいて見えた。

 手を組んだまま百見が言う。
「これが僕の守護仏、全てを見通す目を持つ者。四天王の一尊いっそん、『広目天こうもくてん』。彼の力があれば地獄の幻などに惑わされることはない、が」

 広目天が針山を受け止めた手を離す。その掌から破片となった針がこぼれて地面に落ち、金属音を立てた。
「実体の針も生み出すことができるようだね……なるほど、地蔵菩薩の名はサンスクリット語――古代インド言語の一種――でクシティ・ガルバ――『大地の宝蔵』、あるいは『大地の母胎』――に由来する。作物などの恵みと鉱物のような資源を無尽蔵にもたらす大地の力、それを模したか」

 地蔵が歯軋りの音を立てる。
「ふん、貴様も妙な力を使うようだが。それがどうした、我が司る大地の力、止められるか! 受けよ、【地獄道大針林だいしんりん】!」

 地蔵が杖を地面に突くと、先ほどのように――いや、先ほどよりも遥かに多くの――針が地面を貫いて生え、辺り一面ごと飲み込むような波となって百見へと向かった。

 かすみは思わず息を飲んだ、が。百見の表情は変わらない。
「へえ。それがどうした」

 胸ポケットから万年筆を取り出すと、くるりと指で回し。キャップを開け、ペン先を針山へ向けて振るった。

広目天こうもくてん、今こそふるえその持物じぶつ。【広目一筆こうもくいっぴつ】!」

 百見の前に立つ広目天は、いつの間にかその右手に筆、左手に巻物を握っていた。百見の動きに合わせるようにその右手が動き、したたるるほどに墨を含んだ筆を空間へと打ちつけるようにふるう。

 その筆が通り過ぎた空間、正にそこに。書道でいう楷書かいしょ――漢字の書体として最も多く目にする、活字のような書体――のように、かっちりとした筆跡ふであとが走る。まるで大黒柱のような太さを持って。最初に強く筆を着ける起筆の墨痕ぼっこんも黒々と、そこから運ぶ送筆と、強く打ち止める収筆の跡も確かにそこに――空間それ自体に書かれたように――横一文字に、現れていた。
 まるでそれが物理的な壁であるかのように。押し寄せた針山の波はその墨跡ぼくせきにぶち当たり、硬い音を立てて砕け散った。

 得意げに、百見はくるりと万年筆を回す。
「世の中の、善きも悪しきも何事も、広目天の筆先一つ――。ヴィルーパークシャこと広目天、『異様なる目を持つ者』。その役割は全てを見通す目で人々の善行悪行を視認し、記録して上位の神仏へと報告すること。大事を担う神筆、地獄の針程度で折れやしないさ。さて……行くぞ!」

 百見は――広目天は――、横一文字に筆をふるった。辺りに残る針山の上、百見と地蔵とを結ぶ直線上に、橋のように一の字が鮮やかに描かれる。その上に軽く跳び乗り、地蔵へと駆けた。

「さあ。添削てんさくしよう、お前の存在。受けよ、【広目一筆こうもくいっぴつ】!」
 共に駆ける広目天が筆を振り上げた、そのとき。

「うおおおおおーーっ! 【スシュンキック】じゃああぁぁーっっ!」
 かすみと百見の向こう、地蔵の背後から。霧の中を走り出た崇春が、突然地蔵の背へ、跳び蹴りを食らわせていた。

「な……」
「え……!?」
「があ……っ!?」
 百見とかすみが声を詰まらせ、地蔵が前へと吹っ飛び。広目天の筆が宙を空振る。

 地面へ擦れる音を立て、地蔵が倒れた後。崇春は腰に手を当てて高らかに笑う。
「がっはっは! ちぃと道に迷うたがのう、ギリギリセーフじゃ! やい怪仏かいぶつよ、観念せい! このわしこと四天王が一角、南方の守護者。『増長天ぞうちょうてん』の崇春が来たからにはのう!」

 ぱく、と口を開けた後、何か言いたげに口を動かして。その後思い出したように、百見が声を上げる。
「君は……馬鹿かっ! 後ろから回り込めとは言ったが、何で今来た!」

 崇春は困ったように目尻を下げ、眉を寄せる。
「むう? ちゅうても、わしゃあその、ちゃんと後ろから来たし、頑張ってじゃな……」

 地面にうつ伏せで倒れていた、地蔵が震えながら身を起こす。
「ふ、ふふふ……。確かにぎりぎりといったところか、我にとってはな。さらばだ!」
 こちらに背を向け、白く煙る霧の中へ。滑るような動きで地蔵は逃げてゆく。

