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挿話 政策説明
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願書
八月八日 午の刻
山田城 書院にて
山田藩の政策を説明したく
参集願う
山田藩国家老 中島良房
七月二十八日におセンは便りを受け取った。差出人は山田藩国家老の中島様だ。突然すぎて何が何だか分からない、便りを持つ手が震える。傍らにいたおセンの母は笑っている、それも夢見心地、少女のようだ。
「中島様からのお呼び出しでしょ。いいなぁ、羨ましいわぁ」
微笑む母と対照的に少女は怖くなって顔を強張らせる。一人でお城に行ってお役人様に会うなんて、それもよりによって逸材と名高き国家老の中島様だ。八歳の時、寺子屋の同い年の友達と薬院の見学に行った。植物の説明をする中島様、あぁ、私、うっとりしていたな、その頃は愛とか恋とか分からなかったのに。見学中、ずっと微笑みを浮かべていらっしゃった。とても優しかったな・・・。中島は説明上手で聞く人の心を奪う。中島の整った顔と美しい所作はみんなを虜にした。中島は時々馬を走らせて町中を駆け抜けるがその姿はとても格好良い。宮本と一緒に城から薬院に向かうときは常に談笑していて、二人の笑顔は見た人の心を和ませた。会ったことも見たこともあるがやはり中島はおセンにとって遠い存在であった。
「大丈夫、中島様はとってもお優しい方だから。だって、書院の『あはれの彼方』の管理者なんですもの。『あはれ』の意味通りの本当に情け深い人でいらっしゃる。あぁ、独身時代が懐かしいわ。戻りたいわぁ」
母は台地に建造された書院を愛おしく見つめる。書院は山田城の中で本丸の天守に次ぐ高い建物である。弱小藩・貧乏藩の山田藩であるが小さいながらも立派な城を構えていた。山田城はとても美しく、その上頑丈だった。これは中島と宮本の先祖が築城名人だったことによる。山田城は焼失したことがないのは山田藩内で大きな戦がなかったこと、山田藩が僻地にあることが大きい。戦に関して、藩主である神山山田守の先祖がこの地を治めたとき以来、幾度となく困難な局面に対峙してきたが、なんとか乗り越えてきた。勝敗が決まらなかった応仁の乱のときは東軍西軍のどっちにも付かずフラフラして十一年間を乗り切った。応仁の乱の後、群雄割拠して天下を窺う戦国の世では気性の荒い武将たちに媚び諂って難事を逃れた。兵を挙げて攻めてきた時は相手が雷様の怒りに触れてしまい、天気が急変して雷が鳴り響き、雷石を落とされ自滅した。執拗に圧を加えられ仕方なく服従を受け入れる屈辱的協定を結ばされそうになった時は、前日の夜に相手が全員死んでいた。アホそうな武将が開く宴には美女軍団と酒を送って戦う気力を失わせた。負けが予想される方の武将がやってきて無理やり同盟を結ばせられそうになったときは、中島の先祖が滅多に使わないややこしい文言を駆使して同盟しない旨の文章を作りあげ署名させた。様々な武将が味方に付くよう勧誘の使いをよこしてきたが旅の途中で腹が下った、眩暈がする、なんだか気持ち悪い、面倒くさくなった・・・、など使いが病に罹り、山田藩に到達しなかった。慶長五年の関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍につき、しぶしぶ出かけた関ヶ原では合戦当日の九月十五日、霧に紛れて弁当をゆっくりもたもた食べていたら、西軍の小早川秀秋が石田三成を裏切っていた。その後、戦っているふりをしているうちに西軍が負けた。その日のうちに大将の徳川家康に祝辞を捧げると、江戸幕府ではちゃっかり譜代大名となった。慶長十九、二十年の大坂の役のときも豊臣側の誘いを怒りの矛先が向かない程度に無視した。どんな局面でも負けに至らなかったのは中島の先祖が『籌を帷幄の中に運らした』からであった。山田藩は人口が少なく戦闘能力が極めて低いが、大きな戦では常に勝つ側に付いていため褒美が転がってきた。関ヶ原の戦いの後、東軍の武将たちは徳川幕府から領地を与えられたが、神山は領地を望まず金を望んだ。その金で山田城を補強し、公共施設を建て、山田藩全体を整備した。山田藩は借金がなく江戸屋敷を維持できるのもこの時の利に負うところが多い。戦功や勝ち負けがはっきりしていることが人々の記憶に残りやすく歴史に書かれやすいのだが、山田藩、そして藩主の神山の先祖はどれもこれもなにもかもあやふやなため歴史書に現れていない。
おセンは母の夢見る横顔を何とも言えぬ気持ちで見ていた。寺子屋で宮本様から習う歴史では常に中島様の功績を称えていた。そんな立派な中島様に一人で会うなんて。
「おセン、中島様に会うことは山田藩の女性が一人前になるための通過儀礼だ。しっかり聞いておいで。ほんとに幸せ者だよ。山田藩で守るべきことを教えてもらうんだ。ただし、中島様から教えられたことは他言するんじゃないよ。いいね、分かったかい?」
母にしては珍しく厳しい口調だった。
「馬鹿な私に中島様の話は理解できるのかしら? それに守れるのかしら?」
不安でオドオドする少女に母は微笑みを湛えつつも真剣に話す。
「理解できるよ、すぐに。そして、それはとても大切なことだと分かるよ。中島様の言うことを守ればとても幸せになれる。私やおばあちゃん、山田藩の女性が幸せなのは約束を守ったからだ。もし、約束を守らなかったら雷様の怒りに触れると思いなさい」
二人は遠くにそびえる雷山を見た。雷様には逆らわないし逆らえない。おセンは雷様に怒られると罰が当たることは幼いときから教えられてきた。その罰は行方不明、もしくは死だった。
