あはれの彼方

宮島永劫

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天明八年 塩問屋 越後屋 吉右衛門の転落事故

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 天明八年(一七八八)初夏、山田藩寺社奉行所に江戸の塩問屋 越後屋 吉右衛門から使いが来た。使いの持ってきた書には、献上品である真固度村の塩の取引がしたいためその前後の宿と真固度村までの案内をお願いしたい、と書いてあった。これを読んだ役人は父・宮本慎一郎のもとに慌ててやって来た。祖父は真固度村の塩は極秘で献上していると言っていた。一体、真固戸村の塩をどこで聞きつけたのか・・・、献上する際には細心の注意を払っていたのに。お上が喜ばれ、つい口にしてしまったのかもしれぬ。それならばしょうがない。とはいえ、真固戸村には取引できるほどの生産量はない。父と私は城内の書院に行き、国家老の中島殿に使いの書を見せた。
「商人に真固度村の塩の存在を嗅ぎつけられましたか。お上の側近が漏らしましたかねぇ」
中島殿はポツリとつぶやいた。
「生産地の真固度村に行きたい、ですか・・・」
低く太い父の呟きは悲しみが伴う。
「宮本殿、まぁ、そういうことですな」
「えぇ、そういうことでしょう」
「断る訳にもいきませんから、宮本殿が案内することにはなりますね」
「山道が険しいことを分かっておりませんね」
父は悲しげだ。そりゃそうだ、今まで父と一緒に入山すると必ずだれか一人足りなくなるんだもの。
「雷様に叱られる案件かもですね」
「あぁ、そうかもですね」
中島殿と父は何かを暗に了解しているようだった。私の推測だと一人減る・・・。
「殿には話しますか」
「一応、耳に入れておきますか。お上が関わっているかもしれないので」
「不機嫌になりますかも」
「そうなると今夜は雨が降らないといいですな」
「あぁ、足元が悪いと、ですね」
父と中島は静かに立ち上がり、御殿へ向かった。私もその後に続いた、ん、足元とは?

 屋敷に戻ると夕飯が用意されていた。曾祖父、祖父、父、私の男四人の味気ない夕飯だ。
「遅かったな」
曾祖父・宮本孝一郎が言う。
「遅くなって申し訳ありません。実は、真固度村の塩を取引したいという商人からの書が来まして」
父は遅くなったことを詫び、書を持って中島殿と殿に報告に行ったことを話した。
「それは大変だったな、ご苦労様」
祖父・宮本啓一郎が父と私を労った。
「今回は私と恒一郎が案内します」
えっ? 私? 
「恒一郎、よろしく頼む」
祖父から任された。うっ、祖父の目、怖い。
「さぁ、いただきましょう」
曾祖父の合図に手を合わせ、食事が始まった。曾祖父、祖父、父、何事もなかったように黙々と箸を進める。あの、私、行きたくないんですけど・・・。男四人の食事、最悪だ。
 


調書
        天明八年八月八日
        山田藩 町奉行所
  出席者
   格之助 塩問屋越後屋 使用人
   進三郎 塩問屋越後屋 使用人
   宮本啓一郎 山田藩 寺社奉行
   宮本慎一郎 山田藩 寺社奉行所役人
   宮本恒一郎 山田藩 馬廻
   太助 山田藩 案内
   平次 山田藩 案内
   大岡金四郎 山田藩 町奉行
   中島良房 山田藩 国家老

  天明八年八月八日雷山入山
  塩問屋越後屋吉右衛門 格之助 進三郎 
  宮本慎一郎 宮本恒一郎  
  太助 平次  
  計七名

  入山口から二里の山道で
  吉右衛門 谷底に落下
  列順
   宮本慎一郎 
   平次 
   格之助
   吉右衛門
   進三郎
   宮本恒一郎
   太助

  事故時 吉右衛門の前に格之介 
           後ろに進三郎
  二人を聴聞したが不審な点無し
  吉右衛門本人の不慮の事故とみなす

  証言
   格之助
   後に吉右衛門 
   叫びを聞いた時には落下
   細い山道 足元の凹凸 断崖絶壁
   自身を守ることに注力
   周囲 不審な点無し
   不慮の事故と考える
  進三郎
   前に吉右衛門 
   叫びを聞いた時には目の前に姿あらず
   吉右衛門とは距離あり 
   難所ゆえ自身の足元に専念
   周囲 不審な点無し
   吉右衛門の不注意による事故と考える