「むう!? 卑怯な、待たんか!」
「ちぃ……!」
 百見がペン先でその背を指し、広目天が筆を十文字に揮うが。空間に舞った墨痕も届かなかったか、地蔵の姿はそのまま見えなくなった。

 崇春が追って駆け出したそのとき。全てが嘘だったかのように、辺りを覆っていた霧が消えていた。かすみの真横には木の電柱があり、古い蛍光灯が辺りを白々と照らしていた。もちろん、道の先にもどこにも、地蔵の姿などはなかった。

「……逃がしたか……」
 つぶやいた、百見の拳は固く握られていた。

 崇春は路地を駆け、その先で辺りを見回す。それでもやはり、地蔵の姿はなかったようだ。心なしか顔をうつむけ、ゆっくりとこちらへ振り向く。
「ぬ……むう、しまった……。どうやら、わしのせいじゃ」
「ああそうさ」
 靴音も高く近づき、百見は崇春の胸倉をつかむ。
「もう一息、もう一息だったんだぞ! せっかくエサに食いついて、のこのこ出てきたというのに! それが……何をしてくれている!」

 かすみは震える両手を開き、押さえるように百見に向けた。
「あの、すみません、その。そんなには、怒らなくても……」
「君は黙っていてくれ!」
 百見が手を離し、かすみの方を向く。

 そのとき、崇春が頭を下げた。真っ直ぐに、腰よりも低く。
「すまん」
 百見が小さく口を開け、そちらを振り向く。
頭を下げたまま崇春は続けた。
「確かに、余計なことをしでかしたようじゃ。全てはわしのせき。すまん」
 小さく鼻を鳴らし、百見は言う。
「どうした、いやにしおらしいじゃないか」
「本当にすまなんだ。じゃが――」
 顔を上げて百見の目を見る。
「じゃが、一つ聞かせてくれんか。百見よ、おんしはさっきこう言わんかったか。『せっかくエサに食いついたのに』と」

 百見がわずかに視線をそらす。
「……確かに、言ったね」
「そりゃあつまり、谷﨑を奴に襲わせるつもりで、おとり使つこうたっちゅうことか」

 え、と口から出かけたが、かすみは黙ったまま二人の顔を見た。
 崇春は百見の顔を見、百見は視線をそらせたままでいた。

「……そのとおりさ。一度狙われた谷﨑さんを同じ状況で一人にしておけば、敵はそれに食いついてくる。どこにいるか分からない人間を探すより、そちらの方が手っ取り早い」
「……そうか」
 崇春はそれだけ言うと、かすみの方へ歩み寄った。
「すまん。百見も、悪気があったわけじゃあないはずじゃ。それよりもわしに責がある……守ると大見得切っておいて、出遅れるようではのう。すまん」
「いえ、別にその……」

 百見は黙って顔を背けていたが。横目でじっと崇春と、かすみの方を見ていた。やがて小さくかぶりを振ると、小走りに近づく。同じく頭を下げた。
「……すまなかった。君を危険にさらしてしまった。こうするにしてもせめて事前に、説明をしておくべきだった。崇春ではなく、僕に非がある」
「いやそれは、いいんですけど……それより――」
 押しとどめるように手を向け、二人を交互に見やりながら。かすみは二つのことが気にかかっていた。一つはもちろん、百見が使った不思議な力のこと。そして、もう一つは。

「――さっき、『どこにいるか分からない人間を探すより手っ取り早い』って、言いましたよね」
「ああ」
 顔を上げた百見がうなずく。

「っていうことは……そもそも、人間、なんですか? さっきの、お地蔵さんって」

 百見と顔を見合わせた後、崇春が言う。
「むう? そりゃそうじゃが……言うとらんかったかのう?」
 百見も言った。
「言ってはなかったね」

 何度か口を開け閉めした後、かすみは百見を指差した。
「でも、地蔵像に変化した跡がないか、調べるって……崇春さんに殴られた跡がないか、とか」
 百見は眼鏡を指で押し上げる。
「仏教を由来とする言葉にこういうものがある。『嘘も方便ほうべん』」
「嘘だったんですかーー!?」

 百見は肩をすくめてみせる。
「仕方がないだろう。自然にエサ……いや、囮になってもらうために遅くまで連れ回そうと思ったが。他にいい理由がなくってね」

 かすみは顔を引きつらせて百見を見た後、崇春に顔を向けた。
「うむ、わしも何でまた地蔵像を調べるのか、不思議じゃったんじゃがのう。何ぞ考えがあるようじゃったんで、何も言わんかったんじゃが」
 引きつったかすみの頬が――そして筋肉痛の脚が、ひざが――ぴくぴくと震える。
何だったんだ、今日あれだけ歩き回ったのは。そして地蔵なんか、何で一生懸命に見てたんだ。