便りが来た七月二十八日から当日までおセンは落ち着かなかった。おセンの心は中島に会うことの不安と別れの寂しさでいっぱいだったから。山田藩の子どもは家の手伝いをするよう育てられている。寺子屋で手伝いの報告をすることが日課だったことが大きい。どの子もご飯の用意、洗濯など家事一般はできるようになっていた。家事以外は各家の農作業や商売など親の仕事を手伝う。おセンは中島との面会後はこの日常が終わるんだと予想していた。お姉ちゃんと慕っていた二軒隣のおフジさんと同じようになるのだろう。便りを受け取ってから父母はとても優しかった。寂しい、父母に守られ何も考えなくてよかった少女時代が終わる・・・。
八月八日、朝ご飯が喉を通らない、髪が乱れていないか何回も結い直し、母に着付けてもらった。
「かわいいじゃないかい。私の娘とは思えないほどだ。自慢だよ」
母は嬉しそうに娘を眺めた。おセンは恥ずかしかった。しかし、これから中島に一人で会いに行くことを思い出すと不安でいっぱいになった。
「お前はうちの仕事を手伝ってくれた。家事や農作業、なんでも上手にこなす立派な女性だ。自信を持って中島様に会ってきなさい。あっ、おばあちゃんに言われたことを私も言っている。やっぱり歴史は繰り返すんだねぇ」
母は声を上げて笑った。母に背中を押されて山田城に向かった。
ドキドキしながら山田城に行くと門番が立っていた。山田藩は貧乏なため役人は他の藩に比べ圧倒的に少ない。少数精鋭の役人は宮本に幼い頃から扱かれるためとても逞しい。門番も例に漏れず逞しかった。見事な体躯に圧倒されながらもおセンは懐の書を見せた。門番は中島の書を確認すると書院を指差す。
「中島様が待っていますよ。怖がらなくても大丈夫です。とても優しい人ですよ」
にっこり笑う門番もとても優しかった。教えられた書院に向かうと、開けっ放しの広間で書を読む中島がいた。おセンの白砂を踏む音に気づくと笑った。
「おセンさん、お誕生日おめでとうございます!」
えーっ!!! おセンは驚きを隠せなかった。目の前にいる国家老の中島様が大声でお祝いして下さるとは。
「さぁ、お上がり下さい」
中島は自分の前の席を勧めた。
「久しぶりですよね、幼いころ薬院に見学に来て下さいましたよね」
親し気に話す中島におセンはコクリと小さく頷いた。
「よく来て下さいました。お忙しい中、すみませんね。今日はおセンさんに山田藩の政策を説明します。それに加え、山田藩からお願いをしますね。よろしくお願いします」
優しい口調の中島はとても均整のとれた顔だった。切れ長の目、長い睫毛、すうっと通った鼻筋、薄い唇は女性が羨ましがるほど魅力的だった。その顔と細くしなやかな体つきは女性を思わせる。山田藩の住人は口には出さないが『中島様が山田藩で一番きれい』と思っていた。
「寺子屋で宮本殿から学んだ通り、山田藩は他の藩より小さくて貧乏なんですよ。農作物の生産性が低いのはどうしようもないんですよ。藩内に住む皆さんには苦労を掛けていますが、貧しいながらもよく稼ぐことでなんとかなっています。さて、我が藩の政策の一つに『本当の貧困を生み出さない』というものがあります。山田藩は貧乏とはいえ冷害や干害があっても死者を出さずに何とか乗り越えてきています。『本当の貧困』は死者を出すことを意味しています。この政策実現のために住人の皆さん、特に女性にお力添えを頂いています。このことを詳しく説明しますね」
ほのかに薄荷の匂いがする。懐かしい、やっぱり中島様だ。
「おセンさんも今日から大人の仲間入りをしてもらうのですが、ところで、おセンさんは経水がありますか? ほら、経水とは月に数日ある出血のことです」
「はい、ございます」
恥ずかしいが中島様には嘘は付けぬ。
「有難う御座います。恥ずかしがることはないですよ。山田藩の大人の女性全員に聞いているんです。変な質問するオヤジと嫌わないで下さいね」
中島の優しい口調と眼差しはおセンの心を蕩かす。
「さて、山田藩は雷様に守られていますが、雷様を悲しませないよう、そして怒らせないようにするのが山田藩内に生きる者の使命です。雷様は犯罪を嫌います。ですから山田藩で犯罪が起こるのを避けたいのです。さて、おセンさん、犯罪とはどういうときに起きると思いますか?」
生まれてこの方、山田藩から出たことがなく一度も犯罪に遭遇したことがないおセンは答えられなかった。
「江戸や大坂では貧乏な人が困って盗みを働いてしまうのです。食べるものがなくなったら困ってしまいますからね。生きるために人のものを盗むのです。時には喧嘩、ひどい時は殺し合いが起こるのです」
世間知らずのおセンにとって中島の話は衝撃的だった。
「山田藩は農作物の生産量が少なく、貧乏なので無暗に人口が増えると困ってしまいます。食べるものが足りなくなってしまいますからね。おセンさんが生まれるずっと前に享保の大飢饉が起きました。食べ物が足りなくなってしまい、西の方の藩では人がたくさん亡くなっています。一番、悲しいのは小さな子どもが亡くなることです。雷様はもちろんのこと、我が藩の情け深い殿様は悲しくて泣いてしまいます。我が藩ではこの悲しみを避けたいため女性に協力してもらっています」
中島は手元の紙をおセンに見せた。
「こちらは今日おセンさんに持って帰って頂く記録表です。この表には日付が書いてあります。ほら、九月一日、九月二日と続き、月末の九月三十日までの一ヶ月分が記されています。九月に経水で出血のあった日の下に丸を付けて下さい。月初めにこれをところどころに設置してある投函箱に入れてください。おセンさんが最初に投函するのは十月一日です。名前と住所を忘れずに書いてくださいね」
おセンはその表に見覚えがあった。母が持っている表と同じものだ。時折、母はこの表を投函箱に入れていた。
「この表の作られた経緯を説明しましょう。山田藩の一番奥、雷山の反対側に真固度村という小さな村があります。塩の産地です。おセンさんの家にも清めの塩として置いてありますよね。そこは山と海に囲まれており、平地が少なく農作物ができにくいためとても貧しいです。また、海岸沿いなので夏に台風が来ると家が波に飲み込まれるそうです。冬の吹雪では家の屋根が吹き飛ばされることがあるそうです。そのような災害に見舞われるとどうなると思いますか?」
