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挿話 人別帳変更 婚姻
しおりを挟む 山田藩では結婚すると夫妻は寺社奉行所に赴くことになっている。人別帳の変更手続きのためだ。今日は世之介とおトキがやってきた。静かで余計なものが何一つない寺社奉行所の大広間には宮本啓一郎が座っていた。背後には宮本恒一郎が控えている。
「今日はわざわざ寺社奉行所までおいで頂き有難う御座います」
白髪が混じる宮本啓一郎は寺社奉行、威厳が違う。世之介とおトキは平伏した。
「大丈夫ですよ、面を上げて下さい」
柔らかく太く甘い声だ。
「この度はご成婚おめでとう御座います。山田藩の役人としては嬉しい限りです。心からお祝い申し上げます」
宮本家の人間は藩内の見回りをしているため住人は見かけることが多いが、この大広間だと威圧感が格段に違う。二人はまた平伏した。
「それでは、お二人のこれから一緒に住むところと世之介さん、おトキさんの今まで住んでいたところを教えて下さい」
恐る恐る二人は新しい住所とこれまでの住所を伝えた。宮本啓一郎はすらすらと記載した。
「有難う御座います。世之介さんはお父上と同居していましたからそこの住所から抜きます。おトキさんの貸家は私どもの管理にありますのでそのまま放っておいて下さい。新しい人が使うことでしょう」
結婚は嬉しいはずなのにおトキの目から涙がこぼれ落ちた。世之介は訳が分からなかった。
「おトキさん、今までよく頑張ってきましたね。本当に感謝しています。これからは世之介さんと助け合って生きていって下さい」
「はい・・・」
おトキは涙声であった。
「世之介さん、おトキさんは山田藩のお願いを素直に聞き入れてくれて一人で頑張って生きる力を付けてきました。とても立派な女性です。大切にしてあげて下さい。分かりましたか?」
「はい、仰せの通りいたします」
世之介はきっぱり言った。
「世之介さん、おトキさん、お二人とも知っての通り山田藩は貧乏です。私たち役人の稼ぎが良くないため住人の皆さんには苦労を掛けています。山田藩としては一家族につき子どもは二人まで、と決めています。罰則はありませんが協力してもらっています。山田藩は人口が増えすぎると藩自体が崩壊してしまうのです。山田藩の自然が厳しいことは身をもって知っておられますよね。食料を豊かに産出できない土地が何百年もかけてこのような制度を作り上げてきたのです」
宮本啓一郎は静かに優しく話す。世之介、おトキは神妙に聞いていた。宮本恒一郎も黙っていた。山田藩の通過儀礼、貧困を防ぐため。
「おトキさんは知っていますよね、自分の体内のことを。これからも中島殿から配布される記録表を付けて下さい。その表に従って世之介さんに体調を伝えて下さい。おトキさん、頑張って継続して下さいね。世之介さん、山田藩の制度のためにおトキさんを大事にしてあげて下さい。そして、おトキさんの言うことをよく聞き、健康で素晴らしい山田藩の子孫を残して下さい」
静かに泣いていたおトキは嗚咽を上げた。『大事にしてあげて』、寺社奉行の宮本様が夫に説得している。深い情、そして独身時代の別れ、あの甘美・・・。世之介は泣き続けるおトキを理解できなかった。
「分かりました、私はおトキを大切にします」
「その言葉、肝に銘じておくように。反すると雷様の怒りに触れると思いなさい」
宮本啓一郎が世之介を厳しく諫めた。口を真一文字にして睨む、気迫に溢れていた。とても太刀打ちできない。世之介にとって宮本啓一郎の声は恰も雷鳴のようであった。
「ははぁ」
世之介はこれまで以上に平伏した。
「おトキさん、良かったですね、世之介さんがちゃんと約束してくれましたよ」
先ほどの優しい宮本啓一郎が戻っていた。
「宮本様、有難う御座います」
宮本啓一郎を見るおトキの目から大粒の涙が零れ落ちた。宮本恒一郎は思った、おトキさん、おじい様のこと好きじゃん、世之介さん、これじゃあ逆らえないよなぁ。
「さぁ、今日はこれで終わりです。ご苦労様でした」
二人は再度、平伏した。先に世之介が立ち上がる、おトキは涙が止まらず座り込んだままだ。世之介はぼんやり立っている。
「馬鹿者っ! そこで、おトキさんの手を取ってあげるんですよっ!」
宮本啓一郎は世之介に雷を落とす。
「はいっ!」
世之介は慣れない手つきでおトキの手を取った。
「世之介さん、おトキさんを労わってあげるんですよ。そうすれば、二人はきっと大丈夫ですから」