「しかし、今日は多くの地蔵様に参れて興味深かったのう。がっはっはっは!」
 笑う崇春の顔を見る。思わず肩の力が抜けて、へたり込みそうになりながら言った。
「いいですよ、もう……。それよりどうするんですか? その……人を探すのって」

 真顔になって崇春が言う。
「むう、そのことなんじゃが。ずいぶん危険な目に遭わせてしもうたからのう、谷﨑はもうかかわらん方がええじゃろう。わしと百見だけで――」
 百見が遮るように手を上げた。
「いや、残念ながらそうもいかなくなった。――谷﨑さん。君を今日囮としたことには、もう一つ理由がある。それは『君が狙われているかどうか確認する』こと。もっと言えば、敵が何らかの理由で君を狙うのか、それとも無差別に狙っただけで、他の誰でもいいのか。それを知る必要があった」

 かすみの表情は固まっていた。まるで波が引いていくように、顔から血の気が引いていく感触。
「……それって、つまり……」
「残念ながら前者のようだね。敵の狙いは――少なくとも今は――、君だ」

 かすみが何か言うより早く――手が体が、震え出すよりも早く――、崇春が一つ大きく手を叩いた。
「よぅし! そうと分かりゃあ早速、谷﨑を徹底ガードじゃい!」
 百見も強くうなずく。
「ああ、朝から晩まで徹底的にね」

「え」
 かすみは口を開けていた。

 かすみを気にしたそぶりも見せず、百見は崇春に言う。
「帰り道はこのまま送っていくとして、問題は夜だね」
「うむ、そういうことなら任せんかい! おとこ崇春、今夜は野宿パーティーじゃい!」

 かすみは同じ表情で、また口を開けていた。
「え」

 片手の指をあごに当て、百見は何度かうなずいていた。
「それしかないな。よし、必要な物は僕が用意しよう。君は谷﨑さんを送った後そのまま近くで野宿だ。すぐ助けに行けるよう、できるだけ家の近くで――」
 二人の間に手を入れ、引き離すように押し広げて。かすみはどうにか声を上げた。
「ちょ、ちょっと待って下さい! 何がどうなって野宿なんですかー!?」

 百見は表情を変えずに言う。
「心配はいらない、君は家で普通に生活してくれればいいんだ。ただ、万が一に寝込みを狙われてもいけないからね。すぐに助けに行けるよう、できるだけ近くでガードにつく必要がある――そういうわけで、君の家の近くで野宿する。崇春が」
「……え」

 言葉を失うかすみに、百見は微笑んだ。
「気にする必要はないさ。回峯行かいほうぎょうのように、夜に山野を巡る修験道系の修行は仏教にもある。彼なら大丈夫だ」
「うむ、この町に来るまでも野宿続きじゃったしのう」

「えーと、あの……」
 そういう心配ではなく。友人とはいえ昨日今日知り合ったばかりの人が、家の近くで野宿するって。気持ちの良いものではない――というか、だいぶ嫌だ。

 その気持ちを察したように百見が言う。
「言いたいことは分かる。突然だし、確かに気分のいいものではないだろう。だが、狙われているというのもまた現実だ。確実に守るのに、他に方法はないんじゃないかな」
「うぅ……まあ、それは、そうかも……」

 百見が一つ手を叩く。
「よし崇春! 谷﨑さんの許可が下りたぞ! 早速野宿パーティーの準備だ!」
「ちょ、待――」
「ようし! では行くかのう!」
「だから待っ、待って下さいってばーー!」
 崇春に手を引かれ、百見に背を押されて駆け出す。

 走りながらふと思う。結局、百見の不思議な力――仏? 四天王? を、呼び出した?――は、何なのか。同じく四天王とか名乗っていた崇春にも、同じ力があるのか。
 が、その疑問はすぐに消えた。と言うより――
「さあ急げ、急がんか谷﨑! さっきの奴が戻ってきたらどうするんじゃ!」
「そうだぞ谷﨑さん、君のためだ! さあ早く!」
「ちょ待、本当、待っ、助け、誰かーー!」

 疑問を抱く余裕、ましてや質問する暇も無く。かすみはまたも、中距離走の自己記録を更新することとなった。筋肉痛の脚で。


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