中島はおセンの顔を覗き込む。
「真固度村の人がお亡くなりになるのではないでしょうか?」
オドオドと答えるおセンに中島はにっこり笑う。
「おセンさん、その通り、正解です。災害は人の命を奪います。その中でも自分で身を守れない小さな子が亡くなるという悲劇を繰り返してきました。そのため、真固度村の人々は無暗に子どもを増やさないよう、しかし絶やさぬように長い年月をかけて考え、取り組んできました。すると、真固度村の女性は素晴らしいことに気づいたのです。その素晴らしいこととは経水には規則正しい周期があること、子どもが授かりやすい日と授かりにくい日があるということです。彼女たちはもうすぐ経水が来る、今日は体温が低く子どもが授かりやすい日だ、と経験と知識と感覚で分かるようになったのです。この素晴らしい経験と知識と感覚を利用して無駄に人口が増えないよう、彼女たちは子どもの授かりやすい日は静かに過ごしています。ところで、おセンさんは経水のとき、お腹が痛いなと思ったことはおありですか?」
「はい、お臍の下あたりがズシンと重い感じがします」
「それは大変ですね。経水の日は気分が滅入るとかは?」
「はい、なんだか苛々します。出血のひどい時は厠に立ちっぱなしで落ち着くのを待ちます」
「あぁ、ほんとに女性は大変だ」
中島の美しい顔に影が過った。国家老に労わりの言葉をかけてもらう、おセンは雲の上にいるみたいだった。
「おセンさん、子どもを授かるってことは本当に素晴らしいことです。山田藩としてとても喜ばしいことです。ただし、あまり増えすぎると困ってしまうのも事実です。食料が足りなくなると弱い子どもが亡くなってしまうのですから。ですから、この表を使って調整して欲しいのです。この記録を三カ月ほど続けますとおセンさんは自分の周期が分かることでしょう。そうすると次の経水の来る日が予想できます。その予想日から十五日を引いた辺りが子どもを授かりやすい日なのです。そのため、経水の期間から子どもが授かりやすい日の後ろ十日間は静かに過ごして頂きたい、男女の交わりはしないで頂きたいのです」
おセンは不安だった、中島の話が理解できなかったから。記録表が目の前にあるものの頭の中で日数がぐちゃぐちゃになっていた。不安げなおセンに中島は笑顔で優しく話を続ける。
「では、私と一緒に子どもが授かりやすい日を予想してみましょう。例えば来月の九月は二十日に経水が来るとしましょう。その場合、子どもが授かりやすい日は九月二十日から十五日を引けばよいのです。二十引く十五、おセンさん、答えはいくつですか?」
「五でしょうか?」
「正解です。九月五日が子どもを授かりやすい日となります。どうです、ここまで分かりましたか?」
「はい」
中島の算術を使った具体的な説明によりおセンの頭の中の霧が少し晴れた。
「では、同じように後ろ十日も一緒に指を使って数えましょう。九月五日が子どもを授かりやすい日ですから九月六日、九月七日、九月八日、九月九日、九月十日、九月十一日、九月十二日、九月十三日、九月十四日、九月十五日、ほら、両手の指を全て使いましたよ。おセンさん、九月十五日までは静かに過ごしてほしいのです。お分かり頂けましたか?」
「はい、よく分かりました」
「九月二十日が経水予定日ですから残っているのは九月十六日、九月十七日、九月十八日、九月十九日です。この四日間は好きにして頂きたいのです」
おセンは中島の説明の明快さに驚いた。具体的な計算と指を使うことではっきり分かった。
「おセンさん、私のお願いを聞き入れて頂けませんか?」
「仰せの通りにします」
おセンは記録表と子どもの授かりやすい日はよく分かったが、男女の交わりという中島の言葉の意味が分からなかった。しかし、中島の美しい顔と透き通る目によっておセンは言いなりになった。
「あぁ、おセンさんは良い人だ。山田藩の政策に関わる私としては本当に助かります」
私が良い人? 中島に褒められたおセンは歓喜に満ち溢れた。
「それではもう一つお願いをします。山田藩は女性の自立のために一人暮らしを経験してもらっています。このことは知っていますよね」
頷くおセンの頭には二軒隣りに住んでいたおフジさんの顔が浮かんでいた。
「これは山田藩の政策の一つで、長屋の一部屋に住んで頂いて農業の他、大工、裁縫、工芸などの技術を身につけて頂きます。そこで一人で生きていく力、強さを養って頂くのです。私は書院で仕事をしているため時々過去の記録を見ますが、女性の方が男性より寿命が長いんですよ。宮本殿もそう言っていましたよ。時々、宮本殿が一人暮らしのおばあさんを訪問しているのを知っていますよね」
宮本様が山田藩の住まいを回っているのはそういうことなんだ、なんてお優しいんだろう。
「しばらくしたら宮本殿から住むところを案内されるでしょう。私たち役人がもっと稼げるといいのですが、女性の皆さんに協力してもらって山田藩はなんとかなっているんですよ」
女性を尊重してくれる、なんて素敵な人なんだろう。
「おセンさん、面倒なことばかりで申し訳ありませんが、協力してもらっていいですか?」
「はい、仰せの通りに致します」
平伏すおセンの額が床に着いた。
「有難う御座います。山田藩の女性は本当に素晴らしい人ばかりで助かります」
中島は山田藩の家紋の印が押された封筒に記録表を入れ、立ち上がった。
「以上で今日の話は終わりです。さぁ、門までお送りしましょう」
「そんな、恐れ多いです」
「あれ、嫌われてしまいました?」
優しい笑みを浮かべる中島は手を差し伸べおセンの手を取り立ち上がらせた。おセンの頬は真っ赤に染まった。おセンの鼓動は中島に聞こえてしまうのではないかと思うほど高鳴っていた。
「これはうちの庭で咲いた桔梗です。おセンさんにお似合いです」
一輪の薄紫の桔梗を手渡されるとおセンの顔はさらに赤くなった。
「今日はご苦労様でした。気を付けてお帰り下さい」