世之介は宮本啓一郎に睨まれているため必死でおトキを労わりながら帰路に導いた。
二人が立ち去った後、祖父と孫が二人きりになった。
「久々ですよ、奉行所でのおじい様の大きな声」
「まぁ、男は気が利かんからな。しっかり雷を落としておかんとな」
「この役は私のような若造にはまだ無理です。おじい様のような威厳、風格がありませんから」
「あぁ、まだ早いな。しばらくは私が続けるさ」
「おトキさん、おじい様を潤んだ目で見ていましたよ」
「あぁ、かわいいのぉ」
照れ笑いするかわいい祖父、宮本家でも特別怖いと恐れられているのに。
「お前も少し怒る技術をつけるといいかもな。宮本は気性が荒くないがここぞの時はビシッと言わねばならぬからな」
「怒ることはできると思います。ただ、私は江戸や大坂に行くと感情の高ぶりが止まりません。町中で起こる喧嘩は止めたくなるし、浮浪する親子を見ると手を差し伸べたくなります。しかし、殿のため静かに黙って耐えねばなりません」
「あぁ、みんな我慢せねばならん。殿、中島家、宮本家は歯を食いしばって我慢せねばならん。何を言われても平伏すばかりだな」
「口惜しいです」
「そうだな。殿、中島殿が我慢するんだ、本当に必死だ、山田藩の命運がかかっておる」
「それは分かっておりますが悔しくて悔しくて」
「恒一郎、自然な感情だ。でも、山田藩のことを思えば我慢できるな」
「はい、我慢できます」
祖父はじっと私を見ている、山田藩を貧乏藩と馬鹿にするのは見栄っ張りたちだ。なんだよ、商人に借金だらけのくせに。山田藩は借金無しなんだぞ。
「悪い奴にはちゃんと罰が当たるさ、宮本が手を出さなくてもな」
「はい、そうですね。雷様の御加護がある限り、私たちは刀を抜く必要はありません」
「そういうことだ。よう分かっておるじゃないか」
嘘を付いている、本当は殿を侮辱する奴を一思いにやってしまいたい。
「口では言うても心は収まらんよな、まだ若いからな」
祖父は見透かしていた、私の心を。
「今日は今から私の相手をしてくれぬか? 宮本は山田藩で一番強くあらねばならんからな」
「ありがとうございます。お手合わせ、ぜひお願いいたします」
「江戸の不穏な動きは知っているだろう。難事があったとき宮本の世継ぎは殿、中島殿、住民を守らねばならんからな」
世之介とおトキの書類をしまうと私たちは道場へ向かった。祖父にコテンパンにやられてやる、このもどかしい気持ちをやっつけてもらおう。
「今日はわざわざ寺社奉行所までおいで頂き有難う御座います」
白髪が混じる宮本啓一郎は寺社奉行、威厳が違う。世之介とおトキは平伏した。
「大丈夫ですよ、面を上げて下さい」
柔らかく太く甘い声だ。
「この度はご成婚おめでとう御座います。山田藩の役人としては嬉しい限りです。心からお祝い申し上げます」
宮本家の人間は藩内の見回りをしているため住人は見かけることが多いが、この大広間だと威圧感が格段に違う。二人はまた平伏した。
「それでは、お二人のこれから一緒に住むところと世之介さん、おトキさんの今まで住んでいたところを教えて下さい」
恐る恐る二人は新しい住所とこれまでの住所を伝えた。宮本啓一郎はすらすらと記載した。
「有難う御座います。世之介さんはお父上と同居していましたからそこの住所から抜きます。おトキさんの貸家は私どもの管理にありますのでそのまま放っておいて下さい。新しい人が使うことでしょう」
結婚は嬉しいはずなのにおトキの目から涙がこぼれ落ちた。世之介は訳が分からなかった。
「おトキさん、今までよく頑張ってきましたね。本当に感謝しています。これからは世之介さんと助け合って生きていって下さい」
「はい・・・」
おトキは涙声であった。
「世之介さん、おトキさんは山田藩のお願いを素直に聞き入れてくれて一人で頑張って生きる力を付けてきました。とても立派な女性です。大切にしてあげて下さい。分かりましたか?」
「はい、仰せの通りいたします」
世之介はきっぱり言った。
「世之介さん、おトキさん、お二人とも知っての通り山田藩は貧乏です。私たち役人の稼ぎが良くないため住人の皆さんには苦労を掛けています。山田藩としては一家族につき子どもは二人まで、と決めています。罰則はありませんが協力してもらっています。山田藩は人口が増えすぎると藩自体が崩壊してしまうのです。山田藩の自然が厳しいことは身をもって知っておられますよね。食料を豊かに産出できない土地が何百年もかけてこのような制度を作り上げてきたのです」
