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一ノ巻 誘う惑い路、地獄地蔵
第2話 崇春と百見
しおりを挟む翌日。ホームルーム前の予鈴が鳴る中で、かすみは席についていた。頬杖をつき、ため息をつく。
何だったのだろうか、昨日のあれは。
夢だと思えればいいのかも知れないが。地蔵や地獄のそれよりも、むしろ崇春と名乗った僧の存在感がそれを許してくれそうにない。
「……ちゃんと駅行けたのかな」
再び息をついて教室を見渡す。席についている生徒ばかりでなく、まだ寄り集まって談笑する生徒もいるが。彼らを差し引いても、空いているいくつかの席。
あんなことがあった――意識を失ったまま目覚めない――生徒。そのうち四人は一年A組、このクラスだった。
その人たちとは特に親しいというわけでもなく――同じ学校、同じクラスになって一ヶ月ほどしか経っていないということもあり――、特に事情を知っているというわけでもない。けれど、特別に体が弱いとか、持病があるとか、そういった話は聞いたことがない。むしろ、至って健康そうな――活発な、クラスでは目立つタイプの――子たちだったと思う。
あの地蔵が、この病気? というか事態の原因だとして。崇春が殴ったことで、あの地獄にいた人たち――意識を失っている人たちの、魂? もっとも、クラスの人たちがいたかは霧と遠目だったせいで分からなかったが――も解放されているのだろうか。かすみが助かったように。そうだったらいいのだが。
「はあ~……」
肩にかかる髪をかき上げ、頭を強くかく。まったく、もやもやする。崇春という人に、あのときちゃんと聞いておけばよかった。せめて連絡先だけでも――いや、今後連絡を取り合いたいとかそういうわけではなくて――
分厚い手の感触を思い出し、少しだけ顔が熱くなっているのに気づいて。打ち消すようにかぶりを振った。
そうするうちにチャイムが鳴る。いつもならもう、先生の足音が聞こえてくるところだったが。
聞こえてきたのは、じゃりん、という音。力強い錫杖の音。聞き覚えのある野太い声。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。六根清浄、六根清浄――」
「ちょ、君ぃ、ちょっと待て君ぃ!」
教室の扉の向こうで、慌てたような男の人の声――担任の品ノ川先生の声だ――がして。その声と崇春の声と、また別の男の声――こちらは若い、生徒だろうか――が何か言い合って。それからようやく扉が開いた。
起立、の号令を打ち消すように、品ノ川先生を押し退けるように。笠と錫杖を手に入り込んできた崇春が、胸を張って声を上げた。
「頼もおおぉーう!! 御開山拝登並びに免掛塔宜しゅうぅう!!」
その響きに窓ガラスが、びりり、と震え、クラスの誰もが――起立の途中で中途半端に立ったまま――固まって、崇春を見ていた。
不思議そうにそれを見回し、それから崇春が歯を見せた。頭に手をやり、照れたように笑う。
「がっはっは、何やら早速目立ってしまったようじゃのう。さて、とはいえもう一度……御開山――」
再び口を開きかけ、クラス全員が耳を覆ったそのとき。
崇春の背後からその頭に。断ち割るように、天から落ちたように真っすぐ。分厚いハードカバーの本が――しかも縦に、背表紙の方から――振り落とされた。
「痛ったああああ!」
乾いた音が小気味良く響き、崇春が悲鳴を上げた後。背後から姿を見せた男――先生ではない、かすみと同い年ぐらい――が口を開いた。
「崇春! 君は馬鹿かっ!」
見たことのない生徒だった。背丈はそう変わらないが、崇春と違って――並んだせいで余計そう見えるのか――線の細い印象を受けた。真ん中から自然に分けた黒い髪は――まるでトリートメントに細心の注意を払っている女子のそれのように――きめ細かく、白い光沢さえ見えた。他校の制服だろうか、ボタンのないジッパータイプの白い詰襟に包まれた体はしかし、背筋に芯でも入っているような姿勢の良さのせいか、女性的な印象はなかった。
きっちりと長方形を描いた銀縁フレームの眼鏡を押し上げ、男は言葉を継いだ。低くはないが真っすぐ通る声。
「馬鹿か君は! それは禅宗の寺院で修行志願するときの挨拶だろう! 僕らとは宗派が別だ!」
よく分からないけれど。
「……そういうことじゃ、ないんじゃないですかね……」
思わずつぶやいたかすみの声に、崇春が目を見開いた。
「おお、昨日の! お主もこの学校じゃったんかい!」
笑って続ける。
「いやあ、あんときはおかげで助かったわい! お主がおらなんだら、未だに待ち合わせ場所にたどり着けんかったところじゃ!」
「ほう、七十四時間ほど遅刻しておいて言うことはそれかい」
隣の男は眉根を寄せてつぶやいたが。すぐに、気を取り直したようにかすみの――そしてクラスの生徒たちの――方へ向き直り、大きく一度手を叩いた。