中島は門で薄荷の香りがする封筒を渡した。おセンは深々とお辞儀をして帰路に就いた。頭の中は中島でいっぱいだった。
「中島様、相変わらず、色男ですなぁ。一輪の桔梗を渡すなんて普通はできませんよ」
おセンの姿が見えなくなった途端、門番が茶化した。
「女性は労わってあげてくださいよ、ね」
「中島様を見習いたいのですがそこまではできませんよ」
「こんなことする国家老、他にいませんよ、ねぇ」
「ほんと、驚きますよ。逸材と誉れ高い山田藩の国家老の中島様が一人の女性を相手に山田藩の政策の手ほどきをするとは。おセンさんも感銘深いでしょう。おセンさんにとって忘れられない思い出となりましょう。薬院での社会見学にしてもそうです。私は鮮明に覚えていますよ。今は江戸に行ってしまった中島様のお父様が丁寧に教えてくれましたよ。大葉子や蓬など食べられるものの他に、鳥兜や大芹など絶対採っちゃいけないものまで。おかげで雷様が怖くて雷山神社しか行ったことがありませんよ」
門番の思い出に中島は微笑む。
「教育って必要でしょ。藩校や寺子屋で習うだけでは本当に身に付いたとは言えません。読み書きはもちろんのこと、それを踏まえ視覚、嗅覚、聴覚を伴わせることが大切なのです。時間が経っても思い出せる、それが本当の記憶なのです。そして、その記憶を思い出して考えることが本当に必要なのです。書院に残る歴史書を見ること、思い出すことで私たちは江戸幕府からの御達しや貧困などの諸問題に対応していかなければならないのです。思い出すことを怠り、その場限りの政策をするから江戸幕府は嫌われるんです。元禄、元文の頃に行われた貨幣の質を落とす貨幣改鋳のような安易な方法を用いると幕府の財政はいったん回復しますが、経済が悪化します。ぱっと思いついた政策は新しく魅力的に見えるのですが抜けが多い。気難しく欲の皮が突っ張ったオヤジの集団が考える政策なんて陸でもないものばかりですよ」
門番は中島の中に不満や心労が溜まっているんだろうと思った。江戸からの容赦ない要求、各地から届く一揆や打ちこわしの情報、火山の噴火、河川の氾濫、地震などの災害、これらは常に山田藩を脅かす。
「ところで山田藩の財政は厳しいのですか?」
「えぇ、江戸屋敷の維持にかかる費用が莫大ですからね。しょっちゅう火事が起こるのも困りものです。火事が起こるたびに江戸幕府からとんでもない請求が来てそれに振り回されるんですよ。さらに、大奥にかかる費用を押し付けてくるんですよ、嫌になってしまいますね。幕府に言い負かされた他の藩主は商人に多額の借金をしてしまっています。山田藩は悪徳商人に食い潰されないようにしなければなりません。貧乏になると治安が悪くなりますからね。私は貧困による犯罪を何が何でも避けたいんです」
「貧困や犯罪を抑えるのは大変ですからねぇ。私も参勤交代で江戸に行ったときに浮浪児を見て悲しくなりましたよ」
「ほんと、大坂もひどいもんですよ。間引きとか、窃盗など日常茶飯事です。心優しい殿なんかしょっちゅう泣いていますよ。犯罪が起きるから江戸幕府は町の警備を厳しくしています。厳めしい集団が町中をウロウロしています。なんだか騒がしいですよ」
「そうですか。それを思うと山田藩は穏やかですな。役人として住民に困らされたことはありません。本当に喜ばしいことです」
「でしょ。山田藩には雷様がいるから悪いことはできないんですよ」
「雷様ですか。そりゃ、怖いですね」
「山田藩の門番がそう言うんですからきっと雷様は怖いんですよ」
「恐れ入ります」
「ずっと昔から山田藩は雷様に守られてきているんです。はぁ~、それにしても金のかかることは多い。なんとか乗り切らねば、ね。そろそろ仕事に戻ります」
中島はクルリと踵を返し書院に向かった。後姿を見送る門番は思った、頼りになる人だ、男の私でも惚れてしまう、中島様が国家老でよかった、と。
「おセンちゃん、絶対、中島のこと好きになったよなぁ。今頃、桔梗を眺めて夢心地なんだろうなぁ、『中島様、素敵だったなぁ♡♡♡』って」
「また、覗いてたんですかぁ?」
書院に戻ると柱の陰で殿が恨めしそうにしていた。
「私も中島の役、やりたぁい」
「ちゃんとやれるんですかぁ?」
中島は自分の書類を片付けながら冷たく言い放つ。
「うん、できると思う」
「本当ですかぁ?」
「多分・・・」
「おセンさんみたいなかわいい子を目の前にして経水の説明、ちゃんとできるんですかぁ?」
「できる・・・、かな」
「山田藩にいるとはいえ、己の欲望にすべて従っていいというわけではないことは分かっていますよね?」
「そりゃ、知っていますよ。中島から何度も聞きました。とか言いながら中島こそ手を差し伸べちゃって嬉しそうにしていたけどぉ」
「それ以上のことはやりませんよ。すごく我慢していますよ、すっごくね。では、本番さながらやってみますかぁ?」
「中島、いつも言うが、中島相手の練習じゃつまらん」
「なんですか、つまらんとは? こっちは真剣ですよ、仕事です、お・し・ご・と! うら若き女性に経水の説明するんですよ。他の人が見ていないから説明しますけど恥ずかしいったらありゃしませんよ。変態オヤジですよ」
中島は冷静を装いながらも少し声を荒げる。殿は怒られながらも言い返す。
「しかし、中島を見つめる女の子たちは恋をしておるぞ、お前に。うっ、羨ましい。それも初恋の相手だ、ズルい!」
「でも、殿、おセンさんの澄んだ瞳で見られたら抑えられますか、欲情を」
「もちろん抑えられない!」
「やっぱり駄目じゃないですかぁ!」
胸を張って言い切る殿、笑い崩れる中島。
「そりゃ、ね、初恋はね、特別なのよ♡」
「さすが色男、江戸時代の光源氏ですな」
「そう、えへへ。愛読書は源氏物語だもんねぇ♡」
いつものやり取り、いつもの笑い、歴史は繰り返す。
「お願いしますよ、山田藩中そんじょそこらに御落胤がいては困るんです」
「はいはい、中島には敵いません。中島の言い付けをちゃんと守って大丈夫な女性と遊びます」