        山田藩 国家老 中島良房



 道中、常に気配があった。私は山道に入るのは三回目だが、特に今回は何者かの気配がする。客人を山に入れるのを嫌がっているように感じる。
「私どもは案内をいたしますが助けることはできません。お互いが事故の原因にならぬよう、ご自身を頼みにして順序に従って歩いてください」
平次の厳しい言葉は続く。
「私は何度か聞いております、石が落ちてきた、足を滑らせた、突風が吹いてきた、獣に襲われた、という不幸です。先に説明した通り、記帳したからには何が起こっても私どもに責任を問わぬよう繰り返しよろしくお願い申し上げます」
越後屋のお付きの格之介は怯えている。
「旦那様、やっぱりやめませんか」
「怯えるではない!」
越後屋の吉右衛門は声を荒げた。
「それでは、みなさん、参りましょうか」
意気揚々とする吉右衛門を見て父は歩き始めた、その背中は悲しみを帯びている。
 父、平次、格之介、吉右衛門、進三郎、私、太助の並びで歩いた。最初は標高の低い二つの山を越える。深い森は真夏でもひんやりと冷たい風が吹き抜ける。雷山に近づくにつれ岩肌が増え、熊笹が密生し始める。雷山に入ると足場が岩石に変わる。一番危険な崖道が近づいてきた。右手は熊笹に覆われているが左手は断崖絶壁でとても怖い。この場所で太助や平次に
「恒一郎様、大丈夫です。恒一郎様は山のみんなに守られています」
と何度も言われたのを思い出す。今も言ってくれないかな、言えないよな、私は大人になったし、山田藩に関係ない人がいるんだもの。しかし、やっぱり怖い。一番怖い崖道に差しかかかる手前の少し広い空間で太助が言った。
「恒一郎様、前が遅いようなので少しここで待ちましょう」
私にだけ聞こえる低い声だった。崖道の足場が崩れたら元も子もない、太助に従って足を止めた。吉右衛門が見えなくなり、その後ろの進三郎が崖の突出した部分に入ろうとしたとき、
「ぎゃああぁ」
悲鳴が聞こえた途端、太助は私を傍らの熊笹に寄せ、その茎をつかませた。前を行く進三郎が座り込んでいる。
「落ち着け! お前も落ちてしまうぞ!」
太助の怒りが山中に響き渡った。あぁ、やっぱり落ちた。太助は先頭の父に向かって叫ぶ。
「宮本様、引き返しましょう。これ以上は危険です」
「あぁ、そうしましょう。皆さん、落ち着いて。もと来た道に戻りましょう」
父の落ち着いた太い声は予想通りであるかのように私には聞こえた。腰を抜かした進三郎は四つん這いで最も危険な個所を逃れた。格之介も泣きながら四つん這いで一歩一歩私たちの方へ近づいてきた。父と平次が戻ってくるのには時間がかかった。事故現場で検証をしていたからだ。
「早く引き返しましょう、暗くならないうちに。雷様の懐はとても深く、迷うと抜けだせなくなります」
平次の言葉にさらに怯えた越後屋の二人は泣きながら歩いた。私も涙が溢れ出た。時折、太助は私を振り返った。怖くて怯えながらも太助の後ろをついて行った。雷鳴が遠くから聞こえてきた。風がさらに冷たくなってきた。木々が風に揺られざわめいていた。越後屋使用人二人の嗚咽も重なった。私たちはひたすら歩いた。涙が止まらない、初めて事故に立ち会った。雷様に飲まれてしまうとは、さっきまで一緒だったのに、恐ろしい・・・。
 雷山神社に辿り着いた時には命拾いしたと思った。進三郎と格之介は二人で抱き合って泣きじゃくった。涙が溢れて止まらない私の肩を太助は抱き寄せた。
「恒一郎様、よく我慢なさった」
私の嗚咽は止まらない。
「恒一郎様は宮本家のお世継ぎ、雷山とは切っても切れぬ縁、これからもこのような事態は起きます。辛いことですが、私たち雷山関係者の運命なのです」
運命、私は愕然とし、また太助の肩で泣いた。ついに私も、宮本家のだれかが同伴すると必ず一人いなくなる事故の当事者になってしまった。父は何も言わず雷山神社にお祈りをしていた。太助が静かに言った。
「私たちもお祈りしましょう。これ以上、禍が降りかかりませぬように」

 その後、父はヨレヨレになった格之介、進三郎に記帳と、『越後屋吉右衛門が崖道を踏み外し谷底に落下』と記載させた。そのまま、町奉行所に行き、格之介、進三郎の証言をもとに、町奉行・大岡金四郎が吉右衛門の不慮の事故と言い渡し、中島殿が調書を書き、江戸に飛脚を走らせた。翌日、祖父と父が格之介、進三郎とともに江戸に向かった。幕府に不慮の事故を説明し、山田藩に嫌疑がかからぬよう取り計らうためだった。それにしても今回の件は商人なのに父だけでなく恐ろしい容姿の祖父までがなぜ江戸へ? そこまで必要?
「ま、ゴタゴタを静めるのにすかさず行動に移すのは宮本殿のいいところですよ。次回はついて行くといいですよ、何事も経験を積まねば、ね」
隣に佇む中島殿は私の心を見透かしたよう、疑念をスカッと吹き飛ばした。
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