宮本啓一郎は静かに優しく話す。世之介、おトキは神妙に聞いていた。宮本恒一郎も黙っていた。山田藩の通過儀礼、貧困を防ぐため。
「おトキさんは知っていますよね、自分の体内のことを。これからも中島殿から配布される記録表を付けて下さい。その表に従って世之介さんに体調を伝えて下さい。おトキさん、頑張って継続して下さいね。世之介さん、山田藩の制度のためにおトキさんを大事にしてあげて下さい。そして、おトキさんの言うことをよく聞き、健康で素晴らしい山田藩の子孫を残して下さい」
静かに泣いていたおトキは嗚咽を上げた。『大事にしてあげて』、寺社奉行の宮本様が夫に説得している。深い情、そして独身時代の別れ、あの甘美・・・。世之介は泣き続けるおトキを理解できなかった。
「分かりました、私はおトキを大切にします」
「その言葉、肝に銘じておくように。反すると雷様の怒りに触れると思いなさい」
宮本啓一郎が世之介を厳しく諫めた。口を真一文字にして睨む、気迫に溢れていた。とても太刀打ちできない。世之介にとって宮本啓一郎の声は恰も雷鳴のようであった。
「ははぁ」
世之介はこれまで以上に平伏した。
「おトキさん、良かったですね、世之介さんがちゃんと約束してくれましたよ」
先ほどの優しい宮本啓一郎が戻っていた。
「宮本様、有難う御座います」
宮本啓一郎を見るおトキの目から大粒の涙が零れ落ちた。宮本恒一郎は思った、おトキさん、おじい様のこと好きじゃん、世之介さん、これじゃあ逆らえないよなぁ。
「さぁ、今日はこれで終わりです。ご苦労様でした」
二人は再度、平伏した。先に世之介が立ち上がる、おトキは涙が止まらず座り込んだままだ。世之介はぼんやり立っている。
「馬鹿者っ! そこで、おトキさんの手を取ってあげるんですよっ!」
宮本啓一郎は世之介に雷を落とす。
「はいっ!」
世之介は慣れない手つきでおトキの手を取った。
「世之介さん、おトキさんを労わってあげるんですよ。そうすれば、二人はきっと大丈夫ですから」
世之介は宮本啓一郎に睨まれているため必死でおトキを労わりながら帰路に導いた。
二人が立ち去った後、祖父と孫が二人きりになった。
「久々ですよ、奉行所でのおじい様の大きな声」
「まぁ、男は気が利かんからな。しっかり雷を落としておかんとな」
「この役は私のような若造にはまだ無理です。おじい様のような威厳、風格がありませんから」
「あぁ、まだ早いな。しばらくは私が続けるさ」
「おトキさん、おじい様を潤んだ目で見ていましたよ」
「あぁ、かわいいのぉ」
照れ笑いするかわいい祖父、宮本家でも特別怖いと恐れられているのに。
「お前も少し怒る技術をつけるといいかもな。宮本は気性が荒くないがここぞの時はビシッと言わねばならぬからな」
「怒ることはできると思います。ただ、私は江戸や大坂に行くと感情の高ぶりが止まりません。町中で起こる喧嘩は止めたくなるし、浮浪する親子を見ると手を差し伸べたくなります。しかし、殿のため静かに黙って耐えねばなりません」
「あぁ、みんな我慢せねばならん。殿、中島家、宮本家は歯を食いしばって我慢せねばならん。何を言われても平伏すばかりだな」
「口惜しいです」
「そうだな。殿、中島殿が我慢するんだ、本当に必死だ、山田藩の命運がかかっておる」
「それは分かっておりますが悔しくて悔しくて」
「恒一郎、自然な感情だ。でも、山田藩のことを思えば我慢できるな」
「はい、我慢できます」
祖父はじっと私を見ている、山田藩を貧乏藩と馬鹿にするのは見栄っ張りたちだ。なんだよ、商人に借金だらけのくせに。山田藩は借金無しなんだぞ。
「悪い奴にはちゃんと罰が当たるさ、宮本が手を出さなくてもな」
「はい、そうですね。雷様の御加護がある限り、私たちは刀を抜く必要はありません」
「そういうことだ。よう分かっておるじゃないか」
嘘を付いている、本当は殿を侮辱する奴を一思いにやってしまいたい。
「口では言うても心は収まらんよな、まだ若いからな」
祖父は見透かしていた、私の心を。
「今日は今から私の相手をしてくれぬか? 宮本は山田藩で一番強くあらねばならんからな」
「ありがとうございます。お手合わせ、ぜひお願いいたします」
「江戸の不穏な動きは知っているだろう。難事があったとき宮本の世継ぎは殿、中島殿、住民を守らねばならんからな」
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