殿は中島に絶対的な信頼を置いていた。中島はその信頼に必ず応えた。ギリギリ経営の山田藩、二人が倒けるわけにはいかない。
八月八日 午の刻
山田城 書院にて
山田藩の政策を説明したく
参集願う
山田藩国家老 中島良房
七月二十八日におセンは便りを受け取った。差出人は山田藩国家老の中島様だ。突然すぎて何が何だか分からない、便りを持つ手が震える。傍らにいたおセンの母は笑っている、それも夢見心地、少女のようだ。
「中島様からのお呼び出しでしょ。いいなぁ、羨ましいわぁ」
微笑む母と対照的に少女は怖くなって顔を強張らせる。一人でお城に行ってお役人様に会うなんて、それもよりによって逸材と名高き国家老の中島様だ。八歳の時、寺子屋の同い年の友達と薬院の見学に行った。植物の説明をする中島様、あぁ、私、うっとりしていたな、その頃は愛とか恋とか分からなかったのに。見学中、ずっと微笑みを浮かべていらっしゃった。とても優しかったな・・・。中島は説明上手で聞く人の心を奪う。中島の整った顔と美しい所作はみんなを虜にした。中島は時々馬を走らせて町中を駆け抜けるがその姿はとても格好良い。宮本と一緒に城から薬院に向かうときは常に談笑していて、二人の笑顔は見た人の心を和ませた。会ったことも見たこともあるがやはり中島はおセンにとって遠い存在であった。
「大丈夫、中島様はとってもお優しい方だから。だって、書院の『あはれの彼方』の管理者なんですもの。『あはれ』の意味通りの本当に情け深い人でいらっしゃる。あぁ、独身時代が懐かしいわ。戻りたいわぁ」
母は台地に建造された書院を愛おしく見つめる。書院は山田城の中で本丸の天守に次ぐ高い建物である。弱小藩・貧乏藩の山田藩であるが小さいながらも立派な城を構えていた。山田城はとても美しく、その上頑丈だった。これは中島と宮本の先祖が築城名人だったことによる。山田城は焼失したことがないのは山田藩内で大きな戦がなかったこと、山田藩が僻地にあることが大きい。戦に関して、藩主である神山山田守の先祖がこの地を治めたとき以来、幾度となく困難な局面に対峙してきたが、なんとか乗り越えてきた。勝敗が決まらなかった応仁の乱のときは東軍西軍のどっちにも付かずフラフラして十一年間を乗り切った。応仁の乱の後、群雄割拠して天下を窺う戦国の世では気性の荒い武将たちに媚び諂って難事を逃れた。兵を挙げて攻めてきた時は相手が雷様の怒りに触れてしまい、天気が急変して雷が鳴り響き、雷石を落とされ自滅した。執拗に圧を加えられ仕方なく服従を受け入れる屈辱的協定を結ばされそうになった時は、前日の夜に相手が全員死んでいた。アホそうな武将が開く宴には美女軍団と酒を送って戦う気力を失わせた。負けが予想される方の武将がやってきて無理やり同盟を結ばせられそうになったときは、中島の先祖が滅多に使わないややこしい文言を駆使して同盟しない旨の文章を作りあげ署名させた。様々な武将が味方に付くよう勧誘の使いをよこしてきたが旅の途中で腹が下った、眩暈がする、なんだか気持ち悪い、面倒くさくなった・・・、など使いが病に罹り、山田藩に到達しなかった。慶長五年の関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍につき、しぶしぶ出かけた関ヶ原では合戦当日の九月十五日、霧に紛れて弁当をゆっくりもたもた食べていたら、西軍の小早川秀秋が石田三成を裏切っていた。その後、戦っているふりをしているうちに西軍が負けた。その日のうちに大将の徳川家康に祝辞を捧げると、江戸幕府ではちゃっかり譜代大名となった。慶長十九、二十年の大坂の役のときも豊臣側の誘いを怒りの矛先が向かない程度に無視した。どんな局面でも負けに至らなかったのは中島の先祖が『籌を帷幄の中に運らした』からであった。山田藩は人口が少なく戦闘能力が極めて低いが、大きな戦では常に勝つ側に付いていため褒美が転がってきた。関ヶ原の戦いの後、東軍の武将たちは徳川幕府から領地を与えられたが、神山は領地を望まず金を望んだ。その金で山田城を補強し、公共施設を建て、山田藩全体を整備した。山田藩は借金がなく江戸屋敷を維持できるのもこの時の利に負うところが多い。戦功や勝ち負けがはっきりしていることが人々の記憶に残りやすく歴史に書かれやすいのだが、山田藩、そして藩主の神山の先祖はどれもこれもなにもかもあやふやなため歴史書に現れていない。
おセンは母の夢見る横顔を何とも言えぬ気持ちで見ていた。寺子屋で宮本様から習う歴史では常に中島様の功績を称えていた。そんな立派な中島様に一人で会うなんて。
「おセン、中島様に会うことは山田藩の女性が一人前になるための通過儀礼だ。しっかり聞いておいで。ほんとに幸せ者だよ。山田藩で守るべきことを教えてもらうんだ。ただし、中島様から教えられたことは他言するんじゃないよ。いいね、分かったかい?」
母にしては珍しく厳しい口調だった。
「馬鹿な私に中島様の話は理解できるのかしら? それに守れるのかしら?」
不安でオドオドする少女に母は微笑みを湛えつつも真剣に話す。
「理解できるよ、すぐに。そして、それはとても大切なことだと分かるよ。中島様の言うことを守ればとても幸せになれる。私やおばあちゃん、山田藩の女性が幸せなのは約束を守ったからだ。もし、約束を守らなかったら雷様の怒りに触れると思いなさい」
二人は遠くにそびえる雷山を見た。雷様には逆らわないし逆らえない。おセンは雷様に怒られると罰が当たることは幼いときから教えられてきた。その罰は行方不明、もしくは死だった。
便りが来た七月二十八日から当日までおセンは落ち着かなかった。おセンの心は中島に会うことの不安と別れの寂しさでいっぱいだったから。山田藩の子どもは家の手伝いをするよう育てられている。寺子屋で手伝いの報告をすることが日課だったことが大きい。どの子もご飯の用意、洗濯など家事一般はできるようになっていた。家事以外は各家の農作業や商売など親の仕事を手伝う。おセンは中島との面会後はこの日常が終わるんだと予想していた。お姉ちゃんと慕っていた二軒隣のおフジさんと同じようになるのだろう。便りを受け取ってから父母はとても優しかった。寂しい、父母に守られ何も考えなくてよかった少女時代が終わる・・・。