「とにかく! 彼はこのクラスに転校して参りました、丸藤崇春。通称スシュン。お騒がせしましたが、どうぞよろしくお願い致します。それとそう、僕は岸山一見。同じくこのクラスに転校して参りました。彼とは一応の知人です。同じく、よろしくお願い致します」
そう言って深くお辞儀する。
崇春が、岸山と名乗った男の肩に腕を乗せた。
「おうよ、百見とわしゃあ生涯の親友じゃあ!」
岸山は素早く横へずれ、崇春の腕を外す。
「知人です」
「がっはっは、照れることもなかろう――」
崇春はまだ何か言おうとしたようだったが。彼らの後ろから、何度か咳払いが聞こえた。最初は控え目に、やがて強く。
担任の品ノ川先生が、眼鏡を片手でかけ直しながら、伏目がちに――ただし、伏せた目で鋭く二人を睨んで、頬を歪めて――そこにいた。
「……君ぃら。何を勝手にやってる、普通はだ。担任たる私の指示があってだな、なぁ? 誰が勝手に自己紹介などしてるんだ、なぁ君ぃ?」
睨みつけて問う先生はしかし、岸山が口を開きかけたところで――タイミングを計ったように素早く――視線をそらす。
教室を見回し――さっきの言葉は誰にともなく言った、そんな風に装い――、ネクタイを調えた。しわの寄ったスーツの襟元を正し、わずかに白髪の混じった――今年三十一歳だそうだが――縮れ髪をなでつける。中途半端な長さのその端が、何本か跳ねた。
「えー、というわけでぇ。先に自己紹介が済んでしまったが、丸藤くんと岸山くんだ。異例ではあるがぁ、このクラスに二人転校生が入ることとなった。皆仲良く、決して規律を乱すことなくぅ、やっていってくれ」
先生は規律を、のところで崇春を横目で見ていた。頭の上から爪先まで。
わざとらしく大きな咳をしてから言う。
「ところでぇ。丸藤くん、その服装なんだが。一体どういうつもりだね」
「む? わしの僧衣がどうかしたんか」
目を瞬かせる崇春に、先生はさらに――視線は合わせずに――言う。
「どうしたぁ、じゃないだろぅ。我が校の規律に定められた制服ではない、転校前の制服とも思えない。一体どんな理由があって、規律を破ろうというのかね、えぇ?」
そのとき、崇春の体を岸山が素早く肘でつついた。それが合図だったように、崇春は慌てて合掌する。
岸山も合掌して言った。
「宗教上の、理由です。憲法において保証されている、信仰の自由に拠るものです」
先生は目を瞬かせ、引きつった口の端を持ち上げて。二人から目をそらした。あからさまに舌打ちをして。
「あー……うん、さてぇ、そうだ机だが……用意できていなかったな。昼休みにでも準備するから、それまで空いてる席に座ってもらおうか」
誰も何も言わなかったが、クラスの空気が変わった。どの生徒も、あるいは一瞬動きを止め、先生の顔を見、あるいは空いている席――意識を失った生徒たちの席――に視線をやった。
雰囲気に気づいているのかいないのか、変わらない調子で先生は続ける。二人の方を決して見ずに。
「とにかくだ。二人ともぉ、くれぐれも規律を守り、面倒ごとは起こさないようになぁ」
――まったく。面倒なのが増えたな、また――生徒から顔を背けた後、小声でそうつぶやいたのが聞こえた。
そのつぶやきを打ち消そうとするように、胸を張って教室を見渡し、声を上げた。
「いいかぁ、規律だ。誇るべき我が校の校訓『自立』と『自律』だぞ、なぁ? そもそも、なぜこのような校訓が定められたかと言えばだ、今を去ることかれこれ――」
そのとき、先生の言葉を遮るように、あるいは気にした様子もなく。教室の一番後ろから、低い声が小さく上がった。
「……ウス」
声の主はのっそりと、野球グローブみたいに分厚い掌をした、太い手を上げていた。その腕は並の女子の脚ほども太く、胴はドラム缶のようだった。その大きな体躯を申し訳なさげに縮こめて、それでも真っ直ぐに、手を上げていた。
「……何だぁ、斉藤」
先生は手を上げた生徒、斉藤 逸人にそう言った。
「……ウス」
斉藤は返事をし、それからしばらく間を置いて、分厚い唇をゆっくりと開いた。視線は誰とも合わせず、机の辺りに落としたまま。
「ウス、先生。席は……空いてない、です。持って、きます、オレ……行きます、倉庫。鍵……職員室、スよね」
言うなり、象のような動きで席を立って、先生の返事を待たず出口へと歩いた。ずしんずしんと音さえしそうな歩みだったが、不思議と足音は全く無かった。
崇春が唇の端を吊り上げる。腕組みをし、嬉しげにうなずいた。
「むう……好漢! 大した奴よ。じゃが申し訳ないわい、わしも行くぞ!」
ばたばたと足音を立て、後を追って駆け出した。
「…………」
それを無言で見ていた後、先生は咳払いをした。髪をかき上げながらかすみの方へ顔を向ける。
「あー、それと」
思い出したようにそう言い、しかしかすみを見ずに続ける。
「それとぉ、谷﨑ぃ。転校生とは顔見知りのようだな。せっかくだからぁ、彼らの面倒を見てやってくれ。色々案内でもしてあげるといい」
「え」
「――頼むぞ」
全く顔を見ないまま、先生は重くそう言った。
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