八月八日、朝ご飯が喉を通らない、髪が乱れていないか何回も結い直し、母に着付けてもらった。
「かわいいじゃないかい。私の娘とは思えないほどだ。自慢だよ」
母は嬉しそうに娘を眺めた。おセンは恥ずかしかった。しかし、これから中島に一人で会いに行くことを思い出すと不安でいっぱいになった。
「お前はうちの仕事を手伝ってくれた。家事や農作業、なんでも上手にこなす立派な女性だ。自信を持って中島様に会ってきなさい。あっ、おばあちゃんに言われたことを私も言っている。やっぱり歴史は繰り返すんだねぇ」
母は声を上げて笑った。母に背中を押されて山田城に向かった。
ドキドキしながら山田城に行くと門番が立っていた。山田藩は貧乏なため役人は他の藩に比べ圧倒的に少ない。少数精鋭の役人は宮本に幼い頃から扱かれるためとても逞しい。門番も例に漏れず逞しかった。見事な体躯に圧倒されながらもおセンは懐の書を見せた。門番は中島の書を確認すると書院を指差す。
「中島様が待っていますよ。怖がらなくても大丈夫です。とても優しい人ですよ」
にっこり笑う門番もとても優しかった。教えられた書院に向かうと、開けっ放しの広間で書を読む中島がいた。おセンの白砂を踏む音に気づくと笑った。
「おセンさん、お誕生日おめでとうございます!」
えーっ!!! おセンは驚きを隠せなかった。目の前にいる国家老の中島様が大声でお祝いして下さるとは。
「さぁ、お上がり下さい」
中島は自分の前の席を勧めた。
「久しぶりですよね、幼いころ薬院に見学に来て下さいましたよね」
親し気に話す中島におセンはコクリと小さく頷いた。
「よく来て下さいました。お忙しい中、すみませんね。今日はおセンさんに山田藩の政策を説明します。それに加え、山田藩からお願いをしますね。よろしくお願いします」
優しい口調の中島はとても均整のとれた顔だった。切れ長の目、長い睫毛、すうっと通った鼻筋、薄い唇は女性が羨ましがるほど魅力的だった。その顔と細くしなやかな体つきは女性を思わせる。山田藩の住人は口には出さないが『中島様が山田藩で一番きれい』と思っていた。
「寺子屋で宮本殿から学んだ通り、山田藩は他の藩より小さくて貧乏なんですよ。農作物の生産性が低いのはどうしようもないんですよ。藩内に住む皆さんには苦労を掛けていますが、貧しいながらもよく稼ぐことでなんとかなっています。さて、我が藩の政策の一つに『本当の貧困を生み出さない』というものがあります。山田藩は貧乏とはいえ冷害や干害があっても死者を出さずに何とか乗り越えてきています。『本当の貧困』は死者を出すことを意味しています。この政策実現のために住人の皆さん、特に女性にお力添えを頂いています。このことを詳しく説明しますね」
ほのかに薄荷の匂いがする。懐かしい、やっぱり中島様だ。
「おセンさんも今日から大人の仲間入りをしてもらうのですが、ところで、おセンさんは経水がありますか? ほら、経水とは月に数日ある出血のことです」
「はい、ございます」
恥ずかしいが中島様には嘘は付けぬ。
「有難う御座います。恥ずかしがることはないですよ。山田藩の大人の女性全員に聞いているんです。変な質問するオヤジと嫌わないで下さいね」
中島の優しい口調と眼差しはおセンの心を蕩かす。
「さて、山田藩は雷様に守られていますが、雷様を悲しませないよう、そして怒らせないようにするのが山田藩内に生きる者の使命です。雷様は犯罪を嫌います。ですから山田藩で犯罪が起こるのを避けたいのです。さて、おセンさん、犯罪とはどういうときに起きると思いますか?」
生まれてこの方、山田藩から出たことがなく一度も犯罪に遭遇したことがないおセンは答えられなかった。
「江戸や大坂では貧乏な人が困って盗みを働いてしまうのです。食べるものがなくなったら困ってしまいますからね。生きるために人のものを盗むのです。時には喧嘩、ひどい時は殺し合いが起こるのです」
世間知らずのおセンにとって中島の話は衝撃的だった。
「山田藩は農作物の生産量が少なく、貧乏なので無暗に人口が増えると困ってしまいます。食べるものが足りなくなってしまいますからね。おセンさんが生まれるずっと前に享保の大飢饉が起きました。食べ物が足りなくなってしまい、西の方の藩では人がたくさん亡くなっています。一番、悲しいのは小さな子どもが亡くなることです。雷様はもちろんのこと、我が藩の情け深い殿様は悲しくて泣いてしまいます。我が藩ではこの悲しみを避けたいため女性に協力してもらっています」
中島は手元の紙をおセンに見せた。
「こちらは今日おセンさんに持って帰って頂く記録表です。この表には日付が書いてあります。ほら、九月一日、九月二日と続き、月末の九月三十日までの一ヶ月分が記されています。九月に経水で出血のあった日の下に丸を付けて下さい。月初めにこれをところどころに設置してある投函箱に入れてください。おセンさんが最初に投函するのは十月一日です。名前と住所を忘れずに書いてくださいね」
おセンはその表に見覚えがあった。母が持っている表と同じものだ。時折、母はこの表を投函箱に入れていた。
「この表の作られた経緯を説明しましょう。山田藩の一番奥、雷山の反対側に真固度村という小さな村があります。塩の産地です。おセンさんの家にも清めの塩として置いてありますよね。そこは山と海に囲まれており、平地が少なく農作物ができにくいためとても貧しいです。また、海岸沿いなので夏に台風が来ると家が波に飲み込まれるそうです。冬の吹雪では家の屋根が吹き飛ばされることがあるそうです。そのような災害に見舞われるとどうなると思いますか?」
中島はおセンの顔を覗き込む。
「真固度村の人がお亡くなりになるのではないでしょうか?」
オドオドと答えるおセンに中島はにっこり笑う。
「おセンさん、その通り、正解です。災害は人の命を奪います。その中でも自分で身を守れない小さな子が亡くなるという悲劇を繰り返してきました。そのため、真固度村の人々は無暗に子どもを増やさないよう、しかし絶やさぬように長い年月をかけて考え、取り組んできました。すると、真固度村の女性は素晴らしいことに気づいたのです。その素晴らしいこととは経水には規則正しい周期があること、子どもが授かりやすい日と授かりにくい日があるということです。彼女たちはもうすぐ経水が来る、今日は体温が低く子どもが授かりやすい日だ、と経験と知識と感覚で分かるようになったのです。この素晴らしい経験と知識と感覚を利用して無駄に人口が増えないよう、彼女たちは子どもの授かりやすい日は静かに過ごしています。ところで、おセンさんは経水のとき、お腹が痛いなと思ったことはおありですか?」
「はい、お臍の下あたりがズシンと重い感じがします」
「それは大変ですね。経水の日は気分が滅入るとかは?」
「はい、なんだか苛々します。出血のひどい時は厠に立ちっぱなしで落ち着くのを待ちます」
「あぁ、ほんとに女性は大変だ」
中島の美しい顔に影が過った。国家老に労わりの言葉をかけてもらう、おセンは雲の上にいるみたいだった。
「おセンさん、子どもを授かるってことは本当に素晴らしいことです。山田藩としてとても喜ばしいことです。ただし、あまり増えすぎると困ってしまうのも事実です。食料が足りなくなると弱い子どもが亡くなってしまうのですから。ですから、この表を使って調整して欲しいのです。この記録を三カ月ほど続けますとおセンさんは自分の周期が分かることでしょう。そうすると次の経水の来る日が予想できます。その予想日から十五日を引いた辺りが子どもを授かりやすい日なのです。そのため、経水の期間から子どもが授かりやすい日の後ろ十日間は静かに過ごして頂きたい、男女の交わりはしないで頂きたいのです」
おセンは不安だった、中島の話が理解できなかったから。記録表が目の前にあるものの頭の中で日数がぐちゃぐちゃになっていた。不安げなおセンに中島は笑顔で優しく話を続ける。
「では、私と一緒に子どもが授かりやすい日を予想してみましょう。例えば来月の九月は二十日に経水が来るとしましょう。その場合、子どもが授かりやすい日は九月二十日から十五日を引けばよいのです。二十引く十五、おセンさん、答えはいくつですか?」
「五でしょうか?」
「正解です。九月五日が子どもを授かりやすい日となります。どうです、ここまで分かりましたか?」
「はい」
中島の算術を使った具体的な説明によりおセンの頭の中の霧が少し晴れた。
「では、同じように後ろ十日も一緒に指を使って数えましょう。九月五日が子どもを授かりやすい日ですから九月六日、九月七日、九月八日、九月九日、九月十日、九月十一日、九月十二日、九月十三日、九月十四日、九月十五日、ほら、両手の指を全て使いましたよ。おセンさん、九月十五日までは静かに過ごしてほしいのです。お分かり頂けましたか?」
「はい、よく分かりました」
「九月二十日が経水予定日ですから残っているのは九月十六日、九月十七日、九月十八日、九月十九日です。この四日間は好きにして頂きたいのです」
おセンは中島の説明の明快さに驚いた。具体的な計算と指を使うことではっきり分かった。
「おセンさん、私のお願いを聞き入れて頂けませんか?」
「仰せの通りにします」
おセンは記録表と子どもの授かりやすい日はよく分かったが、男女の交わりという中島の言葉の意味が分からなかった。しかし、中島の美しい顔と透き通る目によっておセンは言いなりになった。
「あぁ、おセンさんは良い人だ。山田藩の政策に関わる私としては本当に助かります」
私が良い人? 中島に褒められたおセンは歓喜に満ち溢れた。
「それではもう一つお願いをします。山田藩は女性の自立のために一人暮らしを経験してもらっています。このことは知っていますよね」
頷くおセンの頭には二軒隣りに住んでいたおフジさんの顔が浮かんでいた。
「これは山田藩の政策の一つで、長屋の一部屋に住んで頂いて農業の他、大工、裁縫、工芸などの技術を身につけて頂きます。そこで一人で生きていく力、強さを養って頂くのです。私は書院で仕事をしているため時々過去の記録を見ますが、女性の方が男性より寿命が長いんですよ。宮本殿もそう言っていましたよ。時々、宮本殿が一人暮らしのおばあさんを訪問しているのを知っていますよね」
宮本様が山田藩の住まいを回っているのはそういうことなんだ、なんてお優しいんだろう。
「しばらくしたら宮本殿から住むところを案内されるでしょう。私たち役人がもっと稼げるといいのですが、女性の皆さんに協力してもらって山田藩はなんとかなっているんですよ」
女性を尊重してくれる、なんて素敵な人なんだろう。
「おセンさん、面倒なことばかりで申し訳ありませんが、協力してもらっていいですか?」
「はい、仰せの通りに致します」
平伏すおセンの額が床に着いた。
「有難う御座います。山田藩の女性は本当に素晴らしい人ばかりで助かります」
中島は山田藩の家紋の印が押された封筒に記録表を入れ、立ち上がった。
「以上で今日の話は終わりです。さぁ、門までお送りしましょう」
「そんな、恐れ多いです」
「あれ、嫌われてしまいました?」
優しい笑みを浮かべる中島は手を差し伸べおセンの手を取り立ち上がらせた。おセンの頬は真っ赤に染まった。おセンの鼓動は中島に聞こえてしまうのではないかと思うほど高鳴っていた。
「これはうちの庭で咲いた桔梗です。おセンさんにお似合いです」
一輪の薄紫の桔梗を手渡されるとおセンの顔はさらに赤くなった。
「今日はご苦労様でした。気を付けてお帰り下さい」
中島は門で薄荷の香りがする封筒を渡した。おセンは深々とお辞儀をして帰路に就いた。頭の中は中島でいっぱいだった。
「中島様、相変わらず、色男ですなぁ。一輪の桔梗を渡すなんて普通はできませんよ」
おセンの姿が見えなくなった途端、門番が茶化した。
「女性は労わってあげてくださいよ、ね」
「中島様を見習いたいのですがそこまではできませんよ」
「こんなことする国家老、他にいませんよ、ねぇ」
「ほんと、驚きますよ。逸材と誉れ高い山田藩の国家老の中島様が一人の女性を相手に山田藩の政策の手ほどきをするとは。おセンさんも感銘深いでしょう。おセンさんにとって忘れられない思い出となりましょう。薬院での社会見学にしてもそうです。私は鮮明に覚えていますよ。今は江戸に行ってしまった中島様のお父様が丁寧に教えてくれましたよ。大葉子や蓬など食べられるものの他に、鳥兜や大芹など絶対採っちゃいけないものまで。おかげで雷様が怖くて雷山神社しか行ったことがありませんよ」
門番の思い出に中島は微笑む。
「教育って必要でしょ。藩校や寺子屋で習うだけでは本当に身に付いたとは言えません。読み書きはもちろんのこと、それを踏まえ視覚、嗅覚、聴覚を伴わせることが大切なのです。時間が経っても思い出せる、それが本当の記憶なのです。そして、その記憶を思い出して考えることが本当に必要なのです。書院に残る歴史書を見ること、思い出すことで私たちは江戸幕府からの御達しや貧困などの諸問題に対応していかなければならないのです。思い出すことを怠り、その場限りの政策をするから江戸幕府は嫌われるんです。元禄、元文の頃に行われた貨幣の質を落とす貨幣改鋳のような安易な方法を用いると幕府の財政はいったん回復しますが、経済が悪化します。ぱっと思いついた政策は新しく魅力的に見えるのですが抜けが多い。気難しく欲の皮が突っ張ったオヤジの集団が考える政策なんて陸でもないものばかりですよ」
門番は中島の中に不満や心労が溜まっているんだろうと思った。江戸からの容赦ない要求、各地から届く一揆や打ちこわしの情報、火山の噴火、河川の氾濫、地震などの災害、これらは常に山田藩を脅かす。
「ところで山田藩の財政は厳しいのですか?」
「えぇ、江戸屋敷の維持にかかる費用が莫大ですからね。しょっちゅう火事が起こるのも困りものです。火事が起こるたびに江戸幕府からとんでもない請求が来てそれに振り回されるんですよ。さらに、大奥にかかる費用を押し付けてくるんですよ、嫌になってしまいますね。幕府に言い負かされた他の藩主は商人に多額の借金をしてしまっています。山田藩は悪徳商人に食い潰されないようにしなければなりません。貧乏になると治安が悪くなりますからね。私は貧困による犯罪を何が何でも避けたいんです」
「貧困や犯罪を抑えるのは大変ですからねぇ。私も参勤交代で江戸に行ったときに浮浪児を見て悲しくなりましたよ」
「ほんと、大坂もひどいもんですよ。間引きとか、窃盗など日常茶飯事です。心優しい殿なんかしょっちゅう泣いていますよ。犯罪が起きるから江戸幕府は町の警備を厳しくしています。厳めしい集団が町中をウロウロしています。なんだか騒がしいですよ」
「そうですか。それを思うと山田藩は穏やかですな。役人として住民に困らされたことはありません。本当に喜ばしいことです」
「でしょ。山田藩には雷様がいるから悪いことはできないんですよ」
「雷様ですか。そりゃ、怖いですね」
「山田藩の門番がそう言うんですからきっと雷様は怖いんですよ」
「恐れ入ります」
「ずっと昔から山田藩は雷様に守られてきているんです。はぁ~、それにしても金のかかることは多い。なんとか乗り切らねば、ね。そろそろ仕事に戻ります」
中島はクルリと踵を返し書院に向かった。後姿を見送る門番は思った、頼りになる人だ、男の私でも惚れてしまう、中島様が国家老でよかった、と。
「おセンちゃん、絶対、中島のこと好きになったよなぁ。今頃、桔梗を眺めて夢心地なんだろうなぁ、『中島様、素敵だったなぁ♡♡♡』って」
「また、覗いてたんですかぁ?」
書院に戻ると柱の陰で殿が恨めしそうにしていた。
「私も中島の役、やりたぁい」
「ちゃんとやれるんですかぁ?」
中島は自分の書類を片付けながら冷たく言い放つ。
「うん、できると思う」
「本当ですかぁ?」
「多分・・・」
「おセンさんみたいなかわいい子を目の前にして経水の説明、ちゃんとできるんですかぁ?」
「できる・・・、かな」
「山田藩にいるとはいえ、己の欲望にすべて従っていいというわけではないことは分かっていますよね?」
「そりゃ、知っていますよ。中島から何度も聞きました。とか言いながら中島こそ手を差し伸べちゃって嬉しそうにしていたけどぉ」
「それ以上のことはやりませんよ。すごく我慢していますよ、すっごくね。では、本番さながらやってみますかぁ?」
「中島、いつも言うが、中島相手の練習じゃつまらん」
「なんですか、つまらんとは? こっちは真剣ですよ、仕事です、お・し・ご・と! うら若き女性に経水の説明するんですよ。他の人が見ていないから説明しますけど恥ずかしいったらありゃしませんよ。変態オヤジですよ」
中島は冷静を装いながらも少し声を荒げる。殿は怒られながらも言い返す。
「しかし、中島を見つめる女の子たちは恋をしておるぞ、お前に。うっ、羨ましい。それも初恋の相手だ、ズルい!」
「でも、殿、おセンさんの澄んだ瞳で見られたら抑えられますか、欲情を」
「もちろん抑えられない!」
「やっぱり駄目じゃないですかぁ!」
胸を張って言い切る殿、笑い崩れる中島。
「そりゃ、ね、初恋はね、特別なのよ♡」
「さすが色男、江戸時代の光源氏ですな」
「そう、えへへ。愛読書は源氏物語だもんねぇ♡」
いつものやり取り、いつもの笑い、歴史は繰り返す。
「お願いしますよ、山田藩中そんじょそこらに御落胤がいては困るんです」
「はいはい、中島には敵いません。中島の言い付けをちゃんと守って大丈夫な女性と遊びます」
殿は中島に絶対的な信頼を置いていた。中島はその信頼に必ず応えた。ギリギリ経営の山田藩、二人が倒けるわけにはいかない。
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